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歴史散歩:小石川−傳通院、及び、その周辺を歩く
2015年11月16日(月) 錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、東京歴史散歩。今回は、茗荷谷駅を出発し、水戸徳川家関連の大名屋敷跡、江戸時代以前からある古刹、「陽だまりの樹(手塚治虫作)」の舞台になった手塚良仙宅跡、神田上水跡、徳川家康の生母の菩提寺傳通院、その周辺を歩きました。 |
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湯立坂を下ると | |
【1.湯立坂】 茗荷谷駅前、春日通りを渡り交番を右に曲がると、湯立坂を挟んで、(左)守山藩松平家屋敷跡:現、筑波大学東京キャンパス (右)明治・大正期:旧磯野家住宅 を望むことが出来る。 下り切ると、小石川:現 千川通り、川向こうには (左)氷川神社:現 簸川神社 (右)現在は、小石川植物園があるが、江戸期には小石川御薬園はもう少し南にある。 ※この切り絵図には、氷川神社、別当 極楽水宗慶寺とある、今回の歴史散歩のテーマの1つとしてとして傳通院−宗慶寺がある。詳しくは播磨坂周辺を参照して下さい。 ※(左図は「東都小石川絵図の一部」東京国立博物館蔵) |
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【1.湯立坂】 その坂に建つ「湯立坂案内板(文京区教育委員会)」には、「この坂の下は大河の入り江となっており、向かいの氷川明神へは渡り難い、それ故、この坂で湯花を奉った」とある。 |
【1.湯立坂と小石川】 実際、湯立坂を下り切ったところには、千川通り(旧小石川川筋)に至る。 |
【氷川神社:現 簸川神社】 千川通りを越すと、左方向には「氷川神社:現 簸川神社」 |
【小石川御薬園跡:現 小石川植物園】 右には、小石川植物園があるが、江戸時代の小石川御薬園はここまでの広さはなかった(もう少し南方)。 |
湯立坂の左右には | |
【2.陸奧守山藩松平家上屋敷跡】現、筑波大学東京キャンパス 1659年、水戸徳川家分家・松平頼元(徳川光圀の弟)に与えられた上屋敷。頼元の子頼貞は、陸奧国田村郡守山(現、福島県郡山市)に2万石の領地を与えられた。 |
【3.旧磯野家住宅:銅御殿】 実業家の磯野敬(1868-1925)が建設した住宅で、銅板葺きの屋根や銅板が張り廻された外観から通称「銅御殿」として知られる。主屋は1912年竣工、表門は1913年竣工。主屋、表門共によく吟味された木材がふんだんに使われ、東京に残る明治末期〜大正初期の数少ない邸宅建築の1つ(重要文化財指定)。 (文京区教育委員会案内板抜粋) |
【4.占春園】 守山藩上屋敷内の庭園の名残が、キャンパス内に残され、占春園と呼ばれている。園内にある「占春園碑」は、1746年3月に建てられたもので、桜をはじめとする四季の美や野鳥の集まる様子が読み込まれている。 |
【4.占春園内部】 放置状態 |
播磨坂周辺 | |
【5.常陸府中藩松平播磨守上屋敷】
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【5.環三通り】 戦後、春日通りから千川通り(小石川)へ下る坂道が出来た。この道は「言問通り」の延長線上にあり、完成すれば、共に、環状3号線の一部となるはずであるが、計画は頓挫したままになっている。 |
【5.環三通り桜並木】 環三通りは、通称、播磨坂桜並木と呼ばれ、桜の名所になった。 |
【6.高橋泥舟、山岡鉄舟 旧居跡】 この一帯は、大名屋敷や寺ばかりでなく、旗本も数多く住んでいた。 高橋泥舟・山岡鉄舟の屋敷も隣り合わせであった。 ・高橋泥舟…槍の名人山岡静山の弟、母方の高橋家を継ぐ。 ・山岡鉄舟…山岡静山の妹と結婚し、山岡姓を名乗る。 高橋泥舟、山岡鉄舟、勝海舟は維新の重要な役割を担った。 (文京区教育委員会案内板より) |
【7.石川啄木終焉の地】 1886年、岩手県南岩手郡日戸村の常光寺で生まれた。 作家を志望して上京、朝日新聞社に勤務しながら創作活動を行った。歌集「一握の砂」「悲しき玩具」、詩集「あこがれ」「呼子と口笛」等を著した。 1912年、この地で、肺結核のため死去26歳。 (以上、東京都教育委員会案内板より) [すぐ思い浮かぶ代表歌] ・東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる ・ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく ・ふるさとの 山に向かいて 言ふことなし ふるさとの山は ありがたきかな |
←【8.宗慶寺】
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【8.宗慶寺と極楽水】
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【小石川パークタワー内に再現された極楽水】 元々の位置に、極楽水を再現したのは良いが、せめて井戸を掘って水を流してほしかった。 |
【9.善仁寺の極楽水】 969年 真言宗寺院 福寿院として創建というが確証はないようだ。1517年に当寺で書写された奥書を持つ「聖徳太子伝絵」の写本が発見(慶応義塾大学 三田メディアセンター所蔵)されたので、少なくとも戦国時代には存在していたようだ。(善仁寺ウエブサイトより) 宗慶寺に極楽水が出るならば、すぐ近くの寺にも同じ湧き水があったに違いない。現在のつるべ井戸は、1894年に駒込の酒井氏が寄進したものという。 |
【10.銀杏寺、光圓寺】 開創年代は不明だが、行基が741年に植えた銀杏の木があり、了誉聖冏が中興の祖ということなので、江戸期以前から存在していたのは確実と思われる。 |
【10.(光圓寺)行基が植えたという銀杏の木】 中央に戦災で焼けただれた古木があり、その周りに新しい銀杏を植えたという(副住職談)。 |
【10.(光圓寺)1977年に建てられた石碑】 私には全文は解読できないのだが、拾い読みしたところ「焼けただれた銀杏の古木は、1945年当時で樹齢1200歳」とある。 |
【10.(光圓寺)墓地の周囲に銀杏の木】 墓地に入ってみると、周囲に銀杏の木がズラリ、まだ若い木だが、銀杏が売りの光圓寺としてはさすがといったところ。 |
【10.(光圓寺)跡見家の菩提寺】 跡見学園の学祖・跡見花蹊(あとみかけい)の墓(写真付き)。跡見学園のウエブサイトには、「跡見学園の新年は、創立者 跡見花蹊先生の墓参りから始まります。」とある。 |
手塚治虫作「陽だまりの樹」の舞台となった松平讃岐守屋敷周辺 | |
【松平讃岐守下屋敷跡】 ここも水戸徳川家の色彩である。2代藩主松平頼常は徳川光圀の息子。 現在は、学芸大学附属竹早中学と都立竹早高校敷地になっているが周囲の道は江戸時代の道がそのまま残っているようだ。 ※(左図は「東都小石川絵図の一部」東京国立博物館蔵) |
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【11.手塚良仙宅跡:現、学芸大学附属竹早中学校庭】 手塚治虫作「陽だまりの樹」の舞台となったところである。 手塚良仙は代々常陸府中藩の藩医を勤め、三百坂下通りに住んでいた蘭方医。息子、手塚良庵は大坂の緒方洪庵の適塾に学び、江戸では伊東玄朴等とお玉が池種痘所設立に力を尽くす。 「陽だまりの樹」はビックコミックで連載され、2012年NHKBSでドラマ化(45分×12回)、実に多くの人物が登場するので、幕末・維新を理解するのに役立つ(手塚治虫とプロディーサーの目を通してであるが...) |
【12.三百坂:左は学芸大学附属竹早中学、都立竹早高校】 『江戸史』によると、松平播磨守の屋敷から少し離れた所にある坂である。松平家では、新しく召抱えた「徒の者」を屋敷のしきたりで、早く、しかも正確に、役に立つ者かどうかをためすのにこの坂を利用したという。 主君が登城のとき、玄関で目見えさせ、後衣服を改め、この坂で供の列に加わらせた。もし坂を過ぎるまでに追いつけなかったときは、遅刻の罰金として三百文を出させた。このことから、家人たちは「三貊坂」を「三百坂」と唱え、世人もこの坂名を通称とするようになった。 (文京区教育委員会案内板より) |
春日通りを横断して... | |
鳥羽伏見の戦いから江戸へ逃げ帰った「徳川慶喜」と「松平容保」、終焉の地は近かった | |
【小石川・小日向地区】
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【13.国際仏教大学大学院:坂の左側】
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【13.小日向交差点:第六天社推定地】 神田上水堀(巻石通り)の土手に第六天社が祀られていたことから、巻石通りの北側を「第六天町」と称した(明治維新後)。切り絵図を参照すると、「小日向交差点信号機」の左側が第六天社があったところと思われる。徳川慶喜・松平容保終焉の地は、共に第六天町であった。
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【13.徳川慶喜終焉の地】
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【14.松平容保終焉の地:この坂(荒木坂)を上りきったところ】 旧松平容保邸と旧徳川慶喜邸は茗荷谷を挟んで隣どうしてあるが、慶喜がこの地に来たのは容保が亡くなって後なので、この地で逢うことはなかった。
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【15.巻石通り、神田上水跡】
※「白堀」の存在は、文献上知られていたが、実態は必ずしも明らかではなかった。2011年巻石通りに面した区立第5中学校敷地から、この「白堀」の遺構が発見され、水道博物館に展示されている。 |
←【16.金剛寺坂】
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【16.金剛寺坂上】 金剛寺坂を上り、途中で右折して安藤坂に向かう道、切り絵図と同じクランク状が残されてる。 |
【安藤坂】 金剛寺坂を登り右折して、しばらく行くと安藤坂に出る。坂の西に「安藤飛騨守上屋敷」があったので、安藤坂と呼ばれた。傳通院へ登る坂である。 |
【17.三井本家と文京区立第三中】 明治維新後、安藤坂両側の大半を三井家が取得し、東京における三井の拠点となった。1945年の空襲で小石川全体が猛火に包まれ、また戦後GHQ指令による財閥解体で三井の土地は四散した。 現在の文京区立第三中学校は三井本家の跡地に建設された。第三中の「三」は三井にちなんで付けられたという。(区立第三中学校ウエブサイトより) |
【17.第三中には「三井邸の厩」が残された】 |
再び、春日通りを横断して... | |
傳通院、その周辺 | |
【傳通院周辺切り絵図】
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【18.傳通院】
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【18.傳通院:於大の方の墓】
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【18.傳通院:千姫の墓】
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【18.傳通院:本理院の墓】
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【18.傳通院:開祖、了誉聖冏の墓】赤の矢印 |
【18.傳通院:清河八郎の墓】赤の矢印
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←【19.浪士隊結成の地・処静院跡】 傳通院に入る直前、左折すると傳通院の外塀に処浄院の案内板が打ち付けてある。 「1863年浪士隊の結成がここ処静院行われた、浪士隊は幕末、京都守護職(松平容保)のもとで活動した新撰組の前身、隊結成にあたり、中心となった人物は清河八郎で、幕臣の鵜殿長鋭が目付、山岡鉄舟が取り締まりの職に就いた。 山岡鉄舟と懇意であった処静院の住職琳瑞は結成の趣旨に賛同し、寺を提供した。後に、新撰組幹部となる試衛館道場の近藤勇、土方歳三、沖田総司なども参加し、総勢250名ほどで京都に上った。しかし、尊皇攘夷をめぐって隊は分裂し、江戸に戻った清河八郎は、麻布の一の橋で刺客の手で刺された。 ※処静院は傳通院の塔頭の1つであったが、明治に入り、廃寺となった。今は、傳通院前に「不許葷酒入門内」の文字が刻まれた処静院の石柱を残すのみである。」 (文京区教育委員会案内板抜粋) |
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【20.幸田露伴旧居(小石川蝸牛庵跡)】→ ※右写真「赤矢印」が小石川蝸牛庵跡※
樹高約13m、推定樹齢約400年の古木である。第二次大戦の空襲によって樹木の上部が焼けてしまったが、戦前の調査では樹高約25mであった。 この場所は江戸時代、伝通院の境内であった。その後、本樹は傳通院の鎮守であった澤蔵司稲荷の神木として現在に至る。 (文京区教育委員会案内板より抜粋) |
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【21.澤蔵司稲荷、(別当寺)慈眼寺】
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【22.善光寺月山堂】 1602年、縁受院として創建、於大の方の念持仏を祀ってある。善光寺信仰が徐々に盛んに成り「月参堂」と呼ばれ、幕末のころの「月参講」には2-3千人の信者を擁したという。1884年善光寺分院となる。 |
【23.源覚寺 こんにゃく閻魔】
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【23.サイパンに旅した鐘】
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