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歴史散歩:東銀座−京橋−日本橋兜町を歩く


2024年4月16日(火)
錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、歴史散歩。

東銀座駅→[狩野画塾跡]→[佐久間象山塾跡]→[森田座跡]→[木挽橋跡]→→三十間堀川跡に沿って→→[京橋公園]→[白魚橋跡]→[ミツ橋跡]→[京橋]→[大根河岸跡]→[京橋竹河岸]→→(地下鉄銀座線で移動、京橋〜日本橋)→→[前島密像]→[郵便発祥の地(駅逓司と四日市郵便役所)]→[旧江戸橋跡]→[海運橋跡]→[銀行発祥の地(第一国立銀行跡)]→[渋沢栄一住居跡、日商館]→[証券取引発祥の地(東株跡)→[鎧之渡跡]→茅場町駅



芸術発祥の地、木挽町

【1853年、木挽町四丁目ー木挽町五丁目部分拡大図】
再板京橋南芝口橋ヨリ築地鉄炮洲邉図、早稲田大学蔵
【木挽町の由来】
1603年徳川家康が江戸幕府を開き、日比谷入り江を埋め立てて城下町を形成した。1612年三十間堀が開削されその東側に南北に長く木挽町が出来た。木挽町の名の起こりは江戸城改修にあたって木挽(木曳)職人を多く住まわせたためと言われている。

【銀座五丁目−六丁目(旧木挽町四丁目−五丁目】
  1. 現在、歌舞伎座のあるところは、江戸末期には、細川家屋敷であった。
  2. 1772年〜1804年、田沼家屋敷地
  3. 田沼意次の時代に、田沼邸の一角に狩野典信が狩野画塾を開く。(木挽町狩野家の実質的な始まり)
  4. 江戸末期には、佐久間象山塾があった。
  5. 1660年、森田座が誕生、歌舞伎興行を行う(木挽町三座の一つ)

【吉宗加筆鷹画草稿、狩野古信】
東京国立博物館蔵
【狩野画塾跡(木挽町狩野家)、
中央区銀座5-13 ホテルグランバッハ東京銀座】
江戸幕府の奥絵師であった狩野四家は、いずれも狩野探幽、尚信、安信の三兄弟を祖とし、「鍛冶橋」、「木挽町」、「中橋」と「浜町(木挽町の分家)」の四家すべての拝領屋敷が中央区内にあった。木挽町狩野家の祖・狩野尚信は寛永七年(1630)に江戸に召しだされ、竹川町(現在の銀座七丁目)に屋敷を拝領して奥絵師になった。木挽町狩野家の記録と学習
[以下の系図は、木挽町狩野家の記録と学習(東博)参照]

一代:狩野尚信(1607-1650)、二代:狩野常信(1636-1713)
三代:狩野周信(1660-1728)、四代:狩野古信(1696-1731)
五代:狩野玄信(1715-1731)

【富士浅間神社天井絵、狩野栄信】
その後、六代典信の時に老中・田沼意次の知遇を得て、木挽町の田沼邸西南角にあたる当地に移って画塾を開いた。奥絵師である狩野四家の中で、もっとも繁栄した木挽町狩野家は諸大名などからの制作画の依頼も多く、門人が数多く集まった。門人のほとんどは、諸侯のお抱え絵師の子弟で、十四から十五歳で入門し、十年以上の修行を要した。修行後は師の名前から一字を与えられて、絵師として一家を成す資格を持つといわれた。この狩野画塾からは、多くの絵師が輩出されているが、明治の近代日本画壇に大きく貢献した狩野芳崖や橋本雅邦などは、ともに木挽町狩野家十代・雅信の門下生。(中央区教育委員会)

六代:狩野典信(1730-1790)、七代:狩野惟信(1753-1808)
八代:狩野栄信(1775-1828)、九代:狩野養信(1786-1846)
十代:狩野雅信(1823-1879)

【佐久間象山塾跡、絵図で4.:勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬らが通った塾。】
この地域には、江戸時代後期の思想家で、信濃国松代藩士佐久間象山(1811〜1864)の私塾があった。
象山は初め儒学を修め、1839年神田お玉ヶ池付近に塾を開き、さらに松代藩の江戸藩邸学問所頭取などを務めた。後に海防の問題に専心して西洋砲術や蘭学を学び、1851年、兵学及び砲術を教授し、海防方策の講義などを行う目的で、木挽町五丁目(現在地付近)に塾を開いた。
この塾は20坪程の規模で、常時30〜40人が学んでいたといいます。その門下には、勝海舟・吉田松陰・橋本佐内・河井継之助など、多くの有能な人材が集まり、土佐藩士坂本龍馬の名も門人帳に確認することができる。龍馬は、1853年に江戸へ最初の剣術修行に出て、その最中である12月1日に象山に入門した。木挽町の塾には、諸藩から砲術稽古の門下生が急増したが、1854年に門人の吉田松陰がアメリカ密航に失敗した事件に連座して、象山は国許に蟄居を命ぜられてて塾も閉鎖された。(中央区教育委員会説明板より)

【柳生屋敷跡】1725年〜1836年の間、この地には柳生屋敷があった。

【木挽町、芝居小屋・森田座】江戸名所図会、国会図書館蔵
1834年頃の木挽町芝居小屋
【歌舞伎興行、木挽町三座と江戸三座、森田座跡】
遡ること1624年中橋に、歌舞伎狂言座・猿若座誕生→1651年堺町(人形町)へ移転して[中村座]となる。1634年葺屋町(人形町)に[村山座]誕生。
一方、木挽町には、1642年山村座、1648年河原崎座、1660年[森田座]が誕生、「木挽町三座」と呼ばれ賑わった。しかし、1663年河原崎座が休座、1714年大奥女中である江島と山村座の役者生島新五郎の密通が発覚した江島・生島事件により山村座も廃座となった。
1714年以降は、日本橋[中村座]、[市村座]、木挽町[森田座]が幕府から歌舞伎興行を公認され「江戸三座」と呼ばれるようになった。
「江戸三座」は1842年から翌年にかけて、「天保の改革」の一環で浅草聖天町(後に猿若町と改名)へ移転させられた。


三十間堀川跡を辿る

【三十間堀川は、江戸前島の海岸線】
【武州豊嶋郡江戸〔庄〕図 1632年 国会図書館蔵】
三十間堀川は1612年に江戸の舟入堀を整備するために、西国大名に工事を命じて開削された堀で、江戸前島の東の海岸線を利用して造られた。周辺には舟運の荷揚場として河岸地があり、近年に至るまで物品を輸送する商船や屋形船などで大変賑わっていたという。

【都市化進行により三十間堀川の川幅は狭められていった】
【再板京橋南芝口橋ヨリ築地鉄炮洲邉図 1853年 早稲田大学蔵】
当初30間(約55m)→1828年19間(約35m)→1952年埋め立て完了。
最後の埋め立てには、太平洋戦争で残された大量の瓦礫が使われた。埋め立て跡には、ビルが建つことになるが、細長いビルは川の名残である。

【三原橋上空から見た木挽橋(埋め立て直前)1948年】
[写真は中央区立京橋図書館蔵、中央区ウエブサイトよりキャプチャー]
(手前から奥へ)三原橋→木挽橋→賑橋→出雲橋

【三原橋上空から見た木挽橋(埋め立て直後)1949年】
[写真は中央区立京橋図書館蔵、中央区ウエブサイトよりキャプチャー]
三十間堀川埋め立て直後、川の中心には、後に「中京429号」と呼ばれる新道が出来ている。

【埋め立てられた三十間堀川の今の姿】
地理院地図に、1884年頃の三十間堀川を重ねて「水色」に着色した 。(1884年頃の地図は、国際日本文化研究センター所蔵、五千分一東京図測量原図・東京府武蔵国京橋区木挽町近傍を使用)

【元木挽橋際公衆便所:赤の矢印】
・「水色」の川幅は、木挽橋跡の「元木挽橋公衆便所」から西側に測定すると、約34mであった。(google mapの距離測定)
・三十間堀川の中心は、中京429号であり、しかも、銀座三原通りにも中京430号も三十間堀川に接していないことに注意しよう。

【埋め立てられた三十間堀川跡と中京429号】
さらに、みゆき通りを西へ行くと、路地が見える(パセラの右)、これが中京429号:三十間堀川跡の中央となる。

【銀座三原通り(三原橋付近)】

【三原橋から見た中京429号】
埋め立てられた三十間堀川の中央の線となる「中京429号線」。

【中京430号線、江戸期の三十間堀川はここで右折】
三十間堀川跡の東側にある「中京430号線」を進むと、江戸期の三十間堀川が東に折れる地点に出会う。正面に見える「ホテルサンルート銀座」の看板のあたりから右折(東方向)のようだ。

三ツ橋、江戸名所図会、国会図書館蔵
京橋川、楓川、三十間堀川、八丁堀の合流地点
1.弾正橋、2.牛の草橋(白魚橋)、3.真福寺橋

※白魚橋:江戸期、この近所に「白魚屋敷」という「白魚役」の拝領屋敷があったことに因む。白魚役とは、将軍に白魚等の小魚を献上する役職。

【三ツ橋の現在】
地理院地図と、五千分一東京図測量原図1884年(国際日本文化センター蔵)を重ね合わせた。
1.弾正橋跡:1913年、元の橋より、約40m北・鍛冶橋通りの橋として移設された。現在は、高架・楓川跡共に高速道路が走る。
2.白魚橋跡:銀座一丁目駐車場
3.真福寺橋跡:三十間堀川付け替え工事(1906年)で消滅し、位置としてはアーバンネット銀座一丁目ビル。

【京橋公園】
三十間堀川が直角に曲がっていたところ、現在は、京橋公園→京橋プラザと続く。

【蜊河岸と士学館】
蜊河岸には剣客・桃井春蔵の士学館があった。土佐藩邸に近いこともあり、幕末の志士武市半平太や田中光顕も通ったという。

【京橋プラザの一角に】
この石垣には、三十間堀川の護岸跡から発掘された石が使われている。

【京橋プラザの西側は木挽町仲通り】
江戸期には、木挽町から江戸橋まで続く一本道。今では、「木挽町」という名が生きている数少ない名残。

【2.白魚橋跡】
木挽町仲通りの北方を見ると、三ツ橋の一つ「白魚橋跡」が見える。(撮影地点はa

【2.白魚橋跡】
よく見ると「銀座一丁目駐車場」となっている。しかし、googleで検索すると銀座一丁目駐車場(白魚橋駐車場)となっている。案内板も何もないが、こここそ、白魚橋の貴重な遺構だ。

【三ツ橋跡】
京橋川も楓川もすべて自動車道路になっているので分かり難いが、三十間堀川は左の大きなビルの位置なので、合流点は白の矢印付近と思われる。(撮影地点はb




【埋め立てられた八丁堀】
・八丁堀の開削は諸説あるものの、1610年頃といわれている。
・名前の由来は、楓川合流地点から亀島川まで堀の長さが約8丁(870m)あったから。
・明治維新後、八丁堀から桜川へ名称変更。
・関東大震災後の復興事業で5つの橋が架橋された。
・1960年頃から埋め立てが始まり、現在では、すべて埋め立てられた。(以上、中央区教育委員会案内板より)

【埋め立てられた八丁堀】
埋め立てられた八丁堀跡には、画面右から左へ
警視庁高速道路交通警察隊 本隊
→東京都下水道局桜橋ポンプ所(
→中央区立郷土資料館→中央区立京橋図書館
→中央区立桜川公園→中央区立桜川敬老館
→桜川ゲートボール場→亀島川
と、東京都・中央区の公共施設が続く。


銀座〜京橋

【京橋川と京橋】
京橋川とは、外堀から東へ楓川・三十間堀川・八丁堀に合流する約600mの運河である。その開削年代は詳らかではないが、慶長年間(1596〜1615)に行われた最初の天下普請で外堀と共に開削されたとされる。京橋川は1963年〜1965年に埋め立てられて、屋上に自動車道路がある細長いビルに変わった。現在、自動車道路の下には飲食店や駐車場になっている。

【銀座通り口交差点】
北を向いて撮影、京橋川は埋め立てられ自動車道路が走っている(ガードには銀座京橋の文字)。貫くのは「中央通り:新橋から上野広小路へ」、地下には東京メトロ・銀座線が走る。
【1.銀座発祥の地碑】
「慶長十七年(起元二二七二年 西暦一六一二年)徳川幕府此の地に銀貨幣鋳造の銀座役所を設置す
当時町名を新両替町と称せしも通称を銀座町と呼称せられ明治二年遂に銀座を町名とする事に公示さる 昭和三十年四月一日」

【1.銀座絵巻の一部、国会図書館蔵】
鋳造した竿銀を通貨の形に切断しているところか???
【1.銀座役所:銀貨鋳造所】
江戸幕府は1601年、銀座役所を京都・伏見に、1606年には駿府に設置した。
駿府の銀座役所は、1612年には、江戸の京橋の南に移転した。既に日本橋にあった「金座役所」周辺が両替町と呼ばれていたことから、この地は新両替町と呼ばれるようになった。「銀座」は通称名として使われたが、次第に、この地域の名称になった。銀座役所は現在の東京都中央区銀座二丁目にあたり、記念碑が建っている。
1800年、江戸銀座において上納銀の滞納など不正行為が発覚したことを機に、銀座役所は蛎殻町へ移転し、1801年移転は完了した。銀座役所は移転したが、「銀座」という名称は残り、繁栄の代名詞になった。

【2.山東京伝の見世 歌川豊国 東京国立博物館蔵】
山東京伝が店の奥にいる、話し相手は吉原遊女、店内に訪れた男性は、当時人気の役者という。
山東京伝は作家として成功したが、江戸京橋の南(現在の銀座一丁目)に京屋という「煙管、紙製煙草入れ」店を開き、彼がデザインした煙草入れは大流行したという。

【2.銀座通り口交差点】
京橋交番から南東方向を撮影、コージーコーナーが見えるあたり。京屋は、銀座一丁目東側京橋の近くというから、この辺か?

【2.山東京伝】
山東京伝は江戸時代後期の戯作者で、1761年深川木場の質屋の長男として生まれ、1816年56歳で没した。本名岩瀬醒、通称京屋伝蔵といい、浮世絵もよくし、画号を北尾政演といった。1773年13歳の時に、父とともに京橋へ転居し、通称名京屋伝蔵を略して京伝と称した。最初の作品は18歳の時に出版した黄表紙『開帳利益札遊合』であり、その後、狂歌、洒落本へと領域を広げた。1782年に発表した『御存商売物』が太田南畝に認められ、作家として一躍有名になった。代表作に『江戸生艶気樺焼』『古契三娼』などがある。江戸町人の粋と通を描き、滑稽と諷刺が歓迎された。(江東区ウエブサイトより)

【2.江戸生艶気樺焼(部分) 山東京伝 出版:蔦屋重三郎 】
山東京伝(作・画) 蔦屋重三郎(版)1785年
(国会図書館蔵)
江戸時代の黄表紙。醜男の富豪の息子艶次郎が,うぬぼれから浮名を立てようとして失敗を重ねるという滑稽な作。京伝の名声を定めたもので当時大好評を博した

【3.京橋、明治〜大正期、読売新聞社があった】
京橋の南西側の建物は日就社ビル。ここで、日就社は1877年(明治10年)から1923年(大正12年)まで読売新聞を発行した。その間の業績を読売新聞サイトから拾ってみると

1879年、社説の初期形態「雑譚」欄を1面に掲載し、時事問題を論じる。
1888年、会津磐梯山の大噴火を銅版画で掲載。報道写真の元祖とも言える試み
1889年、坪内逍遙が文学主筆に就任。尾崎紅葉、幸田露伴が入社。
1897年、尾崎紅葉が「金色夜叉」の連載を開始

【3.銀座通り口交差点】
同じ交差点を、東側から南西方向を撮影。現在は、三菱UFJ銀行京橋支店がある所に、日就社ビルがあった事になる。


1902年、日英同盟の締結をスクープ
1906年、スポーツ面の前身にあたる「運動界」欄を新設
1914年、「よみうり婦人附録」(今日の「くらし家庭」面)を新設。「身の上相談」のコーナーも開設(今日の「人生案内」)
1917年、世界初の駅伝「東海道駅伝徒歩競走」を開催

【新撰東京名所図会 京橋大根河岸の図 1901年】
中央区立図書館蔵

寛文(1661〜1673)の初め、数寄屋橋あたりにささやかな青物市が立てられ、江戸近郊の村々から数多くの作物が集まった。数年で店の数が増え市場も整い江戸市民のため欠かせぬ機関となってきた。その後、火災に遭い、もっとアクセスの良い京橋川の北岸紺屋町へ移転した。そこでは、大根の入荷がことさら多かったので、「京橋大根河岸」と称されるようになった。明治維新を迎え、甘薯問屋などの加入もあり、大市場に育っていった。1923年の関東大震災で被災したが、組合員の努力で以前に優る盛況を呈した。1935年に築地に中央卸売市場が開設され、当時の問屋集団が卸売会社を結成して入り、現在の築地市場青果部の基礎を築いた。

【京橋大根河岸、1932年】
大東京名所絵はがき−東京の反面(主婦之友九月号付録)
中央区立図書館蔵

大根河岸で陸揚げされた青物は、そのまま1階部分を抜け、裏側の市場で取引された。築地に移転する前、活況だったころの様子と思われる。


【大根河岸通り】


京橋竹河岸
絵本江戸土産(広重)第6編23 国会図書館蔵
「日本橋の通り,南の方、京橋の左右,諸国の竹林を伐つてこの所に聚めつなぐ。大小の竹竿幾億千万夥しともいはん方なし。(以下略)」と書かれている。
竹の多くは、千葉県から高瀬舟に載せて京橋川に来たものや、群馬県から筏に組んで送ったものであるという。

【京橋竹河岸通り】
京橋跡を越えて、ポリスミュージアムの先を右折すると京橋竹河岸通りがある。


近代郵便制度発祥の地、近代金融制度発祥の地

【郵便と金融発祥の地、幕末ころの様子】
[日本橋南之絵図、江戸橋周辺、東京都立中央図書館蔵]
1.駅逓司と四日市郵便役所(徳川幕府魚類御用屋敷跡)
2.海運橋(親柱のみ残る)
3.第一国立銀行跡(現、みずほ銀行兜町支店)

【郵便と金融発祥の地、現在の様子】
[国土地理院地図、ブラウザ:カシミール]
4.渋沢栄一旧居跡(現、日証館)
5.東京証券取引所(JPX)
6.鎧の渡し跡
7.現、三菱倉庫(昭和通りが出来る前は、江戸橋があった)

【駅逓司と四日市郵便役所、1871年頃】
(日本橋郵便局展示の一部)
明治4(1871)年3月1日(新暦4月20日)郵便の取扱いが開始され、四日市町(現中央区日本橋1丁目)に徳川幕府魚類御用屋敷を改築した[駅逓司と四日市郵便役所]が誕生。
郵便事業発祥の地となった貴重な写真、馬が写っている、この時代、郵便の輸送の主体は、「馬」であった。

【駅逓寮と駅逓寮厩、1876年頃】
(明治東京全図の一部、国立公文書館蔵)

「駅逓寮」の東側には、「駅逓寮厩」という文字が見える。

【四日市駅逓寮】
[東京名所之内江戸橋三菱蔵郵便局 1881年、三代広重、郵政博物館蔵]
1871年、民部省が大蔵省に統合されて8 月に駅逓司は駅逓寮に昇格した。
1874年、駅逓寮新庁舎竣工。瓦葺き木造漆喰仕上げ二階建ての洋風建築である。
1888年、失火により焼失。

左から、駅逓寮、三菱倉庫、江戸橋の順になっている。
1928年、「昭和通り」完成と共に、この江戸橋は西側へ付け替えられ、昭和通りの橋となった。

【旧江戸橋南詰から見た日本橋郵便局】
[明治東京全図]で[本材木町]という文字が見える通りの現在(江戸もみじ通り)である。右側が日本橋郵便局[駅逓寮と四日市郵便局]、左側が[駅逓寮厩]と言うことになる。撮影位置は三菱トランクルーム[旧江戸橋南詰]。

※左に見えるいくつかの証券会社は、すでに証券業務は扱いがなく、貸しビル・再開発待ちの状態。右側の日本橋郵便局は、再開発事業が予定されており、郵便業務は5月に蔵前(台東区)への移転が決まっている。ここでの年賀状出発式は、本年が最後となった。『前島密よ、なに思う?』

【日本橋郵便局、郵便発祥の地碑】
「ここは、明治四年三月一日(1871年4月20日)わが国に新式郵便制度が発足したとき駅逓司と東京の郵便役所が置かれたところです」と書かれている。

【郵便発祥の地、前島密像】
−−前島密の略歴−−
  • 1835年、新潟県上越市大字下池部の農家に生まれた。
  • 1866年、京都見廻組の役にあった前島錠次郎の跡目相続を認められ、幕臣となり前島来助と名乗った。このころ幕臣清水與一郎娘奈何と結婚している。
  • 大政奉還後の徳川家は、静岡に移った。来助は駿河藩(静岡県)の公用人となって旧幕臣の措置、新藩の経営などを行い、徳川慶喜跡を継いだ幼い家達を助けた。
    藩内の開業方物産掛となった。このころ、名前を前島密(まえじまひそか)と改めた。
  • 1870年、駅逓司の実質上の長官である駅逓権正兼務を命じられた。駅逓司は水陸運輸駅路を担当する役所で通信も管理していた。密は全国を旅した経験を生かして駅制改革を進めたが、通信の不便さを実感していたことから、全国的な通信網の整備についても考えていた。ある日、政府が官用通信のために飛脚に支払う回議文書を見て、その高額な金額を資金とすれば郵便事業を開始することができると考えた。
  • 「国内に広くだれでも自由に利用できる通信制度を作る予定であるが、まず試験的に東海道筋に東京から京都まで72時間、大阪まで78時間で毎日往復する郵便制度を実施したい。」と郵便創業の建議を行った。東京、京都・大阪に郵便役所と、東海道の各宿駅に郵便取扱所を設け、郵便料金は東京から藤沢までが百文、大阪までが一貫五百文といった具合に、あて地別とする内容だった。
  • 密の後任、杉浦譲によって、明治4(1871)年3月1日(新暦4月20日)郵便の取扱いが開始された。イギリスで公務のかたわら郵便事業を見聞してきた密は、同年8月に帰国すると自ら希望して駅逓頭(えきていのかみ)となり、先ず郵便規則を整備し、書状だけでなく新聞や雑誌等の取扱いを開始した。翌5年に全国に郵便網を延長し、6年には全国を同じ料金で送達する均一料金制を導入した。


【旧江戸橋:日本橋ダイヤビルディング】
この中に三菱倉庫・江戸橋 歴史展示ギャラリーがある。

【三菱倉庫テラス】
ギャラリーを抜けて、日本橋川に望むテラスに出ることが出来る。現在は、首都高が張り巡らされているが、首都高、地下化が進めば、本来の川の姿が望めると思われる。
このあたりが、江戸〜大正期の江戸橋と思われる。

【海運橋】
江戸時代初期には高橋と呼ばれ、橋の東詰に御船手頭向井将監忠勝の屋敷が置かれたので、将監橋とか海賊橋と呼ばれていた。御船手頭は幕府の海軍で、海賊衆ともいっていたため。橋は、明治維新になり、海運橋と改称され、1875年に、長さ八間(約15m)、幅六間(約11m)のアーチ型の石橋に架け替えられた。文明開化期の海運橋周辺は、東京の金融の中心として繁栄し、橋詰にあった洋風建築の第一国立銀行とともに、東京の新名所となった。
石橋は、関東大震災で破損し、1927年鉄橋に架け替えられました。このとき、二基の石橋の親柱が記念として残されました。鉄橋は、楓川の埋立てによって、1962年撤去された。
(中央区教育委員会)

【銀行発祥の地、第一国立銀行、初代頭取・渋沢栄一】
【海運橋・東京三井ハウス(第一国立銀行)、歌川国輝】
(東京都立図書館蔵)
設計施工は清水喜助が行い、日本人によって造られた代表的な西洋館となった。錦絵にも数多く描かれており、東京における名立たる擬洋風建築(和洋折衷建築)の一つとして明治・東京の新名所にもなった。
当初は、三井組の銀行として申請し、明治政府から許可が下り、海運橋のたもとで建設に取りかかったが、明治政府の方針変更により、完成後国へ譲渡された。翌年、第一国立銀行として開業し、初代頭取には渋沢栄一が就任した。
  • 1872年 東京三井組ハウス竣工
  • 1873年 第一国立銀行設立
    • 1896年、第一国立銀行は普通銀行に転換し、「第一銀行」となった。
    • 1971年、「第一銀行」と「日本勧業銀行」が合併し、「第一勧業銀行」になった。
    • 2002年、「第一勧業銀行」「富士銀行」「日本興業銀行」の3行が統合・再編し「みずほ銀行」と「みずほコーポレート銀行」になる。
    • 2013年2行が合併し「みずほ銀行」となった。

【みずほ銀行兜町支店】
  • その後、二代目(1902年)、三代目(1936年)竣工の建物に引き継がれ、
  • 現在、四代目(1976年)竣工の建物が、同じ位置で[みずほ銀行兜町支店]として使われている。

【みずほ銀行兜町支店】
「この地は明治6年6月11日(1879年)わが国最初の銀行である第一国立銀行が創立されたところであります」と書かれている。

【渋沢栄一旧居】
  • 1888年、渋沢栄一は深川福住町から、現地・日本橋兜町に本邸を移す。
  • 1901年、王子飛鳥山に移るまでここに住んだ。
  • その後は事務所として使われたが、1923年関東大震災で焼失した。

【渋沢栄一旧居跡、現日証館】
  • 跡地に、1928年東株ビルディング建設、1943年日証館に改称
  • 1947年〜平和不動産所有
左の写真は日本橋川から撮影したと思われる。
右の写真は反対側(東京証券取引所裏)から撮影している。

【東京株式取引所】
(1900年頃、日本之名勝、国会図書館蔵)

【東京証券取引所、1949年再開時の初立会】
東京証券取引所ウエブサイトより。

【JPX、東京証券取引所】
現在、この中では、「立会による売買」は行われていない。
  • 1878年 東京株式取引所開設
    当初は、新・旧公債、秩禄公債、金禄公債、起業公債
    東京株式取引所、第一国立銀行、東京兜町米商会所、東京蛎殻町米商会所の株式が売買されていた。
  • 1886年頃、鉄道株、紡績株などの上場が増え株式売買も増えていった。
  • 1943-1947 戦時下で、半官半民の日本証券取引所に改組
  • 1949年 会員組織の東京証券取引所開設
  • 1999年 立会場の廃止と証券市場のシステム化

【鎧の渡し】『江戸名所図会』(国会図書館蔵)
「源義家が奥州攻めに向かう途中この地で暴風雨に襲われ、鎧を水中に投げ入れて竜神に祈ったところ無事に渡ることができた。以来ここを鎧の淵といった。」
茅場町から小網町を望んだ図。小網町側に並ぶ蔵には様々な屋号が描かれていて、全国から色々な物資が集まる様子がわかり、小網町の繁栄が強調されている。
左岸には、牧野河内守屋敷が描かれているが、この屋敷地内に「兜塚」があり、後の「兜町」の町名由来となった。
また、この地は、明治維新後三井組が手に入れ、後に渋沢栄一によって、金融の拠点となり、いまなお発展し続けている。

【鎧の渡し】
左の『江戸名所図会』と同じような角度で撮影した。
小網町側に並ぶ蔵の代わりに、ビルで埋め尽くされている。

【鎧の渡し】
鎧橋上より撮影。



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