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歴史散歩:有楽町−日比谷-霞ヶ関−桜田−三宅坂−半蔵門−麹町を歩く


2016年10月31日(月)
錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、歴史散歩。
  • JR有楽町駅を出発、外堀に沿って山下門跡へ向かいました。南町奉行所跡は最近、発掘調査され現在、イトシアになっています。数寄屋橋門は有楽町マリオンとなり、島原藩松平家屋敷跡は明治大学発祥の地、外堀上には高速道路が走り、山下門跡上にはJR山手線が走っていました。
  • 山下門跡から日比谷公園に向かいました。阿部家上屋敷跡は帝国ホテルに、島津家中屋敷跡は鹿鳴館跡になっていて、日比谷公園心字池は堀の名残でした。心字池の石垣から北を眺めると「日比谷入り江、八代州河岸」を思い浮かべることができました。帝国ホテル横の堀は埋め立てられ日生劇場と東京宝塚歌劇場が建っていました。
  • 霞ヶ関官庁街では、外務省前筋違え交差点では、江戸期の特徴的な交差点が印象的、黒田家屋敷跡と浅野家屋敷跡の間を走る霞ヶ関坂も江戸期のままでした。
  • 桜田門から井伊家屋敷跡を見上げると、国会議事堂、憲政記念館を望むことができました。井伊家屋敷跡から桜田門を眺めると「桜田門外の変」を身近に感じることができます。井伊家屋敷の表門の「桜の井跡」、裏門の「梨木坂」に江戸の名残があります。憲政記念館敷地内にある「日本水準原点」は、明治期に置かれた参謀本部陸地測量部の名残。
  • 三河田原藩三宅家屋敷跡は、三宅坂交差点名に名残があります。
  • 平河天満宮は江戸城内から城外平川町へ移転、さらにこちらに移転するときに「平河」という名前まで持ってきてしまいました。江戸城内に梅林坂がありますがこの天満宮と深い関係がある事に感激。
  • 麹町は「江戸切絵図発祥の地」という、地下鉄のコンコースの広告に目が行きました。

有楽町と数寄屋橋門跡

【有楽町町名由来】
「有楽町」の名前は、戦国時代に活躍した武将、織田信長の弟、織田有楽斎に由来します。茶人としても名をはせた有楽斎は関ヶ原の戦いのあと、徳川家康方に属し、数寄屋橋御門の周辺に屋敷を拝領した。その屋敷跡が有楽原(右図参照)と呼ばれていたことから、明治時代になって「有楽町」と名付けられた。
(千代田区町名由来板より)

【数寄屋橋名由来】
「数寄屋橋御門」の名前は外堀を渡ると数寄屋町に通じることから生まれた。
(千代田区町名由来板より)
JR有楽町駅、有楽町マリオン、晴海通り、みゆき通り、泰明小学校の位置は、筆者の推定位置である。
外堀の上には、高速道路が通り、帝国ホテル北側の堀は埋められ、現在は、日生劇場、東京宝塚劇場などが建っている。

【南町奉行所跡:現有楽町イトシア】
江戸町奉行は、寺社奉行、勘定奉行とともに徳川幕府の三奉行のひとつ。その職掌は、江戸府内の行政・司法・警察など多方面に及び、定員二名で南北両奉行に分かれ月番で交代に執務していた。名奉行大岡越前守忠相は、1717年から1736年にかけて南町奉行としてここで執務していた。
※南町奉行所は1707年に常盤橋門内から数寄屋橋門内に移転し、幕末までこの地にあった。その範囲は有楽町駅および東側一帯にあたる。(千代田区案内板より)

【南町奉行所跡発掘調査】
2005年の発掘調査では「大岡越前守御屋敷」と墨書きされた荷札も出土した。(千代田区案内板より)
※正面は有楽町駅、その奥に「ビックカメラ」が見える。

【数寄屋橋門跡】
数寄屋橋御門(枡形門)は有楽町マリオンの前、このあたりにあった。
「1629年江戸城外廊見附として数寄屋橋が初めて架けられた時は幅四間長三間の木橋であった。見附の城門枡形は維新の際に撤去された。橋名は幕府の数寄屋役人の公宅が門外にあったのに依るという。外壕上を高架車道が地下には地下鉄が走るようになって橋も姿を消した。
(数寄屋橋公園美化協力会、数寄屋橋の碑より抜粋)」


【明治大学発祥の地:肥前島原藩松平氏上屋敷跡】
有楽町マリオンの前の晴海通りを横断すると、高速道路脇に「明治大学発祥の地」という碑がある。碑文には、
「明治法律学校(現明治大学)は1881年に 旧肥前島原藩主松平氏の上屋敷であったこの地に開校しました。
創立者の岸本辰雄、宮城浩蔵、矢代操の三人は、明治政府の命をうけた藩の選抜生(貢進生)として鳥取藩、天童藩、鯖江藩を代表して大学南校(後の東京大学)に遊学した。その後、明法寮(のちに司法省法学校)で「お雇い外国人」教師のボワソナードらからフランス法学を学んだ彼らは、フランスに留学し, とくに「権利自由, 独立自治」の精神の普及をめざして明治法律学校を創設しました。
当時彼らは いずれも三十歳に満たぬ 白面の書生でありました。」

【みゆき通りと泰明小学校】
高速道路をくぐったところは外堀の外側になる。数寄屋橋公園があり、高速道路に沿って小道を進むと、泰明小学校の脇にでる。
[中央区立泰明小学校:東京都選定歴史的建造物]
泰明小学校は1878年に開校し、現在使用されている建物は、関東大震災を機に、耐震・耐火性の高い鉄筋コンクリート造りの校舎として立て替えられたものである。表現主義と呼ばれる建築様式の建物で、カーブを描く壁面やアーチ窓を使った外観に特徴がある。L字型校舎の南端に位置する玄関部分には、柱や入口屁等に個性的な装飾が集中して施され、建物の顔となっている。これらの意匠は、震災復興期に造られた他の小学校ではあまり見受けられない個性的なものである。校庭に面した側の窓は他の学校よりも大きくとられ、開放的な印象を与えている。
蔦のからまる校舎は銀座のシンボルとして人々に親しまれており、今なお往時の景観を残している。(東京都案内板より)


[みゆき通り]
この通りは明治天皇が宮城より海軍兵学校に御行幸された折にお通りになられたことからみゆき通りと呼称されるようになったといわれている。

【島崎藤村と北村透谷 幼き日 ここに学ぶ】
左奥の「中央区教育委員会の案内板」には次のように書かれている。
泰明小学校は1878年6月に開校され、北村透谷と島崎藤村はその初期の卒業生でした。
[北村透谷(1868-1894)]は、現在の神奈川県小田原市に生まれ、1881年に家族とともに京橋区弥左衛門町に転居し、1882年に卒業するまで泰明小学校に通いました。その後、自由民権運動に惹かれて政治運動を志しましたが、後に文筆活動に転じ文芸評論家・詩人として活躍しました。1893年雑誌『文学界』に参加した透谷は、文芸における自由主義を唱え、近代浪漫主義文学の開拓者といわれました。
[島崎藤村(1872-1943)]は、中山道馬籠宿に生まれ、1881年に上京し、京橋区鎗屋町の姉の嫁先から泰明小学校に通学しました。その後、姉夫婦が帰郷したことにより同郷人の家に寄寓し、1884年に卒業しました。明治学院在学中に文学への関心を深めた藤村は、『文学界』の活動を通して透谷から深い影響を受けました。著作に『若菜集』・『春』・『夜明け前』などがあり、中でも『破戒』は自然主義文学の先駆といわれています。

山下門跡〜日比谷門跡へ

【現、帝国ホテル周辺の切り絵図】
上図は帝国ホテル脇の案内板から引用
  • 山下門跡
  • 阿部家上屋敷跡(帝国ホテル)
  • 島津家中屋敷跡(後鹿鳴館)
  • 日比谷公園・首賭けイチョウ
  • 日比谷公園・心字池
  • 日比谷公園・日比谷入り江展望
へと向かう

【高架鉄道線:写真中央は山下橋】
(写真の中の明治・大正 国立国会図書館所蔵写真帳から)
1911年頃の麹町区内山下町周辺。外堀の西岸に山手線の高架橋が映っている。ウイキペディアの東京駅の歴史を見ると、
  • 1910年6月  有楽町駅開業
  • 1910年9月  呉服橋駅開業
  • 1914年12月 東京駅開業
となっているので、1911年では新橋−呉服橋間が開通した直後の写真と思われる。この頃、東京駅は工事中。

【山下門跡−JR高架橋(西側側面)】
JR高架橋の帝国ホテル側、この位置は鉄道開通当初から変わっていないものと思われる。この東側に新幹線、高速道路と拡張が始まる。

【山下門跡と外堀跡−JR高架橋・高速道路(東側側面)】
手前の高速道路は外堀の東半分と思われる。

【山下橋跡 案内板】
ここに山下橋がありました。山下門に付随する見附橋です。門は昔、山王社(日枝神社)の山下にあったものをここに移したため、その名にちなんで「山下門」と呼ばれました。(中略)
門は1636年肥後熊本藩主細川忠利により構築されました。江戸城諸門の中では最小であったようです。1873年、門は撤去され、後に残った堀も1954年頃より逐次埋立てられ、橋はその姿を消してしまいました。
(千代田区教育委員会)

【山下橋中央付近】
左が高速道路高架橋、右が新幹線高架橋、両方とも近年の建築なので外堀を埋め立てて造ったものである。

【阿部播磨守上屋敷→農産陳列所→帝国ホテル(1893年頃)】
(東京景色写真版より、国立国会図書館所蔵)
1890年落成なので、初期の帝国ホテルということになる。初期には、堀に面して建てられていた。施工は、鹿鳴館と同じ大倉喜八郎等の組織(後に大成建設となる)であった。

【現在の帝国ホテル、2016年】
内堀と外堀を繋ぐ堀は埋め立てられ、そこに日生劇場・東京宝塚劇場が建っている。また、現在の帝国ホテルは正面が日比谷通りに面している。

【島津家中屋敷→鹿鳴館→華族会館(1893年頃)】
(東京景色写真版より、国立国会図書館所蔵)
1883年、明治政府は津家中屋敷(装束屋敷)内に迎賓館兼社交場「鹿鳴館」を建設した。施工は大倉喜八郎等の組織(後に大成建設となる)であった。間もなく、鹿鳴館時代が終わり、1890年ここは華族会館になった。

【阿部播磨守上屋敷跡とG島津家中屋敷(装束屋敷)跡】
日比谷通りから見た、帝国ホテルと鹿鳴館跡地
  • 阿部播磨守上屋敷跡→農産陳列所→帝国ホテル
    帝国ホテル前の「農産陳列所 蚕病試験場跡」という千代田区の案内板には
    明治政府は産業奨励のため、この地に農産陳列所を設置した。当時日本の輸出品の中心は生糸であったので、1884年4月、ここに蚕病試験場さんびょうしけんじょうを設けて特に蚕業の振興を図った。
    この施設は1886年西ヶ原に移り、東京高等蚕糸学校さんしがっこうとなり、さらに1940年小金井町に移転し、東京農工大学になっている。
    ]とある。
  • 島津家中屋敷(装束屋敷)→鹿鳴館→華族会館

【日比谷見附跡石垣(日比谷公園内)】

日比谷見附跡、石垣上から堀(心字池)を望む】
内堀と外堀を繋ぐ堀は、ほとんど埋め立てられたが、日比谷見附跡に隣接するこの部分だけは心字池として残された。

【日比谷見附跡石垣上から内堀、八代洲河岸方面を望む】
中央矢印が明治生命館(重要文化財)、右絵図では、「火消し役・松本采女」となっている。堀を挟んで馬場先門があった。
※明治生命館:1945年9月12日から1956年7月18日までの間、アメリカ極東空軍司令部として接収され、この間、1952年まで2階の会議室が連合国軍最高司令官の諮問機関である対日理事会の会場として使用されました。(明治安田生命ウエブサイトより)※

[日比谷入り江]
徳川家康が江戸に入ったとき、江戸城の東側は日比谷入り江に面していた。和田倉門は海辺の倉庫という意味であるし、内桜田門付近には船着き場があったという。この入り江を埋め立て、内堀と大名屋敷を築いていった。

【馬場先門、内堀、八代洲河岸方面】
(絵図は明治生命館裏手の案内板より)
  • 歌川広重生誕地(火消与力組屋敷):幕府の直営消防隊(隣の定火消役屋敷)の士官クラスと下士官クラスの官舎があった場所です。江戸の代表的浮世絵師、歌川広重はこの屋敷内で火消同心の子として生まれ、成長した後もここで生活しました。(絵図案内板より)
  • 林大学頭屋敷地:林家は代々朱子学者であり、幕府の外交に携わり、特に第11代林復斎は幕末、ベリーとの交渉を担当した。
  • 八重洲河岸:江戸初期に豊後国に漂着したオランダ人ヤン・ヨーステンの屋敷地に因む。
    明治に入り、この一帯が「麹町区八重洲町」となったが、昭和になって「麹町区丸の内」と改称され「八重洲」が消えた。戦後、距離的に離れた中央区に「八重洲」が復活した。

【仙台藩祖伊達政宗 終焉の地】
「伊達政宗は、1601年に徳川家康から江戸城に近い外桜田に江戸屋敷を与えられ、この屋敷は1661年まで上屋敷として使用された。伊達政宗は家康、秀忠、家光の三代の将軍をこの屋敷でもてなした。また、伊達政宗は、この屋敷で1636年、70年の生涯を閉じた。(仙台市案内板より抜粋)
この屋敷は、心字池の西側にあったものと思われる、幕末には、上屋敷は汐留(現日テレ)にあったが、汐留のの案内板には1641年に下屋敷、1676年に上屋敷となったとある。

【首賭けイチョウ】
「この大イチョウは、日比谷公園開設までは、日比谷見附(現在の日比谷交差点脇)にあったものです。1899年頃、道路拡張の為、この大イチョウが伐採されようとしているのを見て驚いた日比谷公園の生みの親本田静六が東京市参事会の星亨議長に面接を基め、博士の進言により移植されました。移植不可能とされていたものを、博士が「首にかけても移植させる」と言って実行された木なので、この呼び名があります。(案内板より)」
樹齢は、300年とも400年ともいわれるが、確かなことはわからない。移植されてから100年以上経過しているのだから、樹齢は200年以上が妥当か?江戸時代の後半を見続けていたのは確かなようだ。


霞ヶ関坂−桜田門−井伊屋敷跡

【外桜田絵図の一部】
  • 上杉家上屋敷跡
  • 筋違え交差点
  • 霞ヶ関坂
  • 桜田門
  • 桜の井跡
  • 井伊家上屋敷跡
へと向かう。

【上杉家上屋敷→法務省旧本館(重要文化財)】
「明治政府は,諸外国との条約改正に先立ち,近代国家としての体制を整えるため、1886年に西洋式の建築による官庁集中計画に着手しました。そして、その計画案の策定のためにドイツの高名な建築家で、共同の建築事務所を開いていたエンデとベックマンを招へいしました。
司法省の庁舎(赤れんが棟)は、1888年に着工され,1895年に竣工しました。赤れんが棟は,関東大震災ではほとんど被害を受けませんでしたが、1945年の戦災によりれんが壁とれんが床を残して消失しました。戦後、1950年までに改修され、その後、法務省の本館として使用されてきました。そして、1991年に復原改修工事が始められ、1994年に創建当時の姿に復原されました。(法務省ウエブサイトより抜粋)」

【外務省前筋違えと霞ヶ関坂】
桜田門から虎ノ門へ至る道筋、霞ヶ関坂との交差点をよく見ると、直線ではなくズレがあることがわかる。江戸切り絵図の時代の区割りが残されている好例。
前を通るのは国道一号線。徳川家康が江戸に入り東海道を整備したが、江戸以前には、この道は小田原街道とも中原街道ともいわれ、江戸城に至る主要な街道であった。

【霞ヶ関坂】
(江戸名所図絵より、国立国会図書館蔵)
左の写真とほぼ同じ角度で見ている。
黒田家上屋敷は外務省、浅野家上屋敷は国土交通省・総務省になっている。江戸期の大名屋敷街は現代では官庁街になった。

【桜田門(小田原口)、重要文化財】
「一般には桜田門と呼ばれています。枡形が完全に残っている城門のひとつで、小田原街道の始点にあたり、小田原口ともよばれていました。扉の釣金具には「寛文三年」(1663)の銘が入っています。万延三年(1860)、大老井伊直弼がこの門外の堀端で水戸浪士らに暗殺される「桜田門外の変」が起きました。(千代田区観光協会ウエブサイト)」

【桜田門外から井伊家上屋敷跡を望む、2016年】
正面には国会議事堂、右には憲政記念館・時計塔が見える。

【桜田門外から井伊家上屋敷跡を望む、1900年頃】
(旅の家つと、第29、国立国会図書館蔵)
井伊家上屋敷跡には「参謀本部」が見える。

【桜田門外から井伊家上屋敷を望む、1800年代】
(桜田外の図、広重、国立国会図書館蔵)
桜田門外には井伊家上屋敷が描かれている。そこは、江戸初期には加藤清正屋敷であり、門前には加藤清正が掘らせたという「桜の井」があった。

【井伊家上屋敷跡と桜の井、2016.7.22】
江戸時代初期に加藤清正が掘らせたと伝わる名水井戸、加藤清正の痕跡でもある。
「縦約1.8m、横約3mの石垣で組んだ大井戸で三本の釣瓶を下ろし、一度に桶3杯の水が汲め、幕末当時江戸城を訪れる通行人に豊富な水を提供し、重宝がられた。1968年、道路工事のため交差店内から原形のまま10メートル離れた現在地に移設復元された。(東京都教育委員会案内板より抜粋)」

【井伊家上屋敷跡と桜の井跡、2016.10.31】
わずか3ヶ月の間に、「桜の井」は、移転させられたようだ。周囲を探すと、この柵の中(憲政記念館敷地)にあった。
しかし、この井戸は、加藤清正縁のもの、なんとか旧地で保存できなかったものか、残念である。
旧地は、近くの交差点内と思われるが、通行の多少の妨げになっても、現地保存すべきという意味である。

【井伊家上屋敷跡→憲政記念館敷地から桜田門を望む】
井伊家上屋敷は桜田門を見下ろす高台にあった。

【井伊家上屋敷跡→参謀本部、日本水準原点】
「水準点の高さを定めるため、1891年に「日本水準原点」が設置されました。全国の主要な道路沿いに設置されている水準点の高さは、この日本水準原点に基づいて水準測量により決められ、この水準点がその地域において行われる高さの測量の基準となります。日本水準原点は、経年変化による高さの変動が生じないように、基礎が地下10mまで達しています。しかし、1923年の関東大震災で大きな地殻変動があり、日本水準原点の標高は24.5000mから24.4140mに変更されました。その後、2011年の東北地方太平洋沖地震に伴い、現在の標高は24.3900mとなっています。日本水準原点は、神奈川県三浦市三崎にある油壺験潮場から定期的に水準測量を実施し標高の値を点検しています。(国土地理院ウエブサイトより抜粋)」
明治になり、井伊家上屋敷跡には、陸軍省と参謀本部が置かれ、参謀本部陸地測量部が、国内外の測量と地図を管理していた。1891年、参謀本部陸地測量部は、当地に「日本水準原点標庫」を造ったが、戦後、国土地理院となった、この施設は参謀本部の名残ともいえる。

【井伊家上屋敷跡、石灯籠】
加藤清正の痕跡:桜の井、参謀本部の痕跡:日本水準原点標庫
井伊家上屋敷の痕跡はこの石灯籠だけ(確証はないのだが...)

【井伊家上屋敷跡】
現在は、憲政記念館となっている。が、間もなく解体され、2019年には、憲政記念館と国立公文書館の複合ビルになることが報じられている。その片隅にでも、この場所の歴史を語るスペースを造ってほしいものである。

【井伊家上屋敷跡、裏門、梨木坂】
「この坂を梨木坂といいます。「江戸紀聞」では、「梨木坂、井伊家の屋敷の裏門をいふ。近き世までも梨の木のありしに、今は枯れてその名のみ残れり」とかかれています。さらに「東京名所図会」には、「陸軍省通用門と独逸公使館横手の間なる坂を梨の木坂という」とかかれています。(千代田区教育委員会標識より)」
坂上から見て、左は「国立国会図書館」、右は「国会参観バス駐車場」となっているが、ほんの僅かだけ、江戸が顔を出している。

【井伊家上屋敷跡、裏門、梨木坂】
梨木坂中腹から坂上を望む。本来、ズーッと井伊家上屋敷が続くはずだが、現在では、国会議事堂前庭になってしまう。

【社会文化会館跡地】
梨木坂を下り青山通りに出る手前は、旧社会党本部・社会文化会館の跡地である。



三宅坂−半蔵門−麹町−清水谷

【外桜田絵図の一部】
  • 三宅坂
  • 渡辺崋山生誕地
  • 東京電灯会社跡
  • 平河天満宮
  • 山田浅右衛門屋敷跡
  • 貝坂
  • 尾張屋跡
  • 清水谷
へと向かう

【三河田原藩三宅家上屋敷跡、三宅坂交差点】
「半蔵門外から、国立劇場前を桜田堀に沿って警視庁わき辺りまで下る坂です。東京でも代表的な坂の一つで、景勝の地として知られています。国立劇場のある辺りに三宅備前守の上屋敷があったことから三宅坂と呼ばれました。また、昔は堀端に皀莢の木や橿の木が多く茂っていたので皀莢坂とか橿木坂と呼ばれたこともあるようです。(千代田区ウエブサイトより)」

【三河・田原藩三宅家上屋敷跡、渡辺崋山生誕地】
「国道246号線(青山通り、玉川通り、厚木街道)の起点である三宅坂に「三宅坂小公園」があります。江戸時代ここは三河田原藩の屋敷でした。田原藩の家老で蘭学者だった渡辺崋山は、1793年ここで生まれました。貧窮に喘いだ暮らしぶりだったといわれています。生活のために絵画を学び、伝統的な画法に西洋式の遠近法や陰影法を取り入れたスケッチをたくさん残しています。しかし、それよりも崋山が歴史に名を残したのは、いち早く西洋世界の実情を知って『慎機論』などを著し、「蛮社の獄」によって弾圧されたからでしょう。(千代田区観光協会ウエブサイトより抜粋)」

【最高裁判所】
「江戸城内堀に面したこの界隈には、徳川家康が江戸にやってきた当初、鷹匠たちの屋敷がありました。鷹匠とは、タカやハヤブサを飼育し、鳥や小動物を捕らえるよう訓練する専門家のことです。つまり、隼という町名は、鷹匠の屋敷があったことに由来しているのです。
1688年〜1704年、麹町通りに面した町屋裏の武家地(現・麹町一丁目5番地および7番地)は町人地となり、麹町隼町と呼ばれていました。それが、1872年、麹町一丁目に含まれることになったため、南側の武家地だったこの一帯に、由緒ある「隼町」という町名が付けられることになったのです。(隼町町名由来板より抜粋:江戸期には、三宅家屋敷地・松平家屋敷地・火消役宅地は武家地で町名はなかったが、明治になり隼町になったいきさつ)」

左下、国立劇場に続く...

【国立劇場】
要約すると、次のようになる。
[江戸期:三河田原藩三宅家屋敷地・播磨明石藩松平家・火消役屋敷]→[明治:隼町]→[明治以後:陸軍の施設であった教育総監部、東京衛戍病院、航空本部などが立ち並んだ]→[1966年国立劇場、1979年国立演芸場、1972年最高裁判所が建設された]
※なお、東京衛戍病院は現在、国立国際医療研究センター病院
その主な経緯は
1871年、麹町区に軍医寮付属病院設置

1906年、東京第一衛戍病院開設

1929年、新宿区戸山町に移転
1945年、国立東京第一病院と改称

2010年、国立国際医療研究センター病院と改称
(国立国際医療研究センター病院ウエブサイトより)

【半蔵門】
「半蔵門の名称については、この門の警固を担当した徳川家の家来服部正成・正就父子の通称「半蔵」に由来するという。服部家の部下(与力30騎、伊賀同心200名)がこの門外に組屋敷を構え、四谷へと通じる甲州街道(現在の国道20号、通称麹町大通り・新宿通り)沿い一帯が旗本屋敷で固められていたことに由来するという。
(ウイキペディア)」

【東京電燈会社第一電燈局跡】
最初の火力発電所として東京電燈椛1電燈局が1888年竣工した。50ヘルツのドイツ製発電機を使用したのに対し、後の大阪電燈が60ヘルツのGE 製発電機を使ったため今なお不一致を残している。(千代田区観光協会ウエブサイトより抜粋)

【平河天満宮と平河町】
1478年、太田道灌による創建当初、江戸城内梅林坂付近にありました。徳川家康による江戸城整備が始まると平川御門外に移され、1607年、現在の場所に遷座されました。
次いで、平川村の住民も、この平河天満宮周辺に移されるのですが、時期については、諸説あります、1600年代後半には、平河天満宮と共にこの地にあったようです。天満宮名称・町名も、この地に移るときに、平川→平河に変わったようです。

【山田浅右衛門屋敷跡:平河町1-2-10】
「劇画にもなった「首切り浅(朝)右衛門」は、浪人の山田家が引き継いだ幕府の「御ためし御用」の家系で、代々その名を受け継ぐ。将軍のための刀剣を管理する腰物奉行から依頼を受けて、刀の切れ味を試すのが仕事であった。刀剣の鑑定だけでなく、実際に人体を斬って切れ味を試すということから「人斬り」とも呼ばれた。
浅右衛門家は浪人の身であり、幕府からの決まった知行を受け取ることはなかった。しかし、様々な収入源があり、たいへん裕福であった。1843年(天保14年)の将軍の日光参詣の際には幕府に三百両を献金している。一説には3〜4万石の大名に匹敵するほどであったという。(Google Earthで街並散歩、ウエブサイトより抜粋)」

【貝坂】
「『江戸名所図会』には「この地は昔より甲州街道にして、その路傍にありし一里塚を土人・甲斐坂と呼びならわせしとなり。或る説に貝塚法印というが墓なりともいいてさだかならず」とかかれていますが、貝塚があったというのが定説となっています。(千代田区標識より)」
この地一帯は、「貝塚」といったようだ、増上寺の旧地でもある。
この地に、空海の弟子・宗叡が光明寺(真言宗)を建立した。
1393年、浄土宗第八祖酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人は、光明寺を浄土宗に改宗して増上寺とした。
1590年、徳川家の菩提寺となる
1598年、芝に移転
(左図)【紀伊徳川家下屋敷跡→清水谷公園→贈右大臣大久保公哀悼碑】
「1878年、麹町清水谷において、赤坂御所へ出仕する途中の参議兼内務卿大久保利通が暗殺されました。現在の内閣総理大臣にも匹敵するような立場にあった大久保利通の暗殺は、一般に「紀尾井坂の変」と呼ばれ、人々に衝撃を与えました
(千代田区教育委員会案内板より抜粋)」

※清水谷:紀伊徳川家の屋敷から清水が沸き出ていたことから、この辺一帯は「清水谷」と呼ばれていた。

【麹町は江戸切り絵図発祥の地】
地下鉄有楽町線麹町駅のコンコースにある「MAPPLE」の広告板。
「番町の複雑な道に迷う人を助けるために誕生した江戸切絵図、その発祥の地「麹町」。現在の麹町六丁目にあった、荒物屋の「近吾堂」がはじめて手がけた江戸切絵図は、現在の麹町四丁目にあった「尾張屋」がさらに工夫と改良を重ねて普及させました。」とある。

【尾張屋と近吾堂の江戸切絵図に書かれた銘】
[右]近吾堂の絵図の銘:近吾堂があったのは四ツ谷御門の直ぐ近く。江戸時代には表札を出す習慣もなかったため、地理を知らぬものは人の家を訪ねるのも一苦労。近吾堂では武家屋敷を訪ねる人から道を聞かれるため、番町の地図を作った。
[左]尾張屋の絵図の銘:近吾堂のものは一色刷であったのに対し、錦絵などを扱う地本屋であった尾張屋は多色刷りであったので人気を呼んだ。尾張屋は三菱東京UFG銀行麹町中央支店のところ。
(以上、「Google Earthで街並散歩」より抜粋)



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