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歴史散歩:鐘ヶ淵−橋場−向島を歩く


2018年5月12日(土)
錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、歴史散歩。
  • 5月としては、気温は高め、しかし、風があるので心地よい歴史散歩となった。
  • 鐘ヶ淵駅を出発、「古東海道」を西へ、旧隅田村に入ったところで「下の道」と交差する。さらに進むと墨堤通りに至るが中央分離帯に行く手を阻まれる、横断歩道を迂回して木母寺旧地に向かう。
  • 木母寺は、東京都の防災拠点(都営白鬚東団地)造成のため、隅田川沿いに移転を余儀なくされ、由緒ある古隅田川河口は埋め立てられ破壊されてしまった。梅若伝説(謡曲・隅田川物)ゆかりの地、旧河口・水神の森の景観は、共に失われてしまった。
  • 「旧墨堤の道」は、度重なる整備によって、大きく変わってしまったが、「白鬚神社」から「子育て地蔵」までの湾曲した古道にその面影を残す。また、地蔵坂通りは「ツル土手」と呼ばれ、江戸期以前の海岸線であったというが、その面影は全く見られない。
  • 白鬚橋をわたると、台東区・荒川区側には「橋場の渡し」「真崎の渡し」「隅田川の渡し」等と呼ばれる渡しがあったのだが、正確な場所は判然としない。石浜神社には、江戸期に建てられた[伊勢物語、東下りの一節]が記された石碑がある。この辺りは、謡曲・隅田川物と共に伊勢物語の舞台となった地域であった。
  • 桜橋を渡って、再び墨田区側「旧墨堤の道」に戻ったのだが、ここも度重なる整備によって、大きく変貌している。明治初期、土手から牛嶋神社へ下る坂の入り口に建立された常夜灯が残されているが、牛嶋神社は言問通り南に移転していった。
  • 土手下には、「言問」というフレーズを、[伊勢物語、東下り]の一節から取り出し、団子に命名した「言問団子」がある。長命寺桜もちを横目に見ながら移転先の牛嶋神社に向かう。
  • 移転先の牛嶋神社境内にあるJA東京グループの案内板によると、この地域には、大宝律令により国営の牧場が設置されたとあった。東京スカイツリー駅はもう目前であった。

国土地理院地図(新版-淡色)[ブラウザ:カシミール]に、主な地名・旧跡を書き加えた。

鐘ヶ淵駅から隅田の宿跡へ
←[武蔵・下総を結んだ古代東海道]
東武線鐘ヶ淵駅の付近には、武蔵国と下総国を結ぶ古代の官道がありました。古代東海道と呼ばれるこの街道は、現在の墨田区北部を東西に貫き、京の都から常総方面に至る幹線道路として多くの人々に利用されたと考えられます。
官道に定められた年代は、9〜10世紀と想定されます。『大日本地名辞書』に「隅田村より立石、奥戸を経、中小岩に至り、下総府へ達する一径あり、今も直条糸の如く、古駅路のむかし偲ばる」と記されるように、1880年の地図からは、古代の官道の特徴を示す直線道を見出すことができます。また、この道筋には大道や立石など古代の官道跡に見出される地名が墨田区墨田・葛飾区四ツ木(大道)、江戸川区小岩(大道下)に確認できます。また葛飾区立石には、古代の標石に使用されたと考えられている立石様が残っています。これらは古代東海道の名残を示すものといえます。
江戸時代より前の時代、隅田川を渡るには船がおもな交通手段でした。835年の太政官符で渡船の数を2艘から4艘にしたことは、隅田川を往来する人々の増加を物語っています。その行程をたどるのが『伊勢物語』東下りの場面です。(墨田区教育委員会解説版より)

[古代東海道]
東武線鐘ヶ淵駅脇の交番から荒川方面を望む。

[古代東海道]
古代東海道を隅田川方面に歩くと、墨堤通りにぶつかる。正面には、都営白鬚東アパート9号棟 水神保育園があるが、かつては、「木母寺」「水神社(隅田川神社)」を経て、「住田の渡し」へ向かう道が延びていたと思われる。

[江戸期の古隅田川と木母寺]
江戸府内図(北半) 時期不明 伊能忠敬作 国会図書館蔵
徳川家康入府前、利根川本流(下流では、古隅田川という)は、この地点で、入間川(のちの隅田川)に合流して、江戸湾に注いでいた。江戸期に入り、利根川を銚子方面に付け替えたため、小河川になってしまった。江戸期以前、利根川本流は「武蔵国」と「下総国」の国境となっていたが、現在でも、『概ね』、埼玉県では「南埼玉郡」と「北葛飾郡」の境、東京都では「足立区」と「葛飾区」の境となっている。
※現在、木母寺は隅田川方向に、水神は南方へ100m程、それぞれ移転している。

[隅田宿の範囲(推定)]
当地は古東海道の渡河地で、平安時代の末頃には隅田宿が成立していたといわれています。隅田宿は、1180年に源頼朝が布陣したと伝わる宿で(『吾妻鏡』)、元来は江戸氏など中世武士団の 軍事拠点であったと考えられています。遅くとも南北時代までには人と物が集まる都市的な場が形成されたようで、歌人藤原光俊が詠んだという13世紀中期の歌には、多くの舟が停泊してにぎわう様子が描かれています。(『夫木和歌抄』)。また、室町時代成立の『義経記(ぎけいき)』には、「墨田の渡り両所」と見え、墨田宿が対岸の石浜付近と一体性を有する宿であったらしいこともうかがえ ます。
(墨田区教育委員会解説版より抜粋)

[隅田川神社参道跡]
墨堤通りを横断して、右方向へ行くと、都営白鬚東アパート9号棟前植え込みに「隅田川神社(水神)参道跡」がある。移転前の水神参道である。

[木母寺跡、梅若公園内]
木母寺は梅若塚の傍らに建てられた草庵が梅若寺と呼ばれるようになったのが始まりとされます。その後、「梅」の字を分けて「木母」となったといわれています。
木母寺は当該地周辺にありましたが、白鬚東地区防災拠点建設に伴い、現存する梅若堂、梅若塚と共に現在の場所に移転した。
(墨田区解説板より)
←[梅若塚跡、梅若公園内]
梅若塚は、謡曲「隅田川」で知られる「梅若伝説」に登場する伝説上の人物である梅若丸の墓であると伝えられます。
梅若丸は、京都北白川の「吉田少将これふさ」と美濃国野上の長者の一人娘「花御せん」の子で、父の死後7歳で比叡山に入り修行に励みます。梅若丸の秀でた才能は評判になりますが、松若丸という同じく優秀な同輩との争いが原因で、みちのくの人買い、信夫の藤太にかどわかされてしまいます。
奥州に連れて行かれる途中、なれない長旅の疲労により重い病にかかり、藤太は梅若丸を隅田川のほとりに置き去りにしてしまいます。里人たちの看病もむなしく、「たつね来て とはゝこたえよ みやこ鳥 すみたかはらの 露ときえぬと」という辞世の句を残し、貞観元年三月十五日、梅若丸はわずか12歳でその生涯を閉じます。その死を哀れんだ出羽国羽黒山の高僧で下総の御坊忠円阿闍梨が墓を築き、一本の柳を植えて菩提を弔ったのが梅若塚であると伝えられ、梅若丸は山王権現として信仰の対象になっています。
(墨田区解説板より)

[木母寺境内之図、梅若公園内展示物]
江戸時代の木母寺境内は幕府から寺領を与えられ、多くの参拝者を集めていましたが、明治時代になり神仏分離令に伴う廃仏毀釈のあおりを受け木母寺は荒廃し梅若神社となった。幕府の庇護を失った梅若神社の経営は苦しく、存続の危機に陥るが、様々な人の支援を受け、1889年に寺院への復帰を果たす。現在の木母寺に移築され現存する梅若堂(当地ではない)は、木母寺が再興されたのちに建立されたもので、戦時中の空襲から奇跡的に焼失を免れたもの「木母寺境内之図」は、梅若堂が当地に建立された明治期の木母寺の様子を伝える貴重な資料。画面の中央に梅若堂、右手に木母寺の本堂、左手に料理茶屋。(墨田区解説板より)
※この絵図には、木母寺の脇に古隅田川が描かれている。

[梅若権現御縁起 下巻 第三図 塚前対面、梅若公園内展示物]
「梅若伝説」を伝える絵巻物として「紙本着色梅若権現御縁起 附 漆箱二匣」(墨田区指定有形文化財)がある。高崎城主安藤対馬守重治が1679年3月に寄進したもので、現在も木母寺が所蔵している。原本は非公開だが、すみだ郷土資料館で複製を所蔵しており展示されている。
(墨田区解説板より)
※梅若を探しにきた母親が、梅若塚に対面する様子。

[梅若の秋月−風流隅田川八景−、葛飾北斎]
東白鬚公園内展示物撮影
梅若権現御縁起で描かれているように、梅若と母親は生きて対面することはなかった。しかし、北斎は、この親子が隅田川を仲良く楽しむ絵を残している。
[梅若伝説と謡曲・隅田川]
室町時代から現代に至るまで演じられている梅若伝説を題材にした能「隅田川」。今でも各種日本伝統芸能から海外オペラに広まり多くの人々に鑑賞されている。能「隅田川」を作った観世十郎元雅は、世阿弥元清の息子。若くして亡くなりましたが、「盛久」「弱法師」などの名演目を残しています。能「隅田川」は、春の隅田川を舞台に悲劇の子と母の愛情を描いた狂女物の代表的傑作とされています。
(中略)
謡曲「隅田川」の海外でのタイトルは「CURLEW RIVER」。CURLEW(カーリュー)は「カモメ」の意味で「都鳥の川」と表現されています。イギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテンという人物が1956年に来日した時に見た謡曲「隅田川」に感銘を受け、 教会上演用寓話劇「カーリュー・リバー」を作り海外に紹介されました。現在もオペラとして日本でも上演され、多くの人に鑑賞されています。
(木母寺ウエブサイトより転載)
※謡曲・隅田川を題材に、歌舞伎、清元でも演じられるが、筋書きは微妙に異なる。梅若伝説をルーツにしている点は同じで、隅田川ものと呼ばれる。
←[銅造榎本武揚像、梅若公園内]
榎本武揚は、1836年に幕臣の子として江戸に生まれ育ち、昌平坂学問所で学び、1856年幕府が長崎に設けた海軍伝習所に入った。その後、オランダに留学し、最新の知識や技術を身につけ、1866年幕府注文の軍艦開陽丸を回送し帰国した。
武揚帰国後の日本は「大政奉還」「王政復古」という体制転換を迎え、武揚は戊辰戦争の最後の戦いとなった函館戦争では五稜郭を中心に明治政府に抵抗したが、1869年降伏。
その後、武揚は投獄されたが傑出した人材として赦免され、明治政府に出仕した。1875年には海軍中将兼特命全権公使として、樺太・千島交換条約の締結に尽力した。
1885年伊藤博文が初代内閣総理大臣に任命されると、旧幕臣でありながら逓信大臣に就任以降、文部、外務、農商務大臣など要職を歴任した。
晩年は、成島柳北邸(現言問小学校)の西側に屋敷を構え、悠々自適の日を過ごし、1908年73歳で亡くなる。
(墨田区解説板より抜粋)

[都立白鬚東アパート9号館]
現在の、梅若塚・木母寺へ行くために、高層アパートの中を通過します。
※都の防災計画では、堤通に高さ40mの高層住宅を1.2kmにわたり防火壁の役割を果たすよう配置した。とありますが、この建設で、梅若塚・木母寺が移転を余儀なくされたという、また、古隅田川の痕跡も消してしまったという。共存が可能かどうか、検討しなかったのでしょうか?疑問です。

[都立東白鬚公園]
木母寺も水神社(隅田川神社)も防災計画には組み入れられず、どう見ても、邪魔者扱いですが...残念ですね。
※内閣府の防災のページには、内側には約9haの避難広場を設け、災害時には約8万人を収容するため、約1週間の逗留に必要な飲料水・食料・医薬品等を備蓄するとなっています。

[移転後の木母寺、梅若塚]
遷座したのは1976年とあります。

[移転後の梅若塚と拝殿]
右に見える拝殿は1889年建造、太平洋戦争で空襲は受けたものの、奇跡的に焼失を免れた。移転は、木母寺と同じく1976年。

[雪月花 隅田 葛飾北斎]東白鬚公園内展示物撮影
雪景色の隅田河畔を描いた作品で、月の淀川、花の吉野と共に選ばれた三名所の一枚。画面中央の森の中には木母寺と料亭「植半」、手前には水神社と呼ばれた隅田川神社を配し、厚い雪を積もらせている。1830年頃の作品。
(東白鬚公園内展示物解説から抜粋)

[水神社:隅田川神社:水神の森跡]
荒川の下流、鐘ヶ淵を越え大きく曲がったこの地は、隅田川の落ち口(終点)で、かつて鬱蒼(うっそう)とした森が広がっていました。人々からは水神の森とも浮洲(うきす)の森とも呼ばれて親しまれていました。昔、ここから入江が始まり、海となっていたことから「江の口」、すなわち「江戸」の語源ともなったといわれています。
水神の森は、『江戸名所図会』にも描写されているとおり、川岸にあった水神社(隅田川神社)の鎮守の森でした。川を下ってきた人々には隅田川の入口の森として、川をさかのぼる人々にとっては鐘ヶ淵の難所が近いことを知らせる森として、格好の目印となっていました。その後、震災・戦災にも消失を免れた森は戦後の開発で失われてしまい、隅田川神社自体も百メートルほど移されて現在地に鎮座しました。(墨田区教育委員会解説板より)

[移転後の隅田川神社参道、墨堤通り]

[墨堤通りから東側を見る]
墨堤通りから西はかなりの高台になっていることがわかる。

[下の道]
「墨田区教育委員会と東京都住宅供給公社」の解説板には、『この隅田堤を下る道も古道で、古くから「下の道」と呼ばれ、鎌倉街道の「下の道」とも想定されます。』とある。

[1800年代後期の隅田村]
関東平野迅速測図(1880-1886)「配信:農研機構、ブラウザ:カシミール」
明治中期の地図には、『橋場の渡し→下の道→隅田村』がはっきりと描かれている。かつて、隅田村役場もこの道に沿ってあった。中世(江戸期以前)では常陸国・下野国に抜ける主要道であったのだ。その意味で、「下の道」は鎌倉古道である。

旧墨堤の道−白鬚神社から地蔵坂通り(ツル土手跡)−
[旧墨堤の道]
隅田川の自然堤防沿いに桜の木が植えられたのは1661年〜1673年。徳川将軍家の休息所であった隅田川御殿(現堤通2丁目、都立東白鬚公園辺り)から白鬚神社の北側辺りまで。江戸時代中期には8代将軍徳川吉宗が護岸強化と憩いの場づくりのために堤と並木の南端を言問橋の架かる辺り(現向島2丁目、言問通り)まで延ばして人々に地固めをさせた。以来、堤は多くの江戸市民でにぎわう花見の名所、憩いの場所へとなっていった。道幅は広く、道の両側には、見事な桜の並木が続いていた。
白鬚神社脇から地蔵堂へと続く湾曲した道は、今は姿をけしてしまった、旧墨堤の名残り。春は花見、正月は七福神めぐりの人々で特にににぎわった。
関東大震災や東京大空襲などの復興事業を契機に墨堤通りは湾曲した道から直線道路へ、土の道から舗装道路へと整備された。現在、旧墨堤の面影を見ることができるのは、この場所と「墨堤植桜之碑」(向島5丁目4番先)近くの湾曲部の2ヶ所だけとなっている。
(墨田区教育委員会解説板より)

[白鬚神社]
951年に慈恵大師が関東に下ったときに、近江国比良山麓に鎮座する白鬚大明神の御分霊をここにまつった。旧寺嶋村の氏神。堤防の内側にあったのが幸いして、建立当時の位置を保持している。名称も白鬚橋に残す、この地方を代表する古社である。

[湾曲している旧墨堤の道の名残]
正面は白鬚神社。
←[寺島のナス解説板、白鬚神社]
かつて、白鬚神社の周辺は寺島村といった。元禄郷帳(1688-1704)によれば、この地域一帯は、水田を主とする近郊農村であったが、隅田川上流から運ばれてきた肥沃な土はナス作りにも適し、ナスの産地として、その名も「寺島ナス」と呼ばれていた。
1735年の「続江戸砂子温故名跡志」には、「寺島茄子 西葛西の内也。中の郷の先、江戸より一里余」とあり、「夏秋の中の嘉 蔬とす。」として、江戸近郊の名産であることが記され、また、1828年の「新編武蔵風土記稿」には、茄子として、「東西葛西領中にて作るも の」として「形は小なれどもわせなすと呼び賞美す」とナスの産地だったことを示しています。 
農家は収穫したナスを船を使って、千住や、本所四ッ目、神田の土物店(青物市場)等に出荷していた。江戸時代、悠々と流れる隅田川の東岸。田園地帯であった寺島に、後世に伝えるに値するナスの銘品があった。
(JA東京グループ解説板)

[旧墨堤の道が墨堤通りに合流する部分]
角に「子育地蔵堂」が見える。

[子育地蔵堂]
この御堂に祀られている地蔵菩薩は、1804年〜1818年に行われた隅田川の堤防修築工事の際に土中から発見されたと伝えられている。植木屋平作がこの地に地蔵を安置して供養していたが、1832年に11代将軍徳川家斉が鷹狩りに来て、この地蔵を参拝した。平作が、このことを記念して御堂を建てると、人々はこぞって参詣するようになった。御堂前の坂は、1911年、堤防工事の土盛り以降、現在まで「地蔵坂」の名で親しまれている。
(墨田区教育委員会解説板より抜粋)

[江戸期の隅田川と墨堤の道]
江戸府内図(北半) 時期不明 伊能忠敬作 国会図書館蔵
白鬚社と牛御前社の間は、以前、大きな流れがあったことを感じさせる、この間の堤防は、この流れ・湿地帯を締め切るものであったようだ。

[地蔵坂通り]
江戸期以前はツル土手と呼ばれ、海岸線であった可能性が高い。(現在では、土手と呼ばれるような高まりは確認できない)
←[1800年代後期の墨堤の道、寺嶋村]
関東平野迅速測図(1880-1886)「配信:農研機構、ブラウザ:カシミール」
「墨堤の道」は、その後の治水対策・改修により、大幅に変わってしまったが、現在、「旧墨堤の道」と赤で書き入れた部分は昔のまま残されている。
地蔵坂通りは、江戸期以前は海岸線として認識されている。伊能図でも「ツル土手」と表示されている。曳舟川と交差する橋は鶴土手橋と呼ばれた。この近辺が河口であったとすると、古道を結ぶ『橋場の渡し、真崎の渡し、住田の渡し、白鬚の渡し』の存在が納得できる。(この地点以南では、島や中州ばかりで街道は存在しにくい)
牛嶋神社旧地は、中州に建てられた牛牧と認識されており、残された「旧墨堤の道」湾曲部分二カ所の中間は、江戸期前は河川あるいは海であった可能性が高い。鳩の街通り(バン土手跡)と古川跡はその名残ということになる。

[向島艇庫村跡]
明治から昭和にかけて、墨田川ではレガッタが盛んに行われた。この辺りには競技用のボートを収納するための艇庫が建ち並び、親しみを込めて「艇庫村」とも呼ばれていた。
レガッタはイギリスで発達し、1877年頃から日本の学生たちの間に広まり始めた。1882年日本人の主催による初のレガッタが墨田川で開催された。これは海軍によるものであったが、1884年には東京帝国大学によって初の学生レガッタも行われた。1887年、ここから約700m南の川沿い、現在向島五丁目に、日本で初めてとなる東京大学の艇庫が建設された。(右へ続く→)

[レガッタ]
艇庫とレガッタ(レガッタによる隅田川の賑わい)隅田公園散策解説板Fより

(左より→)その後、各校が向島に艇庫を建てるようになり、やがて堤通一丁目には独特の風景が形づくられた。レガッタと学生たちの練習風景は墨田川の風物詩となった。
しかし1960年頃から、墨田川の水質悪化や高速道路建設などのため、多くの艇庫が他の地区へと移った。その後、水質改善の努力が続けられた結果、1978年には早慶レガッタが復活した。
(墨田区教育委員会解説板より)

橋場の渡し、真崎稲荷、石浜神明宮
→[江戸期の隅田川西岸、橋場地区]
江戸府内図(北半) 時期不明 伊能忠敬作 国会図書館蔵

江戸時代以前は、この地域が武蔵国の東端、隅田川(入間川)を渡と、下総国・隅田宿であった。ここには、下総国・常陸国・下野国へ抜ける主要古道が通っていたが、鐘ヶ淵と呼ばれる交通の難所であるが故に、風光明媚な土地であったようだ。数々の錦絵が描かれ、伝説が生まれた。
→[千束堤]
隅田川東岸の自然堤防が「墨堤の道」に整備されたのは、1661年〜1673年、幕府が日本堤を作ったのは1621年頃と考えられている。いずれも、隅田川からの水害を防ぐためであった。伊能図に見える「千束堤」は、隅田川東岸の自然堤防に対する、隅田川西岸の自然堤防という位置付けと思われる。「千束堤」は「砂尾堤」とも呼ばれたが、これは江戸期以前にこの地を治めた『砂尾長者』に因むという。砂尾長者は橋場不動院の開基とも中興ともいわれる人物で、この堤の近くには、昭和初期まで「砂尾」「堤根」という字が残っていた。千束堤(砂尾堤ともいう)は現在の石浜通りに相当するが、堤の痕跡すらない。他の古地図を参照すると、少なくとも江戸期までは清川一丁目交差点・橋場交番前交差点から千住まで存在したようである。

[隅田川渡しの図 東都名所図会 広重]国会図書館蔵
錦絵の文字が見えにくいので、主な名称は筆者が赤字で書き入れた。

[白鬚橋西詰(荒川区側)]

[白鬚橋西詰(台東区側)]

[三条実美(1837〜1891)]近世名士写真 其1 国会図書館蔵
尊皇攘夷派公家の中心的存在であったが、1863年尊皇攘夷派の京都追放をねらった8月18日の政変が起こり、七卿落ちの1人として長州に下る。王政復古後、新政府の議定、副総裁、右大臣、修史局総裁などを歴任。1871年太政大臣に就任、1885年の太政官制廃止までつとめた。
白鬚橋西詰(荒川区側)
★橋場の渡し、これより東へ約20メートル
対岸の墨田区寺島とを結ぶ, 約160メートルの渡しで, 「白髭の渡し」ともいわれていた。『江戸名所図会』によると、 古くは「隅田川の渡し」と呼ばれ, 『伊勢物語』の在原業平が渡河した渡しであるとしている。 しかし, 渡しの位置は, 幾度か移動したらしく、 はっきりしていない。1914年に白髭木橋が架けられるまで, 多くの人々に利用された。(荒川区教育委員会解説板)
★対鴎荘跡
対鴎荘は白鬚橋西詰の地に1873年、明治の元勲三条実美の別邸として建設された。
いそがしき つとめのひまを ぬすみ来て
橋場の里の 月をみるかな
三条実美が京都風の優雅さをこの地に求め、橋場の地を愛して詠んだ歌である。橋場の地はその歴史も古く、明治初年にいたるまで、閑静な土地であった。以下略
(荒川区教育委員会解説板)
[白鬚橋西詰(台東区側)]
★明治天皇行幸対鴎荘遺蹟
征韓論をめぐって、政府内に対立が続いていた1873年10月、太政大臣の要職にあった実美は心労のあまり病に倒れ、この別邸で静養していたが、12月明治天皇はこの邸を見舞った。
(台東区教育委員会抜粋)

[東京橋場渡黄昏景 小林清親]明治期の橋場の渡し
都立中央図書館特別文庫室所蔵※この画像を転載する場合は、改めて東京都立図書館の許可を得て下さい。※

[橋場暮雪、隅田川八景 広重]国会図書館蔵

[真崎の大雪 銀世界東十二景 広重]国会図書館蔵

[石浜神明宮、江戸名所図会]国会図書館蔵

[石浜神社、一の鳥居]
724年、聖武天皇の命によって創建されたと伝えられ、以来1280年余の歴史がある。源頼朝・千葉氏・宇都宮氏らの崇拝を受けたと言われる。参道にある第一鳥居(参道入り口手前)は、1779年に、第二鳥居(参道の奥)は、1749年に建立された。
(荒川区教育委員会ウエブサイト)

[石浜神社]
石浜城:室町時代の中ごろ、武蔵国千葉氏の居城となり、戦乱の世に100年あまり続いた城であるが、天正年間、千葉胤村(北条氏繁三男)を最後に廃城となったと思われる。石浜城の位置は諸説あるが、石浜神社付近は有力な推定地とされる。
(荒川区教育委員会)
※但し、絵図でもわかるように、石浜神社は近年、少し東側に遷座している。

[真先稲荷神社]
天文年間に石浜城城主となった千葉之介守胤が、ここに一族一党の隆昌を祈って宮柱を築き、先祖伝来の武運守護の、尊い宝珠を奉納安置して以来、真先かける武功という意味にちなみ、真先稲荷として世に知られました。1926年、石浜神社に併合された。
(石浜神社ウエブサイトより)

[伊勢物語・都鳥歌碑、石浜神社]
平安初期の名門貴族、漂泊の歌人業平が京の都を捨て、はるばる大川のほとりに流れ来て、川面の都鳥を目にした時の望郷の思いを綴ったという『伊勢物語、東下り』の一節が記されている。
歌碑建立は1805年。
“名にし負はば いさこととはん 都鳥
わが思ふ人は ありやなしやと”
(石浜神社ウエブサイトより)

[伊勢物語 嵯峨本 1608年刊本]国会図書館蔵
「東下り、隅田川」の部分、流麗な活字書体で印刷されている。
この本についての詳細は、国会図書館・古典の継承を参照。

[伊勢物語 嵯峨本 1608年刊本]国会図書館蔵
同じく挿絵
(他のサイトを見ると、上の文は、以下のように書かれている)
「東下り、隅田川」
なほ行き行きて、武蔵の国と下総の国との中に、いと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。その河のほとりにむれゐて、思ひやればかぎりなく遠くも来にけるかなと、わびあへるに、渡守、

「はや舟に乗れ。日も暮れぬ。」

といふに、乗りて渡らむとするに、皆人ものわびしくて、京に、思ふ人なきにしもあらず。さるをりしも、白き鳥の、嘴と脚と赤き、鴫の大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ。京には見えぬ鳥なれば、皆人見知らず。渡守に問ひければ、

「これなむ都鳥」

といふを聞きて、

名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと

とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。

「名にし負はば....」と詠んだのは、在原業平本人と思われるが、この物語は、後で、創作したというのが一般的な見方。しかし、物語の作者(不明)が、隅田の渡しに来て、ユリカモメをみたという事実に時を超えた感動を覚えます。

[伊勢物語の都鳥はユリカモメ]
ミヤコドリの写真はウイキペディアより
ミヤコドリは、腹部を除いて全体が黒、カキなどの貝類を食べることから、伊勢物語の都鳥はユリカモメと考えられている。
広重の錦絵にも、カモメらしき鳥が描かれている。

橋場不動尊、総泉寺の痕跡

[江戸期の総泉寺周辺]
浅草今戸町外数町入会地の図 年代不明 国会図書館蔵

[総泉寺、砂尾不動、総泉寺大門、江戸名所図会]

[平賀源内墓、総泉寺跡]
平賀源内は1728年、讃岐国志度浦(現香川県志度町)に生まれる(生年には諸説ある)。高松藩士白石良房の三男で名は国倫。源内は通称である。1749年に家督を継ぎ、祖先の姓である平賀姓を用いた。本草学・医学・儒学・絵画を学び、事業面では成功しなかったが、物産開発に尽力した。物産会の主催、鉱山開発、陶器製造、毛織物製造などをおこない、エレキテル(摩擦起電機)を復元製作、火浣布(石綿の耐火布)を発明した。一方で風来山人・福内鬼外などの号名をもち、「風流志道軒伝」などの滑稽本や、浄瑠璃「神霊矢口渡」などの作品を残している。(右へ続く)

[平賀源内墓、総泉寺跡]
(左より)1779年に誤って殺傷事件を起こし、小伝馬町の牢内で病死、遺体は橋場の総泉寺(曹洞宗)に葬られた。墓は角塔状で笠付、上段角石に「安永八己亥十二月十八日 智見霊雄居士 平賀源内墓」と刻む。後方に従僕福助の墓がある。
総泉寺は1928年板橋区小豆沢へ移転したが、源内墓は当地に保存された。昭和四年に東京府史蹟に仮指定され、1931年には松平頼壽(旧高松藩当主)により築地塀が整備される。1943年に国指定史跡となった。(台東区教育委員会掲示より)

[平賀源内顕彰碑、総泉寺跡]
伯爵・松平頼壽篆額
平賀源内先生が逝かれたて150年。先生には許多の著作があり発明された物事も少なくなく、今を威の電気など其一である。誰とて其功業を称えない人があろう。先生の墓はここ総泉寺跡にあって1924年史蹟に指定された。一昨秋区画整理のため寺と共に市街に移されようとしたが有志の人達の骨折りで元通り保存されることになった。今茲に石碑を建て表に事の由を記し裏に杉田玄白の作った碑文を刻んだのはこの偉人を慕ってなお永く偲ぼうと思うからである。

[総泉寺表門通り跡、総泉寺跡]
総泉寺は京都の吉田惟房の子梅若丸が橋場の地で亡くなり、梅若丸の母が出家して妙亀尼と称して梅若丸の菩提を弔うため庵を結んだのに始まるという。その後、武蔵千葉氏の帰依を得、1555年 - 1558年千葉氏によって中興されたとされる。佐竹義宣によって再興され、江戸時代には青松寺・泉岳寺とともに曹洞宗の江戸三箇寺のひとつであった。1923年の関東大震災で罹災したため、1928年に板橋区小豆沢にあった古刹・大善寺に間借りする形で移転。その後合併して現在に至る。(ウイキペディアより)

[松吟寺とお化け地蔵・常夜灯]
「お化け地蔵」の名には、かつて大きな笠をかぶり、その笠が向きをかえたから、あるいは高さ3メートル余の並はずれて大きいからなど、いくつかの伝承がある。この辺りは、室町時代以来、禅宗の名刹総泉寺の境内地であった。門前一帯を浅茅ヶ原といい、明治40年刊『東京名所図会』には「浅茅ヶ原の松並木の道の傍らに大いなる石地蔵ありしを維新の際並木の松を伐りとり、石地蔵は総泉寺入口に移したり」とあり、「当寺入口に常夜灯あり、東畔に大地蔵安置す」とも記している。お化け地蔵の台石によれば、この石仏は1721年の建立。関東大震災で2つに折れたが、補修し現在にいたっており頭部も取りかえられている。常夜灯は、1790年に建てられた。松吟寺は総泉寺の塔頭、松吟庵。(台東区教育委員会解説板より)

総泉寺表門通り跡、浅茅が原跡
左手前に「松吟庵」があるので、ここは、総泉寺表門通りと総泉寺大門通りが交差するところ、前方には浅茅が原が広がり、妙亀庵が見えたであろう。

[妙亀塚、妙亀庵跡・浅茅が原跡・総泉寺跡]
この妙亀塚のある地は、かつて浅茅ヶ原と呼ばれた原野で、近くを奥州街道が通じていた。妙亀塚は、「梅若伝説」にちなんだ名称である。我が子を探し求めてこの地まできた母親は、隅田川岸で里人から梅若の死を知らされ、髪をおろして妙亀尼と称し庵をむすんだ、という説話である。謡曲「隅田川」はこの伝説をもとにしている。
(台東区教育委員会解説板抜粋)

[砂尾山 不動院]
橋場不動尊の名で親しまれる当寺は、正確には砂尾山橋場寺不動院といい、760年、浅芽の生い茂るこの地に寂昇上人によって開創された。現在の本堂は1845年の建立。本堂の右前にある樹齢700年の大銀杏は、江戸時代、隅田川往来の目印になった。

桜橋を渡って隅田川東岸へ

[明治天皇御製碑]
1873、明治天皇は元勲三条実美の別邸対鴎荘に行幸し病床にあった三条実美を見舞われた。御見舞いの帰途、伊達宗城邸で御休息の際、隅田川の冬景色を賞せられた和歌「いつみてもあかぬ景色は隅田川 難美路の花は冬もさきつつ」をお詠みになった。
(台東区教育委員会解説板抜粋)

[桜橋と東京スカイツリー]

[江戸期の隅田川と墨堤]
江戸府内図(北半) 1800年代前半 伊能忠敬作 国会図書館蔵
牛御前社の位置、三囲稲荷の鳥居に注目

[三囲神社、鳥居と参道]
三囲稲荷社は、大川の堤の道を一段下がった鳥居から田圃の中を松並木の参道が東に伸びた先にあった。

←[三囲神社・鳥居、暮雪(三囲) 長喜]国会図書館蔵
隅田川の方から眺めると、鳥居は土手にめりこんだように見えたという。

[三囲神社]
弘法大師が祀ったという田中稲荷が始まりとされる。当時は、現在地よりも北の田んぼの中にあった(牛御前社旧地の北側といわれる)。1352年〜1356年に近江の僧である源慶が社を改築した折、土中から白狐にまたがる老翁の像を発見。その像の周りをどこからともなく現れた白狐が三度回って消えたという縁起から「三囲」の名がついた。時は下って、三井家江戸進出時に、その名にあやかって、守護神とした。
(墨田区解説板から抜粋)

[石造墨堤永代常夜燈、隅田公園内]
この常夜燈は、総高465センチメートルにも及び、宝珠部分には牛嶋神社の社紋が彫刻されている。口伝によると牛嶋神社がまだこの付近にあった1871年頃、土手から神社へ下る坂の入口に建立されたよう。氏子たちが奉納した壬亜の燈籠としての役割に加えて、隅田川を往来する川舟のための灯台を兼ねており、墨堤の燈明として航行の安全を守っていた。
常夜燈の基礎部分には「本所総鎮守」と刻まれているだけではなく、対岸も含めた29軒の料亭と50名を超える近隣の奉納者名が刻まれている。その中には、向島の料亭として有名だった植半、八百松、武蔵屋などが、また言問團子の創始者外山新七や長命寺の桜もちの経営者山本新六の名を見ることができる。(右へ続く→)

[小林清親 墨田堤の花見 1876年]
都立中央図書館特別文庫室所蔵※この画像を転載する場合は、改めて東京都立図書館の許可を得て下さい。※

(→左より)花見客はこの常夜燈を目印に足を運び、墨堤の桜を楽しんだ。また、桜と常夜燈の組み合わせは、江戸・明治の風情を思い起こさせるものとして、多くの画家や写真家が題材とした向島を代表するシンボルだった。
牛嶋神社自体は、関東大震災を契機に1932年に隅田公園の南(向島2丁目5番17号)に移動したが、墨堤常夜燈はこの地に残された。
(墨田区教育委員会解説板より)

[言問団子]
江戸後期、向島で植木屋を営んでいた外山佐吉は、文人墨客に手製の団子を振る舞う「植佐」という団子屋を開くと、花見客や渡船客の間でも人気となった。
明治元年、長命寺に逗留していた歌人の花城翁より、在原業平が詠んだ「名にしおはば いざ言問はん都鳥 我が想う人は ありやなしやと」に因んだ命名のすすめを受けた佐吉は、「言問団子」と名づけ、業平神社を建て、都鳥が飛び交うこの辺りを「言問ヶ岡」と呼んだ。明治11年、佐吉が始めた灯籠流しによりその名は広く知られていった。後に、「言問」は言問橋や言問通りなどの名称で定着したが、ルーツは「言問団子」である。
(墨田区解説板より)

[残された墨堤の道]
墨堤の道は、近年の墨堤通り改修工事によって、直線部分が多くなり、江戸期の名残を残すのは「白鬚神社近辺の曲線部分」と「言問い団子前の曲線部分」の二カ所になってしまった。

[墨堤植桜の碑]
この石碑は墨堤の桜の由来を記したもので、榎本武揚の篆額、濱邨大キの撰文、宮亀年の彫刻。
(中略)
このような功績を永世に伝えるため、1887年に建碑されたが、後に堤が壊れ碑が傾いたので、1896年に本所区長飯島保篤が大倉、安田、川崎三氏と共に起工し、榎本武揚、小野義真も出資して移設した。
(墨田区解説板抜粋)

[墨堤植桜之碑と桜勧進]
江戸時代、花見の名所としての地位を確立していった墨堤も、当初の墨堤の桜は水神社(現在の隅田川神社)付近を中心に植えられた。しかし1800年代から、地元の村の有志らによって桜が植えられ、墨堤の桜が南へと延伸していった。墨堤の桜が長命寺、三囲神社と徐々に延びて、枕橋まで達したのは1880年ごろといわれています。この間は地元有志の植桜だけでなく、有志が発起人となった「桜勧進」と呼ばれる寄付が行われている。
墨堤の桜が地元の人々に愛されていた桜であることが、この植桜之碑に刻まれています。(隅田公園 散策解説板8)

[向島 長命寺 桜もち]
桜もちの由来は、当店の創業者山本新六が1717年に土手の桜の葉を樽の中に塩漬けにして試みに桜もちというものを考案し、向島の名跡・長命寺の門前にて売り始めました。
その頃より桜の名所でありました隅田堤(墨堤通り)は花見時には多くの人々が集い桜もちが大いに喜ばれました。
(長命寺桜もちウエブサイト)

[竹屋の渡し:言問橋]

[牛嶋神社]
860年に慈覚大師が、御神託によって須佐之男命を郷土守護神として勧請創祀したと伝えられる本所の総鎮守。関東大震災で焼失する前は、墨堤常夜灯の東側にあった。1932年に墨田堤の拡張により現在地に再建された。
本殿の左右に、神牛が奉納されている他、1251年には牛鬼が社中を走り回り、落として行った牛玉を神宝としたという伝承も残る。
(墨田区)

[撫で牛、牛嶋神社境内]
撫牛の風習は、江戸時代から知られていました。自分の体の悪い部分をなで、牛の同じところをなでると病気がなおるというものです。牛嶋神社の撫牛は体だけではなく、心も治るというご利益があると信じられています。また、子どもが生まれたとき、よだれかけを奉納し、これを子どもにかけると健康に成長するという言い伝えもあります。
この牛の像は、1825年ごろ奉納されたといわれ、それ以前は牛型の自然石だったようです。
(墨田区教育委員会解説板抜粋)
→[江戸・東京の農業 浮島の牛牧]
文武天皇(701〜704)の時代、現在の向島から両国辺にかけての牛島といわれた地域に、国営の牧場が設置されたと伝えられ、この周辺もかつては牛が草を食んでいたのどかな牧場で、当牛嶋神社は古代から牛とのかかわり深い神社でした。
大宝元年(701)、大宝律令で厩牧命令(きゅうもくれい)が出され、平安時代までに全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧)が39ヶ所と、天皇の意思により32ヶ所の牧場(勅旨牧)が設置され、この付近(本所)にも官牧の「浮島牛牧」が置かれたと伝えられています。
時代は変わり江戸時代、「鎖国令」が解けた事などから、欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増えることとなりました。明治19年の東京府牛乳搾取販売事業組合の資料によると、本所区の太平町、緑町、林町、北二葉町と、本所でもたくさんの乳牛が飼われるようになりました。とりわけ、現在の錦糸町駅前の伊藤左千夫「牛乳改良社」や寺島の「大倉牧場」は良く知られています。
平成9年度JA東京グループ農業共同組合法施行50周年事業

[牛嶋神社から見た東京スカイツリー]
東京スカイツリーは目前である。



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