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歴史散歩:新川−永代橋−門前仲町−仙台堀川−清澄白河を歩く


2017年4月3日(月)
錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、歴史散歩。
  • 東京メトロ日比谷線茅場町駅1番出口にある「地図御用所跡」を出発、霊厳島・新川地区へ向かう。江戸初期、隅田川河口の砂州を造成して霊厳寺ができた。明暦の大火で焼失した霊厳寺は深川へ移転。その後、霊厳島という名前だけ残ったが、次第に、霊厳島→霊岩島→新川と名称が変わっていった。霊厳寺が去った後、河村瑞賢が地盤を造成、新川を掘削して、下り酒屋問屋街が形成された。現在でも、酒関係の会社が多い。
  • 亀島川下流河岸は「将監河岸」といわれ、「幕府の御船手組屋敷」があり、江戸湊発祥に繋がった。明治維新以後も、霊岩島水位観測所が置かれ、標高の原点となる「東京湾平均海面、T.P.0m」が計算された。その後、水位観測所は油壺に移り、霊岩島にはモニュメントのみが残る。また、船員教育発祥の地でもあった。
  • 永代橋を渡り門前仲町へ、深川公園は廃寺となった旧永代寺があったところ、広重が描いた「深川八まん山ひらき」の面影はもはやない。江戸期には旧永代寺で成田山新勝寺の出開帳が開かれたというが、現在では、成田山新勝寺の東京別院として深川不動堂が立派な堂宇を構える。富岡八幡宮には伊能忠敬の像や三角点、横綱力士碑があるが、富岡八幡宮と深川不動堂を比較すると、深川不動堂の方が賑やかな感じ。
  • 冬木町から仙台堀川へ向かう、明治初期の地図を見ると、至る所に堀割があり、材木の集積地であった事が見て取れる、が、現在は、埋め立てられて面影はない。ただ、材木商冬木家の邸内池に祀られた弁天堂だけが当時の面影を偲ぶ。仙台堀川のほとりに、芭蕉がおくの細道に出発したという「採荼庵」があった。
  • 深川寺町に向かう、戦災に遭って、黒くすすけた墓石と、真新しい墓石が混在している。江東区白河町とは松平定信(霊厳寺に埋葬)に因んだ町名、昭和になってからの命名という。芭蕉と仏頂禅師が親交を深めたという臨川寺がある。

国土地理院地図(新版-淡色)[ブラウザ:カシミール]に、青字で主な地名、赤字で旧跡を書き加えた。

霊岩島と新川

【江戸切絵図、霊厳島】
[江戸切絵図 築地八丁堀日本橋南絵図 国会図書館蔵]
  • 晩年、伊能忠敬が住んだ亀島町
  • 新川大神宮
  • 河村瑞賢が開削したと伝わる新川
  • 越前福井藩主、松平越前守の中屋敷と越前堀
  • 向井将監の管理する御船手組屋敷
  • 隅田川四番目に架橋された永代橋

【地図御用所、伊能忠敬終焉の地】
伊能忠敬(1745-1818)は、51歳の時に下総国佐原から江戸深川黒江町に居宅を移し、幕府天文方高橋至時の門に入って天文学を学び始めた。1800年からは本格的に日本全国の測量をはじめ、以降17年間にわたって日本全国の沿岸を測量し、その総距離は約4万kmにも及んだという。1814年、九州地方の測量から帰った伊能忠敬は、深川黒江町から八丁堀亀島町と呼ばれていた現在地付近へ転居した。この屋敷の敷地は150坪ほどであったが、伊能忠敬の居住地としてだけではなく、測量図を作製するための地図御用所として利用されていた。
伊能忠敬は地図が完成する前の1818年に亀島町の居宅で死去してしまいましたが、その後も伊能忠敬の居宅は地図御用所として使用され、1821年、門弟や天文方の下役等の手により「大日本沿海與地全図」が完成した。
(中央区教育委員会案内板より抜粋、写真赤の矢印)

【河村瑞賢(1618〜1699)屋敷跡】
瑞賢は、伊勢国の農家に生まれ、江戸に出て材木商人となった。1657年明暦の大火の際には、木曽の材木を買い占めて財をなし、その後も幕府や諸大名の土木建築を請負い莫大な資産を築いた。また、その財力を基に海運や治水など多くの事業を行った。瑞賢の業績の中でもとくに重要なのは、奥州や出羽の幕領米を江戸へ廻漕する廻米航路を開拓して輸送経費・期間の削減に成功したことや、淀川をはじめとする諸川を修治して畿内の治水に尽力したことがあげられる。晩年にはその功績により旗本に列せられた。
(中央区教育委員会案内板より抜粋)

【新川岸と新川大神宮】
☆左側は新川跡に建っているビル群、右に新川大神宮見える。
☆新川に面して河村瑞賢の屋敷があったと見られる。
斎藤月岑の『武江年表』によると、瑞賢は(1684〜1688)頃に南新堀一丁目に移り住み、屋敷は瓦葺の土蔵造りで、塩町(現在の新川一丁目二十三番地域)に入る南角から霊岸島半丁一円を占めていたと記されている。表門は今の永代通りに、裏門はかつて新川一丁目七番・九番付近を流れていた新川に面し、日本橋川の河岸には土蔵四棟があり、広壮な屋敷を構えていたという。
『御府内沿革図書』(1673〜1681)の霊岸島地図を見ると、端賢が開削したとされる堀割に新川が流れ、その事業の一端を知ることができます。
(中央区教育委員会)

【明治初期1883の新川、越前堀付近】
五千分一東京図測量原図1883「配信:農研機構、ブラウザ:カシミール」
  • 新川は埋め立てられ、現在、記念碑が三の橋跡に建つ
  • 残っていた越前堀も埋め立てられ、痕跡はない
  • 永代橋は、新たにできた永代通りの延長上に移った。
  • 明治初期の位置にあるのは、霊厳島交差点と新川大神宮のみ

【新川之跡碑、三の橋跡】
新川は、現在の新川1丁目3番から4番の間で亀島川から分岐し、この碑の付近(三の橋)で隅田川に合流する運河であった。規模は延長約590m、川幅は約11mから約16mと、狭いところと広いところがあり、西から一の橋、二の橋、三の橋の三つの橋が架かっていました。この新川は、豪商河村瑞賢が諸国から船で江戸へと運ばれる物資の陸揚げの便宜を図るため、1660年に開さくしたといわれ、一の橋の北詰には瑞賢が屋敷を構えていたと伝えられている。当時、この一帯は数多くの酒問屋が軒を連ね、河岸にたち並ぶ酒蔵の風景は、数多くのさし絵や浮世絵などにも描かれた。1948年、新川は埋め立てられた。(中央区教育委員会案内板より抜粋)

【新川酒問屋】江戸名所図会 国会図書館蔵

【新川大神宮、慶光院太神宮とも】
新川大神宮の由来は、伊勢内宮の社僧慶光院所蔵古文書「慶光院由緒」並に江戸名所図会に詳しい。当宮は慶光院周清上人が1625年徳川二代将軍から江戸代官町に屋敷を賜り、邸内に伊勢両宮の遥拝所を設けられたのに始まり、其後1657年江戸の大火で類焼したので、この年替地を霊岸島に賜り社殿を造営、以来実に三百年を経た。酒問屋の信仰篤く、毎年新酒が着くとこれが初穂を神前に献じ、然る後初めて販売に供した。(境内掲示板より抜粋)

【越前堀児童公園 中央区】
この一帯は、江戸時代には越前福井藩主、松平越前守の屋敷があった。当時、屋敷の三方が入堀に囲まれていたため、この入堀は通称「越前堀」と呼ばれていた。明治には「越前堀」がそのまま町名になったが、戦後、入堀が完全に埋め立てられ、昭和46年の住居表示制度の実施で町名も現在の新川になった。
[越前堀跡碑]
越前堀の護岸は石積みで、今でも建築工事遺跡の調査中に、越前堀のものと見られる石垣石が出土することがあります。堀の幅は12〜15間(20〜30mほど)もあり、運河として用いられ、荷を積んだ小舟が通っていたようです。
1923年の関東大震災以後、一部を残して大部分が埋め立てられ、わずかに残っていた隅田川に近い部分も、戦後完全に埋め立てられました。今では往時をしのぶ「越前堀」の名は、ここの越前堀公園に見られるのみとなりました。
(中央区教育委員会案内板抜粋)

【霊巌島の由来碑】
江戸の城下町が開拓される頃は、一面の沼地葭原であった。1624年に雄誉霊巌上人が霊巌寺を創建して、土地開発の第一歩を踏み出し、1635年には、寺地の南方に越前福井の藩主松平忠昌が27000坪に及ぶ浜屋敷を拝領した。邸の北、西、南三面に船入堀が掘られて、後に越前堀と呼ばれるようになった。1657年明暦の大火で霊巌寺は全焼し深川白川町に移転、跡地は公儀用地となり市内の町々が替地として集団的に移転してきた。明治大正年間には湾内海運の発着地、倉庫地帯として下町商業の中心であった。
[町名の移り変わり]
・明治大正の頃:富島町、浜町、四日市町、塩町、大川端町、川口町、長崎町、霊岸島町、銀町、東港町、新船松町、越前堀、南新堀
・昭和6年区画整理後:新川一丁目、新川二丁目、霊岸島一丁目、霊岸島二丁目、越前堀一丁目、越前堀二丁目、越前堀三丁目
・昭和46年住居表示後:新川一丁目、新川二丁目
(霊巌島保存会案内板要約)

【遺跡調査、中央区新川2-214】
区立明正小学校近所のビル建設現場で遺跡調査をやっていたが、江戸切り絵図を見ると橋本稲荷薬師堂のはず。何だろか?

【隅田川テラス入り口、亀島水門】
亀島川が隅田川と合流する地点に位置し、周辺流域を高潮の侵入から守るための防潮水門。1969年完成。
AP.0m、平均満潮位AP.+2.1m、計画高潮位AP+5.1m
(東京都江東治水事務所)

【御船手組(将監河岸しょうげんかし)、左手の岸】
江戸初期に隅田川に至る亀島川の下流の左岸(新川側)に、幕府の御船手組屋敷が設置され、戦時には幕府の水軍とし、平時には天地丸など幕府御用船をを管理した。大坂の陣で水軍を率いて大阪湾を押さえた功績により、御船手頭に任ぜられた向井将監忠勝(1582〜1641)を始め、向井家は代々、将監を名乗りお船手頭を世襲したことから、亀島川下流から隅田川に至る亀島川のの左岸(新川側)を将監河岸と呼ぶようになった。(中央区土木部)

【隅田川テラス入り口、江戸湊発祥の地】
また、1889年に東京湾汽船会社が設立され、御船手組屋敷跡に霊岸島汽船発着所が置かれ、房総半島、伊豆半島、大島、八丈島などに向けて海上航路を運営し、明治・大正・昭和初期にわたり港町の伝統を引き継いでいった。
(中央区土木部)

【移設前の霊岸島水位観測所:シンボル柱】
元の観測所の位置には、その歴史的経緯を長く後世にに伝えるため、観測柱を正面にシンボル柱として設置しました。」
(国土交通省関東整備局荒川下流河川事務所案内板より抜粋)

【霊岸島水位観測所と日本水準原点との関係図】
(国土交通省関東整備局荒川下流河川事務所案内板より抜粋)
[日本水準原点の推移]
1891年 24.5000m
1923年 24.4140m(関東大震災)
2011年 24.3900m(東北地方太平洋沖地震)
(国土地理院ウエブサイトより)

【現在の霊岸島水位観測所】
「日本の水準原点を生んだ霊岸島水位観測所も、その後の東京湾の埋め立てや隅田川の河川水の影響があり、水準原点の検証をするための観測所としては、理想的な位置とはいえなくなり、現在では神奈川県三浦半島油壺の観測所にその機能が移されています。
現在の霊岸島水位観測所は、荒川水系の工事実施基本計画や改修計画の策定及び改定のための基礎データの観測を続けていますが、隅田川のテラス護岸の施行に伴い平成6年5月に元の位置から約36m下流に観測所を移設しました。
元の観測所の位置には、その歴史的経緯を長く後世にに伝えるため、観測柱を正面にシンボル柱として設置しました。」
(国土交通省関東整備局荒川下流河川事務所案内板より抜粋)

【一等水準点「交無号」標高3.24m】
「日本の高さの基準である東京湾平均海面(標高0m)は、明治6年から12年の間に霊岸島で行われた潮位観測によって決定されました。
この結果は、潮位観測に用いられた量水標近傍の「内務省地理局水準標石(霊岸島旧点)に取り付けられましたが、明治24年に新しい基準点として、この「霊岸島新点・交無号」が設置されました。同年、国会議事堂前の地に建設された日本標準原点の標高は、この水準点からの測量で決定されています。
この水準点は、まさに日本の高さの出発点として歴史あるものです。
現在の水準点は、平成18年にこの地に移転されました。標石は昭和5年の移転時に作られたもので、小豆島産の花崗岩が用いられています。」
(国土地理院関東地方測量部案内板より抜粋)

【日本水準原点と標高】
左の図は、霊岩島水位観測所モニュメントに付属する説明パネルを見て、1891年当時の日本水準原点の決め方を、筆者が図式化したものである。霊岩島量水標の潮位から、東京湾平均海面を求め、ごく近所の地上に霊岩島新点・交無号(標高2.6210m)を固定する。この固定点から永田町にある日本水準原点までを水準測量によって21.8790mと求め、その合計が日本水準原点の数値24.5000mとなる。

その後、間もなく霊岩島が潮位観測には不適切ということがわかり、油壺に験潮所で潮位観測を行うことになる。
右の図は、関東大震災、東北地方太平洋沖地震を経て、改訂された日本水準原点の決め方を、筆者が図式化した物である。(国土地理院ウエブサイト及び第41回国土地理院報告会資料を基にして作成した。)日本水準原点の決め方としては、霊岩島量水標→油壺験潮所の井戸、霊岩島新点・交無号→井戸に固着された固定点となるだけで、最近の日本水準原点の数値が得られる。
但し、いくつか前提条件があるようである。
  1. 油壺において、1894年から常時潮位観測をして、海面の長期的な変動傾向は明瞭には見られない。(おそらく温暖化など)
  2. 2002年に設置した連続したGPS観測によって、地震による上下動はないと認められる。地震に関係なく長期間をとれば、油壺験潮所は約3mm/年の沈降傾向がある。地震直前の固定点標高は2.4173mとしている。

【東京商船大学(東京海洋大学)発祥の地】
内務卿大久保利通は、明治政府の自主的な海運政策を進めるにあたり、船員教育の急務を提唱し、三菱会社社長岩崎弥太郎に命じて、明治8年11月、この地に商船学校を開設させた。当初の教育はそのころ隅田川口であり、海上交通の要衝でもあった永代橋下流水域に威妙丸を繋留して校舎とし全員を船内に起居させて行われたが、これが近代的船員教育の嚆矢となった。爾来100年、ここに端を発した商船教育の成果は、わが国近代化の礎となった海運の発展に大きく貢献してきたが、その歴史的使命は幾変遷を経た今日、江東区越中島にある現東京商船大学に継承されている。
(中央区教育委員会 船員教育発祥之地碑より)


【永代橋付近の移り変わり】
  • 永代橋が架橋されたのは1698年であり、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の50歳を祝したもので、隅田川で四番目に作られた橋。
  • 現在位置に移設架橋されたのは、1897年、木製からスチールトラス製となったが、床組みが木製だったため、関東大震災で焼失。
  • 1926年、震災復興橋梁として、再建。
(国土交通省技術調査課ウエブサイト、CHAN-TOより)
※原図:五千分一東京図測量原図1883「配信-農研機構、ブラウザ-カシミール」、現在の永代橋、豊海橋の位置は、原図に地理院地図をオーバーレイして確定した。

※[日本銀行旧地]
日本銀行は、1882年10月10日、永代橋際の旧北海道開拓使物産売捌所の建物を本店として開業。1896年4月に日本橋の現在地へ移転。(日本銀行金融研究所貨幣博物館ウエブサイトより)

【江戸期の永代橋、豊海橋】江戸名所図会 国会図書館蔵
第5代将軍・徳川綱吉の50歳の誕生日を記念して架橋を行ったのは関東郡代の伊奈忠順であった。上野寛永寺根本中堂造営の際の余材を使ったとされる。長さ110間(約200m)、幅3間余(約6m)、また隅田川で最も下流で、江戸湊の外港に近く船手番所が近くにあり、多数の廻船が通過するために橋脚は満潮時でも3m以上あり、当時としては最大規模の大橋であった。橋上からは「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総」と称されるほど見晴らしの良い場所であったと記録(『武江図説』)に残る。
1702年の赤穂浪士の吉良上野介屋敷への討ち入りでは、討ち入り後に上野介の首を掲げて永代橋を渡り、泉岳寺へ向ったという。
[落橋事故]
1807年、深川富岡八幡宮の12年ぶりの祭礼の日に詰めかけた群衆の重みに耐えきれず落橋した。死傷者・行方不明者合わせると1400人を超え、史上最悪の落橋事故といわれている。この事故について、大田南畝は次の狂歌を残している。
永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼、あすは葬礼
(ウイキペディア)

【旧永代橋西詰め跡】
永代橋の痕跡は石碑だけ。隅田川テラスへ出る入り口になっていて、自転車置き場になっている。

【旧永代橋西詰め跡
約200年間、ここに木製の永代橋が架かっていた。

【現在の豊海橋】
日本橋川が隅田川に流入する河口部の第一橋梁、1698年に初めて架けられ、その後何度となく架け替えられ現在に至っている。現在の橋は1927年に震災復興事業として架設され、形式名をフィーレンデール橋という。復興局は新規に設計を土木部の田中豊に依頼、実際の設計図は若手の福田武雄が担当。隅田川支流の河口部の第一橋梁はデザインをひとつひとつ変えて区別しやすく工夫していた。それは隅田川から帰港する船頭に対する配慮だった。
(中央区教育委員会案内板より抜粋)

【隅田川テラス(箱崎側)から現在の永代橋を望む】


永代橋を渡り門前仲町へ

【江戸切絵図、富岡八幡宮周辺】
[江戸切絵図 本所深川絵図 国会図書館蔵]
  • 新・旧・永代橋の架橋位置
  • 深川黒江町の伊能忠敬旧居
  • 永代寺の廃寺と深川不動堂の隆盛
  • 永代寺・富岡八幡宮の堀割の名残
  • 三十三間堂の名残

【永代橋東詰より新川、箱崎方面】
右手には、日本橋川、豊海橋、旧永代橋西詰が見える

【永代通りのガードレール】
深川のシンボルは、旧永代橋と辰巳芸者のように見える。

【広重の描いた深川のシンボル】
江戸十橋之内 永代橋 歌川広重(国会図書館所蔵)
※辰巳芸者:むかしは、深川のことを辰巳といった。その意味は、深川は江戸城の辰巳の方角にあたるからである。その辰巳を代表するものに櫓下十二軒の芸者がいた。櫓下というのは現在の江東区富岡一丁目の一部で、江戸時代、そこに火の見櫓があり、その櫓の下に十二軒(実数ではない)の芸者の置屋が軒を並べていたので、そこの芸者を俗に櫓下の芸者といい、ここの芸者は客席に侍るときに、着ていた羽織をあえて脱がないことを一種の誇りとしていたので、またの名を『深川の羽織芸者』ともいわれていた。このようなことも辰巳を代表する深川芸者の心意気として、高く評価されたものであった。(有峰書店新社、歴史の散歩道ウエブサイトより)

【伊能忠敬旧居跡】
わが国で、はじめて機械を使用して正確な日本実測地図を作成した伊能忠敬は、深川黒江町に住み、ここを測量の原点とた。測量の際には富岡八幡宮にお参りをして旅立った。
忠敬は、1745年上総国山辺郡小関村に生まれ、浅草竹町の天文方暦局の高橋至時に天文学や数学を学んだ。
そして、1800年から1815年まで10回の測量を行い、1818年4月74歳で亡くなった。遺体は、遺言により源空寺(台東区東上野)の師高橋至時の隣に葬られ、爪と髪は佐原市の観福寺に葬られている。(江東区ウエブサイトより)

【伊能忠敬像、富岡八幡宮境内】
1800年6月1日の早朝に富岡八幡宮に参拝して蝦夷地(北海道)測量の旅に出かけました。忠敬先生はこのときを含めて全部で10回の測量を企画しましたが、遠国に出かけた第8回までは、出発の都度必ず、内弟子と従者を率いて富岡八幡宮に参詣して、無事を祈念したのち、千住、品川宿などの測量開始地点に向かって歩き出しました。富岡八幡宮は伊納測量にとって大変縁の深い場所であります。
(伊能忠敬銅像建立実行委員会案内板より抜粋)

【1800年代初期の永代寺 富岡八幡宮 諸堂配置図 御府内備考】現永代寺の前の掲示板より
  • 富岡八幡宮、その別当寺・永代寺を中心に堀割に囲まれた境内があった。

【1800年代後期の深川不動堂、富岡八幡宮】
関東平野迅速測図(1880-1886)「配信:農研機構、ブラウザ:カシミール」
  • 廃仏毀釈により廃寺となった永代寺は既になく、深川不動堂と富岡八幡宮が強調されている。
  • 周囲の堀割や庭園の池は残っていた。

【旧永代寺跡、深川公園内】
永代寺は、1627年に富岡八幡宮別當寺として長盛上人によって永代島に創建される。當時の永代島は(現在の永代橋東側一帯)隅田川河口の砂州で、長盛上人がこれを開荒し、寺社地60,508坪を所有し、一宇を建立する。
現在の深川公園辺りは、永代寺庭園の一部であったところで、江戸期、平常は非公開であったが毎年3月21日から28日までは弘法大師の御影供が行われ、その期間に限って「山開き」と称し林泉を開き江戸庶民に見物を許したいそうな賑わいであった。永代寺は、富岡八幡宮と共に大衆に広く知られ多くの参詣人を集める、江戸を代表する門前町の中心であったが1868年の神仏分離を契機として行われた廃仏毀釈により廃寺となった。しかし、名刹を廃絶するに忍びず、塔頭の一つ吉祥院(1692年創建)を永代寺を改称して継承した。(門前の掲示板「大栄山 永代寺 略縁起」より抜粋)


【深川不動堂、成田山新勝寺の東京別院】
本尊の不動明王像を成田山から運び、江戸の人々に公開したのであります。1703年に第一回目の出開帳が富岡八幡宮の別当寺である永代寺で行われました。これには、5代将軍綱吉の生母桂昌院も参拝しました。一説には、成田不動尊の尊信篤き桂昌院が、護国寺の高僧隆光を動かし出開帳を実現させたともいわれます。以来出開帳はたびたび行われ、大勢の江戸っ子が押し寄せ大いに賑わったと伝えられております。不動信仰はますます盛んになる中で、信徒講社が結成されました。
1868年に神仏分離令とそれにもとづく廃仏運動のなかで、信徒講社は永続的な御旅所確立のために深川移転説を主張し、成田山当局にも熱心に働きかけました。その結果、旧来しばしば出開帳を行った特縁の地である現在地に、不動明王御分霊が正式に遷座されたのであります。「深川不動堂」の名のもとに堂宇が完成したのは、それから13年後の1881年のことでした。その後、地震や戦禍で堂宇は失われたが、ご本尊は無事運び出された。現在の不動堂は千葉県印旛郡の天台宗龍腹寺地蔵堂を移築したもの。
(深川不動堂ウエブサイトより抜粋)

【深川不動堂参道と(現)永代寺】
正面は深川不動堂、参道右側に旧吉祥院・現永代寺がある。

【富岡八幡宮】
1624年、長盛法師が神託により砂州であった当地を干拓した際、工事が難航したため、「波除八幡」の別名を持つ「富岡八幡宮」(現在の横浜市金沢区にあり、源頼朝の勧請により1190年代の建久年間に創建された)から分社して同じ社名を許され、永代島に八幡宮を建立したことが創建とされる。創建当時は「永代嶋八幡宮」と呼ばれ、砂州の埋め立てにより60,508坪の社有地があった。
八幡大神を尊崇した徳川将軍家の保護を受け、庶民にも「深川の八幡様」として親しまれた。当社の周囲には門前町(現在の門前仲町)が形成され、干拓地が沖合いに延びるにつれ商業地としても重要視された。(ウイキペディアより)

※富岡八幡宮の沿革については、諸説あり

【永代寺庭園、山開き】
※錦絵は、名所江戸百景 深川八まん山ひらき、国会図書館蔵
ツツジと桜が描かれているが、桜は、当時評判になっていた「度会園女が植えた歌仙桜」と思われる。

【園女・歌仙桜の碑、深川第二公園内】
歌仙桜とは、松尾芭蕉の門人であった度会園女が正徳二年(1712)富岡八幡宮境内に三十六歌仙にちなみ36本の桜を植えたことから名付けられたものです。以来ここは江戸の桜の名所となり、『江戸名所図会』によると桜の開花のころは、山開きと称し庭園を開放し多くの人々を集めたそうです。
宝暦五年(1755)俳人班象と門前に住んでいた歌人園が桜の木を植え足した際に建てられたもので丸い自然石に歌仙桜と刻んであるもの。(富岡八幡宮社報、平成20年春号より)

1755年建立にしては、文字が明瞭のような気がします。裏を見ても建立日がないのですが...この公園には、もう一つ「歌仙桜の碑があり、こちらは昭和のものですが...」

【広重の見た富岡八幡宮】
※錦絵は、広重画帖・富岡八幡、国会図書館蔵


【八幡堀遊歩道、富岡八幡宮東側】
江戸切絵図、明治時代の関東平野迅速測図でも見られる堀割が遊歩道として残っている。

【三十三間堂跡】
江戸三十三間堂は、京都蓮華王院に模して、1642年に浅草に建立されたが、1701年に深川に移された。深川における三十三間堂は、南北六十六間・東西四間の堂舎であり、本尊は千手観音であったといわれてる。江戸時代は、諸士の弓術稽古のために通し矢が行われていた。深川三十三間堂は、1872年に廃棄解体された。
(江東区ウエブサイトより抜粋)
※現在でも、京都の三十三間堂において、通し矢が行われてる。

【広重の描いた深川三十三間堂】国立国会図書館蔵


【数矢小学校、富岡八幡北側】
1931年まで三十三間堂が建っていた場所は、深川数矢町といいました。数矢町は1869年起立の町で、町名は「三十三間堂が射手数矢を演じたる地なるを以って町になづくという」といったことにちなんでいます。現在は、富岡2丁目に含まれ、数矢町はなくなりましたが、この名前は、数矢小学校の名に残っています。
(江東区ウエブサイトより抜粋)



冬木町−仙台堀川−清澄白河

【江戸切絵図、深川寺町周辺】
[江戸切絵図 本所深川絵図 国会図書館蔵]

【亀久橋】

【亀久橋から見た仙台堀川(西方向)】
左岸手前が冬木町

【広重が描いた深川木場】国立国会図書館蔵
広重がどこの堀割を描いたのか不明だが、木場のシンボルである。

【1800年代後半の冬木町】
材木商冬木屋に由来する。冬木屋は、上野国(現・群馬県)から江戸に出た上田直次がおこした。三代目冬木屋弥平次は一族の上田屋重兵衛と、仙台堀川の南の地を材木置場として、幕府から買い取った。
1705年、町屋をたてて、深川冬木町と名付けたのがこの町の始まりである。昭和15、6年に和倉・亀久・亀住・大和・万年などの各町を合併し、44年冬木とした。(江東区地名由来より)

※地図は関東平野迅速測図(1880-1886)「配信:農研機構、ブラウザ:カシミール」

【木場木遣りの碑、富岡八幡宮境内】
「木場の木遣り」の発祥は古く、現存の文献によれば、既に慶長初期の昔に行れている。当時、幕府のお船手の指図で、伊勢神宮の改築用材を五十鈴川より木遣りの掛け声で水揚げをした、とある。元来、神社仏閣の鳥居や大柄な用材を納める場合には木場木遣り特有の「納め木遣り」が用いられ、保存会により今日に伝えられている。
(木場の木遣り 碑文より抜粋)

【冬木弁天堂】
冬木弁天堂は、木場の材木豪商、冬木弥平次が1705年、茅場町から、深川に屋敷を移転した際、邸内の大きな池のほとりに、竹生島から移した弁財天を安置しました。そのためいまでもこの町を冬木町といいます。(深川七福神公式ホームページ)

【白綾地秋草模様描絵小袖(冬木小袖)1721〈尾形光琳筆〉】
重要文化財、東京国立博物館蔵
これは光琳が江戸深川の豪商冬木家に逗留した折、その妻女のために麗筆をふるったものと伝えている。白地に軽妙な筆遣いで描かれた淡雅な秋草文様は光琳の個性ある筆致を示している。元禄初頭に流行をみた描絵小袖の数少ない遺品の一つとしても価値が高い。
(東京国立博物館 研究情報アーカイブズ より転載)

【再び仙台堀川の桜並木に戻る】

【採荼庵(さいとあん)】
芭蕉は、1689年、採荼庵から「おくの細道」の旅に出発した、隅田川をさかのぼって千住まで行った。「おくの細道」の出発は船旅だったのである。
採茶庵は、芭蕉の門人、杉山杉風(さんぷう)の別宅であった。芭蕉は「奥の細道」の旅に出る前に、それまで住んでいた隅田川と小名木川の合流地点の岸辺にあった芭蕉庵を手放し、門人、杉山杉風(さんぷう)の別宅に厄介になる。採荼庵に芭蕉を住まわせた杉風は、日本橋で幕府御用の魚問屋を営み、豊かな経済力で芭蕉の生活を支えていたのである。「草の戸も住み替わる代ぞひなの家」この句は松尾芭蕉が旅の準備のために隅田川のほとりにあった芭蕉庵を引き払い採荼庵に越してきたその引越しの時に詠んだ句です。
(江東区ウエブサイトより抜粋)

【曲亭馬琴(1767〜1848)生誕の地】
江戸時代後期の小説家。旗本松平信成の用人を勤める下級武士の五男として、1767年、この地にあった松平家の邸内で生まれた。1775年、9歳で父親と死別し、その後は、松平家の孫の遊び相手として一家を支えたが、1780年、14歳の時に松平家を出た。門前仲町に住み、文筆で身を立てようと、1790年、山東京伝のもとに入門した。1791年正月に処女作として、京伝門人大栄山人の名で黄表紙「尽用而二分狂言」を発表した。以後、儒教思想にもとづく教訓、因果応報による勧善懲悪を内容とした読本を続々と著し、読本作家の第一人者と称された。1834年ころより眼を患い、晩年は失明しながらも、口述・代筆で著作を続けた。読本・黄表紙から随筆にいたるまで、約470種にものぼる著作を残している。
(江東区教育委員会案内板より抜粋)

【曲亭馬琴像】
曲亭馬琴翁叢書、国会図書館蔵

1807年から刊行が開始された『椿説弓張月』や、1808年の『三七全伝南柯夢』によって馬琴は名声を築き、読本は馬琴の独擅場となった。1814年に、『南総里見八犬伝』肇輯が刊行された。
(ウイキペディアより)

【霊岩寺】
1624年、雄誉霊巌上人の開山により、日本橋付近の芦原を埋め立てた霊巌島に創建された。1657年、江戸の大半を焼失した明暦の大火により霊巌寺も延焼、1658年に現在地に移転した。

【松平定信(1758-1829)墓、霊岩寺】
8代将軍・徳川吉宗の孫、田安宗武の子として生まれ、陸奥白河藩主となり、白河楽翁を号していた。1787年6月に老中となり、寛政の改革を断行し、1793年老中を辞している。定信は老中になると直ちに札差統制(旗本・御家人などの借金救済)・七部積立金(江戸市民の救済)等の新法を行い、幕府体制の立て直しをはかった。
(東京都教育委員会案内板より抜粋)

※寛政の改革の評価は、様々であるが、墓所の町名に「白河」が残った。

【銅造地蔵菩薩坐像(江戸六地蔵の一)、霊岩寺境内】
江戸六地蔵の由来は、その一つ太宗寺の像内にあった刊本『江戸六地蔵建立之略縁起』によれば、江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり、病気平癒を両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したことから、京都の六地蔵に倣って、1706年造立の願をを発し、人々の浄財を集め、江戸市中六カ所に地蔵菩薩を造立したと伝えられています。
霊岩寺の地蔵は第五番目で1717年に造立された。
(東京都教育委員会案内板より抜粋)

【紀伊国屋文左衛門の墓、成等院】
紀伊国屋文左衛門は、紀州の出で、ミカンを売って大儲け、材木を売って大儲けしたという、また、吉原などでお大尽遊びをしたという伝説がありますが、生没年不明の謎の人物。それにあやかろうと、「紀文会」なるものを創り、そばに巨大な記念碑まで建ててしまった。
2011年の大地震で石が崩れ、現在、立ち入り禁止、一体誰が修復するのでしょう?

【度会園女(わたらいそのじょ)墓、雄松院】
園女は斯波一有の妻で大坂にすみ夫妻医業を営んでいた。園女は俳句を芭蕉に学び1694年芭蕉が大坂にゆき園女の宅で発病し10月12日死去した。園女は夫の死後江戸に移住し富岡八幡宮前にすみ眼科医をしていた園女は富岡へ36本の桜を植え歌仙桜と称しそこが桜の名所となった。園女は1727年4月20日死去し雄松院に葬られた。
墓石につぎの辞世の歌が記されている
「秋の月 春の曙見し空は 夢かうつつか南無阿弥陀佛」
(江東区碑文より)

【芭蕉ゆかりの寺、臨川寺】
臨済宗妙心寺派の瑞甕山臨川寺は、1653年鹿島根本寺の冷山和尚が草庵を結んだことに始まり、その弟子の仏頂禅師が幕府に願い出て、1713年瑞甕山臨川寺という山号寺号が許可されました。1680年深川に移り住んだ松尾芭蕉は二歳年上の仏頂禅師の人柄に感服し、足繁く参禅するようになりました。
(以上、臨川寺ウエブサイトより)
1687年、芭蕉は、曽良、宗波とともに鹿島に旅し、根本寺山内に閑居する仏頂禅師とともに、観月のひと時を過ごしたという(松尾芭蕉の旅-鹿島紀行)
また、仏頂禅師から、修行時代雲巌寺の山中にこもって修行したと聞いていたことから、雲巌寺の仏頂禅師庵跡も訪ねている(おくのほそ道)
(以上、芭蕉庵ドットコムより)



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