歴史散歩 トップ>Walking-Azabu
Internet Walk トップ>Walking-Azabu

歴史散歩:広尾−麻布を歩く


2022年4月20日(水)
錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、歴史散歩。
  • 広尾駅を出発して祥雲寺へ、黒田長政、岡本玄冶の墓がある。墓の入口にはペスト流行の時、駆除された動物慰霊碑がある(鼠の彫刻画がある)。
  • 祥雲寺を出て、明治通りを横断すると、渋谷川に出るが、そこは「広尾水車跡」だという。渋谷川は、現代では水量も少なく、水車の面影はない。
  • 祥雲寺から上り坂で、堀田備中守下屋敷跡へ向かう、広大な丘陵といった感じだが、現代では、「日本赤十字関連の施設」と「聖心女子大」になっていた。
  • 外苑西通りを横断して、再び丘陵を上る。盛岡南部藩下屋敷跡には有栖川記念公園と都立中央図書館があり、秋月佐渡守上屋敷跡には麻布中学・高校が。山崎主税助屋敷にあった「がま池」は高級マンションに囲まれ、見るには工夫を要した。西町インターナショナルスクールや安藤記念教会も絵図によると山崎主税助屋敷に含まれる。
  • 仙台坂を下り、善福寺へ、推定樹齢750年のイチョウの巨樹がある、福沢諭吉の墓には墓参の人が絶えない。
  • 麻布十番には、保科家上屋敷があったが、これが更科蕎麦発祥に繋がった。また、十番稲荷神社は、元孤児院、ここで「赤い靴」のモデルとされる「きみちゃん」が亡くなっているとのこと。

国土地理院地図2500[ブラウザ:カシミール]に、主な地名・旧跡を書き加えた。


祥雲寺から堀田備中守下屋敷跡へ

【1.祥雲寺】
1623年、黒田長政没後、2代目藩主黒田忠之が
     赤坂溜池の自邸内に龍谷山興雲寺を建立した。
1666年、麻布台に移り、瑞泉山祥雲寺と改称した
1668年、江戸火災により現在地に移転。
(渋谷区ウエブサイトより)

【祥雲寺】

【祥雲寺】

【黒田長政の墓】

[大名墓地群]この祥雲寺の檀家には武家が多かったため、福岡藩主黒田家をはじめとして、秋月藩主黒田家・久留米藩主有馬家・吹上藩主有馬家・柳本藩主織田家・岡部藩主安倍家・小野藩主一柳家・狭山藩主北條家・園部藩主小出家など諸大名の墓地群がある。
(祥雲寺ウエブサイトより)

【岡本玄冶の墓】
岡本玄治は江戸時代初期の医家。慶長年間(1596?)伏見城で徳川家康に拝謁し、1618年法眼に叙せられ、将軍秀忠に召されて、侍医となり、度々その病用に侍して功を収めたと言われている。1853年、歌舞伎狂言「与話情浮名横櫛」の舞台「源氏店」で有名になった玄冶店の起こりをたした。著書に「燈火集」「玄冶配剤口解」「玄冶方考」「通俗医海腰舟」「傷寒衆方企矩」などがある。(祥雲寺ウエブサイトより)

【岡本玄冶の肖像】
ウイキペディアより転載。
『藤浪剛一『医家先哲肖像集』(1936)より』との記述があります。

【鼠塚】
1899年から数年間にわたりペストが流行したとき、予防のために殺された鼠の霊を供養するために1902年に建てられた珍しい動物慰霊碑。碑の裏側には「数知れず 鼠もさぞや うかぶらむこの石塚の重き恵みに」という歌が彫られている。
(祥雲寺ウエブサイトより)

【鼠塚】
碑の表側下部をよく見ると、鼠の彫刻がある。

【2.広尾水車跡、区立臨川四季の森公園】
「この区立臨川四季の森公園のあるところは、渋谷川から引き入れた水力で水車が回っていたところです。この水車は「広尾の水車」と呼ばれ、江戸時代中期頃にかけられたもので、区内に数多くあった水車のなかで最も古く、規模の大きいものでした。その主な用途は、麦や米を搗くことに用いられていました。ここは、将軍徳川吉宗が広尾原(現・都立広尾病院付近)での鷹狩りの途次に立ち寄って、休息したことから有名になりました。(右へ→)

【2.広尾 水車(ひろお みずぐるま)、江戸名所図会
 国会図書館蔵】
(→左より)水車は、『江戸名所図会』にも描かれるなど、当時は名所として位置付けられていたことがわかります。その絵には、渋谷川が堰き止められ勢いよく水車を回した水が、再び渋谷川へ落とされている様子が描かれています。
水車は、電化の波に押され、効率性や維持の面から次第に衰退しはじめ、大正初期には廃止となりました。
(現地、渋谷区教育委員会説明板より転載)」


【2.広尾水車跡、区立臨川四季の森公園、渋谷川】
山下橋から撮影。
江戸期には、玉川上水の余水、新宿・代々木・渋谷の湧き水を集めて水車が回せるほどの水量があったが、現在では、見る影もない。しかし、大雨・台風時に水量が急激に増えると洪水になりやすい、そこで、右図のような地下調節池が2017年に完成している。

【渋谷川・古川地下調節池概要】
[東京都建設局 渋谷川・古川 河川整備計画 2018年より]
青の矢印は、筆者の加筆。
【3.佐倉藩(堀田備中守)下屋敷跡】
[聖心女子大学、久邇宮邸正門]
佐倉藩下屋敷→旧久邇宮邸(1917〜)
→聖心女子大学(1948〜)
旧久邇宮邸は,久邇宮家2代邦彦王が営んだ本邸である。1918年の竣工後,戦災等で一部焼失したが,小食堂や玄関,1924年築の御常御殿は焼失を免れた。2017年国の重要文化財に指定された。(聖心女子大学ウエブサイトより)
※御常御殿を見に入ろうとしたら、門衛にブロックされてしまった。残念...※
香淳皇后(昭和天皇の皇后)は、久邇宮邦彦氏の長女であり、1924年ご成婚の際には、御常御殿車寄せより皇居に向かったという。(出生地は麻布鳥居坂町の久邇宮家邸)
3.佐倉藩(堀田備中守)下屋敷跡
【日本赤十字看護大学 レンガ造りの校門(復元)】
日本赤十字社医療センターの前身の日本赤十字社病院は、1886年に東京飯田町に開院し、1891年に現在地に移転した。病院の建設の際に道路沿いに長い煉瓦塀が造られた。特別に注文した煉瓦を使ったという。煉瓦塀は現在の病棟新築の際に取り壊されたが、日本赤十字看護大学新校舎建築の際に、煉瓦を利用した校門が造られた。また医療センター入口付近にも煉瓦塀の一部が復元され、共に往時の煉瓦塀を偲ばせている 。
(現地解説板より)

【日本赤十字看護大学 佐倉藩下屋敷跡松(復元)】
日本赤十字社医療センターの構内は、江戸時代の佐倉藩の下屋敷跡で、広い敷地内に多くの松があったことが当時の絵図により知られる。その中に宗吾(そうご)の松と呼ばれた有名な松があった。佐倉藩の名主の佐倉宗吾(本名は木内惣五郎)が、重税に苦しむ村民のために将軍に直訴して、この松にしばりつけられたという伝説をもつ。病院内では、手術室のそばにあった。この松は昭和初期に枯れ、他の松も姿を消して、今では一株だけとなった。1890年以来、赤十字看護教育の歴史を見てきた松である。(現地解説板転載)

【日本赤十字看護大学 宗吾の松】
現地パネルからキャプチャー


麻布へ
【4.有栖川宮記念公園】
盛岡南部藩の下屋敷
→有栖川宮家・高松宮家の御用地(1896年)→東京市・公園用地(1934年)→港区立有栖川宮記念公園(1975年)

【4.盛岡町交番】
この辺り一角は、盛岡藩南部家の下屋敷にちなんで、麻布盛岡町と呼ばれた時代があった(現在は、南麻布)。この交番の名前は数少ない名残である。

【5.秋月佐渡守上屋敷→麻布中学校、麻布高等学校】
高鍋藩三万石(現宮崎県高鍋町)
(右へ→)


(→左から)
[5.上杉鷹山、写真はウイキペディアより転載]
1751年、上杉鷹山、麻布一本松邸に生まれ、
     10歳で上杉家の養子となる
6代目藩主 秋月種美 上杉鷹山の父
7代目藩主 秋月種茂 上杉鷹山の兄(Blog-DEEP AZABU)

【東都麻布之絵図 元麻布地区 国会図書館蔵】
[6.山崎主税助とガマ池伝説]
「1821年、麻布古川あたりより始まった大火で、このあたりが殆ど焼けてしまった時、なぜか備中成羽(今の岡山県西部)の領主、山崎主税助の屋敷のみが類焼を免れました。これは邸内の池の大かえるが、水を吹きかけて猛火を退けたからであると言われ、山崎家に御札を求める人々があとを断ちませんでした。 →右へ

【6.明治期初期のガマ池】
左より→そこで山崎家では、「上」(じょう)という一字が書かれた御札を万人に授けるようになりました。この御札は「上の字様」と称され、防火・火傷のお守りとして信仰を集めました。(十番稲荷神社ウエブサイトより)」

明治期は、まだガマ池がはっきりと確認できるが...
近年では、マンションに囲まれて、通常の方法では見ることができなくなっている。

【6.THE HOUSE GAMAIKE】
ガマ池のオーナーかも知れませんが、ガマ池を見るためにマンションの内部に入ることはさすがに控えました。

【6.THE HOUSE GAMAIKE横の駐車場の奥にガマ池がある】
正面の樹木に囲まれてガマ池があるらしい。

【6.駐車場の奥の塀越しに手を伸ばして撮影した】
マンションの谷間に、わずかながらガマ池が残っていた。
明治・大正期のガマ池の写真などは、麻布十番未知案内 麻布七不思議 がま池 に掲載されている。
現在でも、わずかに湧水があるようだが、池の周りに遊歩道を作って、見られるようにしてほしいものだ。

【6.東京都によるガマ池の説明】
ガマ池、正確には、マンション群を一回りすると、東京都による案内板がある。ずいぶんと古いものらしいが、更新はされていないようだ。
【宮村児童遊園】
ガマ池から北方へ行くと、一段と低い宮村児童遊園に出る。
ガマ池に多量の湧水があった頃(今でも少量あるかも知れないが?)、湧水はこの宮村児童遊園に流れ込み、麻布十番へ向かい、古川に注いでいたと思われる。その流れも、丁寧に追っていくと面白いのだが、ここでは、右側に見える、トタン屋根の低層住宅に注目したい。
ガマ池周辺のマンション群、高級住宅群と比較すると、そのギャップに驚かされる。
どの様な人がどんな事情で住んでいるのだろうか?

【6.西町インターナショナルスクール本部館(旧松方正熊邸)】
建築年:大正10年(1921)
明治の元勲松方正義の子息正熊と妻美代子の私邸として建てられ、ここで本スクールの創立者松方種子、駐日アメリカ大使ライシャワー夫人となる春子が育つ。
そのスタイルは、米国の諸都市で1890年から1930年までの間に盛んに建てられた郊外住宅に類似する。とくに、東面に大きく張り出したパーゴラ状の庇、それを軸にした左右対称の均衡のとれた外観は、様式や装飾によらない、構成美を備え、出窓をもつ起伏に富んだ大屋根とあいまって、傑出した景観と記念性を生み出している。(東京都選定歴史的建造物、東京都生活文化局、現地案内板より)
※西町:善福寺の西にあるので、江戸期には麻布善福寺門前西町、明治になって麻布西町となった。現町名は「元麻布」。

【6.日本基督教団 安藤記念教会会堂】
建築年:大正6年(1917)
この教会堂は、関東大震災前に竣工してその姿を留めている貴重な教会建築である。大谷石(一部小松石)の組積造で、南西の角に出入口の塔屋を設けている。
建物の北と南の壁面には小川三知が製作したステンドグラスが嵌めこまれている。この教会の創立者安藤太郎がハワイ総領事であったことから、南面のアーチ窓のステンドグラスには布哇(ハワイ)初回受洗者を記念する文字が日本語と英語で表されている。(東京都、現地案内板より)

麻布十番、善福寺

【東都麻布之絵図 麻布十番地区 国会図書館蔵】

【7.仙台藩下屋敷跡湧水】
南麻布にある韓国大使館の周辺、仙台坂の南側一帯は、江戸時代、仙台藩の麻布下屋敷が設けられていた場所。1841年に仙台藩が幕府に提出した資料によると、その敷地面積は21,293坪余と、芝口上屋敷の25,819坪余に並び広大なものだったよう。 坂の下にあるオープンカフェ「cafe kariz」の地下には、400年前から現在に至るまで絶えず地下水が湧き続ける井戸(湧水井)があり、店内にあるガラス張りの床から直接見ることが出来ます。(仙台市ウエブサイト)

【8.麻布山 善福寺入り口】
平安時代の天長元年(824年)に弘法大師によって開山された。鎌倉時代に親鸞聖人が訪れ、迎えた了海上人は、親鸞の高徳に傾倒し、一山をあげて浄土真宗に改宗した。

【8.柳の井戸】
自然に地下から湧き出る清水である。
古くから知られており、湧水については、弘法大師や聖人にまつわる信仰的な伝説が語りつがれてきた。
(現地解説板[東京都教育委員会]より要約)

【8.善福寺本堂】
善福寺は1945年の米軍空襲で伽藍を失ったが、本堂の復興のために1953年に八尾別院の本堂を買い取り、解体した部材を鉄道で東京に運び、1961年に再建完成させた。
(港区立郷土資料館ウエブサイトより)

【8.最初のアメリカ公使宿館跡】
1858年に締結された日米修好通商条約により、それまで下田にいた総領事ハリスは公使に昇格し、1859年善福寺をアメリカ公使館として赴任した。当時の宿館としては、奥書院や客殿の一部を使用していたが、1863年の水戸浪士の焼き討ちで書院などを消失したため、本堂、開山堂なども使用した。1875年に築地の外国人居留地へ移転した。寺には「亜墨利加ミニストル旅宿記」(港区指定文化財)が残されており、外国公使館に使用された寺の実態がよく伝えられている。
(現地解説板[東京都教育委員会]より要約)

【8.善福寺のイチョウ】国指定天然記念物
この木は雄株で、幹の上部が既に損なわれているが、幹周りは10.4mあり都内のイチョウの中で最大の巨樹。樹齢は750年と推定される。
(現地解説板[東京都教育委員会]より要約)

[8.福沢諭吉の墓]
福沢諭吉は1901年慶応大学敷地の三田の自宅で臨終を迎え、葬儀は麻布山善福寺で行われ、品川区上大崎の本願寺(現在は常光寺)に土葬で埋葬された。
(三田評論 慶應義塾史跡巡り 第43回より引用)
1977年、荼毘に付した後、麻布山 善福寺に改葬した。
※善福寺開山堂前にある「福沢諭吉の墓」には、お参りする人が絶えない。平日なのに、短時間に複数のお参りがあった。
【9.保科家と更科そば:永坂更科布屋太兵衛】
元禄の初め(約300年前)太物商としての布屋清助が、領主保科兵部少輔に招かれて江戸屋敷内(当時の麻布十番長屋)に住まうようになった。
代々、蕎麦打に長じていたことから、八代目清右衛(初代布屋太兵衛)は、領主のすすめで故郷の更級郡の「更」と領主保科家の「科」を賜り、それに永坂の地名をつけ加え、 『永坂更科』と命名。
【きみちゃん像】
「赤い靴はいていた女の子は 今、この街に眠っています。
野口雨情の童謡「赤い靴」の詩にはモデルがありました。その女の子の名前は「きみちゃん」。きみちゃんは赤ちゃんの時、いろいろな事情でアメリカ人宣教使の養女に出されます。母 かよさんはきみちゃんがアメリカに行って幸せに暮らしていると信じて雨情にこのことを話し、この詩が生まれました。しかし、きみちゃんは病気のためアメリカには行けませんでした。明治44年9月、当時麻布永坂町、今の十番稲荷神社の場所にあった孤児院でひとり寂しく亡くなったのす、まだ、9歳でした。」(以上、現地銘文より転載)

※孤児院:麻布一本松→麻布本村町→麻布永坂町(現十番稲荷神社)
※1989年、きみちゃん像建立

【十番稲荷】「きみちゃん」のいた、孤児院跡
「きみちゃん」が「赤い靴」モデルであったかについては、いくつかの論争があるようですが、この孤児院で亡くなったというのは事実のようです。
Blog - Deep Azabu 赤い靴のきみちゃん」によれば、
青山墓地鳥居坂教会墓石に[佐野きみ]という名があるという。

『赤い靴(くつ) はいてた 女の子
  異人(いじん)さんに つれられて 行っちゃった
 横浜の 埠頭(はとば)から 船に乗って
  異人さんに つれられて 行っちゃった(以下略)』

【十番稲荷神社、かえるのお守り】
この地には、鳥居坂教会の孤児院があった。戦後、末広神社(旧坂下町鎮座)および竹長稲荷神社(旧永坂町鎮座)が合併して出来た。
明治維新後、ガマ池の「上の字様」は末広神社(当社の前の社名)を通して授与されるようになったが、戦後中断していた。しかし、「上の字様」の復活を願う声は多く、昭和50年8月より「かえるのお守り」として復活し、かえるの石像も奉納された。近年では、防火・火傷のお守りとしてだけではなく、「かえる」の語音から旅行や入院の際に無事かえる、元気でかえる、あるいは、遺失物がかえる、若がえる等のお守りとして貴ばれている。
その後、「上の字様」も神社に伝わる史料を基に、ほぼそのままの姿で復刻し、防火・火傷除けに諸災難除けの御利益も加わった「上の字御守」として平成20年元旦より授与している。現存するがま池の水を使用して奉製した唯一の御守。
(十番稲荷神社ウエブサイトより)



歴史散歩 トップ>Walking-Azabu
Internet Walk トップ>Walking-Azabu (C)2022  KUWAJIMA Toshihisa