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歴史散歩:代々木を歩く


2022年12月1日(木)
錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、歴史散歩。

代々木地区には、谷となる地形が多く、湧水も豊富で、田園地帯であると共に雑木林も散在するという自然豊かな地帯であった。江戸期には、彦根藩井伊家の下屋敷があったが、明治になってからは、皇室の御料地になり、それが、明治神宮になった。周辺には、菱田春草、岸田劉生、国木田独歩、田山花袋、高野辰之等の芸術家・文化人が住み着き、住居周辺の自然を作品に表した。彼らの作品に描かれた、代々木の原風景(明治神宮が出来る前)の名残を探そう。

国土地理院地図2500[ブラウザ:カシミール]に、主な地名・旧跡を書き加えた。
  • 白の点:実際に歩いた軌跡(JR原宿駅→小田急線代々木八幡駅)
  • 赤の点:江戸期の地図、明治初期・後期の地図を精査して、筆者が推定した「彦根藩井伊家下屋敷」の範囲(井伊家下屋敷の範囲は、現在の明治神宮とほぼ重なるが、南参道入口やJR線路に沿った所で不明なところがある)


彦根藩井伊家下屋敷跡(明治神宮)

【神橋】御苑南池から外(渋谷川)への流れがある。

【御苑南池から外(渋谷川)への流れ】

【@代々木地名由来樅の木】
この地には、昔から、代々(ダイダイ)、樅の大木が育ち「代々木」という地名が生まれた。以前の「代々木」は昭和20年5月の戦禍で焼失したが、ここにある木は、その後植えついだもの(現地案内板より)

【@代々木村の代々木】
広重 絵本江戸土産9編[28/30]国会図書館蔵

【A明治神宮御苑】
東門から入苑、清正井まで行き、北門から出た。
入園料は(御苑維持協力金として)一人500円。

【A南池(なんち)】
自然の古池で井伊時代から「お泉水」といわれた。

【隔雲亭】
明治時代に作られたものは、戦災で焼失、1958年再建。

【花菖蒲田】
江戸時代は稲田であったが、明治になって皇室の御料地になり花菖蒲田に改められた。

【B清正井(湧水)】
江戸初期には加藤家の庭園だったことから加藤清正が掘ったと言い伝えられている。
水源調査が行われ、水源は明治神宮本殿倉庫付近の地下水であることが分かっている。現状の湧水形態を確保するため、近年になって保全工事も行われている。(明治神宮ウエブサイトより)

【B清正の井戸からの流れ】
この湧水は、花菖蒲田を潤し、南池に流れ、神橋をくぐって渋谷川に流れ込む。

【C明治神宮 本殿と楠】
左側の楠には、説明板があった。
「神社創建当時献木され、2本の大樹に育った。
両樹木は”夫婦楠”として親しまれ縁結び、夫婦円満、家内安全の象徴となっている。」
【C明治神宮 本殿】
1920年11月1日創建、祭神は「明治天皇」と「昭憲皇太后」

参道から社殿にかけては、神社として荘厳な雰囲気を出すため、計画的に植林が行われた。最初は、アカマツ、クロマツなどが優勢であったが、次第に、ヒノキ、サワラに変わり、100年経過した現在では、カシ、シイ、クスノキなどの常緑広葉樹が大きく育ち神社らしい雰囲気を醸し出している。

この点で、御苑や宝物殿附近とは異なった雰囲気だ。




明治神宮参宮橋口〜旧代々木山谷地区
【豊島郡代々木村図享保14年(1729年)都立公文書館蔵】
原図から「井伊家下屋敷〜河骨川部分」を中心に切り取り、筆者が赤字で注釈を加えた。
  • 井伊家下屋敷→南豊嶋御料地→明治神宮
  • 赤の×印:明治神宮参宮橋口(西参道口)付近
  • 清岸寺→代々木練兵場→東京乗馬倶楽部
    清岸寺は代々木練兵場建設(1909年)のため、幡ヶ谷へ移転、その後、1940年に東京乗馬倶楽部が移転してきた。東京乗馬倶楽部は陸軍施設の名残ともいえる。


【大山道・道しるべ】
正面:大山石尊大権現
左側面:目黒不動祐天寺
右側面:相州大山 北沢淡島
【D大山道・道しるべ】
「渋谷が農村地域であった江戸時代、神奈川県の大山(雨降山)への参拝は雨ごいの行事として欠くことのできない大切なものでした。また俗に大山石尊大権現といわれる阿夫利神社は商売繁盛の神でもあり、講(グループ)の参拝がさかんに行われていたのです。この道しるべは大山参りの目じるしとして江戸時代の弘化三年(1846)に建てられましたが、道しるべに天狗の面が彫られた珍しいものです。
甲州街道から天神橋を渡ってやって来た人々は、ここから代々木八幡宮方面に向かい、現在は国道二四六号線と呼ばれている厚木大山街道(青山通り)に出て相模国(神奈川県)へ行きました。(渋谷区教育委員会による説明)


【D大山道・道しるべの位置】
(左)東京近傍図明治20年(1887年頃)東京近傍中部(日本国際文化センター所蔵)
(右)今昔マップ首都(1896-1909年頃)
天神橋を渡ってきた人々は、赤丸の分かれ道で「大山道・道しるべ」を見たことになる。
1909年頃、甲州街道から代々木練兵場への大きな連絡道路ができ(上図右側)、1927年開業の小田急線工事のために、「大山道・道しるべ」の正確な位置は、不明瞭になった。

【E菱田春草(1874年〜1911年)】
明治期の日本画家。横山大観、下村観山とともに岡倉天心の門下で、明治期の日本画の革新に貢献した。春草は腎臓病による眼病(網膜炎)治療のため、1908年代々木に住んだ。代表作『落葉』は、当時はまだ郊外だった代々木近辺の雑木林がモチーフになっている。
(写真はウイキペディアより、説明文は「菱田春草終焉の地」の渋谷区の案内板より)

【E菱田春草終焉の地】


※「菱田春草終焉の地」の渋谷区の案内板は、代々木山谷小学校の角にあるが、実際にはもう少し南、小田急線の線路の下らしいのだ。

【E落葉(おちば)1909年菱田春草筆】
重要文化財(永青文庫美術館蔵)

【E明治神宮造営前の南豊嶋御料地】
菱田春草は、このような武蔵野の雑木林を散策して作品を造ったのだろう。

【F高野辰之住居跡】
「国文学者高野辰之は、1876年長野県に生まれ1908年からここに住みこの付近の風景を愛してうたったといわれる唱歌「春の小川」や「おぼろ月夜」などを次々に作詞した。論文「日本歌謡史」により東京帝国大学より文学博士の学位を授与され帝国学士院賞も受賞されている。」(渋谷区案内板より)

【F国文学者高野辰之】
当時、このあたりは一面の田園地帯であり、宇田川の支流のひとつである河骨川と呼ばれる小川(河骨が多かったのが名の由来と言われる)が、田圃を潤し、周辺にはスミレやレンゲが生え、メダカが生息していた。高野は家族ともどもこの川に親しみ、それを歌ったのが本作であるという説がある。
河骨川は1964年に東京オリンピック開催による区画整理で暗渠化されたが、かつての川の岸辺、小田急線の代々木八幡駅にほど近い線路沿いには歌碑が建てられ、渋谷区教育委員会による解説が添えられている。(ウイキペディアより)

【F渋谷区立代々木山谷小学校】「春の小川の小学校」
代々木小学校と山谷小学校が統合して出来た新しい小学校。学校のフェンスにも「春の小川の小学校」との銘板がある。毎年、「はるのおがわコミュニティパーク」で合唱祭が行われるそうだ。暗渠にはなっているが、この河骨川流域では、電柱には「春の小川の案内プレート」もつき、「春の小川」は地域の誇りになっているようだ。


【コウホネ、photoACよりダウンロード】
コウホネ (河骨、学名: Nuphar japonica)はスイレン科コウホネ属に属する水草の1種である。底泥中を横に這う地下茎から葉を伸ばし、ふつう水面より上に葉を立ち上げるが、水面に浮かべる浮水葉をつけることもある。また水中の沈水葉は細長い。夏になると、長い花柄の先に直径3?5センチメートルほどの黄色い花を咲かせる。日本固有種ともされ、北海道から九州の浅い池や沼に生育する。(ウイキペディアより)
【G画家岸田劉生】1914年〜1916年にかけて代々木山谷に住んでいたので、このあたりを描写した作品がたくさんあります。そのうちの一点に名作「道路と土手と塀(切通写生)」(重要文化財)があり、この前の坂を描いたものです。(渋谷区教育委員会)同じ解説板が、坂の中腹と坂上(立正寺)にあります。

【G岸田劉生『道路と土手と塀(切通之写生)』1915年】
重要文化財 東京国立近代美術館蔵
(上の写真はウイキペディアより)

【G岸田劉生が描いた(切り通しの坂)の現在】
岸田劉生の絵の左の塀は山内邸(元土佐藩主)の塀ですが、現在の右の写真の塀がその塀と同一かどうかは不明です。


河骨川(春の小川)流路跡を辿る

【H-1 河骨川(春の小川)の源泉の一つ、山内邸跡】
国土地理院、カシミール3D微地形強調

【H-1 河骨川(春の小川)の源泉の一つ、山内邸】
東京近郊地図郡部町村地番入圖1932年
(国際日本文化センター所蔵)

【H 河骨川(春の小川)、今昔マップ(1896-1909)】
明治末期の河骨川(春の小川)、4〜10までははっきりと小川の流れであったようだ。谷間の水田地帯といった感じであり、河骨やレンゲ、スミレの咲くのどかな様子が覗える。

【H河骨川(春の小川)河道推定図】
☆青の点線(45):
 今昔マップ(1896-1909)上の河骨川(春の小川)
 ※地理院地図に今昔マップ(1896-1909)を重ね合わせ、
  その結果を、筆者が地理院地図に書き入れた。※


☆水色の点線:筆者が推定した河骨川(春の小川)上流部
 (12)、(32)、(24)
 ※1 山内伯爵邸庭園・代々木4-26-1
 ※3 初台付近の窪地からの流れ(もう一つの源泉)
 ※2 流れの合流点


       

【H-1 河骨川(春の小川)の源泉の一つ】
代々木4-26-1 山内伯爵邸庭園跡

【H-3 河骨川(春の小川)のもう一つの源泉、初台の低地からの流れ(山手通りとビルに遮られている】

【H-2 流路、合流点】

【H分岐点から南下、2から5へ至る流路跡】
参宮橋まで真っ直ぐな流路跡

【H河骨川(春の小川)旧河道】
電柱には、「春の小川」のプレートが付けられている

【H河骨川(春の小川)旧河道、】
小田急線とクロスする5の地点。

【H河骨川(春の小川)河道推定図】
地理院地図に今昔マップ(1896-1909)を重ね合わせ、
その結果を、筆者が地理院地図に書き入れた。
小田急線を越したところからの流路となる。
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河骨川(春の小川)は水田の中を流れ、江戸→明治となってからも、流路の変遷はあったようだ、左の点線は、あくまでも(1896-1909)頃の流れとみられる。小田急線の開業は、1927年だから、河骨川(春の小川)は工事の邪魔になったことだろう。鉄道線路との交錯部分は、線路東側に付け替えられていったのだろう。
現在見られる、小田急線以東の旧河道といわれている路地は、鉄道工事、道路工事によって付け替えられた河道なのだろう。

【H河骨川(春の小川)河道跡、小田急線線路下、6の地点】
突き当たりのマンション裏では、水の流れがあった。河骨川(春の小川)の流れが見える唯一の所として知られている。

【H河骨川河道(春の小川)跡、小田急線線路下、6の地点】
マンション裏に入るには、マンション住民の了承が必要であった。(2枚の写真は、許可を得て撮影している)

【H河骨川(春の小川)河道跡、小田急線線路下、7の地点】
河骨川が道側にはみ出すところ、国立オリンピック記念青少年総合センター前。

【H河骨川(春の小川)河道跡、8の地点】
ここから、河骨川(春の小川)河道跡は路地に入る。

【H河骨川(春の小川)河道跡】
小田急線に沿って

【H河骨川(春の小川)河道跡】
小田急線に沿って

【H河骨川(春の小川)河道跡、9の地点「春の小川」歌碑】
小田急線線路沿いの「河骨川河道」左側に、「春の小川記念碑」が設置され、その東側に「はるのおがわプレイパーク」がある。

【「春の小川」歌碑】
(1912年原詩)
春の小川は さらさら流る
岸のすみれや れんげの花に、
匂いめでたく 色うつくしく
咲けよ咲けよと ささやく如く

(二番以下略)
(1947年改作)
春の小川は さらさら行くよ
岸のすみれや れんげの花に
すがたやさしく 色うつくしく
咲けよ咲けよと ささやきながら

(二番略)

【H河骨川(春の小川)河道跡】
河骨川に架かる橋の跡、盛り上がっているのが分かる。右折して、踏切を越えると、代々木八幡宮に至る。

【H河骨川(春の小川)河道跡】

【H河骨川(春の小川)河道跡】

【H河骨川(春の小川)河道跡】

【H河骨川(春の小川)河道跡】

【H河骨川(春の小川)河道跡】

【H河骨川(春の小川)河道跡】

【H河骨川(春の小川)河道跡、10の地点】
河骨川(春の小川)は、ここで、宇田川に合流する。
手前のタイルは、宇田川遊歩道。




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