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歴史散歩:目黒不動−行人坂−茶屋坂−三田用水跡を歩く


2019年11月26日(火)
錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、歴史散歩。
  • 成就院・蛸薬師は慈覚大師円仁開基と伝わる寺、江戸期には保科正之が歴史に登場するきっかけとなった寺でもあるという。目黒不動尊もまた円仁開基と伝わる寺、徳川家光の帰依により大きく栄えた、また「独鈷の滝」で知られる。甘藷先生で知られる青木昆陽の墓があり、10月28日の縁日には甘藷まつりが開かれる。
  • 太鼓橋・行人坂・夕日の岡は江戸期に、江戸市中から目黒不動への参詣道として栄え、参詣道を整備するため種々の伝説が生まれ、大円寺にはその遺跡が多数ある。また大円寺は明和の「行人坂大火」の火元として知られる。
  • かつて目黒区の高台を流れていた三田用水、その水路跡を随所に見ることができる。その分水の一部は、急斜面の大名庭園・千代ヶ池に流され滝となったり、一部は恵比寿のビール工場の原料水になった。
  • 急斜面は昔から富士山への眺望が開けたところであった。茶屋坂の「爺々が茶屋」では湧き出る清水でたてたお茶がおいしく、歴代徳川将軍が度々訪れたという。落語「目黒のさんま」発祥の地でもある。茶屋坂の中間を掘り下げ新茶屋坂新設・拡張で「爺々が茶屋」の位置が不明確になった。
  • 三田用水は、飲料水・農業用水として使われたが、水車を回す動力にも使われた。幕末にはその動力を利用して火薬生産が行われた。火薬生産は明治政府に引き継がれ、日清・日露戦争に使われた。昭和になると火薬生産は移転し、その跡地に海軍がやってきた。戦後は防衛省管轄だが、海軍が有馬屋敷→築地から持ってきた「猫石」が残る。
  • 旧祐天寺道には、道しるべ、馬頭観音が残されている。また、別所坂上には、三田用水が流れ、近藤重蔵が築いた目黒新富士があった。

国土地理院地図2500[ブラウザ:カシミール]に、主な地名・旧跡を書き加えた。

目黒不動尊周辺

【白銀絵図 目黒不動部分 国会図書館蔵】
行人坂から目黒川を渡り、成就院の前を通って目黒不動へ向かう道が正式の参道。

【成就院】

【成就院、蛸薬師】
858年慈覚大師円仁によって開創された。大師は若い時から眼病を患い40歳の時、自ら薬師仏を刻み、御入唐の時も此れを肌身につけて行ったが、 帰りの海路、波風が荒れたので、その御持仏を海神に献じて、危急をのがれ、無事に筑紫の港に帰り着いた。その後大師は、諸国巡化の砌、肥前の松浦に行かれますと海上に光明を放ち、さきに海神に捧げられたお薬師さまのお像が、蛸に乗って浮かんでいるのを観て、随喜の涙にむせび、その後、東国を巡り目黒の地に来た時、諸病平癒のために、さきに松浦にて拝み奉った尊容をそのままに模して、一刀三礼、霊木に刻み、護持の小像を其の胎内に秘仏として納め、蛸薬師如来として祀った。
(天台宗東京教区ウエブサイトより)
※蛸薬師如来は秘仏で、1月8日の初薬師縁日にだけ開帳される。

【お静地蔵】
この石仏像は、徳川二代将軍秀忠の側室、お静の方の発願で奉納された。お静は江戸城大奥にあがり将軍の寵愛を受け「お腹さま」となることを願い、三体の観音像を納め(右の3体)、その素願かない1611年に男子「幸松麿」を授かる。その後、秀忠正室、浅井崇源院の威勢を畏れながらもその恙無いご成育を祈り三体の地蔵を刻み納めた(左の3体)。そして再び願いかない、また家康の側室見性院殿(武田信玄公の娘)の庇護もあり、保科正光の養子となり、元服後、保科正之となった。
元和年間、三代将軍家光は、目黒で鷹狩の際、当寺に参拝され、舜興和尚(中興第十五世)とのご法談の折、正之との浅からぬ縁を知り、それにより寛永八年、正之は信州高遠城主となった。お静は、大願成就の御礼として、阿弥陀如来像を納めた
正之は後に山形城主、さらに正保元年会津藩二十三万石の城主となり、会津松平家の祖となった。また家光の命により四代将軍家綱の御見人として、幕政に力を注ぎ、善政を施された。
《成就院 お静地蔵尊・由来記 抜粋》

【比翼塚】
処刑された愛人白井権八と、彼の墓前で自害した遊女小紫。その悲話は「後追い心中」として歌舞伎などで有名だが、この比翼塚は、二人の来世での幸せを祈りたてられたという。(目黒区)
(左より→)白井権八は因幡国鳥取藩士であったが、数え18歳の1672年秋、父・正右衛門の同僚である本庄助太夫(須藤助太夫とも)を斬殺して、江戸へ逃亡(退去とも)した。新吉原の三浦屋の遊女・小紫と昵懇となる。やがて困窮し、辻斬り(強盗殺人)を犯し、130人もの人を殺し、金品を奪ったとされる。権八は、目黒不動瀧泉寺付近にあったとされる普化宗東昌寺(現在廃寺)に匿われ、尺八を修め虚無僧になり、虚無僧姿で郷里・鳥取を訪れたが、すでに父母が死去していたことから、自首したとされる。1679年12月5日、品川・鈴ヶ森刑場で刑死した。小紫は刑死の報を受け、東昌寺の墓前で自害したとされる。同寺に「比翼塚」がつくられたが、同寺が廃寺となったため移転し、目黒不動瀧泉寺に現存している。

この話を材料にした、歌舞伎・浄瑠璃を「権八小紫物」と呼ぶ。
『浮世柄比翼稲妻』(四代目鶴屋南北、1823年)における二人の鈴ヶ森での出会い(御存鈴ヶ森)で、長兵衛に「お若えの、お待ちなせえやし」と問われ、「待てとお止めなされしは、拙者がことでござるかな」と応える台詞が有名である。
(ウイキペディア)

【泰叡山 瀧泉寺 目黒不動尊】
808年、15歳の円仁は、比叡山の最澄のもとへ赴く途上、当地に立ち寄り自ら彫刻した不動明王を安置し開山した。境内で、円仁が煩悩を打ち砕く仏具「独鈷」を投げると、そこに泉が湧出、「独鈷の滝」と名付けた。「瀧泉寺」という名称は、この泉に因っている。860年には清和天皇より「泰叡」の勅額を賜り、爾来「泰叡山」と称した。
江戸時代に入り、三代将軍家光の帰依を受け、諸堂末寺等併せて五十三棟に及ぶ大伽藍を造立が造立された。歴代の将軍が折々に参詣する宏壮な堂塔は『目黒御殿』と称され、庶民も列を成して詣でる江戸随一の名所となった。

【目黒不動尊、広重 国会図書館蔵】
熊本の木原不動尊、成田山新勝寺の成田不動尊と併せて 日本三大不動の一つに挙げられている。
(天台宗東京教区ウエブサイトより)

広重の錦絵にも、二筋の「独鈷の滝」が見られ、参詣者の水垢離りの様子が描かれている。

【龍泉寺名前由来となった独鈷の滝】
目黒不動は台地の最も高いところにありますが、その麓では、湧水が涸れることがないという。
現在は、二筋の湧水口が見られますが、都内での湧水としてとても貴重。

【水かけ不動明王】
「独鈷の滝」は、不動行者の水垢離場となり、幕末には西郷南州が島津斉彬の闘病平癒を祈願した。また、身代わりで滝泉に打たれてくださる「水かけ不動明王」が造立され、より清らかな心と身で目黒のお不動さまに参詣できることができるようになった。
(龍泉寺案内板より)

【龍泉寺勢至堂】

【龍泉寺前不動】

【男坂と「鷹居の松跡」】
三代将軍家光が、目黒不動尊の近くで鷹狩りの折、愛鷹 が行方不明になった。目黒不動別当の実栄という僧に祈らせたところ、鷹はたちまち境内の大きな松の枝に飛び戻ってきた(鷹居の松由来)。これ以後、家光 は不動尊 を深く信仰するようになった。もちろん、現在の松は「鷹居の松」から何代も後の松になる。
(目黒区教育委員会)

【泰叡山 瀧泉寺 目黒不動 本殿】

【銅造大日如来座像】
本堂の裏にあり、蓮華座に結跏趺座している像で、高さは385cm、坐高は281.5cm、頭の長さは121cmです。宝髪、頭部、体躯、両腕、膝など十数の部分に分けて鋳造し組み合わせた、吹き寄せという技法で制作されている。体躯に比べ頭部を大きく造るのは大仏像に共通し、この像もそれにならっている。
台座部分に刻銘があり、1683年に鋳物師横山半右衛門尉正重により造られたこと、開眼に関係した僧侶、寄進者と思われる人々の名前などがわかる。
江戸時代には堂舎に納められ、その後は長らく露座だったが、現在は覆屋根が設けられている。(目黒区ウエブサイト)

【青木昆陽の墓】
本堂の裏側の道を北に進んだところにある。
瀧泉寺の縁日は毎月28だが、10月28日の縁日は「青木昆陽の遺徳を偲んだ」甘薯祭りがひらかれている。

【青木昆陽の肖像画】ウイキペディアより転載
【青木昆陽、1698-1769】
青木昆陽は、江戸日本橋に生まれ、幼い頃からの学問好きであった。1719年に京に上り、儒者伊藤東涯に学んだ。昆陽が甘藷のことを知ったのは、この頃だったといわれている。その後、江戸に帰った昆陽は私塾を開いていたが、町奉行大岡忠相に推挙され、以降、幕府に仕えた。1732年に「天下飢饉、疫癘えきれい行る」と「武江年表」享保17年の項に書かれ、多くの死者を出した大飢饉が起った。昆陽は、甘藷が地味の肥えていない土地でも十分に生育することに目をつけ「蕃薯考」を著し幕府に上書した。これが将軍吉宗にとりあげられ、甘藷の試作を命じられた。昆陽は早速種芋を取寄せ、小石川御薬園(現:文京区白山東京大学附属小石川植物園)で試作を始めた。1度は失敗したものの、2度目に良好な結果を得ることに成功した。ここで採れた芋は種芋として各地に配られ、甘藷かんしょ栽培が定着するもととなった。この功績から昆陽は甘藷先生と称されるようになった。
その後、昆陽は、蘭学研究に打ち込み数々の名書を著し、有数の蘭学者となった。昆陽は、晩年、現在の大鳥神社の付近に別邸を構えた。現存する墓は、遠く富士山を望む景勝の地目黒を好んだ彼が生前から居宅の南に建て、自ら「甘藷先生墓」と記していたものだ。(目黒区ウエブサイト)
1739年には御書物御用達を拝命し、オランダ語の研究や古文書の収集を行った。書物奉行になったのは1767年、死の2年前であった。主な著書:蕃薯考、和蘭文訳、和蘭文字略考、経済纂要、昆陽漫録、草盧雑談、国家金銀銭譜、諸州古文書

行人坂と夕日の岡

【白銀絵図 行人坂部分 国会図書館蔵】
目黒不動の方角から目黒川に架かる太鼓橋を渡り、行人坂を登って行くと、右手に明王院、大円寺と続き、坂の上左手には茶屋があった。行人坂は、1624-1644年の頃、出羽三山の一つ湯殿山の大海法印という行人(行者)がこの地で修行を始め、次第に多くの行人が集まり住むようになったことが名前の由来。

【目黒 夕日の岡 行人坂 江戸名所図会 国会図書館蔵】
大円寺は、江戸三大火事の一つ、1772年の「目黒行人坂の火事」の火元と言われており、犠牲者供養のために約50年かけて石工が完成させた釈迦三尊像及び五百羅漢像約520体が境内の三方を囲んでいる。

【目黒太鼓橋夕日の岡 広重 国会図書館蔵】
太鼓橋は1700年代初頭に木喰上人が造り始め、後に江戸八丁堀の商人たちが資材を出し合って1764年から6年の歳月を経て完成した。こうしたアーチ型の石橋は江戸の中でも他に例がない。
(ホテル雅叙園東京説明板)

【目黒川に架かる太鼓橋】
1920年9月1日に豪雨で崩壊、1921年木橋で再建、1932年鉄橋に架け替え、1991年目黒川改修により現況。
(ウイキペディア)
【お七の井戸、明王院跡、ホテル雅叙園】
八百やの娘お七は、恋いこがれた寺小姓吉三あいたさに自宅に放火し、鈴ヶ森で火刑にされた。吉三はお七の火刑後僧侶となり、名を西運と改め明王院に入り、目黒不動と浅草観音の間、往復十里の道を念仏を唱えつつ隔夜一万日の行を成し遂げた。この明王院境内の井戸で西運が念仏行に出かける前にお七の菩提を念じながら、水垢離をとったことから「お七の井戸」といい伝えられている。明王院は雅叙園エントランスから庭園にかけて1880年頃まであった。
(雅叙園説明板より)(江戸切り絵図参照)


※「お七という名前の娘が放火し処刑された(1683年)」ことは事実であるようだ。しかし、それにまつわる物語は全てフィクションであるようだ。井原西鶴が書いた「好色五人女」では、吉祥寺に避難しそこの寺小姓の吉三が恋人とされてる。

【行人坂、右側は雅叙園】
目黒川の太鼓橋から目黒駅の東方に上る急坂。この坂は、江戸時代に権之助坂が開かれる前は、二子道として、江戸市中から目黒筋に通じる大切な道路だった。

【行人坂、右側は大円寺】

【明和九年(1772)江戸目黒行人坂大火之図 国立公文書館蔵】
「類焼御大名方御屋敷百七拾弐か所、其外町々橋々焼落数不知かずしれず、御見附九ケ所焼失、はた元やしき数不知、諸宗寺々数不知」と書かれている。

行人坂火事は1772年2月、行人坂の大円寺から出た火が延焼し、3日間も燃え続けたというものである。明和9年の出来事であったので、だれいうとなく「めいわくの年」だと言い出したので、幕府は年号を「安永」と改めたといわれている。
(目黒区ウエブサイト)

【大円寺】
寺伝では、寛永元年(1624)出羽湯殿山の修験僧大海法印が大日如来を本尊として道場を開いたのが始まりという。幕末になって薩摩藩島津氏の菩提寺として再興された。

【西運、1万日念仏行の碑】
この寺はまた、八百屋お七の情人吉三ゆかりの寺でもある。
西運は、27年かけて1万日日参の念仏行を成し遂げ、明王院境内に念仏堂を建立した。しかし、明王院は明治初めごろ廃寺になったので、明王院の仏像などは、隣りの大円寺に移された。
西運に深い関心を持っていた大円寺の当時の住職であった福田実衍師は、1943年、同寺に念仏堂を再建した際、万葉集出画撰を描いた大亦観風画伯に「お七吉三縁起絵巻」を描いてもらった。その一部、木枯らしが吹きすさぶなかを、念仏鉦を力一杯たたき、念仏を唱えながら、日参する西運の姿を刻んだ碑が境内に立っている。
(目黒区ウエブサイト)

【阿弥陀堂】
阿弥陀堂のなかには、阿弥陀三尊像、お七地蔵、西運上人像が祀られている。すべて、明王院から移されたものという。

行人坂敷石造道供養碑
下部の碑文によって、この坂を利用する念仏行者たちが悪路に苦しむ人々を救うため、目黒不動尊龍泉寺や浅草観音(浅草寺)に参詣し、通りがかりの人々から報謝を受け、これを資金として行人坂に敷石の道を造り、この成就と往来の安全とを供養祈願したことがわかります。施主は西運で1703年の紀年があり、江戸と目黒の社寺を結ぶ重要な参詣路であった行人坂開発の歴史を知るうえに貴重な歴史資料。(目黒区教育委員会案内板抜粋)

【目黒川の太鼓橋に使用された石材】
八百屋お七の恋人吉三(西運)が一万日の念仏行の際、江戸市民から寄せられた浄財を基に石製の太鼓橋を造り、行人坂を石畳に変えた。

【目黒川架橋供養勢至菩薩石像】
小堂の中にある石造物は3段の台石を含め総高190cmで、一番上は蓮華座の上で合掌し、右膝を立てて座る勢至菩薩像です。小堂の前を通る行人坂を下りた先には目黒川がありますが、江戸時代中期の目黒川架橋について台座石の前面と両側面に銘文が刻まれています。銘文は1704年のもので、西運という僧が目黒不動と浅草観音に毎日参詣し、往復の途中で人々から受けた寄進により、川の両岸に石壁を築き、雁歯橋を架けたということが書かれています。目黒側架橋の歴史を示す、貴重な文化財です。(目黒区教育委員会)

【大円寺石仏群】
『新編武蔵風土記稿』には、大円寺境内の五百羅漢は行人坂の火事(1772年)で亡くなった人々を供養するために建立されたと記されている。大円寺境内の北東側斜面に、520体の石仏群が安置されているが、多くは1781年以降の造立と思われる。1848年に大円寺が再興されたとき、これらの石仏もここに安置されたと考えられる。判読できる銘文によると、行人坂の火事以外の供養も含まれているようだ。(東京都教育委員会抜粋)

【目黒 行人坂 夕日の岡・富士見茶屋跡】
※矢印の位置に[富士見茶屋と 夕日の岡]の案内板※
江戸時代、この辺には「富士見茶屋」があり、大勢の参詣客や旅人がここで一服、秀麗な富士の眺めを楽しんだ。また、坂の周辺は夕日と紅葉が見事で、夕日の岡と呼ばれていた。(目黒区案内板より)

【目黒行人坂之図 広重 国会図書館蔵】
右側に富士見茶屋が見え、急坂(行人坂)を下ると、太鼓橋を経て目黒不動に至る。ここには書かれていないが、行人坂を中心とした斜面地を「夕日の岡」と称したものと思われる。

千代ヶ崎と三田用水跡

【白銀絵図 千代ヶ崎部分 国会図書館蔵】
JR目黒駅近くの権之助坂上から恵比寿方面へ向かう目黒川沿いの台地はかつて「千代ヶ崎」と呼ばれ、西に富士山を、東に品川の海を望む景勝地でその様子は「江戸名所図絵」にも描かれている。このあたりに、江戸時代、九州の肥前島原藩主松平主殿頭の抱屋敷があり、2万坪あまりの広大な敷地の庭には、三田用水を利用した滝や池があって、景色のあまりの見事さから絶景観と呼ばれた。屋敷地の一角には、かつて「千代ヶ池」という池があった。南北朝時代の武将新田義興が、多摩川矢口渡で罷業の死を遂げ、その死を悲しんだ側室の千代が池に身を投げた。これ以来「千代ヶ池」「千代ヶ崎」の名前の由来となった。(目黒区教育委員会抜粋)

【旧千代ヶ崎地区】
三田用水跡:国土地理院地図2500(カシミールで表示)と今昔マップ首都(1896-1909)を重ね合わせて求めた。三田用水跡は通路と一致しているわけでもなく、A,B地点では通路とクロスしている(おそらく橋が架かっていた)ことが分かる。
千代ヶ池跡:目黒台マンションといわれているが、それよりも多少、北寄りかもしれない。
旧茶屋坂通り:旧茶屋坂通り、新茶屋坂通りの関係を見ると、、茶屋坂上では、旧茶屋坂通りを掘り下げて新茶屋坂通りを作ったことが分かる。茶屋坂に関しては、茶屋坂街かど公園までほぼ一致した。

【三田用水出口】
左:目黒三田道路(西向き)、右:三田用水側道
明治期の地図と重ね合わせると、右の脇道に沿って三田用水が目黒三田道路に出てくる

【三田用水A地点】
その側道に沿って進むと、地図A地点(側道と用水がクロス)に出る。ここに橋があったはず。
左の写真と向きが逆で川上から撮っている:青の→方向に用水は流れていたものと思われる。

【三田用水A地点から少し進んだところ】
正面に伊藤ハムのビルが見える。右側の樹木、古民家に注目。青い矢印の三田用水は右側の古民家よりも少し高めの所を流れていたように見える。

【三田用水】
更に川上に進むと、新しい塀も水路に沿ってカーブしていることが見て取れる。
正面は日の丸自動車教習所。

【三田用水脇の樹木】
樹木を正面から見たところ。水路や池などの水辺には樹木が残されていることが多いが、ここでは庇を突き抜けた樹木を保存している。

【日の丸自動車学校出口から目黒三田道路を望む】
明治期の地図と重ね合わせると、三田用水は正面側道に沿って流れ「日の丸自動車学校建屋」に流れ込んでいた(青矢印は三田用水の流れイメージ)。

【目黒三田道路を渡り、日の丸自動車学校を望む】
目黒三田道路を渡り振り返ると、日の丸自動車学校を望むことができる。青矢印は三田用水の流れ(イメージ)。赤の矢印の下に、三田用水案内板(目黒区)がある。

【三田用水跡案内板】
かつてこの地を流れていた三田用水 は、1664年に中村八郎右衛門、磯野助六の両名が開いた三田上水を始めとしている。この上水は三田、芝、金杉方面の飲料水とするため、玉川上水 を下北沢で分水し、白金猿町までの2里ほどを流したもの。
1722年8代将軍吉宗は、室鳩巣の上水が火事の原因になるという意見を採用し、三田上水を含め4上水を廃止した。しかし、三田、上目黒、中目黒、下目黒の目黒4ヶ村をはじめ流域14ヶ村から農業用水として利用したいという願いが関東郡代に出され、1724年に農業用の三田用水として再開された。 (右へ→)



(左より→)
以後、三田用水は豪農等で組織された用水組合により管理された。農業の他に水路が淀橋台とよばれる台地上を通るので、大正末期まで台地の下に水車を設置した製粉・精米にもさかんに利用された。また、明治末期からの目黒付近の工業化にともない恵比寿のビール工場の原料水や目黒火薬製造所(後の海軍技術研究所)の用水としても用いられた。
戦後は急激な都市化により水質も悪化し、わずかにビール工場の洗浄用水などとして細々と用いられていたが、それも不要となり、1975年にその流れを止め、三百年にわたる歴史の幕を閉じた。
(目黒区教育委員会案内板)

【千代ヶ崎、千代ヶ池】
JR目黒駅近くの権之助坂上から恵比寿方面へ向かう目黒川沿いの台地はかつて「千代ヶ崎」と呼ばれ、西に富士山を、東に品川の海を望む景勝地でその様子は「江戸名所図絵」にも描かれている。このあたりに、江戸時代、九州の肥前島原藩主松平主殿頭の抱屋敷があり、2万坪あまりの広大な敷地の庭には、三田用水を利用した滝や池があって、景色のあまりの見事さから絶景観と呼ばれた。屋敷地の一角には、かつて「千代ヶ池」という池があった。南北朝時代の武将新田義興が、多摩川矢口渡で罷業の死を遂げ、その死を悲しんだ側室の千代が池に身を投げた。これ以来「千代ヶ池」「千代ヶ崎」の名前の由来となった。(目黒区教育委員会案内板抜粋)


←[目黒 千代ヶ池 絵本江戸土産]
広重、国会図書館蔵

※地図でA地点まで戻り、目黒三田道路を横断し、南の坂を下ると千代ヶ池跡となる。

【千代ヶ池跡を坂下から見た写真】
千代ヶ池跡は赤矢印の辺り、坂下から見れば千代ヶ池跡は坂の中程の位置。現在でも、坂の標識は15%である。

【千代ヶ池跡、警視庁目黒合同庁舎】
左図赤の矢印地点。警視庁目黒合同庁舎駐車場とその南の目黒台マンションの間はかなりのギャップがある。明治期の地図を重ね合わせると、窪地(千代ヶ池跡)は、境界線辺りとなる。
千代ヶ池とは主に湧き水、そこに三田用水の余水を流したのだろう。ここを流れる三田用水は、結局、目黒川に流れ込むのだが、崖下の田圃を潤す農業用水でもあった。



【三条実美邸跡】
東京富士見坂(国土交通省関東整備局案内板)からみた三条実美邸跡、赤の矢印の石碑に由来が書いてあるとのことだが、全く読めず。

茶屋坂と三田用水跡

【三田用水跡B地点】
三田用水はここで側道を横切り(おそらく橋があった)住宅の下を流下して、日の丸自動車学校へ向かった。画面奥に気になる樹木があるので近づいてみる。

【三田用水路脇の樹木?】
目黒区保存樹「シイ」との標識があった。おそらく、A地点と同じように三田用水に沿って植えられたものだろう。
【茶屋坂隧道手前】
さらに西へ進むと、かつて茶屋坂隧道があった所に突き当たる。ここは、左に下りる坂が「茶屋坂」であり、その茶屋坂の一部を掘り下げて「新茶屋坂通り」が出来た場所。

MIZBERINGサイトでは、画面中央付近に私有地を示す「黄線」が写っている。この黄線は三田用水の「幅」を示していて、三田用水が廃止されるときこの幅は私有地になり、その後、道路として寄付or譲渡されたものという。

現在では、その様な「黄線」は既になく、相当する位置に境界石(青の矢印3ヶ所)が埋め込まれている。写真の青横線で三田用水の推定幅を示した。

【新茶屋坂通り】
既に、地図で示したように、1928年、江戸期からの茶屋坂通りの一部を掘り下げる形で新茶屋坂通りが造られた。
台地上には、茶屋坂に繋がる「旧茶屋坂通り」ができた。
三田用水を維持するために、新茶屋坂通り上には茶屋坂隧道が出来た。

【三田用水と茶屋坂】
「茶屋坂」は「爺々が茶屋」があったことに由来する古道。
新茶屋坂通りが出来ても、よく保存されている(開発されていない)。

【爺々が茶屋 絵本江戸土産 広重 国会図書館蔵】
寛永の頃、将軍(家光)が鷹狩りに来て、この茶屋に立ち寄った。その頃、茶屋には老人夫婦がいて、将軍を接待した、それ以来、この茶屋を「爺々が茶屋」と呼ぶようになった。しかし、今では、茶屋の主人が老人でなくても「爺々」という名で呼ぶ。(説明文を筆者意訳)
目黒川に下る急坂にあり、千代ヶ池と同様、田園や富士山の眺望が良かったものと思われる。

【「茶屋坂と爺々が茶屋」の案内板】
茶屋坂を下ると、曲がり角に、目黒区の「茶屋坂と爺々が茶屋」説明板(赤い矢印)がある。

【茶屋坂由来碑】

【落語「目黒のさんま」発祥の地】
遊猟の帰途、茶屋に寄った将軍は、空腹を感じて彦四郎(爺々が茶屋の主人)に食事の用意を命じた。だが、草深い郊外の茶屋に、将軍の口にあうものがあろうはずはない。そのむねを申しあげたが「何でもよいから早く出せ」とのこと。やむをえず、ありあわせのさんまを焼いて差しあげたところ、山海の珍味にあきた将軍の口に、脂ののったさんまの味は、また格別だったのだろう。その日は、たいへんご満悦のようすで帰った。
それからしばらくして、殿中で将軍は、ふとさんまの美味であったことを思い出し、家来にさんまを所望した。当時さんまは、庶民の食べ物とされていたので家来は前例がないこと、たいへん困ったが、さっそく房州の網元から早船飛脚で取り寄せた。ところが料理法がわからない。気をきかせた御膳奉行は、さんまの頭をとり、小骨をとり、すっかり脂肪を抜いて差し出した。びっくりしたのは殿様。美しい姿もこわされ、それこそ味も素っ気もなくなったさんまに不興のようす。
「これを何と申す」
「は、さんまにございます」
「なに、さんまとな。してどこでとれたものじゃ」
「は、銚子沖にございます」
「なに銚子とな。銚子はいかん。さんまは目黒に限る」
(目黒区ウエブサイトより)

【茶屋坂の清水】
爺々が茶屋では、江戸時代、徳川歴代の将軍、三代家光公、八代吉宗公が、鷹狩りにおなりのさい、背後にそびえる富士の絶景を楽しみながら涌き出る清水でたてた茶で喉を潤したと云われています。中でも八代将軍吉宗公は、祐天寺詣でのおりにも利用したと伝えられています。こうして長い間、身分の垣根を越えて皆に愛され親しまれてきた「茶屋坂の清水」も昭和8年、分譲地の造成工事のため、埋没の危機にさらされました。その時、この清水を惜しんだ、分譲地の一角にあった水交園の管理人夫妻が清水の保護に努力されて「茶屋坂の清水」は、守られ、次の世代へと受け継がれてきました。その後、清水は、東京大空襲の際には、消防用水、炊事用として、付近の人々の命を救ったのでした。
(茶屋坂の清水 案内板、目黒区 土木部公園緑地課より)

※茶屋坂の清水の碑は、現在、茶屋坂街かど公園に建っているが、肝心の「茶屋坂の清水」の場所が明確ではない。茶屋坂のどこかであることは確かなようだが。

※また、「爺々が茶屋」の場所についてもはっきりしないが、湧き水がなくてはお茶も出せないので、「茶屋坂の清水」に近い場所だろう。

【茶屋坂隧道跡】
右上のガードレールの所にあるカーブミラーに注目。そこが茶屋坂隧道跡と思われる。


[三田用水跡と茶屋坂隧道跡、案内石碑文 by 目黒区]
三田用水は1664年、飲用の上水として作られ、玉川上水 から北沢で分水し、三田村を通り白金、芝へ流れていた。
1722年この上水が廃止になった時、目黒の4か村をはじめ14か村はこれを農業用水として利用することを関東郡代に願い出て、1725年に三田用水 となった。(右へ→)

【茶屋坂隧道】
左の写真は台地上から写したもの、右の写真は新茶屋坂から写したもの(いずれも目黒区ウエブサイトから転載)。茶屋坂隧道は道路拡張で2003年撤去された。

(→左より)
農耕、製粉・精米の水車などに用いられた用水も、明治以降は工業用水やビール工場の用水など、用途を変更し利用されてきたが、やがてそれも不用となり、1975年にその流れを完全に止め、約300年にわたる歴史の幕を閉じた。
茶屋坂 隧道は、1930年に新茶屋坂 通りを開通させるため、三田用水の下を開削してできた全長10mほどのコンクリート造りのトンネルで、2003年に道路拡幅に伴い撤去された。

目黒火薬製造所から目黒新富士跡へ

【中目黒地区 国土地理院地図2500 ブラウザ:カシミール3D】

【目黒火薬製造所→防衛装備庁 艦艇装備研究所】
1857年、幕府は軍事上の必要から三田村に目黒砲薬製造所を作った。砲薬調合に三田用水の水力が必要であった。
明治に入っても、事情は同じで、1879年、三田村に目黒火薬製造所が作られた。三田用水・豊富な湧水と傾斜地が火薬生産に必要な鉄製水車を回すのに適していたからである。
1885年操業を開始、製造した火薬は、海軍や鉱山用に使われて、生産額もしだいに増加した。
1893年海軍省の管理から、陸軍の東京砲兵工廠へ移管された。
日清戦争・日露戦争で火薬製造は大ブームになり、終戦後は、軍用火薬から鉱山火薬・猟銃用火薬などを一手に引き受けて、独自に発展の道をたどる。(右へ→)

【防衛装備庁 艦艇装備研究所】

→(左より)
1911年からは、動力を水力・蒸気から電気に転換して近代化を図った。
しかし、昭和に入って、目黒に人家が増え、商店・工場も建てられると、火薬製造が危険ということで、1928年、幕営時代から70年余、三田にあった火薬製造所もついに群馬県岩鼻村へ移転することになる。
1930年、火薬製造所跡地の大部分は、海軍技術研究所が築地から移ってきた。
第二次世界大戦後は、防衛省防衛研究所、2016年からは防衛装備庁 艦艇装備研究所となった。(目黒区ウエブサイトより抜粋)
1930年、海軍技術研究所が築地から移ってきた時に、一緒に築地から移された江戸時代の遺跡がある。いずれも歴史の生き証人といえる。
  1. 樊獪石(はんかいせき)
    浴恩園(松平定信が1792年に築地屋敷に築いた庭園)に据えられていた京都鴨川産の銘石
  2. 猫石
    芝赤羽町の有馬家上屋敷の猫塚に据えられていた石
    同地は維新後工部省所管、次いで海軍省所管。海軍造兵廠が築地へ移転の際、この猫石も築地へ移された。現在、有馬家屋敷跡の区立赤羽小学校の校庭に猫石の跡が保存されている
防衛装備庁 艦艇装備研究所敷地内には、「猫石」を見たいのでといえば、入構が許可された。案内の職員の方が自転車でついてきた。三田用水の痕跡は発見できなかった。

【道しるべ】
江戸時代中期の1779年に建てられたこの道しるべは、中央に南無阿弥陀佛、その右側にゆうてん寺道、左側には不動尊みちと書いてあります。ゆうてん寺道とは、目黒方面から別所坂を登り麻布を経て江戸市中へ通じる最短距離の道、不動尊みちとは、目黒不動へと続く道のことです。そして台座には道講中と刻まれています。このことから、単に道路の指導標というだけではなく、交通安全についても祈願し造られたものであると考えられます。この地域は江戸時代、渋谷広尾町と呼ばれた小規模な町並みが存在していただけでした。町並みから外への道は、人家も少ない寂しいところであったため、このような宗教的意味をもった道しるべが必要だったのでしょう。
(渋谷区教育委員会案内板より)

右側の旧祐天寺道を進む。

【観音坂の名の由来になった馬頭観音を祀ったお堂】
なだらかな坂道(観音坂)を登ると、途中に馬頭観音堂がある。

このお堂に、馬頭観世音菩薩がおまりしてあります。縁起によると、1719年、このあたりに悪病が流行し、これを心配した与右衛門という人が、馬頭観音に祈って悪病を退散させました。その御礼に石で観音をつくり、祐天寺の祐海上人に加持祈祷を願い、原(当時、このあたりを原といった)の中程へ安置した、と伝えています。そして村の人は毎年二回、百万遍念佛を唱え祈願をしたので、その後、このあたりに悪病は流行せず、住民は幸福にくらしたとのことです。
この道は、目黒・麻布を経て江戸市内に入る最短の道で、急な別所坂をおりると目黒川が流れ、すぐ近くに正覚寺があります。別所坂上には、庚申塔(六基)と、広重が江戸名所百景に画いた「目黒新富士」などの旧跡があり、昔の主要道路であったことがわかります。
 (渋谷区教育委員会案内板より

【別所坂上】
  • 別所坂上:なだらかな上り坂道は次第にフラットになり、急階段(別所坂)に出る、車は通行禁止である。
  • 新富士跡:左側は「テラス恵比寿の丘」というマンション、ここが「新富士跡」と思われる。
  • 三田用水跡:明治期の地図を見ると別所坂上から新富士の南を通っていた。青の矢印に沿うように、マンション外側の回廊を進むと、別所坂児童遊園に出る。突き当たりの先は、先ほど訪れた「防衛施設庁敷地」となる。突き当たりの植え込みの中に「新富士説明板と新富士出土物展示」がある。しかし、三田用水に関する痕跡は発見できなかった。

【別所坂児童遊園内の新富士説明板と新富士出土物展示】
江戸時代、富士山を対象とした民間信仰が広まり、各地に講がつくられ、富士山をかたどった富士塚が築かれた。この場所の北側、別所坂をのぼりきった右手の高台に、新富士と呼ばれた富士塚があり、江戸名所の一つになっていた。この新富士は1819年、幕府の役人であり、蝦夷地での探検調査で知られた近藤重蔵が自分の別邸内に築いたもので、高台にあるため見晴らしが良く。江戸時代の地誌に「是武州第一の新富士と称すべし」(『遊歴雑記』)と書かれるほどであった。新富士は1959年に取り壊され、山腹にあったとされる「南無妙法蓮華経」(「文政二己卯年六月建之」とある)・「小御嶽」・「吉日戊辰」などの銘のある3つの石碑が、現在この公園に移されている。
(目黒区教育委員会)

【別所坂児童遊園からの眺め】

【目黒新富士  絵本江戸土産(広重) 国会図書館蔵】
ここに書かれている説明文を筆者が意訳すると、「新富士がいつできたかは分からない、新という名前はついているが、樹木や芝生の様子を見ると最近ではないだろう。この山頂からの眺めは四季いつでも良いが、秋は特に良い、眼下の木々が紅や黄色に染まって錦のようだ。」
目黒新富士の裾を流れるのは三田用水と思われる。
←【別所坂上から下る石段脇の新富士遺跡説明板】
ここでは、発掘された新富士遺跡についても書かれている。
「1991年この近くで新富士ゆかりの地下式遺溝が発見された。遺溝の奧からは石の祠や御神体と思われる大日如来像なども出土。調査の結果、遺溝は富士講の信者たちが新富士を模して地下に造った物とわかり「新富士遺跡」と名づけられた。今は再び埋め戻されて、地中に静かに眠る。」
ここで注意しなければいけないのは、新富士と新富士遺跡は別の場所ということでしょうか。




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