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歴史散歩:市ヶ谷−靖国神社−九段下を歩く


2024年3月16日(土)
錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、歴史散歩。

牛込柳町→[林家墓地]→[甲良屋敷跡、試衛館跡]→[柳田国男旧居]→[クーデンホーフ光子居住の地]→[浄瑠璃坂の仇討ち跡]→[女人芸術社跡]→[市ヶ谷見附跡]→[靖国神社(東京招魂社)]→[さくら標本木]→[大村益次郎銅像]→[田安門と牛が淵]→[田安稲荷(世継稲荷)→[曲亭馬琴・硯の井戸]→九段下駅


江戸幕府、旗本・御家人が住んだ街

【市ヶ谷牛込絵図(部分)国会図書館蔵】
【林氏墓地】
林氏は、一世林羅山が朱子学をもって徳川家康に仕え、以来、優れた儒学者が続き、代々幕府の学政を司る家柄であった。
墓地は上野忍岡にあったが1698年三世鳳岡の時に、この牛込の地を賜り改葬された。現在の墓地は次第に縮小されたもので儒葬による埋葬様式をとどめているのは八世から十一世の墓四基のみであるが現存する希少な儒葬墓として貴重である。この墓地には一世から十二世の歴代当主の他その家族の墓碑や墓標がある。
(1)羅山−(2)鷲峰ー(3)鳳岡−(4)榴岡−(5)鳳谷−(6)鳳潭−(7)錦峰−(8)述斎−(9)てい宇−(10)壮軒−(11)復斎−(12)学斎

【林氏墓地、国史跡】

【林氏墓地、墓石群】
公開日に内部から撮影したものではない。塀の隙間から撮影している。

【林氏墓地、儒葬墓】

【林氏墓地、林羅山の墓(赤の矢印)】

【林羅山像】京都大学総合博物館
林羅山(1583-1657)は、江戸前期の儒学者。名は信勝、号は道春。幕府儒官林家の祖。藤原惺窩門下で朱子学を修め、経・史・文に才能を発揮。徳川家康以来四代の将軍の侍講となって、幕政の整備に大きく寄与した。(出典: 『日本肖像画図録』)

1932年、林羅山は上野忍ヶ岡の別邸内に家塾を開き、孔子を祀る聖堂を建てた。
1690年、徳川綱吉は、神田台に湯島聖堂を創建、上野にあった林家塾と孔子廟をここに移した。
1691年、林家三世鳳岡を大学頭に任じ、聖堂学問所を管掌させた。
1797年、聖堂学問所は昌平坂学問所に発展し、大学頭の官職(昌平坂学問所の長官)も林家が世襲することとなった。
【市谷甲良屋敷と試衛館】
市谷甲良屋敷は、大棟梁甲良氏が幕府から拝領した土地を町人に賃貸していた賑やかな商店街であった。1839年、その一角に、近藤勇の養父である天然理心流3代目近藤周助が、試衛館を創設した。1861年、4代目を勇(1834-1868)が継ぐが、勇の上洛により、佐藤彦五郎(1827-1902)と幕臣寺尾安次郎が留守を預かり、1867年まで存続した。この道場には、のちの新選組の中核をなすメンバーが顔を連ねており、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、永倉新八、原田左之助、藤堂平助等がいたとされる。(Wikipedia 試衛館より)
【市谷甲良屋敷と甲良氏】
甲良氏は、江戸幕府作事奉行の輩下である幕府大棟梁。建仁寺流として11代まで続いた家系。主に日光東照宮造営、修理を行った。江戸時代末期には安政の大地震によって崩壊した江戸城修復なども行った家系。初代は甲良宗広(1574年-1646年)といい、現在の滋賀県甲良町法養寺出身。
3代宗賀の時、日光東照宮修繕の褒美として切米100俵と市谷の地(市谷甲良屋敷=現在の市谷柳町25番地)を拝領する。
(Wikipedia 甲良氏より)
明治になり、「市谷甲良屋敷町」は東側大縄地と合併して、一時「市ヶ谷甲良町」となったが、その後、「市谷柳町」になり、東側は、「市谷甲良町」のまま残って現在に至る。したがって、現在の「市谷甲良町」は元々の市谷甲良屋敷とは関係がない。

【市谷甲良町と市谷柳町】
試衛館のあった市谷甲良屋敷は、現在、市谷柳町となっている。

【1.銀杏坂通り(旧加賀屋敷周辺)】
市ヶ谷牛込絵図(部分)国会図書館蔵
1.「銀杏坂通り」新宿区案内板によると、
「坂の北側にあった久貝因幡守の邸内に銀杏稲荷があった。」とある。

【1.銀杏坂通り】
この銀杏坂通り、市ヶ谷牛込絵図では、「此辺加賀屋敷ト云」となっている。左側には、「馬場」があった。しばらく歩くと、右側に柳田國男旧居跡に至る。

【2.柳田國男旧居跡】
日本民俗学の父・柳田國男(1875〜1962)は、現在、大妻女子大学加賀寮となっているこの地にあった旧柳田宅で、小説家・水野葉舟の紹介により岩手県遠野市出身の佐々木喜善(1886〜1933)と出会い、佐々木が語った遠野に伝わる不思議な話を百十九話にまとめ、1910年に『遠野物語』として発表した。
柳田は、1875年兵庫県神崎郡福崎町に松岡家の六男として生まれ、十五歳で上京。青年期から文学に親しみ、田山花袋、島崎藤村、國木田独歩らと交流があった。東京帝国大学卒業後は農商務省に入り、翌年の1901年に大審院判事であった柳田直平の養嗣子として入籍し、1927年に世田谷区成城に移るまでの27年間をこの地で生活した。
『遠野物語』の話者となった佐々木は、当時早稲田大学在学中で、この旧柳田宅から徒歩で一時間弱の所(文京区水道一丁目)に下宿しており,毎月のように,柳田の求めに応じ旧柳田宅を訪れ遠野の話をした。
『遠野物語』は,日本民俗学黎明の書として,また,日本近代文学の名著として,今なお多くの人に読み継がれている。
(現地解説板より)

【3.クーデンホーフ光子 居住の地】新宿区納戸町公園
この地には、初めて西洋の貴族と結婚した日本女性であるクーデンホーフ光子[青山みつ](1874〜1941)が、明治29年(1896)に渡欧するまで住んでいた。

【クーデンホーフ カレルギー伯爵と光子】
光子は、明治七年(1874)骨董商と油商を営んでいた青山喜八と妻つねの三女として生まれた。東京に赴任していたオーストリア・ハンガリー帝国代理公使のハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギーと知り合い、明治25年(1892)に国際結婚し、渡欧後は亡くなるまでオーストリアで過ごした。
渡欧までの間、光子と共にこの地で暮らした次男のリヒャルト[栄次郎](1894〜1972)は、後に作家・政治家となり、現在のEUの元となる汎ヨーロッパ主義を提唱したことから「EUの父」と呼ばれている。(新宿区案内板より)

【江戸を感じさせる周辺の町名】
現在地は納戸町公園(▲印)であるが、すぐ側に、新宿区作成の住居表示街区案内図(平成24年)があり、この周辺には、江戸由来の町名が残っている事がわかる。
A.市谷加賀町:江戸時代前期の加賀藩主・前田光高夫人(徳川家光の養女大姫)の屋敷があったことに因んでいる。明暦2年(1656年)に大姫が亡くなると江戸幕府によって屋敷地は収公され、多くの旗本に土地が分割して与えられたことから武家屋敷が建ち並んだ。しかし以後も本地域は加賀原や加賀屋敷などと呼ばれた。
B.二十騎町:先手与力の屋敷地であったことに由来。1組10人で構成される先手与力が、2組20人居住していたことから、二十騎町と俗称され、現在の二十騎町となった。
C.細工町:江戸城内建物・道具の修理・製作にあたる武士(同心)の屋敷地に由来
D.納戸町:将軍のてもとにある金銀・衣服・調度の出納や大名旗下の献上品を取り扱う武士(同心)の屋敷地に由来
F.市谷払方町:将軍の下賜品を取り扱う武士(同心)の屋敷地に由来
E.市谷鷹匠町:江戸中期には、鷹匠の組屋敷であったが、元禄以後、御家人に細分化され、里俗に鷹匠町と呼ばれた。
G.市谷砂土原町:家康の知恵袋との異名を持った本多佐渡守正信の別邸があったことで「佐渡原」→「砂土原」

「市ヶ谷」名称由来の谷と坂の町

【市ヶ谷牛込絵図(部分)国会図書館蔵】
  1. 中根坂:旗本・中根家に因む
  2. 安藤坂:旗本・安藤家に因む
  3. 浄瑠璃坂の仇討ち跡
  4. 浄瑠璃坂:「操り浄瑠璃」の小屋興行に因むという説
  5. 長延寺谷(町)
  6. 左内坂:名主・島田左内に因む
  7. 市谷亀岡八幡宮
  8. 尾張徳川家上屋敷:現、防衛省
  9. 市谷門

【市ヶ谷地形図】
地理院地図をカシミールで標高差を強調してある。

[市ヶ谷という名称由来]
南側中腹に万昌山長延寺があったので「5.長延寺谷」と呼ばれたのに因む。この谷は、渓谷一の谷で、こここそが「市ヶ谷の発祥の谷間」だという説がある。


【3〜4.浄瑠璃坂の仇討ち】
中根坂を下り、左に折れると高台に至り、「浄瑠璃坂の仇討ち」現場となる。「浄瑠璃坂の仇討ち」を調べてみると、右のコマのようになる。

※周辺は、かつては高級住宅街だったが、今や再開発の真っ只中、浄瑠璃坂も消し飛んでしまいそうな勢いであるが、かすかに、「市谷鷹匠町」という町名が唯一の名残。
[宇都宮興禅寺刃傷事件]1668年、下野興禅寺(栃木県宇都宮市)における前藩主奥平忠昌の葬儀の場でのこと。奥平「内蔵允」と奥平「隼人」がささいなことから口論になり、「内蔵允」が「隼人」に抜刀した。「内蔵允」は返り討ちに遭い、刀傷を負い後に自ら切腹した。藩の裁定は、「隼人」は改易、切腹した「内蔵允」の嫡子で12歳の奥平「源八」ならびに内蔵允の従弟伝蔵正長は家禄没収の上、追放が申し渡された。
処分は、けんか両成敗(隼人切腹)ではなく、不公平であると追放された「源八」とその一族に対し同情する者が続出した。(weblio辞書)

[仇討ちの成功とその後]「源八」一党は仇討を誓って、3年余も雌伏していたが、1672年、「隼人」の潜伏先(江戸市ヶ谷浄瑠璃坂の鷹匠頭・戸田七之助の屋敷)を探り当て、70人余の大集団で襲って「隼人」らを討った。
幕府の処分は、「源八」一党は八丈島へ流罪(6年間)。その後、赦免、井伊家に召し抱えられた。この事件は、30年後に起こる赤穂事件において赤穂浪士たちが参考にしたとされている、しかし、期待通りにはならなかった。

【芥坂(ゴミサカ)】
浄瑠璃坂を下っていくと、途中、右手に芥坂が現れる。ここで、浄瑠璃坂を下るのを止め、芥坂からDNPを跨ぐ歩道橋を渡り対岸に向かう。

【DNP再開発中1】
歩道橋下にはDNP社屋があり、今取り壊し中。右奥が「浄瑠璃坂の仇討ち跡」。

【DNP再開発中、長延寺谷町】
DNPの社屋が取り払われ、谷地がよく見える。切り絵図、地形図で[5.長延寺谷町]にあたる。つまり、1,2→5にかけては、巨大な谷になっていて、ほとんど全てがDNP社有地である。

【ごみさか歩道橋を下りる】
DNP歩道橋を渡ると、2つの降り口がある。西側の降り口「ごみさか歩道橋」を下りると、ここは、市谷左内町。市谷左内町の坂を防衛省の方へ向かう。

【女人芸術社跡(長谷川時雨・三上於菟吉旧居跡)】
坂の突き当たりが防衛省、その少し手前に「女人芸術社跡」があった。

この地は、劇作家・小説家の長谷川時雨 (1897〜1941)と、夫で小説家の三上於菟吉(1891〜1944)が1928年7月から1932年2月まで暮らしたところで、時雨が発行した女性のための文芸雑誌『女人芸術』の発行所であった女人芸術社の跡である。
1879年に東京市日本橋区 (現在の中央区)に生まれた時雨は、幼少期より邦楽や歌舞伎に親しみ、歌舞伎脚本の執筆等、劇作家として活躍した。

【女人芸術社跡(三上於菟吉と長谷川時雨)】
1891年に埼玉県北葛飾郡桜井村(現在の杉戸町)で生まれた於菟吉は、早稲田大学で英文学を学び、佐藤春夫・北原白秋らと交流しつつ創作・出版活動を行い、大衆小説家としての地歩を固めた。 時雨と於菟吉は、1916年頃から交際をはじめ、共に暮らすようになった。
「女人芸術」は、1923年に時雨が岡田八千代と共に創刊したが二号で休刊となり、1928年に於菟吉の資金援助を得て復刊し、1932年まで計48冊を発行した。執筆者は、野上弥生子・神近市子・高群逸枝・宮本百合子ら当時の中堅・大家のほか、円地文子・佐多稲子・林芙美子・矢田津世子らの若手を世に出した。(新宿区教育委員会案内板より)

【6.左内坂】
「女人芸術社跡」を進み、防衛省に突き当たる坂が「6.左内坂」となる。下りきったところが外堀通り→外堀→市ヶ谷駅となる。



市ヶ谷見附跡と市ヶ谷橋

【市ヶ谷門、1871頃の写真】
旧江戸城写真帖(六十四枚)の一枚、東京国立博物館蔵
市ヶ谷門は、1636年美作津山藩によって築造された。
1871年に、市ヶ谷門は枡形石垣と橋を残して撤去され、のち、枡形石垣も撤去された。

【市ヶ谷橋(東側)】
ここに見える石垣は、左の写真(1871頃)の石垣と同一と思われる。
【市ヶ谷橋】
出典:市谷の尾張上屋敷(明治大正昭和東京写真大集成)
市ヶ谷濠と新見附濠の水面の高さに注目。

この橋は、寛永年間(1624〜1644)に始めて架けられたと考えられている。現在の橋は、昭和2年(1927)12月11日に架設された、長さ36.4m、幅15.6mのコンクリ−ト橋で江戸期の橋よりは幅が広くなっている。。JR市ヶ谷駅前から新宿区に通じる靖国通りの橋で、交通量の多い橋となっている。牛込橋と同様に外濠の堰の役割をもっているのは、江戸期と変わりがない。(千代田区観光協会ウエブサイト)

【新見附濠、飯田橋方面】
基本的に水が堰で止められているので、釣り堀として利用されている。

【市ヶ谷橋(東側)の堰の位置(赤の矢印)】
堰の位置は、江戸期とは変わっていないようだ。

【市ヶ谷橋(西側)】
「堰の位置」とJR市ヶ谷駅ホームの関係を見れば、水面がかなり高い事がわかる。

【市ヶ谷橋(西側)堰】


靖国神社とさくらの標本木

【靖国神社境内案内図】
A:本殿、B:第二鳥居、C:大村益次郎銅像

1869年 東京招魂社として創建(勅命)
1872年 本殿竣工
1879年 靖国神社と名称変更
1887年 別格官幣社となり陸海軍が管轄
1893年 大村益次郎銅像設置
1946年 日本国政府の管理を離れて宗教法人となる

【江戸番町絵図、国会図書館蔵】
番町はもともと、旗本の屋敷が多かったところ、道筋も綺麗に保存されている。靖国神社の「神社部分」は旗本の屋敷地を利用して建設されたようだ。

当初、戊辰戦争・明治維新戦争における新政府軍側の戦死者を祭る事から出発した。それから第二次世界大戦戦死者まで246万6532柱が祭られているが、[旧幕府軍][彰義隊・新撰組][奥羽越列藩同盟軍][西南戦争]などで反政府とみなされる死者は対象外となっている。

【東京招魂社→靖国神社】
東京九段坂上招魂社 日本百景 上 2版1896年 国会図書館
小川一真 著
手前に「青銅大鳥居」奥に、1872年竣工の「本殿」が見える。両方共に、現存している。「青銅大鳥居」には、明治19(1886)年大阪砲兵工廠製造との銘がある。

【現在の靖国神社】
しかしながら、創建以来、色々な建物が付け加わった、左の写真にある本殿は、拝殿・中門鳥居・神門に隠れて見えなくなった。

【兵部大輔大村益次郎銅像、1893年建立】
  • 1868年、陣羽織をつけ、左手に双眼鏡をもち、東北の方を望む姿は上野東叡山にたてこもる彰義隊討伐の時の様子といわれる。
  • 1869年戊辰戦争は終結する。その戦死者を祀る東京招魂社建設に先立ち、大村益次郎は東京九段坂上三番町の旧幕府歩兵屯所跡に赴き、招魂社建設地を検分し、その建設に尽力した。
  • 1870年、大村益次郎の建言により「大阪砲兵工廠」設置。
この銅像が建立されたのが1893年、しかし、1894年には日清戦争が勃発し、以後の戦死者が靖国神社に祀られることとなり、靖国神社の性格が変わってしまう。このような状況を大村益次郎はどう思っているのだろうか?

【銅像の足下に設置された銅版画】
Yasukuni Shrine Copperplate Print Made in 1896 by Matsumori Sohei
Bronze statue of Vice-Minister of War Omura Masujiro
と書かれている。

【桜の名所と標本木】
1870年開始の靖国神社競馬場の周囲に数十本の桜が植えられた。それ以来、境内は東京都内でも有数の桜の名所となった。
気象庁は境内にあるソメイヨシノを、東京の桜の開花日を決定する標本木として指定している。そのため東京の「桜の開花発表」はこの標本木が咲いた時に行われている。
【さくらの開花日と満開日の定義】
(気象庁生物季節観測指針・令和3年7月暫定版より)
標本木に5〜6輪の花が咲いた日を開花日とする。
約80%以上が咲いた状態となった日を満開日として観測する。
観測の対象は「そめいよしの」とする。

そめいよしのが生育できない地域では、沖縄地方「ひかんざくら」、北海道地方「えぞやまざくら(おおやまざくら)」を代替種目として観測する。


[そめいよしの]
江戸末期に江戸染井村の植木屋によって広められた園芸種、おおしまざくらとえどひがんの交雑種といわれており、九州から北海道まの石狩平野まで栽植されている。
【さくらの開花予想方法と実際の開花日】
さくらの花芽は、開花前年の夏には出来ているが、休眠状態で冬を越す。年が明け、低温刺激を受けた後に気温がぐっと高まった段階で休眠から目覚める(休眠打破)。休眠打破の日を起算日として、毎日の温度を積算し、地域ごとに定めた温度に到達した日を開花日と予想する。
現在、東京地方における代表的な積算方法は
1.400℃の法則:2月1日を起点として、日々の平均温度を積算して400℃に達した日を開花日とする
2.600℃の法則:2月1日を起点として、日々の最高温度を積算して600℃に達した日を開花日とする



気象庁のウエブサイトには、1953年以来のさくら開花日と毎年の気温のデータが公開されているので、「400℃の法則」と「600℃の法則」を使って試しに計算してみた。
対象年は、開花日の最初の観測値がある「1953年」、開花がもっとも遅かった「1984年」、昨年「2023年」とした。
[開花予想の計算と実際の開花日]

1953年 1984年 2023年 2024年

(実際の開花日)

3.26 4.11 3.14

(開花予測値)
400℃の法則 3.31 4.14 3.16 3.18
600℃の法則 3.23 4.9 3.15 3.20
平均値 3.27 4.11 3.15 3.19
注:1953年は旧気象庁構内のさくら、1966年以降は靖国神社境内の標本木。

法則の仕組みが不明だが、計算予測値の平均値が実際の開花日と良い一致を示すようだ。靖国神社のさくらの樹齢は70年を超えているが、この法則は、樹齢には影響されないようだ。また、1953と(1984、2023)とは、個体も場所も違うのに、開花計算には影響を与えないように見える。そもそも、なぜ休眠打破の起算日を2月1日にしているのだろうか。
2024年の標本木開花予想について:3月16日には、つぼみが堅く開花するような状態ではありませんでした。
気象各社のさくら開花予報を見ますと、20日〜23日とバラバラになっています。私も、本日(3月18日)、2-3日後の気温予想を考慮に入れて、「400℃の法則」と「600℃の法則」を計算しました。すると、上の表のようになり、3月19日開花と計算できました。


九段坂、中坂、冬青木坂

【九段坂、中坂、冬青木坂】
地理院地図にカシミールで標高差強調
1.常燈明台 2.九段坂・牛が淵の碑、葛飾北斎
3.世継稲荷(田安稲荷) 4.曲亭馬琴邸跡
5.現、フィリピン大使公邸

【九段坂、中坂、冬青木坂、小川町絵図、国会図書館蔵】

【飯田町 中坂 九段坂、江戸名所図会、国会図書館蔵】
[九段坂]
古くは飯田坂と呼ばれていた。[九段坂]名前の由来は、坂に沿って御用屋敷の長屋が九つの段に沿って建っていたためとも、急坂であったため九つの段が築かれていたからともいわれている。関東大震災後の帝都復興計画で坂を削り緩やかな勾配にする工事が行われ、九段坂は大正通り(現在の靖国通り)として東京の主要な幹線道路の一部となった。(千代田区)

【2.九段坂・牛が淵の碑、葛飾北斎】東京国立博物館蔵
葛飾北斎は、寛政末頃から亨和頃にかけて西洋画の技法を取り入れた、いくつかの風景版画を描いている。右側の黄土色の急な坂は九段坂で、この坂道に面して石垣と長屋塀の武家屋敷があり、坂道には人や家々などの陰が描かれている。
左の濃緑色の崖はさらに高く誇張し、画面の左半分は、はるばると遠景を見通す変化に豊んだ斬新な構図となっている。この画の特徴は樹木や崖に描線を用いず、陰影をつけて立体感を表わそうとしているところである。左の崖は上方が千鳥が淵、下は牛が淵、その中間を左に入る道は田安門に続き、現在は武道館への入口となっている。空には夏雲がもくもくと湧き上がっていて、すべてが目新しい西洋風の写生的空間表現となっている。
[中坂]
江戸時代初期に徳川家康が視察に来た時、付近の農民である飯田喜兵衛が案内役を務め、それ以降喜兵衛が名主となったことから、この地域を飯田町と呼ぶようになった。1697年の大火の後、付近の武家屋敷が移転した際、新たにこの坂が作られ、飯田坂と呼ばれた。その後、南にある九段坂と北にある冬青坂(もちのきざか)の中間に位置することから中坂といわれるようになった。現在では九段坂(靖国通り)が交通の中心だが、江戸時代には中坂が重要な交通路であり、多数の商店が軒を並べていた。また、神田祭の山車などはみな中坂を通った。(千代田区)
[冬青坂(もちのきざか)]
坂の途中にあった武家屋敷に植えられていた古木がモチノキであるということから名付けられた。坂上の角にはフィリピン大使公邸があるが、坂を下っていく途中には、武家屋敷を想起させる石垣が残されている。
世継稲荷神社(田安稲荷)
倉稲魂神を祭神として、嘉吉元年(1441)頃、飯田町に創建された稲荷神社である。当時はこの辺一帯を田安村といったことから、「田安稲荷」と称されていた。二代将軍秀忠が社に参内し「代々世を継ぎ栄える宮」と称賛し、これ以降「世継稲荷」と称されるようになったと伝えられている。元禄10年(1697)の大火で被害を受け翌年に再建した頃より、地域町人の守護神になっていった。享保15年(1730)以降、田安家の鎮守神としても崇拝された。また、文久2年(1862)に14代将軍家茂の正妻・和宮が子宝を願って参詣した。現代も子宝や後継者を願う人々に信仰されている。

【曲亭馬琴邸跡に残る「硯の井戸」】
現在、ニューハイツ九段敷地内にある曲亭馬琴邸跡には、馬琴にゆかりのある井戸が残っている。馬琴が硯に水を汲み筆を洗っていたことから、「硯の井戸」とも呼ばれる。(ウイキ)

【曲亭馬琴】
[(1814-1842年『南総里見八犬伝 9輯98巻 第九輯五十三ノ下より』、国会図書館蔵]
当時既に戯作界で活躍していた山東京伝の知遇を得、寛政の改革の際禁令に触れ処罰された(1791)京伝の代作をして、黄表紙作家として頭角をあらわした。『南総里見八犬伝』や『椿説弓張月』の作者として知られている。寛政5年(1793)27歳で当時飯田町中坂と呼ばれたこの地の履物商伊勢屋に婿入りし、58歳(1824)で神田同朋町に移るまでここに住んでいた。

【南総里見八犬伝 9輯98巻 肇輯巻一、1814-1842】
国会図書館蔵
曲亭主人藁本、柳川重信出像とある。
柳川重信は葛飾北斎の門下生。

【椿説弓張月 28巻、1807-1811】国会図書館蔵
簑笠隠居曲亭子(曲亭馬琴)著、葛飾北斎画
葛飾北斎もたびたび、曲亭馬琴の自宅を訪れ、時には、長期間同居したという。



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