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歴史散歩:寛永寺徳川将軍家霊廟、及び、その周辺を歩く
2015年10月25日(日) 錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、東京歴史散歩。今回は、東叡山寛永寺谷中霊園の変遷、徳川将軍家霊廟(常憲院霊廟)の現状を見て、東叡山寛永寺の盛衰を検証することにします。 ※常憲院霊廟参拝は、寛永寺主催の「特別参拝」という形であったので、写真撮影は許可されなかった※ |
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東叡山寛永寺は1622年、天海大僧正が徳川秀忠と相談し、徳川家の安泰と江戸庶民の平安を祈る道場(祈願寺)として創建が決まった。その3年後、徳川家光の時代1625年に正式に発足し、京都の比叡山延暦寺に倣い、東叡山寛永寺と称した。山主には、3代目から天皇の王子を迎え「輪王寺の宮」と称した。(寛永寺配布の小冊子より) 寛永寺の発足当初の目的は「祈願寺」であり、徳川家の菩提寺は増上寺であったのだが、創設者・徳川家光の江戸霊廟(正式な霊廟は日光にある)を寛永寺に作ったころから、徳川家のもう一つの菩提寺の性格を持つようになった。将軍霊廟、大奥の女性達の霊廟造営維持のため、寛永寺の寺域・子院・寺領も膨れあがった。だが、その膨張も、第5代将軍・徳川綱吉霊廟(常憲院霊廟)、綱吉の正室霊廟(浄光院霊廟)で大きな山を迎えた。その後は、すでにある霊廟に合祀という形が取られていく。そして、明治維新、戦災で焼失、新政府による寺域没収、別当料の喪失があり、突然空中分解してしまった。その後、ある程度の寺域は返還されるものの、「墓地の維持」と「別当料喪失」は決定的なダメージになったようだ。ごく最近まで徳川家墓地の改葬が続き、跡地を一般墓として売り出しが継続中である。まだ、厳有院(家綱)霊廟にある3名の将軍の墓地が手つかずであり、慎重な調査と一般公開が望まれる。 |
寛永寺谷中墓地(大奥の女性達の霊廟とその別当寺)の変遷 | |
【寛永寺谷中霊園】 ※上図は「東京上野公園地実測図1878年、国立公文書館、重要文化財」をベースに、幕末までの情報は[青文字]で、現在の情報は[赤文字]で、書き加えた物である。※
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【長昌院霊廟跡地と清水徳川家墓】
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【清水徳川家墓】 長昌院霊廟跡地の南側には、寛永寺凌雲院墓地(現在の西洋美術館、東京文化会館あたり)から、清水徳川家墓が移転してきた(時期としては、1934年〜1960年とあまりはっきりしない)。
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【宝樹院霊廟・高厳院霊廟跡地】
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【田安徳川家墓】 宝樹院霊廟・高厳院霊廟跡地の左側に、田安徳川家墓がある。清水徳川家墓と同様の時期に移転してきたものと思われる。
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【乗台院墓跡、阿部家墓域】
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【阿部正弘墓】 乗台院墓と心観院墓の間に阿部家の墓がある。関東大震災後、蔵前の松平西福寺から移転してきたとのこと。墓域に入り、左奥に阿部正弘の墓がある。
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【渋沢栄一墓】 阿部正弘墓の東側、御隠殿坂道に面して、渋沢栄一の墓がある。 渋沢栄一、明治期には、寛永寺の檀家総代であったとのこと、寛永寺に対しても大きな影響力があったのだろう。大名の霊廟並みの大きさがある墓域だ。現在、墓域縮小中、半分程度は公園になるとか?
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【御隠殿坂】 渋沢栄一墓の東側は御隠殿坂、坂を下ると、輪王寺宮の別荘「御隠殿」があった。御隠殿坂は江戸期の道がよく残っている。 現在は、JRの線路になっている、右の道は線路を跨ぐ「御隠殿跨線橋」である。 |
【浄光院霊廟跡】 この道路の両側が浄光院霊廟跡である。ここの霊廟は、明治期に破壊され、左側に、「一橋徳川家墓域」、その北側に、「徳川慶喜墓」が造られた。右側には、「松平斉民墓」などがある。肝心の浄光院の墓は、この道の突き当たりにあったが、随性院墓と共に、1990年頃常憲院霊廟に移された模様。現在は、分譲新墓地がある。
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【第15代将軍・徳川慶喜墓】
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【一橋徳川家墓域】 「一橋徳川家墓域」は石塀で囲われ、正面の扉は施錠されており、伺い知れない。
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【松平斉民墓】
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常憲院(第5代将軍・徳川綱吉)霊廟特別参拝 | |
【徳川将軍家霊廟】 上図は「東京上野公園地実測図1878年、国立公文書館、重要文化財」をベースに、幕末までの情報は[青文字]で、現在の情報は[赤文字]で、書き加えた物である。 |
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【寛永寺本堂】 江戸時代の根本中堂は、現在の噴水の所にあったが、彰義隊の戦いで焼失。この本堂は1878年から12年かけ、川越の喜多院・本地堂を移築したもの(1638年建造と伝わる)。 (台東区教育委員会案内板より) |
【銅鐘】 1681年、厳有院霊廟前の鐘楼に奉献された。 現在は、除夜の鐘や重要な法要の際に使用される。 |
【明王院跡、高崎城主・大河内輝貞墓跡】 徳川綱吉の側用人であった大河内輝貞は、常憲院霊廟造営でも大きな役割を果たしている。宝塔は、綱吉への殉死の代わりに高崎藩の財政すべてをかけ造営したもので、宝塔前の中門は青銅で鋳造され、むくの仕上げという金のかけようだった。 (e-うえのウエブサイトより) 「常憲院様を守るため、墓前に葬れ」と遺言したとされ、ここ寛永寺の子院「明王院」墓地に、常憲院廟に向かい合うように墓が建てられた。1970年以降に、埼玉県平林寺へ改葬された。 (高崎新聞ウエブサイトより) |
【常憲院霊廟勅額門】 第5代将軍・徳川綱吉は、1680年兄・家綱の死に伴って将軍の座につき、1709年没、法名を常憲院という。一般には「生類憐れみの令」等を施行した将軍として著名。 1698年、この綱吉によって竹の台に寛永寺の根本中堂が建立されている。 綱吉の霊廟は、歴代将軍の霊廟を通じてもっとも整っているものの1つ。現存するのは、この勅額門と水盤舎のみ。 (台東区教育委員会案内板より抜粋) |
【台東区立上野中学校】 筆者の母校だが、中学生当時は、目の前に常憲院霊廟があるとは、全然思いもしなかった。当時ならば、将軍墓域に侵入しても、「お目玉」程度で済んだであろうにと思うと、残念である!!!!! |
【外から見た常憲院霊廟】 上野中学校角から撮影したもの。中学生当時は、こんなキレイな道ではなかった、寛永寺側には大きな石がごろごろしていたような記憶がある。常憲院霊廟は石囲いがされている(明治期に勝海舟が囲ったという話)が、孝恭院の宝塔のみ見える。 |
常憲院(第5代将軍・徳川綱吉)霊廟特別参拝は、脱帽、撮影禁止なので、配付資料も内部の写真も掲載できない。印象としては、墓域全体キレイに整えられていて、厳かな将軍廟という感じがした。何よりも江戸時代に造られたままの姿が見られるという事は大変貴重と思う。ここは、全体が改葬された将軍墓の増上寺と決定的に異なるところ、遺跡の保存は造られた場所に造られた形で存在するのがベストという見本であろう。 説明が終了してから僧侶に「寛永寺谷中墓地から消えてしまった大奥の女性達の改葬墓の行方」を聞いたのだが、答えがまるで要領を得なかった。配布された資料には、随性院、乗台院、浄光院、長昌院はABCの墓に改葬されているという説明はあるのだが、その他の方々の行方はわからないのだ。ABCに墓をチラリと見たとき、宝塔の胴の部分が新品であるのが印象に残った。この3つの宝塔の中に分散して合祀したのかもしれない、隠すことでもないだろうにと思う。 |
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【厳有院霊廟勅額門】 上野中学校前から鶯谷方面に進むと、厳有院(第4代将軍・徳川家綱)霊廟勅額門がある。(東京国立博物館真裏にあたる) 家綱の霊廟の一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失したが、この勅額門と水盤舎(ともに重要文化財)は、その廟所と共に、これらの災を免れた貴重な遺構である。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。この勅額門は1957年の改修時に発見された墨書銘によって、もと家光の上野霊廟の勅額門であったものを転用したものと考えられる。 (台東区教育委員会案内板より抜粋) |
【厳有院霊廟水盤舎】 水盤舎は延宝8年(1680)に家綱のために造立されたものである。 (台東区教育委員会案内板より抜粋) この霊廟には3名の将軍が埋葬されているが、整備は遅れており非公開である。(JR鶯谷駅の真上に当たる)
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将軍霊廟建設に伴い、子院が移転し、寛永寺の寺域が広がった | |
1700年代前半には、寛永寺は最盛期を迎え、子院は36あったという。寛永寺草創期から現在まで残る格式の高い2寺に注目して、寛永寺の寺域の変遷(北西側)を見てみよう。 | |
【護国院】 1625年、生順によって寛永寺最初の子院として設立、本坊裏に位置した。 1630年、釈迦堂が建立され、護国院は釈迦堂の別当寺となる。釈迦堂は、元禄期に根本中堂が完成するまで総本堂の役割を果たした。 1651年、大猷院霊廟建設のため北寄りに移築。 1709年、常憲院霊廟建設のため、現在地に移築。 1717年、焼失、同年、再建 1927年、寺域大幅縮小、大部分が都立上野高校敷地となった。 (天台宗東京教区ウエブサイトより抜粋) ※写真の本堂は、1717年再建の釈迦堂と思われる。 |
【円珠院】 1652年、長州藩毛利家が、将軍家法要参列のための装束着替え所として建立。当初は、本坊裏にあったが、厳有院霊廟造営用地になったため、現在地に移転。1697年焼失、直ちに再建された。明治に入り、寺域は縮小されたが、山門である総欅造りの医薬門はそのまま残され、創建当時の面影を今に伝える。 (天台宗東京教区ウエブサイトより抜粋) 境内は、キレイに整っており、厳粛な感じがする。 ※写真の門には、「一文字に三つ星」の家紋が見られる。1697年建造と思われる。 |
【1651〜1680年頃の寛永寺北西部分】 江戸方角安見図鑑2巻(国会図書館蔵)、東叡山と谷中のページを合成した図 −1651年家光死亡−
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【1680〜1709年頃の寛永寺北西部分】 江戸全図(国会図書館蔵) −1680年家綱死亡−
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【1840年頃の寛永寺北西部分】 上野東叡山惣地図(東京国立博物館蔵)の一部 −1709年綱吉死亡−
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【現代の寛永寺北西部分】 ※上図は「東京上野公園地実測図1878年、国立公文書館、重要文化財」をベースに、幕末までの情報は[青文字]で、現在の情報は[赤文字]で、書き加えた物である。※ 日本初の実測図なので、現代の道の様子を具体的に論じることが出来る。
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【清水坂案内板】 都立上野高校へ上る、通称「暗闇坂」の曲がり角にある。その案内板には、
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【谷中古道の名残か??】 (写真の奥が芸大方面、手前が谷中である) 上野動物園から東京芸大に入り、谷中感応寺へ抜けるとすれば、この先の路地しかない。この路地幅は、2m程度、江戸初期の古道の名残とみれば納得がいくのだが。 ※幕末期の地図には円珠院と松林院の境界で道はないのだが、一度閉じて最近、開いたと見ても問題はない。 |
【都立上野高校前の道】 暗闇坂を上り切ったところ、左が運動場、右は上野高校校舎。 右側は法恩寺→護国院→都立上野高校と変遷。校舎立て替え時には、法恩寺、護国院の墓地が発掘されて話題となった。 左側は松平伊豆守上屋敷(明治になってからは、松平伊豆守の流れをくむ大河内氏の屋敷)。ここに谷中道(新)が出来るのは、護国寺が移転してきて、寛永寺の寺域を定める必要があったからだろう。 |
【旧谷中清水町案内板】 この谷中道(新)が言問い通りに出る直前の、谷中清水公園に設置されている。
そもそも、上野動物園の中に、史跡「清水谷跡」「清水稲荷跡」、東京芸大構内に、史跡「清水門跡」の案内板がないのがおかしい?? |
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