歴史散歩 トップ>Walking-Ikebukuro
Internet Walk トップ>Walking-Ikebukuro

歴史散歩:池袋(湖沼地帯の痕跡)から新大塚(崖下)まで


2025年4月22日(火)
錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、歴史散歩。
[池袋地名ゆかりの地]→[東京府豊島師範学校跡]→池袋駅を横断→[巣鴨プリズン跡(サンシャインシティ)]→[水窪側の源流跡(美久仁小路)]→[明治天皇御野立跡]→[日の出町公園]→[雑司ヶ谷霊園]→[本教寺]→再び水窪川跡に戻って→[巣鴨監獄時代の排水溝跡]→[巣鴨監獄跡地、造幣局跡地(イケ・サンパーク)]→[水窪川が都電を横切る痕跡]→[富士山広場(第一辻広場)]→[ポポー広場]→[鈴木信太郎記念館]→[東京メトロ新大塚駅]


元池袋史跡公園(池袋駅西側)から

【雑司ヶ谷村絵図と丸池】
すでに、雑司ヶ谷散歩の時に、雑司ヶ谷村中心を流れる弦巻川流路を辿ったが、その源泉は、村はずれの「丸池又は袋池」である。
武蔵豊島郡雑司谷村絵図、明和9年(1772年)

【池袋駅西側】
池袋停車場が出来たのが1903年(明治36年)、東京府立師範学校が開校したのが1909年(明治42年)なので、明治末から大正期の地図と思われる。所蔵館は不明。
雑司ヶ谷の村界と丸池の所在が確認できる。

【1960年頃の池袋駅西側】
街並み(道路)は現在に近くなっている。

【現在の池袋駅西側】
【池袋地名ゆかりの地、豊島区立元池袋史跡公園内】
弦巻川の水源の池である丸池(袋池とも)を擁した元池袋公園が、現在の池袋デュープレックスタワーの敷地内にあったが、下水道工事のための土地交換により廃止され、それに伴い丸池も完全に埋め立てられた。しかし、池袋の地名の由来とされる丸池が存在したことを後世に残しそれを偲ぶため、東に隣接する現在の地に"史跡"公園として再び開園した。
弦巻川は丸池に端を発し、びっくりガード南側 - オリナスふくろうの杜南側 - 鬼子母神北側 - 東京音楽大学南側 - 不忍通り - 音羽通り - 江戸川橋駅 - 神田川と流路を作っていた。
(ウイキペディアより)
【成蹊学園発祥の地、元池袋史跡公園内】
  • 1906年(明治39年) 本郷西片町に学生塾開塾
  • 1912年(明治45年) 成蹊実務学校を池袋に創立
  • 1924年(大正13年) 実務学校・中学校・小学校・実業専門学校 池袋から吉祥寺へ移転、新校舎(現本館)完成
【東京府豊島師範学校、
同附属小学校発祥の地(池袋西口公園内)】
  • 1908年(明治41年) 東京府豊島師範学校設置告示
  • 1909年(明治42年) 東京府豊島師範学校開校
  • 1911年(明治44年) 附属小学校開設
  • 1943年(昭和18年) 東京第二師範学校と改称
  • 1945年(昭和20年) 空襲により付属校舎を除き全焼
  • 1947年(昭和22年) 本校、小金井へ移転
  • 1949年(昭和24年) 東京第一師範学校、東京第三師範学校等と合併し、東京学芸大学となる 
  • 1964年(昭和39年) 残されていた付属豊島小学校、小金井に移転
(現地案内板より転載)


(池袋駅東側)グリーン大通りから旧巣鴨村へ

【大正13年(1924年)東京府下巣鴨町西巣鴨町全図】
公益財団法人特別区協議会蔵
−畑の中に刑務所が出来る−
(明治初期:石川島人足寄場は石川島監獄署となる)
1895年(明治28):巣鴨村へ移転、警視庁監獄巣鴨支所→巣鴨監獄→巣鴨刑務所
1935年:巣鴨刑務所は関東大震災(1923年)で被災し、この年に府中市へ移転(府中刑務所)。

【1956年頃の池袋駅周辺】
1937年(昭和12):巣鴨刑務所跡地(約三分の一程度)には、未決囚を主に収容する、東京拘置所が設置された。
1945年(昭和20):GHQは東京拘置所を接収し巣鴨プリズンを開設、A級・BC級戦犯容疑者の収容、刑の確定後の刑の執行を行う。東條英機ら7人のA級戦犯と、BC級戦犯が処刑された。
1952年(昭和27):巣鴨プリズンは日本に移管され巣鴨刑務所となる。
1958年(昭和33):巣鴨刑務所に東京拘置所が併設される
1962年(昭和37):巣鴨刑務所閉鎖
1971年(昭和46):東京拘置所が小菅に移転

【東京拘置所跡にサンシャインシティが出来た】
1973年(昭和48):サンシャインシティ着工
1978年(昭和53):サンシャイン60竣工

【巣鴨プリズン跡碑】
 「永久平和を願って」
(背面には、次のように書かれている)
「第二次世界大戦後、東京市谷において極東国際軍事裁判所が課した刑及び他の連合国戦争犯罪法廷が課した一部の刑が、この地で執行された。
 戦争による悲劇を再びくりかえさないため、この地を前述の遺跡とし、この碑を建立する。
  昭和五十五年六月」


旧巣鴨村から旧雑司ヶ谷村へ

【旧雑司ヶ谷村の現在】

1:水窪川の源流となる湧水帯があった。水窪川は雑司ヶ谷村の北村界に沿って流れ、護国寺北側から神田川に注いでいた。現在は、美久仁小路という飲食店街となっている。

2:明治天皇御野立所跡

3:旗本中西公の拝領地で、中西の森(江戸期)→根津山(明治後期)→グリーン大通りが貫いている
[中西公の拝領地]は雑司ヶ谷村に属し、雑木林に覆われていたので「中西の森」と呼ばれる丘陵地帯だった。明治時代後半、根津嘉一郎(根津財閥の創始者)が土地を取得し、一帯は「根津山」と呼ばれ600メートル、幅300メートルほどの雑木林が広がっていた。

【雑司ヶ谷村絵図1772年、北部の拡大図】
左が旗本・中西弾正の屋敷地、右が御鷹方屋敷
ブルーの線は、現在でも確認できる屋敷地輪郭、[NPO法人豊島遺跡調査会の推定図]を参考に筆者が書き入れた。

4:御鷹部屋跡(現在、雑司ヶ谷霊園)

5:本教寺

6:御鷹方屋敷跡

【グリーン大通り上、護国寺方面を望む】
高速道路の下あたりから、標高は急激に低くなっていることがわかる。ここは、「中西の森」と呼ばれる丘陵地帯だった。その為か、グリーン大通りは、緑の並木道となっている。このあたりは旧雑司ヶ谷村。

【明治天皇御野立所跡】
  • 1875年(明治8年)、明治天皇は「近衛兵」の演習を観閲をするため板橋方面に出向いた際にこの地で休憩された。
  • 昭和16年、根津育英会が、この土地(230余坪、約759平米)を東京市へ寄付
  • 昭和18年、東京市が御雑司ヶ谷野立所を開園(797.67平米)
  • 昭和25年、東京都から豊島区へ
  • 昭和31年、豊島区は10平米を残して、他は売却
  • 昭和40年、碑が建立され、現在に至る
(豊島区教育委員会資料より)

【水窪川の源流、美久仁小路】
大正時代の地図を見ると、水窪川は巣鴨村と雑司ヶ谷村の村界に沿って、流れていたようだ。その後、護国寺の北側を流れ、不忍通りを横切り、小日向の崖下を流れ、鳩山会館を通り、神田川に注いでいた。
(以下、文春オンラインより)
水窪川の始まりは、現在「美久仁小路」と呼ばれる飲み屋の並ぶ路地付近にあった。かつて駅東口の一帯は「蟹ケ窪」と呼ばれ、その名の通り浅い窪地が現在のサンシャインシティ方向へ続いていた。「美久仁小路」はその谷の途中にあたり、今でも周囲よりもわずかに窪んでいる。そこには昭和の始め頃まで、畔に栗の木の生える小さな池があって、川が流れ出ていたという。
池は市街地化の中でいつの間にか埋め立てられ、そして池袋は空襲で焼け野原となる。終戦翌年の1946年始めには駅周辺に「マーケット」と呼ばれる闇市が林立、数百軒の店がひしめきあった。
これらのマーケットは区画整理のため1950年から51年にかけて撤去されるが、一部の店は近くの別の場所に土地を得て移転、小さなマーケットをいくつか形成する。それらのひとつがこの「美久仁小路」だ。
(神田川までの流路が写真付きで紹介されている)

【水窪川跡】
高速道路をくぐって、「マイバスケット」北側の路地を進む

【水窪川跡、日出町公園】
水窪川はこの日出町公園中をさらに東に流れたようだ。
一旦、水窪川跡を追うのは中断して、ここから雑司ヶ谷墓地方面(南方)へ向かう。


雑司ヶ谷霊園(御鷹部屋跡)と本教寺

【雑司ヶ谷村側に残る[字水久保]】
大正13年(1924年)東京府下巣鴨町西巣鴨町全図には、水窪川の南、雑司ヶ谷村に[字水久保]の地名が残る。
このあたりは、[日出町]から[東池袋四丁目]に変わった。

【東池袋四丁目停留所(都電荒川線停留所)】
1925年水久保停留場
1939年日出町二丁目停留場に統合
1967年東池袋四丁目停留場
(当初は、王子軌道鉄道の停留場として出発し、現在では東京さくらトラムの停留場になっている)

【雑司ヶ谷霊園】
江戸時代(徳川吉宗の時代)、御鷹部屋があった。

【雑司ヶ谷霊園】
【御鷹部屋と松】
このあたりには、江戸時代中期の享保4年(1719)以降、幕府の御鷹部屋がありました。御鷹部屋には、鷹匠頭をはじめ目付、同心など当時7,80名がおり、鷹狩りに用いる鷹の飼育や訓練などを行っていました。また鷹狩りの際には、将軍が立ち寄って休息したり、食事をとったりしたこともあったようです。御鷹部屋敷地内には松の木がありました。この松の木は、当時のようすをしのばせてくれます。

枯れかかった松の木が一本残っているのみ!!

※2025.4.22現在、この松は、伐採されてしまった、切り株のみ残る。左の写真は、2024.10.26下見の時のものである。

【第40代日本国内閣総理大臣、東条英機の墓】
[東条英機(1884年〜1948年)]
東京出身の軍人。陸軍に入り、1937年には満州国の実権を握る関東軍で参謀長となる。能吏ぶりからカミソリ東条と呼ばれ、大将当時の41年に首相になるが、軍を抑えきれず対米開戦。敗戦後、連合国による東京裁判で戦争を指導したA級戦犯として死刑を宣告され、48年に執行された。
アメリカの公文書では、戦犯の遺骨は太平洋にまいたとされているので、この墓の中にはないのかも知れない。

【永井荷風の墓】
[永井荷風(1879年〜1959年)]
小説家、随筆家。明治31(1898)年広津柳浪の門に入り小説家を志す一方、落語家や歌舞伎作者の修業もした。36(1903)年から5年間アメリカやフランスに遊学し、その体験をもとに『あめりか物語』(1908)、『ふらんす物語』(1909)等を執筆、文壇に新風を吹き込む。43(1910)年に慶応義塾大学教授となり、雑誌『三田文学』を創刊。大正5(1916)年自由な隠遁生活に入り江戸趣味に傾倒し、6(1917)年には日記『断腸亭日乗』を起筆。昭和になると、新風俗に好奇心を向けた『つゆのあとさき』(1931)、『ひかげの花』(1934)、時代を風刺した『?東綺譚』(1937)を発表。
(国会図書館近代日本人の肖像より転載)

[小栗忠順(1827年〜1868年)の墓]
幕臣。安政6(1859)年目付となり、翌万延元(1860)年日米修好通商条約批准書交換使節の一員として渡米した。帰国後は勘定奉行、軍艦奉行等を務め、横須賀製鉄所建設、関税率改訂交渉、軍制改革などの任にあたり、動乱期の困難な幕府財政を支えた。戊辰戦争に際し強硬な抗戦論を主張して罷免され、所領地の上州群馬郡権田村に隠棲したが、新政府軍により捕縛、処刑された。
実際の遺骨は、群馬県高崎市倉渕町権田の東禅寺の墓にある。この墓の裏側には、小栗忠順の名が刻まれてはいるがは、娘婿以後の墓と言うことになる。

【番神通り、本教寺へ】

【服部嵐雪墓】豊島区南池袋2-41-4 (本教寺)
江戸時代の中期の俳人で雪門の祖である。幼名は久馬之助、江戸湯島に生れたといわれるが出生地については異説が多い。通称を彦兵衛と称した。新庄隠岐守、井上相模守に仕えたがのちに仕を辞し、済雲和尚に従って禅を学び松尾芭蕉の門に入り黄落庵、石中堂、寒蓼堂、雪中庵、不白軒、玄峰堂などの号がある。彼は蕉門十哲の一人で、榎本其角と並び称せられ、名は広く知られた。芭蕉の死後、其角と江戸俳壇を二分し、門下に有名な俳人を多く輩出している。著書には「其袋」「或時集」「杜撰集」「若水」などがある。宝永4年(1707)10月13日、54歳で没した。初め本郷駒込の常験寺に葬り、大正8年(1996)に改葬された。
東京都教育委員会
服部嵐雪系統の俳諧の流派を雪門という。榎本其角の江戸座に対し、俳風は平明・温和。桜井吏登・大島蓼太の活躍で天明期(1781〜1789)には江戸俳壇で最大の勢力をもった。(コトバンク)

服部嵐雪の代表句

[枕屏風]
布団着て寝てる姿や東山

[遠のく]
梅一輪いちりんほどの暖かさ

[萩の露]
名月や煙はい行く水の上

[続虚栗]
木枯らしの吹き行くうしろすがた哉
 
【玄峰集に収載されている[梅一輪の句]】
玄峰集:服部嵐雪の句集、この句集は、嵐雪の死後、小栗旨原が編集したもの。編集年がはっきりしないが、小栗旨原は1725-1778なので、1700年代中期と言うことになる。
玄峰集・春之部・梅の項目に
[むめ一輪一りんほどのあたゝかさ]と読める。
(玄峰集:早稲田大学図書館蔵)
 
【続みなし栗に収載されている[芭蕉を送る句会の様子]】
続みなし栗:1687年、榎本其角による俳諧撰集

留別吟:[旅人と我名よばれん初霽 芭蕉]

送別吟:[木枯らしの吹き行くうしろすがたかな 嵐雪]


水窪川跡と巣鴨プリズン(現サンシャインシティ)
御鷹部屋跡(雑司ヶ谷霊園)、御鷹方屋敷跡を後にして、再び水窪川跡と巣鴨プリズン跡へ向かう。
なお、地図中のA,B,Cなどの文字は、以下のコマの写真・説明に対応している。

【1905年頃の水窪川】
1905年頃とされる国際文化センター所蔵の地図ですが、1895年建造とされる「巣鴨監獄」は書かれていないので、建造直前の様子と思われる。

【2024年頃の水窪川跡】
日出町公園付近は、近年、区画整理が行われたとのこと、ここからA1、A2までは、水窪川の跡は追えない。A1は巣鴨村と雑司ヶ谷村の村界として知られているが、こちらにも川の流れがあったか?日出町公園から都電・東池袋四丁目あたりまでは、水田地帯であった。
(地図は地理院地図をカシミールでブラウズした)
【池袋暴走事故 慰霊碑、
平成31年(2019年)4月19日、この地で母子2人が亡くなり、10人が重軽傷を負う悲惨な自動車事故が発生しました。この事故を受けて慰霊碑設置の募金が全国各地から寄せられました。ここに、亡くなったお二人をはじめとするすべての事故の犠牲者を悼み、二度とこのような交通事故が起きない社会を築く誓いを込めて慰霊碑を設置します。
令和2年(2020年)4月 交通安全宣言都市 豊島区
※この事故の加害者は、禁錮5年の実刑判決を受け、服役中だったが、2024年10月26日老衰のため、刑務所で死亡した、93歳という。

【水窪川跡・A1,A2】
撮影位置からは、通りを隔てて3つの路地が見える。最も右の信号機のから入る路地は、「御鷹方屋敷」の区画すなわち、雑司ヶ谷村と巣鴨村の村界と思われる。「串カツ田中」の左の路地が水窪川跡。

【水窪川跡・B】

【水窪川跡、日光広場・C】

【巣鴨監獄時代の石垣と排水口の石組・D】
(現地解説板の拡大写真。道路整備で撤去されてる以前の写真で、住民からの提供という)

【排水口の石組は撤去された・D】
排水口の石組は撤去され、コンクリート製の階段でイケ・サンパークに行けるようになっている。

【イケ・サンパーク、巣鴨監獄、造幣局跡地・E】

【巣鴨監獄の排水口のモニュメント・F】
(以下、現地解説版より)
このアーチ状の石積みは、本公園の敷地の隣接道路(都市計画道路補助176号線および特別区道41-340)を支えていた石垣の一部で、周辺道路整備で撤去した際に保存し、公園内に復元したものです。 かつてこの地には巣鴨刑務所があり、関東大震災で被害を受けその後縮小され、1939年(昭和14年)、縮小により空地となった土地の一部に造幣局が移転してきました。この地には長らく貨幣の製造工場や博物館がありましたが、それらの機能は2016年(平成28年)にさいたま市へ移転し、その跡地に豊島区からの要請を受けたUR都市機構が本公園を整備しました。
そうした歴史から、かつてこの石積みは巣鴨刑務所の排水口として、この周辺を流れていた水窪川(現・暗渠)につながっていたのではないかと考えられています。

【造幣局跡地の桜・G】
現地案内板には、
「この桜の木は、造幣局の旧東京支局敷地内で植えられたものです。造幣局旧東京支局は、1939年(昭和14年)にこの地で操業を開始し、貨幣や勲章の製造、貴金属製品の品位証明などの業務を担ってきました。その後、2016年(平成28年)にさいたま市大宮区へと移転し、現在に至っています。以下略」

【かつての巣鴨刑務所正面入口付近・H】
この桜は、イケ・サンパークの北端にあるが、ここは、明治時代の巣鴨刑務所正面入口付近でもあった。
左:イケサンパーク、右:豊島区立朋有小学校
左奥に:東京国際大学

【水窪川跡・I】
水窪川は、この位置で、都電を横断していたようだ。近くまで寄ってみよう。

【水窪川跡・J】
水窪川跡はここで都電を横切り、ビルが行く手を遮っている。

【怪しげなレールを発見・J】
水窪川は都電のレールの下をくぐっていたはずだ。その辺りを探すと、怪しげなレール2本を発見。その間隔は、川幅とみても不思議はない。(柵の外から撮影している)

【水窪川跡・J】
さらに、目を落とすと、暗渠の跡らしい石組みを発見!水窪川の暗渠があるとすれば、この位置なので、かなり有力だ。
(柵の外から撮影している)

【水窪川跡・K】
都電を越え、ビルの背後には再び水窪川跡が現れる。

【富士山広場にある水窪川の碑・L】
碑には「昔ここに小さな川が流れていた 後世にこれを伝える 1986年」と書かれている。
また、文春オンラインには、
「商店街の付近は空襲の被災から奇跡的に逃れ、木造住宅が密集した街並みが戦後長いこと残った。一方、災害時のリスクや住環境の改善が課題とされ、1985年頃から街中に「辻広場」と称した空間の創出が図られる。水窪川の暗渠沿いにある「富士山広場」はその第1号だ。」と紹介されている。

【水窪川跡・M】
やがて、城北信用金庫脇の公道か私道か判別不明の路地に入っていく。

【水窪川跡・N】
このあたりから、豊島区を離れて、文京区になる。

【水窪川跡・O】
文京区に入ると、右側の標高が高いことが実感される。水窪川は豊島岡の崖下を流れていたようだ。

【水窪川跡、大恪竕コ町公園・P】
丘の上が比較的広い公園になっていた。水窪川はこの崖下を流れていた。

【水窪川跡、ポポー広場前】
ここは、谷間になっている、ここから、北側(左)斜面を登ると春日通り(東京メトロ・丸ノ内線・新大塚駅)

【ポポー広場、辻広場】
「北米原産の果樹です。花は暗褐色で下向きに咲きます。アケビに似た形の果実は秋に熟し、独特な香りがあります。」
説明文・花と果実の写真は現地説明板より。

【鈴木信太郎記念館】
豊島区では平成22年にフランス文学研究者の鈴木信太郎氏(1895-1970)の居宅をご遺族から寄贈いただきました。
鈴木信太郎は20世紀前半の日本のフランス文学研究黎明期に、ステファヌ・マラルメなどの象徴派の詩人や、ヴィヨンを中心とする中世文学を研究したフランス文学者です。また、フランス文学関係の稀覯本蒐集家(きこうぼんしゅうしゅうか)としても知られています。

昭和3年に建築された鉄筋コンクリート造の書斎棟、戦後の昭和21年に建築された茶の間・ホール棟、明治20年代に埼玉県北葛飾郡富多村下吉妻(現在の春日部市)に建築された信太郎の実家の母屋を昭和23年に移築した座敷棟という建築年代の異なる貴重な建造物が同一敷地内に所在することから、旧鈴木家住宅として、区の有形文化財(建造物)に指定しました。

※残念ながら、この日、この施設は、整備ため立ち入り禁止で、チェーンが行く手を塞いだ。左の写真は、2022年下見の時撮影したもの。

【水窪川跡は深い谷間になっていた】
水窪川跡の畔に、ポポー広場という小高い辻広場があった。その北側の傾斜地を進むと、鈴木信太郎記念館があった。
すぐ近くに、細い石段があり、上ってみると、暫く水平地が続く、この高さに鈴木信太郎記念館があったのだった。更に北へ進むと、同程度の石段があり、上りきると、春日通りに出る。東京メトロ新大塚駅が目の前に現れた。
太古の昔から、水窪川が台地を削り、今では、斜面地にビッシリ住宅が密集している。
この状況は、防災上危険であるので、自治体は空き住宅を「借り上げ」又は、「買い上げ」て、防災拠点(日光広場、富士山広場、ポポー広場など)としているとのことだった。



歴史散歩 トップ>Walking-Ikebukuro
Internet Walk トップ>Walking-Ikebukuro (C)2025  KUWAJIMA Toshihisa