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歴史散歩:六本木−飯倉−旧麻布市兵衛町−旧赤坂氷川町−旧赤坂一ツ木町を歩く


2017年10月30日(月)
錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、歴史散歩。
  • 六本木交差点を出発して深廣寺へ、この辺り、現在は繁華街だが、江戸初期には麻布野と呼ばれ、徳川秀忠の正室「江」が荼毘に付されたところという。深廣寺には「江の灰塚」と「佐藤一斎の墓」があるというが非公開だ。
  • 次に、大名や高級旗本の屋敷が建ち並んだという鳥居坂通りへ向かう。現在は、フィリピン大使館、村岡花子が学んだ東洋英和女学院、日銀・鳥居坂分館、香淳皇后生誕地・国際文化会館などが立ち並ぶ落ち着いた高台だ。
  • 外苑東通りに戻り、外務省飯倉公館、ロシア大使館、アフガニスタン大使館と辿ると、日本経緯度原点・国立天文台発祥の地に至る。
  • この地から、北方へ真っ直ぐ古道を歩くと、「江」の葬列が通ったという我善坊谷に下ることになる。大名屋敷が建ち並ぶ南北高台に比較して、下級武士が住んだというこの我善坊谷は、やはり、昭和の面影が残る。
  • 桜田通りから、旧麻布市兵衛町の高台に上る。仙石家上屋敷地は仙石山森タワーに、南部家上屋敷地はアークフォレストテラスになっているが、ここは、明治維新後、静寛院宮・和宮が住んだところだ。この高台は、今でも、落ち着いた高級住宅地の雰囲気、東京タワーが印象的。
  • 旧麻布市兵衛町から御組坂を下って旧麻布谷町へ至る。本来、坂の両側は崖になっていて、崖上は永井荷風が住んだところだが、今は、泉ガーデンタワーが谷をふさいでいる。
  • 旧麻布谷町から、再び、反対側の台地に上る坂が南部坂、坂上は忠臣蔵ゆかりの地である。元禄以後は、氷川神社が移転してきた。この旧赤坂氷川町一帯は幕末から明治にかけて勝海舟が住んだところでもある。
  • 旧赤坂氷川町から谷に下り、向かいの旧赤坂一ツ木町(台地)へ向かう。この台地は、戦国期の古戦場、江戸になってからは浅野本家の中屋敷地として知られ、明治になってからは、近衛歩兵第三連隊の本拠地であった、現在はTBS・赤坂サカスがある。陸軍の名残は、記念碑と区画に残された境界石に見ることができる。

国土地理院地図(新版-淡色)[ブラウザ:カシミール]に、主な地名・旧跡を書き加えた。

六本木〜鳥居坂〜飯倉〜我善坊谷

【東都麻布之絵図 六本木交差点付近(国会図書館蔵)】
【江(崇源院)ゆかりの地を訪ねる】
お江は浅井長政とお市の方との間に生まれた3姉妹の3女、二代将軍秀忠の正室になった。三代将軍家光の生母であるが、徳川将軍家で正室が次期将軍の生母となったのは、お江のみである。
・1626年、お江は江戸城西の丸で死亡、亡骸は増上寺から麻布野に設けられた荼毘所に移され、火葬された。麻布地区には、葬列が通ったといわれる我善坊谷、葬儀に尽力した寺院など、お江ゆかりの地とされる場所や史跡が点在している。
・1629年、お江の葬儀と三回忌に尽力した教善寺・深廣寺・光専寺・正信寺(いずれも増上寺末寺)には、現・六本木交差点付近に寺地が与えられた。
・戦後の道路拡張に伴い、教善寺・深廣寺・光専寺・正信寺・崇厳寺の墓地を崇厳寺の跡地に集約、共同墓地とした。



【現在の六本木交差点(2017.5.24撮影)
江戸時代初期、この周辺に火葬場があったとは、今では想像できない。江の火葬場の痕跡を求めるとすれば、四ヵ寺の内の深廣寺である。外苑東通りに沿った写真右端に行ってみた。


【深廣寺(2017.6.16撮影)
参道は、工事中でお寺には近づけない。ネットを検索すると、深廣寺の入り口には、[お江の灰塚][佐藤一斎の墓]があり、非公開と書いてあるそうだ。実際の火葬場の位置は、この付近とも我善坊谷ともいわれ、確定しない。

【佐藤一斎の肖像画、渡辺崋山筆】ウィキペディアより転載
【佐藤一斎】
佐藤一斎(1772-1859)は、美濃国岩村藩出身の儒学者、教育者。江戸幕府直轄の教学機関・施設「昌平坂学問所」の塾長として多くの門弟の指導に当たった人物であり、一斎から育った弟子には幕末に活躍した人材たちが多く、佐久間象山、山田方谷、横井小楠、渡辺崋山などが顔を並べている。また、随想録「言志四録(げんししろく)」の著者としても有名であり、指導者のための指針の書とされる同書は西郷隆盛の愛読書であった他、今日まで長く読み継がれている名著として知られています。(参考文献:ウィキペディア+楽天ブックス)
春風を以て人に接し 秋霜を以て自ら粛む  「言志後録33条」
(春風のように相手の気持ちを温かくし、元気が与えられるような接し方がしたいものです。そして、いつも自分に厳しく、秋の霜のように心を引き締めて生活したいと思うのです。)2011年に開会した臨時国会で、野田佳彦総理大臣が政治と行政に携わる者に求められている心として、所信表明演説の中で紹介されました。
(PHP総研・ふるさとの先人より)

【東都麻布之絵図  鳥居坂周辺】国会図書館蔵
【鳥居坂通りに残る大名屋敷・武家屋敷の痕跡】
高台でありながら平坦なこの地域は、大名屋敷・武家屋敷地であった。明治になっても、区割りの変化はなく、その跡に、財閥・公家・宮家が住むことになった。

【鳥居坂(2017.6.16撮影)
坂上の案内柱には「この坂の東側(現・シンガポール大使館)に大名・鳥居家があった事に由来するとある。元禄期1688-1703頃にできた坂のようだ」とある。

【五嶋左衛門尉屋敷地→麻布小学校→麻布区役所
→麻布地区総合支所
(2017.6.16撮影)

【京極壱岐守上屋敷跡・国際文化会館(2017.6.16撮影)
◇江戸期:多度津藩(現香川県)京極壱岐守上屋敷
明治期:井上馨邸→久邇宮邸(1892〜1909)
 1903年3月6日、後に昭和天皇の皇后となる良子が誕生。

◇昭和期:岩崎小彌太邸→国際文化会館

【国際文化会館庭園(2017.6.16撮影)
1929年に岩崎小彌太の所有となり、京都の造園家・七代目小川治兵衛に作庭を依頼し、池泉回遊式庭園が1930年に完成する。1945年5月の空襲で鳥井坂本邸は全焼、GHQによる三菱本社解体の後、失意の内に永眠(66歳)。
1952年、ロックフェラー財団などの支援で国際文化会館が設立された。(マンスリーみつびし21012年3月号より)

※現在の庭園は、1930年の造園されたものではあるが、桃山時代あるいは江戸初期の名残りを留めているといわれる。

【戸田家屋敷跡→東洋英和女学院(2017.6.16撮影)
カナダ・メソジスト教会(現在はカナダ合同教会)婦人ミッションから派遣された宣教師ミス・カートメルにより1884年、東洋英和女学校が東鳥居町14番地に設立された。
その後、1900年、木造4階建ての新校舎(現在地)に移転。
(東洋英和女学院ウエブサイトより)

※隣接していた東鳥居町13番地には、カナダ・メソジスト教会によって東洋英和学校(男子校)が設立されたが、1895年に麻布尋常中学校となり、1900年には東洋英和学校から独立し麻布本村町に移転して麻布中学校となった。ミッションを薄めていき、現在の麻布学園となった。東鳥居町13番地は高台、東鳥居町14番地は坂下の関係であった。

【村岡花子文庫展示コーナー入り口(2017.6.16撮影)
【赤毛のアンの翻訳者、村岡花子が学んだ東洋英和女学院】
[村岡花子(1893〜1968)]翻訳家・児童文学者・評論家
甲府生まれ。1903年(明治36年)東洋英和女学校に10歳で給費生として入学。
在学中から友人の柳原Y子(白蓮)に誘われて佐佐木信綱の門下で和歌・日本の古典文学を学ぶ。そこで同じく東洋英和女学校卒業の歌人・翻訳家の片山廣子を紹介されて近代文学に導かれ、のちに彼女の勧めで童話や翻訳を始めることになる。
1913年(大正2年)に卒業。山梨英和女学校で英語教師を5年間勤めた後、銀座の教文館の編集者となる。1919年(大正8年)に印刷会社を営む村岡?三と結婚。 翌年、長男・道雄誕生。しかし1926年(大正15年)最愛の道雄を病気で亡くしたことをきっかけに、日本中の子どもたちのために外国の家庭文学の紹介をしていくことを自分の進むべき道とし、1927年(昭和2年)にマーク・トウェインの『王子と乞食』を翻訳出版。
以後、75歳で亡くなるまで、日本を代表する外国の家庭文学の翻訳家として活躍。L.M.モンゴメリ作『赤毛のアン』シリーズの翻訳が代表作。

【飯倉−我善坊谷】図は「カシミール3D スーパー地形セット使用」

【飯倉片町、交差点上の高速道路(2017.5.24撮影)
飯倉というのは古くからある地名で、昔伊勢神宮の直轄領である屯倉(みやけ)(役所・倉・水田を含む)を置いた跡なので、この名が起こったといわれている。(港区町名由来より)
飯倉は西は六本木、東は増上寺、南は赤羽橋付近と外苑東通りを尾根道とする南斜面一帯を指していたようだ。

【外交史料館別館展示室(2017.5.24撮影)
外苑東通りに面した外務省施設の向かって左側に展示室がある。幕末期ペリー提督来航からの日本外交の流れをたどる「常設展示」と、テーマを決めた「特別展示」を行っており、常時見学が可能。

【日米和親条約批准書、外交史料館別館展示室(2017.5.24撮影)
左側ページは「大君の命を以て 安政元年甲寅十二月 阿部伊勢守 (花押)」と読める。
展示物はアメリカ公文書館に所蔵する、アメリカ側の批准書コピー、日本側の批准書は幕末期の江戸城火災により焼失。

【アフガニスタン大使館(2017.5.24撮影)
外務省施設を出て、外苑東通りをロシア大使館に沿って進み、右折すると、突き当たりにアフガニスタン大使館がある。

【海軍観象台:国立天文台発祥の地】
[五千分一東京測量原図1883 農研機構配信]
アフガニスタン大使館がある場所には、1874年から海軍の観象台が置かれていた。1888年になって、赤坂区溜池葵町の内務省地理局天象台と合併し、東京帝国大学付属東京天文台が置かれた。

【日本経緯度原点(2017.5.24撮影)
ここには、わが国の経度・緯度を決める基準となる日本経緯度原点が設置されている。この原点の経度・緯度の数値は、1918年に文部省告示によって確定したが、2001年の測量法の改定により、世界測地系が採用されたことから数値が改められ、さらに2011年の東北地方太平洋沖地震による地殻変動で、原点が東へ27cm移動したため、現在の数値に改定された。(港区教育委員会案内板より抜粋)

【日本経緯度原点(2017.5.24撮影)
原点の位置は、天文観測に用いられた機器である「子午環」の中心位置にある。東京天文台は1923年に三鷹に移転したが、子午環跡は国土地理院が日本経緯度原点として引継ぎ、現在もわが国の地理測量の原点として利用されている。
(港区教育委員会案内板より抜粋)

【芝口南 西久保 愛宕下之図 西久保周辺】
国会図書館蔵

【我善坊谷への古道(2017.6.16撮影)
ロシア大使館の端から外苑東通りを横断すると、我善坊谷への古道に入る。

【雁木坂(2017.6.16撮影)

【三年坂(2017.6.16撮影)
古道の突き当たりを左に折れると三年坂、我善坊谷に下ることができる。※正面と右側の建物は霊友会

【三年坂から我善坊谷を望む(2017.6.16撮影)
江の葬列が通ったという我善坊谷、江戸期を通して、お先手組の屋敷地だった。谷の両側の高台は大名屋敷であったが、現代では、オフィスビル・高級マンションが建ち並ぶ。まるで、別世界に降りていく錯覚に陥るこの三年坂、坂は江戸期からあったが、名前の由来は不明という。

【谷底の掲示板(2017.5.24撮影)
つい最近まで我善坊という名が残っていた。


仙石山〜旧麻布市兵衛町

【神谷町から市兵衛町へ】
(江戸切り絵図・西久保愛宕下之図 国会図書館蔵)

【明治初期の市兵衛町界隈】
(明治東京全図1876年 国立公文書館蔵)
静寛院宮、仙石家、大久保一翁などの屋敷が確認できる

【神谷町から市兵衛町へ】
図は「カシミール3D スーパー地形セット使用」
【神谷町から市兵衛町へ】
  • 地下鉄の神谷町駅から西へ、緩やかな上り坂となるが、仙石讃岐守の上屋敷跡
  • 我善坊谷の崖に沿って進むと、南部家上屋敷跡、明治になってから静寛院宮が住んだところとなる。
  • 市兵衛町と名付けられているこの高台は、江戸期には大名屋敷、武家屋敷が並んでいたが、近年では、住友グループ、大使館の所有になった。
  • 市兵衛町の高台から西の谷に向かう道は御組坂、谷間には江戸期、御先手組の組屋敷地があった。
  • 谷間には、泉ガーデンタワーが建てられているが、左右両側の崖上は永井荷風縁の地である。
  • 泉ガーデンレジデンスの地は、明治初期、大久保一翁の邸宅であった。

【仙石山町会碑(2017.5.24撮影)
この斜面地に仙石家上屋敷があった、確かな名残。

【仙石山森タワー(2017.5.24撮影)
さらに進むと、仙石山テラス、仙石山森タワーの再開発ビルがある。

【静寛院宮 和宮旧居跡付近(2017.6.16撮影)
仙石山テラスを回るように進むと、一寸小高いところにアークフォレストテラスというビルが建つ。ここが、南部家上屋敷跡→静寛院宮旧居跡になる。

【アークフォレストテラスから見た東京タワー(2017.6.16撮影)
振り返ると、右側の谷は我善坊谷、正面に霊友会ビル越しに東京タワーが見える。

【我善坊谷坂(2017.6.16撮影)
【家茂の正室・和宮】
・1846年、仁考天皇の皇女として、母方の実家で権大納言の橋本実久の邸内で生まれた。
・1851年、6歳を迎えた和宮に兄、孝明天皇の言いつけにより、その時17歳の有栖川熾仁親王と結婚の内約を結んだ
・1861年、降嫁の勅許が出され、中仙道を関東下向した。清水家を経て大奥に入る。
・1862年、将軍家茂と婚儀をあげた。
・1866年、第2次長州征伐で大阪城に滞陣していた家茂が21歳で死去した。
・1868年、明治維新
・1869年、結婚以来始めての里帰りのため京都へ向かう。
・1874年、再び東京に戻り、かねてから用意されていた麻布市兵衛町に居を定める。
・1877年、脚気の湯治療養のために滞在していた箱根環翠楼で死去、享年32歳。

【御組坂(2017.6.16撮影)
坂名の由来は江戸時代に幕府の御先手組という、戦時の先頭部隊で、常時は放火・盗賊を取り締まる人々の屋敷が南側にあったためという。(現地、案内標識より)
[明治東京全図1876年]を見ると、御組坂は谷を下る長い坂であるように見える。正面は、泉ガーデンタワー、南北に泉通りがある。

【谷に建つ泉ガーデンタワー(2017.6.16撮影)
御組坂の先は、谷間のはず、その両側の高台に[永井荷風の住居・偏奇館]と、[山形ホテル]があったはずであった。
位置は確定できないが、
イメージとしては;1.山形ホテル、2.偏奇館、3.大久保一翁住居跡

【偏奇館跡:永井荷風の自宅・仕事場跡(2017.6.16撮影)
プレートは泉通りに面した植え込みにある。実際には、泉ガーデンタワーの片隅のはずで、そこにプレートを埋め込めば良いものを...
【大久保一翁(1818〜1888)】
幕臣。1854年老中阿部正弘に登用され、目付兼海防掛となる。以後、蕃書調所総裁、駿府町奉行、京都町奉行などをつとめる。安政の大獄で井伊直弼により罷免されるが、1861年再び登用され、蕃書調所頭取、外国奉行などを経て、1868年会計総裁、若年寄となる。江戸城の無血開城実現に寄与。のち静岡県知事、東京府知事、元老院議官等を歴任した。
(以上、国立国会図書館 近代日本人の肖像より)

1854年、大久保は意見書を提出した勝海舟を訪問、その能力を見いだし、老中阿部正弘に推挙して、登用の道を開いた。幕府崩壊後も幕府会計総裁として戊辰戦争の始末にあたる一方、新政府側からも旧幕府へのパイプ役として重んじられた。勝海舟、山岡鉄舟とともに「江戸幕府の3本柱」といわれる。

【山形ホテル跡
偏奇館とは谷を挟んだ対岸にあたる
(2017.6.16撮影)
永井荷風が食事・接客のために頻繁に利用したという。荷風の日記『断腸亭日乗』に登場するホテル。山形ホテルの主人、山形巌の子息が俳優山形勲。
※麻布市兵衛町由来:麻布地区北部の台地上にあった市兵衛町は、慶長(1596〜1615)のころは今井村の内であり、その畑地のなかに今井台町という町ができました。今井台町は今井村の台上の意味の町名でしたが、1695年に名主の名をとって市兵衛町と改名しました。(港区ウエブサイトより)※

【日本国憲法草案審議の地(2017.6.16撮影)
この地は、1946年、連合国軍総司令部と、日本国政府との間で、日本国憲法草案について審議された跡地である。この地には(財)原田積善会 の本部があり、戦後に外務大臣官邸として使用されていた。
当事者に総司令部側代表としては、民生局長ホイットニー准将、民生局次長ケーティス大佐の両名で、日本側は当時の外務大臣吉田茂 と法務大臣松本烝治 であった。
八木通商株式会社


旧赤坂氷川町

【赤坂氷川町】
江戸切り絵図・赤坂絵図(国会図書館蔵)

【赤坂氷川町周辺】
図は「カシミール3D スーパー地形セット使用」

【南部坂入り口(2017.6.16撮影)
麻布市兵衛町から麻布谷町に降り、六本木通りを横断して麻布今井町に上る(実際には、横断歩道橋を渡る)。江戸初期には坂上に南部家中屋敷があったので南部坂。1656年、南部家と浅野家との間で屋敷地を交換して、坂上には、三次浅野家下屋敷(現 氷川神社)と赤穂浅野家下屋敷(現 サン・サン赤坂)があった。

【南部坂(2017.6.16撮影)
左の石垣はアメリカ大使館宿舎、坂のカーブも江戸期の面影を残す。この坂は、『忠臣蔵』の名場面のひとつ、大石良雄が瑤泉院に暇乞いに訪れた「南部坂雪の別れ」の舞台としても知られる。瑤泉院は浅野長矩の切腹以降、実家の三次藩浅野家下屋敷に引き取られていた。(ウイキペディア)。
※実際に、大石良雄が瑤泉院に暇乞いに訪れたかどうかは定かではない。

【勝安芳、明治期の住居跡(2017.6.16撮影)
南部家→浅野家下屋敷→柴田七九郎→勝安芳→氷川小学校→特別養護老人ホーム(サン・サン赤坂) 
【勝安芳】
明治維新後、静岡から東京へ帰り、1872年の49歳から76歳で亡くなるまで住んでいた屋敷の跡地。その間、参議・海軍卿、枢密顧問官、伯爵として顕官の生活を送り、傍ら有名な「氷川清話」などを遺した。その後、屋敷跡は東京市に寄付された。
(東京都港区案内板より抜粋)



写真は、勝安芳、国会図書館・近代人の肖像より

【三次浅野家下屋敷跡、赤坂氷川神社内(2017.6.16撮影)
元禄の頃、この地は備後国三次藩浅野家の下屋敷でした。初代藩主は、安芸国広島藩二代藩主光成の庶兄因幡守長冶で、娘には、播磨国赤穂藩主浅野内匠守頭長矩の正室となった阿久里(阿久理、阿久利とも)がいます。
1701年元禄赤穂事件が起き、赤穂藩は断絶となりましたが、長矩の正室阿久里は、出家し瑤泉院と称し、生家となる三次藩の家に引き取られました。1714年に死去するまで、ここに幽居しました。その後、三次藩は藩主不在で断絶(1718年)となり、諸領は広島藩へ還付されます。(東京都教育委員会案内板より抜粋)

【赤坂氷川神社(2017.6.16撮影)
1729年、八代将軍徳川吉宗の命により現在地に現社殿を造営
1730年、 一ツ木台地から現在地へ遷宮する
吉宗は「享保の改革」と呼ばれる倹約政策をとったことで有名で、社殿にも当時の質実簡素な気風を見ることが出来ます。(東京都教育委員会掲示より)

【氷川神社社殿(2017.6.16撮影)

【推定樹齢400年以上の大イチョウ(2017.6.16撮影)
1994年設置の東京都の案内板には、推定樹齢400年とあるので、ここに植えられたのは、江戸時代初期と思われます。
【勝海舟、幕末期の住居跡(2017.6.16撮影)
港区赤坂6丁目10番39号の「ソフトタウン赤坂」が建つこの地は、幕末から明治にかけて、幕臣として活躍した勝海舟が1859年(36歳)から1868年まで住んだ旧跡である。海舟は終生赤坂の地を愛し、3カ所に住んだが、当所居住中の10年間が最も華々しく活躍した時期に当たる。海舟は号で名は義邦。通称麟太郎、安房守であったから安房と称し、後に安芳と改めた。1862年、海舟を刺殺しようとして、訪れた旧土佐藩士坂本龍馬らに世界情勢を説いて決意を変えさせ、逆に熱心な門下生に育てて、明治維新への流れに重要な転機を与えることになったのもこの場所である。
(現地説明板より抜粋)


※[赤坂田町での蘭学塾]
勝海舟、1823年、本所亀沢町に生まれる。育ちは本所入江町。赤坂溜池の福岡藩屋敷内に住む永井青崖に弟子入りした。この頃から、本所から赤坂田町に転居、1850〜1859年蘭学塾を開いた。幕府に提出した意見書が認められたのは、この時代である。


旧赤坂一ツ木町

【赤坂一ツ木町周辺】
図は「カシミール3D スーパー地形セット使用」
【一ツ木古戦場跡赤坂5丁目付近
1524年、小田原城主北条氏綱は、上杉朝興を攻めて、江戸城を奪い、河越城へと潰走する上杉軍を追撃、このとき取った敵の首を並べ、北条の旗を掲げて勝ちどきを上げたのが一ツ木原。(港区立図書館ウエブサイトより)

※赤坂、地名由来
この赤坂の地は古くは『茜坂』と呼ばれていた。その名のとおりアカネが群生していたとされている。
※一ツ木町、町名由来
1567年に、武州豊島郡貝塚領人継原を開発して人継村となり、1590年の徳川家康入府に際して、伊賀者のの地に下され百姓町屋になった。
1696年頃から一ツ木村を「赤坂一ツ木村」と改めた。(赤坂地区旧町名由来板より)


1966年の住居表示実施に伴う町名変更により赤坂五丁目に含まれる。一ツ木町は消滅したが一ツ木通りに名を残す。
赤坂一ツ木町の歴史を端的に示せば
[一ツ木古戦場]→[広島浅野家中屋敷]→[近衛歩兵第三連隊]→[TBS]ということになる。

【赤坂一ツ木町周辺】
江戸切り絵図・赤坂絵図(国会図書館蔵)

【報土寺、築地塀、三分坂(2017.6.16撮影)
1614年に、赤坂一ツ木(現赤坂二丁目)に創建され、幕府の用地取り上げにより1780年に三分坂下の現在地に移転してきた。この築地塀はこのころに造られたものといわれている。(東京都港区教育委員会掲示より)

【雷電為右衛門の墓、報土寺(2017.6.16撮影)
1767年、信州(長野県)小諸在大石村に生まれた。生まれながらにして、創建、強力であったが、顔容はおだやか、性質も義理がたかったといわれる。
1784年年寄浦風林右衛門に弟子入りし、1790年から引退までの22年間のうち大関(当時の最高位)の地位を保つこと、33場所、250勝10敗の大業績をのこした。
雲州(島根県)松江の松平侯の抱え力士であったが引退後も相撲頭に任ぜられている。1814年当寺に鐘を寄附したが異形であったのと、寺院、鐘楼新造の禁令にふれて取りこわされた。
1825年江戸で歿した。(東京都港区教育委員会掲示より)

【三分坂(2017.6.16撮影)
報土寺前から一ツ木台地へ上る急坂、正面がTBS。
急坂のため通る車賃を銀三分(さんぷん:百円余)増したためという。(案内標識より)

【広島浅野家中屋敷跡
赤坂サカス、TBSなどがある
(2017.6.16撮影)
三分坂を上り、一ツ木台地へ。浅野家中屋敷の痕跡はない。しかし、ここが、226事件の決起部隊の一つである近衛歩兵第三連隊があった場所だとして記憶しておく必要がある。

【近衛歩兵第三連隊跡(2017.10.30撮影)
TBS西隣の赤坂パークビル敷地の隅に、「近衛歩兵第三連隊」の記念碑がある。
1885年、近衛歩兵第三連隊がこの場所に創設された。
1936年、2月26日雪の降る朝、近衛歩兵第三連隊から決起部隊に参加したのは中橋基明中尉率いる第7中隊の2個小隊130名ほど。大蔵大臣高橋是清は若い青年将校が放った銃弾と軍刀二太刀のもとにそのまま命を断たれた。今の高橋是清記念公園がその現場。

【円通寺(2017.6.16撮影)
「近衛歩兵第三連隊」記念碑に隣り合わせて、円通寺がある。寺の前を通る緩やかな坂は円通寺坂。円通寺と円通寺坂は、幕末の切り絵図の通りだが、隣の専修寺は移転を余儀なくされたようだ。


【専修寺跡(2017.6.16撮影)
1559年、増上寺の末寺として青山に創建
1581年、赤坂堀端に移転
1625年、赤坂一ツ木に移転
1907年、近衛歩兵第三連隊拡張のため、軍令により品川へ移転
(以上、碑文より)

【陸軍の痕跡(2017.10.30撮影)
円通寺坂を下りていくと、右側歩道に「陸軍省所轄」と読める境界石を見ることができる。

【陸軍の痕跡(2017.10.30撮影)
さらに進むと、自動販売機のところにも「陸軍・・・・」と書かれた境界石が残されている。



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