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歴史散歩:西片(阿部家屋敷跡)−本郷(前田家屋敷跡、樋口一葉ゆかりの地)を歩く


2023年11月27日(月)
錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、歴史散歩。
  • 徳川幕府は、日光御成道と中山道との分岐点には譜代の重臣、阿部家・本多家を配置し、守りを堅くした。
  • 明治に入ってからは、西片地区では阿部家主導で近代的な街作りが行われ、旧帝国大学(現東京大学)が近いこともあって、学者・文化人が多く住むようになった。現在でも、低層の高級住宅地となっている。
  • 本郷地区も、学者・文化人の居住の痕跡が多いが、高層化がやや進んでいる。
  • 前田家屋敷地であった東大構内では、キャンパス整備のために、富士権現旧地が姿を消した。
  • 旧菊坂町では、樋口一葉の痕跡をたどることができる。一葉が通った質屋、一葉が使った井戸など、一葉の困窮が忍ばれる。旧丸山福山町の約2年間で珠玉の名作を世に送り出し、24歳の若さでこの世を去った。この終焉の地に、樋口一葉の日記の一部が石碑に刻まれている、その美しい筆跡は彼女の異能さを感じさせるに十分。


阿部家・本多家・前田家江戸屋敷の今

【@追分一里塚跡】
一里塚は、江戸時代、日本橋を起点として、街道筋に1里(約4km)ごとに設けられた塚である。駄賃の目安、道程の目印、休息の場として、旅人に多くの便宜を与えてきた。ここは、日光御成道との分かれ道で、中山道の最初の一里塚があった。
18世紀中頃まで、榎がうえられていた。度々の災害と道路の拡張によって、昔の面影をとどめるものはない。分かれ道にあるので追分一里塚ともよばれてきた。 →

【@追分一里塚跡にある高崎屋酒店】
→ここにある高崎屋は、江戸時代から続く酒屋で、両替商も兼ね「現金安売り」で繁盛した。
(文京区教育委員会案内板、写真の赤の矢印)

中山道の西側には、譜代の重臣、阿部家・本多家を配置し、守りを堅くした。

【@追分一里塚跡】
中山道(現国道17号)を曲がったところで振り返れば、T路路正面は東大農学部、左方は王子方面、日光御成道(現本郷通り)。

[旧駒込西片町 町名由来]
明治維新を迎え、大名屋敷にも町名がつけられることになった。阿部家屋敷地と中山道沿いの徒士屋敷を含めて、駒込西片という町名がつけられた。この町名は、中山道をはさんだ東側の町が、もともと「駒込片町」と称していたため、駒込片町を「駒込東片町」、駒込片町の西側を「駒込西片町」とつけたと伝わる。1964年住居表示後は、周辺部を一部再編して、西片一丁目、西片二丁目となった。

【A佐佐木信綱】
佐佐木信綱(1872〜1963)は、三重県に生まれた。10歳の時、国文学者の父弘綱に伴われて上京し、高崎正風の門に入り、東京大学(古典科)を卒業した。1905年、東京大学講師となり、万葉集、歌学史、和歌史を講じ、歌学者として業績をあげた。また万葉集の古写本その他古典籍の復刻、紹介に努めた。歌人としては、落合直文、正岡子規、与謝野鉄幹などと歌壇の革新運動を進めた。「広く、深く、おのがじしに」の標語のもとに、歌は心の花であり、美の宗教であると「思草(おもいくさ)」「新月」など多くの歌集を出した。多くの人に親しまれた「夏は来ぬ」「灯台守」などの作詞家でもある。
(右のコマへ続く→)
(写真:幕末・明治・大正回顧八十年史 第11輯、国会図書館デジタルコレクション)

【A佐佐木信綱宅跡】
(→左のコマから)
この地は、1912年神田から転じ、1944年熱海に移るまで住んだ。
[西片情景3首]
・ふけて歩む西片町の横通 深山のごとし月しずかなる
・から橋の上ゆ眺むればけぶりの色 木立の色も秋としなれり
・交番の上にさしおほう桜さけり 子供らは遊ぶおまわりさんと
(文京区教育委員会案内板より転載:年号は西暦に修正)
※120以上の学校の校歌も作詞している※
千代田区立麹町中学校、都立豊島高校、品川区立山中小学校、筑波大学附属小学校、台東区立根岸小学校等々

【B「阿部の大椎樹」碑、西片公園内】
この地には、かつて樹齢400年といわれる大きなシイの木があり、江戸時代には、阿部伊勢守の屋敷地だったことから「阿部の大椎樹」と呼ばれていた。当時は、水道橋の近くからも見えたという。ところが1913年に大風にあたって弱りはじめ、1958年には枯れてあぶなくなったので、切りたおされた。その後、2回ほど新し木に植え替えられている。(写真は大正時代のもの)(文京区案内板「西片公園」要約)

【B「阿部の大椎樹」碑、西片公園内】

【C阿部正弘公肖像画】
二世五姓田芳柳筆 福山誠之館蔵、ウイキペディアより転載

阿部家は三河以来の徳川譜代大名家で、歴代藩主からは幕府老中など幕閣をつとめた人物が多く出た。なかでも11代阿部正弘は老中首座としてペリー来航に対応し、日米和親条約をはじめとする開国条約の締結を進めるなど、幕末の政治史に大きな足跡を残した。
西片一丁目・二丁目の大部分は江戸時代を通じて阿部家の屋敷(丸山屋敷)であった。明治に入り、阿部家は旧丸山屋敷の南側を本邸とし、それより北側は近代的なまちづくりを行った。
(右のコマへ続く→)

【C備後国福山藩主阿部家江戸屋敷(丸山屋敷)跡】
(→左のコマから)
1875年に福山藩の藩校、誠之館の名に由来する誠之学校(現区立誠之小学校)が生まれ、1891年には阿部家本邸が新築され、広場(現西片公園)ができた。
また、、その前年には上京勉学を志す旧福山藩子弟の育成寄宿舎として誠之舎が創設され、現在に継承されている。当地は旧帝国大学(現東京大学)が近いことから、明治期から学者や文人が多く住み学者町とも呼ばれてきた。これは、阿部家の教育・文化への理念にも基づくもので、現在も町の雰囲気として受け継がれている。
(文京区教育委員会案内板より)

【D清水橋を経て、旧西片町から旧森川町へ】
西片町(西片一丁目・二丁目)と森川町(本郷六丁目)を結ぶこの橋は、「清水橋」といい、地元では、「からはし」とも呼ばれている。
江戸時代、西片町側には福山藩阿部家、森川町側には岡崎藩本多家の江戸屋敷があった。当時は、西片町と森川町の間に橋はなく、谷底に一筋の清水が流れる急峻な谷間で隔てられていた。
(右のコマへ続く→)

【D清水橋から谷底の通りを望む】
(→左のコマから)
この地に、清水橋が最初に架けられたのは、1880年に阿部邸前から本田邸前への道が整備された頃と考えられている。同じ頃、谷底は道路として整備され、清水の流れも道の端に残るだけとなったことから「からはし」とも呼ばれるようになったと伝えられている。この地ゆかりの文人、樋口一葉の日記にも「空橋」として登場する。清水橋はこれまで4度架け替えられており、五代目の清水橋は2019年架橋された。
(文京区案内板より一部抜粋)

【森川宿、本多家→森川町→本郷六丁目】
江戸時代は森川宿と称した。明治5年に岡崎藩主本多家の屋敷と、先手組屋敷と併せて森川宿から森川町と名づけた。
先手組頭は森川金右衛門で、中山道の警備にあたった。与力はたいてい森川氏の親族で同じく森川姓を称していたので森川宿といわれた。宿とは当時中山道の建場であったからである。建場とは、馬建場で人馬の休むところであった。

【E1883年頃の本郷・西片、東京図測量原図】
森川町の中心に、本多平八郎忠勝を祭る映世神社があったが、戦後廃止となった。町内には、徳田秋声などの文人が多く住んだ。(文京区旧町名案内板より)
(東京図測量原図;歴史的農業環境システム/農研機構配信)

【E映世神社跡地(5差路)】
東京図測量原図を見ると、左奥に「映世神社」があった。

【F徳田秋声旧宅】
徳田秋声(1871〜1943)は明治から昭和初期にかけて活躍した小説家。明治4年(1871)に現在の金沢市に生まれた。尾崎紅葉に師事し、明治29年(1896)に発表した『藪柑子』で文壇に初登場した。
この家には、明治38年(1905)から73歳で亡くなるまで約38年間居住し、創作活動を行っていた。秋声は自然主義文学の第一人者として名を馳せ『新世帯』『足迹』『黴』『爛』『あらくれ』などを執筆し、『仮想人物』で第一回菊池寛賞を受賞している。これらの代表作はすべてこの家で書かれている。
(東京都教育委員会案内板より)

【G啄木ゆかりの蓋平館別荘跡】
石川啄木(本名一・1886〜1912)は、明治41年(1908)5月、北海道の放浪から創作生活に入るため上京し、赤心館 (オルガノ工場内)に下宿した。小説5篇を執筆したが、売込みに失敗、収入の道なく、短歌を作ってその苦しみをまぎらした。左にある歌碑の「東海の小島の磯の白砂に、我泣きぬれて蟹とたわむる」の歌は、この時の歌である。赤心館での下宿代が滞ったが、友人の金田一京助の助けを得て、同年9月6日、この地にあった蓋平館別荘に移った。3階の3畳半の室に入居し、「富士力見える、富士が見える」と喜んだという。
(右のコマへ続く→)

【G石川啄木】
(→左のコマから)
この地では、小説『鳥影』を書き、東京毎日新聞社に連載された。また、文芸雑誌『スバル』が創刊され、啄木は創刊号の発行人となった。北原白秋、木下杢太郎や吉井勇などが編集のためこの地を訪れた。
啄木は、東京朝日新聞社に校正係として入社し、明治42年6月16日に本郷弓町の喜の床に移った。ここでの生活は約9か月間であった。

父のごと 秋はいかめし
母のごと 秋はなつかし
家持たぬ児に
(明治41年9月14日作・蓋平館で)
(文京区教育委員会案内板より)

【旧本郷(〜1965)、町名由来】
「御府内備考」に次の記事がある。本郷は古く湯島の一部(湯島郷の本郷)であるので、湯島本郷と称すべきを上を略して、本郷とだけ唱えたので、後世湯島と本郷とは別の地名となった。湯島のうちで中心の地という意味から本郷の地名が生まれた。江戸時代に入って、町屋が開け、寛文のころ(1661〜1673)には、1丁目から6丁目まで分かれていた。
中山道の西側に沿って、南から1〜6丁目と南北に細長い町域である。
本郷もかねやすまでは江戸の内
(旧本郷、町名由来案内板、文京区より)

【H「樋口一葉ゆかりの桜木の宿」碑、東大赤門前】
「樋口一葉ゆかりの桜木の宿」は、法真寺の南隣にあった。しかし、法真寺は施設に「桜木の宿」という名前をつけ、さらに一葉像までいる。

【H一葉塚(法真寺内)】
樋口一葉の作品「ゆく雲」の中に、次の一文がある。
「上杉の隣家は何宗かの御梵刹さまにて、寺内広々と桃桜いろいろ植わたしたれば、此方の二階より見おろすに、雲は棚曳く天上界に似て、腰ごろもの観音さま 濡れ仏にておわします。御肩のあたり、膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて・・・・」
文中の御梵刹がこの浄土宗法真寺で、この濡れ仏は、現在、本堂横に安置されている観音様である。こなたの二階とは、境内のすぐ東隣にあった一葉の家である。
(右のコマへ続く→)

【H「ゆく雲」に出てくる「腰衣の観音様」】
※樋口一葉の略歴は、この散歩の後半の「樋口一葉終焉の地」にまとめてあります。※
(→左のコマから)
樋口家は明治9年(1876)4月、この地に移り住み、明治14年までの5年間(一葉4歳〜9歳)住んだ。一葉家にとって最も豊かで安定していた時代であった。
一葉は明治29年11月23日、旧丸山福山町で短いが輝かしい生涯を閉じた。その直前の初夏、病床で書いた雑記の中で、この幼少期を過ごした家を「桜木の宿」と呼んで懐かしんだ。「桜木の宿」は法真寺に向って左手にあった。
(文京区教育員会案内板より)

【旧本富士町町名由来】
本富士町(1872〜1965)→本郷七丁目(1965〜)
徳川家康の江戸入り後、この地を藤堂高虎に賜り、後元和の頃(1615〜24)加賀藩主前田利常に賜った。その後、加賀屋敷の東部を富山、大聖寺の両前田支藩の屋敷とした。
明治4年、三邸とも文部省用地となった。明治5年、初めて町名を定め、駒込富士浅間神社が元ここにあったので本富士町とした。
町内の大部分は東京大学の構内である。加賀屋敷の遺跡は、現在三四郎池(旧前田家の庭園育徳園の心字池)と赤門(御守殿門)などがある。
(文京区案内板より抜粋)

【I加賀屋敷御守殿門:重要文化財】
加賀藩13代藩主前田斉泰は、文政10年(1827)に11代将軍徳川家斉の娘溶姫を正室に迎えた。この門は、その際に建立された御守殿門。当時、三位以上の大名が将軍家から妻を迎えた場合、その人・居所を御守殿と称し、表通りからその場所へ出入りする朱塗りの門を御守殿門と呼んだ。





【1900年頃のI加賀屋敷御守殿門】(移設前)
小川一真編 写真帖『東京帝國大學』1900年版
東京大学附属図書館コレクション


【1904年頃のI加賀屋敷御守殿門】(移設後)
小川一真編 写真帖『東京帝國大學』1904年版
東京大学附属図書館コレクション
※オリジナルの写真は、左に少し長い
キャンパス整備のため、加賀屋敷御守殿門は大規模改修されたようだ。
・西(道路方向)に15m程移転、現在地となる。
・塀が海鼠塀になり、漆喰が塗られている。

【加賀藩前田家上屋敷跡】
移動したという赤門の位置を確かめるために、1883年頃の「東京図測量原図」と現代の地理院地図を重ね合わせてみる。青の線が1883年の軌跡である。重ね合わせてみると、赤門前(西側)はかなり広く江戸期には火除地になっていたことがわかる。キャンパス整備というよりも、道路幅を揃え町並みを整備したといった方が正確かも知れない。
近年まで残っていた、富士権現旧地(椿山)は除去され、校舎になっていることが確認できる。

【加賀屋敷御守殿門裏側】
移動前の赤門は、この交差点の中央付近にあったようだ。

【J富士権現旧地(椿山)】
本郷区史(1937)に帝大構内古墳として紹介されている。
1573年本郷村に建てられた「富士大権現」は、加賀藩の屋敷地となったため1628年現在の本駒込に遷座(駒込富士神社)。さらに、同地は明治になってからは「椿山」といわれてきた。しかし、1966年の東大経済学部校舎建設のために取り壊されたようだ。旧町名(旧本富士町)と本富士警察署に名を残す。

【赤門総合研究棟:富士権現旧地(椿山)】
建設以来、経済学部本館として使用されてきたが、2003年に改修、現在は、赤門総合研究棟となっている。
左の写真と同角度で撮影しているが、富士権現旧地(椿山)を示す案内板もない。寂しい限りだ。

【K十一面観世音菩薩像(旧真光寺境内)】
元この地にあった真光寺は、藤堂高虎によって再建された寺であり、本郷薬師堂及び十一面観世音菩薩は真光寺境内に置かれていた。真光寺は太平洋戦争で焼失し、世田谷区給田に移転したが、この十一面観世音菩薩は焼失を免れ、この地に残った。十一面観世音菩薩の蓮華座には「享保五庚子(1720)九月日」の紀年銘がある。
(文京区教育委員会 案内板より抜粋)



旧菊坂町〜旧丸山福山町

【本郷絵図(江戸末期の様子)】
この辺一帯に菊畑があり、菊の花を作る人が多く住んでいた。それで坂を菊坂、坂上の方を菊坂台町、坂下の方を菊坂町と名づけたという。
寛永5年(1628)中間方の拝領地となり、その後町屋を開いたが、その時期は元禄9年(1696)ころといわれる。
(文京区)

【旧菊坂町+旧真砂町】
明治になり、町名を定めるとき、「黄色」の部分を菊坂町、その南の台地を真砂町としたが、1965年の住居表示で消滅。
台地上に振袖火事の火元で有名な本妙寺があった。明治43年1910、寺は巣鴨に移った。

【本妙寺坂】
坂を下り、菊坂通りになるが、そこから上り坂になる。その坂上一帯に、かつて本妙寺が広がっていた。

【L本郷菊富士ホテル跡】
(碑文要約)1897年岐阜県大垣出身の羽根田幸之助、菊江の両親が此の地に下宿菊富士楼を開業し1914年五層楼を新築菊富士ホテルと改名し営業を続けたが1945年3月10日第二次大戦の戦災に依り50年の歴史を閉じた。多くの文学者・芸術家・思想家が滞在し、さまざまな作品を残した。
(主な止宿者)
石川淳 宇野浩二 宇野千代 尾崎士郎 坂口安吾 高田保 谷崎潤一郎 直木三十五 広津和郎 正宗白鳥 真山青果 竹久夢二等々

【M啄木ゆかりの赤心館跡(オルガノ株式会社内)】
赤の矢印が、「赤心館」案内板、 正面は、長泉寺、境内を通って菊坂通りへ抜けられる。

石川啄木の略歴は「蓋平館別荘跡」にあった案内板で紹介してあるので、ここでは、赤心館・蓋平館別荘時代に作られた代表的短歌を鑑賞しよう。
[一握の砂、1910年12月1日刊行:この頃は、喜の床に住んでいる]より、

東海の小島の磯の白砂に
われ泣なきぬれて
蟹とたはむる

たはむれに母を背負せおひて
そのあまり軽かろきに泣きて
三歩あゆまず

ふるさとの訛なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴ききにゆく

ふるさとの山に向ひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな
青空文庫より転載)
【N一葉ゆかりの伊勢屋質店】
1860年この地で創業し、1982年に廃業した。
一葉が明治23年、旧菊坂町の借家に母・妹と移り住んでから、度々この質屋に通い、苦しい家計をやりくりした。一葉は、その後、旧下谷竜泉町、旧丸山福山町と転居しているが、伊勢屋との縁は続いた。一葉が旧丸山福山町で、24歳の若さで亡くなったとき、伊勢屋の主人が香典を持って弔ったことは一葉とのつながりの深さを物語る。店の部分は明治40年に改築した。土蔵は、外壁を関東大震災後塗り直したたが、内部は往時のままである。一葉の明治26年5月2日の日記から
此月も伊せ屋がもとにはしらねば事たらず、小袖四つ、
羽織二つ、一風呂敷につつみて、母君と我と持ゆかんとす。
蔵のうちにはるかくれ行くころもがへ
(文京区教育委員会案内板より)

【N一葉ゆかりの伊勢屋質店】
[菊坂跡見塾]
平成27年、学校法人跡見学園が取得・保存している。

【菊坂から谷道へ(一葉住居へ)】

【O樋口一葉旧居跡】
この周辺、樋口一葉一家が、父を亡くしてから3年ほど住んだ場所、右の古井戸は当時のまま残されている。この石段は、鐙坂へ抜ける通路として、かなり交通量が多い模様。

【樋口一葉旧居石段を上ると、鐙坂へ出る】

【P鐙坂の坂上に、金田一京助 旧居跡】

【金田一京助】
金田一京助(言語学者)は、明治15年(1882)岩手県盛岡に生まれた。
東京大学在学中からアイヌ民族に関る言語、文学、民俗の研究を始め、北海道・サハリン(樺太)のアイヌ居住地を歴訪し、実地調査と研究により、アイヌ語を初めて学問的に解明し、アイヌの叙事詩ユーカラを世に初めて紹介した。アイヌに関る多くの著書は、日本列島における北方文化を学ぶ者の原点ともなっている。
盛岡中学時代、2年下級に石川啄木 が在籍していた。啄木は中学を卒業後、盛岡から上京、京助を尋ね、急速に文学への関心を高めていった。京助は啄木の良き理解者であり、金銭的にも、精神的にも、類まれな援助者であった。

(文京区教育委員会案内板より抜粋)

Q坪内逍遙旧居・常磐会跡と炭団坂
鐙坂上の高台を回り込むと、坪内逍遙旧居・常磐会跡があり、すぐ側には、菊坂町に下る急坂(炭団坂)がある。

坪内逍遥(1859〜1935)は、小説家、評論家、教育家である。1884年、この地(旧真砂町18番地)に住み、『小説神随』(1885〜1886)を発表して勧善懲悪主義を排し写実主義を提唱、文学は芸術であると主張した。その理論書『当世書生気質』は、それを具体化したものである。

逍遙が旧真砂町25番地に移転後、1887年には旧伊予藩主久松氏の育英事業として、「常盤会」という寄宿舎になった。俳人正岡子規 は、1888年から3年余りここに入り、河東碧梧桐(俳人)も寄宿した。また舎監には内藤鳴雪(俳人)がいた。▼ガラス戸の外面に夜の森見えて清けき月に 鳴くほととぎす  正岡子規(常盤会寄宿舎から菊坂をのぞむ)

【鐙坂】
ところで、この鐙坂に書かれてある松平右京亮の中屋敷→右京山を通ってみた。

【R右京山】
前掲の本郷絵図を見るとかなり大きな屋敷地であった事が見て取れるが、右京山という掲示は小さな清和公園にあった。江戸期の「松平右京亮の中屋敷」はこの清和公園だけでなく高台のかなりの部分を占めていたのだろうと思われる。

【旧丸山福山町(1964年までの町名)】
江戸初期には、福山藩・阿部氏の中屋敷の一部であったが、江戸中期にかけて、旗本の武家地になった。
1872年、新たに町名をおこすとき、この辺の台地の呼び名の丸山と、阿部氏の領地の福山とを併せて丸山福山町とした。

【S樋口一葉終焉の地】
ここ丸山福山町に転居したのは明治28年(1895)5月、守喜という鰻屋の離れで、家は、六畳二間と四畳半一間、庭には三坪ほどの池があった。亡くなるまでの2年間に珠玉の名作を書き上げた。

【S樋口一葉照影、明治28年(1895)】
[樋口一葉略歴]
  • 明治5年(1872)東京府内幸町に生まれる
  • 明治9年(1876)4歳〜、東大赤門前、法真寺隣に居住
  • 明治14年(1881)下谷御徒町へ転居
  • 明治19年(1886)14歳、小石川の安藤坂にあった中島歌子の歌塾萩の舎に入門して、和歌、古典の勉強に励む
  • 明治22年(1889)父死亡
  • 明治23年(1890)本郷菊坂町70番地に転居
  • 明治24年(1891)日記「若葉かげ」を書き始め、半井桃水に師事する
  • 明治25年(1892)処女作「闇桜」が『武蔵野』、「うもれ木」が『都の花』に掲載される
  • 明治26年(1893)「暁月夜」が『都の花』に掲載される。下谷竜泉寺に移って駄菓子・小間物の店を開く
  • 明治27年(1894)本郷の丸山町へ転居、「花ごもり」、「大つごもり」が『文学界』に掲載される
  • 明治28年(1895)「ゆく雲」が『太陽』に、「にごりえ」が『文芸倶楽部』に、「たけくらべ」が『文学界』に掲載される
  • 明治29年(1896)「たけくらべ」が森鴎外・幸田露伴に絶賛されるが肺結核で死去、24歳。


【Sたけくらべ 樋口一葉 自筆完全原稿 冒頭部分】
2018年12月25日の毎日新聞ウエブサイトに、原稿全文が掲載されている。オークションに出品されたものという。
【Sたけくらべ、明治28年(1895)文学界で発表】

1893年下谷竜泉寺に移って駄菓子・小間物の店を開く、この時の体験を基にして、吉原遊郭とその周辺に住む少年少女達の切ない青春の一コマを描いている。

←[たけくらべ 樋口一葉 冒頭部分]
廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行来ゆききにはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は仏くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申き、三嶋神社の角をまがりてよりこれぞと見ゆる大厦もなく、かたぶく軒端の十軒長屋二十軒長や、商ひはかつふつ利きかぬ処ところとて半なかばさしたる雨戸の外に、......
※赤字は、左の原稿部分※
【S終焉の地・丸山福山町の体験記と「にごりえ」の世界】
「にごりえ」:銘酒屋の遊女お力が、落ちぶれて妻子とも別れた源七と情死するまでを描く。一葉の住む丸山福山町を舞台に、ここに生きる住民を描写している。
当時の丸山福山町は、東京砲兵工廠に程近く、銘酒屋という非公認の売春宿が数多く立ち並んだという。
(右のコマへ続く→)
(→左のコマから)
一葉日記『しのぶぐさ』には『隣りに酒うる家あり。女子あまたいて、・・・遊び女ににたり。常に文書きて給われとて、わがもとに来る。ぬしはいつも変りて、そのかずはかりがたし。・・・』と書かれている。




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