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東京歴史散歩:三ノ輪〜千束〜吉原〜山谷堀〜浅草
2014年4月21日(月) 錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、東京歴史散歩。今回は、三ノ輪を出発し、千束、吉原、山谷堀、隅田公園、待乳山聖天、旧猿若町を経て浅草寺へ、浅草六区が終点です。 ※今回は、上野に縁のある5人の協力を得て、6人で歩きました。ご協力に感謝します。なお、以下に書かれた見解、感想はInternet Walkの管理者個人のものです。 |
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【コースの概略】[@三ノ輪歩道橋]→音無川沿いに→[A大関横丁]→[B三ノ輪橋跡]→[C浄閑寺]→[D千束稲荷神社]→[E鷲神社]→[F吉原遊郭跡]→[G春慶院]→土手通りを経て→[H山谷堀公園]→[I新町役場跡(現都立浅草高校)]→[J今戸神社]→[K隅田公園]→[L待乳山聖天]→[M浅草追分]→[N旧猿若町]→[O姥ヶ池跡]→[P二天門]→[Q浅草寺]→[R浅草神社(三社さま)]→[S浅草六区](全行程、約7km) | ||
@【三ノ輪歩道橋】 江戸末期の切り絵図で見ると、ここは、金杉通りと鷲神社前の道(都道462)との交差点に当たる。この交差点から南方へ、関東大震災の復興事業として、1928年昭和通りが完成し、日光街道の道筋が変わった。 東都 今戸・箕輪・浅草絵図 1853年 (国立国会図書館蔵) |
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旧音無川を辿り日本堤へ |
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A【約300m先が大関横丁】 国道4号線(日光街道)と明治通りの交差点を大関横丁という。しかし、大関横丁とは、本来、下野黒羽藩主、大関信濃守下屋敷(南千住1丁目1〜8番付近)の南と西を取囲んでいた道のことをいう(荒川区教育委員会)。明治通りとJR常磐線が交差したあたりに案内板があ、そこから、約300mほど先に「大関横丁」交差点を望むことが出来る。だいぶ離れた交差点に「大関横丁」という名が残った。 |
B【三ノ輪橋跡】 音無川(台東区と荒川区の境界)に沿って明治通りを横切り、JR常磐線ガードの手前で右に折れ、国道4号を横断すると、三ノ輪橋跡になる。千住から来て、三ノ輪橋を渡ると御府内であった、最後の将軍、徳川慶喜が水戸へ向かうとき、この場所で、山岡鉄舟らに見送られたという。(台東区案内板)。「三ノ輪橋」という名は、都電荒川線終点駅名に残った。 |
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C【浄閑寺】 さらに、音無川を辿ると、浄閑寺に出る。 浄閑寺は浄土宗の寺院で、栄法山清光院と号する。1855年の大地震の際、たくさんの新吉原の遊女が、投げ込み同然に葬られたことから、「投込寺」と呼ばれるようになった。花又花酔の川柳に、「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と詠まれ、新吉原総霊塔が建立された。檀徒の他に、遊女やその子供の名前を記した、1743年〜1926年にいたる、10冊の過去帳が現存する。(荒川区教育委員会) 写真は、「新吉原総霊塔」。 |
【日本堤(土手通り)の始まりと音無川】 荒川区教育委員会の案内板によると、浄閑寺向かいの公衆トイレの右側が、日本堤の名残であるという。堤は取り崩されたであろうし、音無川も暗渠になってしまったので高低差がわからない。 |
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【音無川と日本堤が明治通りを横切るところ】 音無川を更に辿ると、三ノ輪二丁目交差点に出る。ここが、音無川と日本堤が明治通りを横切る地点であろう。 |
【土手通り(日本堤)からみた東京スカイツリー】 |
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千束〜吉原 |
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D【たけくらべの舞台・千束稲荷神社】 1661年〜1672年に創建したとされる。 江戸前期には北千束郷の氏神様であり、江戸中期に竜泉寺村が起立して以来、竜泉寺村(現竜泉)の氏神様として崇敬されている。切り絵図にも、「千ヅカイナリ」と書かれている。 |
【樋口一葉の胸像:2008年文学碑奉納建立】 樋口一葉は1893年7月に竜泉寺町に転居し10ヶ月あまりを過ごした。そして、生活や町の様子を日記に書き、名作「たけくらべ」に描いたという。正面碑文(日記):明日ハ鎮守なる千束神社の大祭なり今歳は殊ににぎはしく山車などをも引出るとて人々さわぐ 樋口 夏 (以上、碑文より) |
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E【鷲神社】 江戸時代から「おとりさま」として一般にも親しまれている。11月の例祭(酉の日)は「酉の市」として人気を集める。 発祥は、農具を売る、農民のためのお祭りだったようだが、農具の一つ熊手が「福をかき集める」と考えられて、しだいに、商人・職人に広がっていった。 江戸自慢三十六興 酉の丁銘物くまで (広重)→→→ (国立国会図書館蔵) |
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F【吉原遊郭跡】 元吉原:1617年幕府は遊郭設置許可 現在の日本橋人形町にあたる(当時の)海岸に近い、葦屋町とよばれる2丁(約220m)四方の区画で、葦の茂る僻地で「吉原」の名はここから来ている。 新吉原:1657年、幕府は浅草寺裏の日本堤への移転を命じた。 敷地面積は2万坪あまり、最盛期で数千人の遊女がいたとされる。浅草(芝居)と並び、江戸最大級の繁華街を形成した。 終焉:1957年売春防止法施行により幕を閉じる。 吉原の区画、道路は江戸時代のまま残されている。 東都 今戸・箕輪・浅草絵図→→→ (国立国会図書館蔵) |
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【新吉原雪の朝】 雪の朝の風景、大門(右下)を出て、衣紋坂を登り日本堤へ向かう様子が描かれている。 銀世界東十二景 新吉原雪の朝 広重 (国立国会図書館蔵) |
【衣紋坂の今】 今や、衣紋坂の高低差はハッキリしないが、特有のカーブはキチンと残っている。 |
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【見返り柳】 遊郭で遊んで帰るとき、この柳あたりで、(後ろ髪を引かれる思いで)遊郭を振り返ったという名所。樋口一葉のたけくらべにも出てくる。もちろん、今の柳は、何代目かで、場所も少し移動されているという。 |
【グルメ】 遊郭跡に残されているのは、ソープ街や大門、衣紋坂、見返り柳ばかりではない、グルメな場所もちゃんと残った。土手通りには、「桜鍋の中江」とか「天麩羅の伊勢屋」などが、今でも、人気が高い。今回は、ランチとして、土手の伊勢屋で天丼を賞味した。高価だがあっさりした味で、吉原訪問の記念にはなった。 |
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G【春慶院】 吉原遊郭から土手通りを横切り東に少し行ったところに春慶院はあった。こざっぱりと、手入れの行き届いた寺院であった。高尾太夫の墓は、一般の墓地の直前にあった。 |
【高尾太夫の墓(春慶院)】 高尾太夫は吉原の代表的名妓で、この名を名乗った遊女は11人いたともいわれるが、いずれも三浦屋四郎左衛門方の抱え遊女。この墓は、世に万治高尾、あるいは仙台高尾と謳われ、幾多の伝説巷談を生んだ二代目高尾太夫の墓という、没年1659年。四面塔の墓石には「寒風にもろくもくつる紅葉かな」の遺詠が刻まれている。仙台藩主・伊達綱宗が熱を上げたことで有名。(台東区教育委員会) |
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山谷堀公園 |
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【山谷堀公園案内図】 この案内板は、山谷堀公園の終点である今戸橋にあった。 暗渠あるいは埋め立てられた音無川に架かっていた橋の様子がよくわかる。この川筋の西側(上方)が御府内と考えられるので、西側に沿って存在していた日本堤は隅田川(荒川)の洪水から、御府内を守る為に、築堤されたと考えられる、いわば、この東側(下方)が隅田川(荒川)の遊水池というわけだ。 |
H【山谷堀公園のスタート地点】 春慶院を後にして、土手通りに戻ると、東京都下水道局日本堤ポンプ場(地方橋交差点)に出る。三ノ輪から暗渠になっていた音無川は、[この地点(地方橋)→今戸橋]が緑化され、山谷堀公園と呼ばれる。 |
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【山谷堀公園・吉野橋・浅草高校前交差点】 吉野通りは、浅草から千住へ抜ける、かつての奥州街道(日光街道)。音無川に架かる橋は、現在は、吉野橋だが、切り絵図にあるように江戸時代は「山谷橋」といった。 |
【山谷堀公園・終点付近(今戸橋付近)】 切り絵図で、「山谷堀」と書かれているあたりまで来ると、広々と公園らしくなってくる。 |
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新町役所跡→今戸神社→本龍寺→今戸橋→隅田公園→待乳山聖天→浅草追分→旧猿若町 |
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【東都 今戸・箕輪・浅草絵図 1853年】 (国立国会図書館蔵) |
H【山谷堀公園】 I【新町役所跡:現都立浅草高校】 都立浅草高等学校(旧都立台東商業)の敷地は、江戸時代、幕府御用の弾左衛門の屋敷いわゆる新町役所の在った場所。切り絵図を見ると「穢多村、俗に新町と云う」と書かれているかなり広いスペースがあります。弾左衛門は関八州、甲斐、駿河、陸奥など十二ヶ国の被差別民(穢多・非人)を支配した頭領。江戸奉行所の手伝いで処刑、牢番、警備を行っていた。皮革処理などで独占権を有し、経済的には豊かであったといわれる。しかし、1868年に平民になり、1872年の解放令(賤民制廃止)により、独占権を失ってしまった。この周辺の皮革産業の存在はその名残であろう。 |
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【都立浅草高校(左)と山谷堀公園(右)】 弾左衛門の屋敷跡は、正確には、都立浅草高校の運動場とのこと、浅草高校の周りを一周しましたが、それらしき案内板を発見できず。 |
J【今戸神社】 都立浅草高校を東に回り込むと、今戸神社の裏門がある。切り絵図では「八幡松林院」となっている。今戸八幡神社呼ばれ、祭神は応神で、1063年の創立という。待乳山聖天、浅草寺と共に、江戸以前からあった。 |
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【今戸焼き発祥の地、沖田総司終焉の地】 「今土焼き」発祥の地でもあり、境内の一対の「石造狛犬」の台座には、詳細な名文が記され、1752年に寄進した42人の今戸焼職人・世話人の名がわかる。 幕府奥医師・松本良順の私邸が今戸神社境内にあり、そこで、新撰組の沖田総司は療養し、1868年に亡くなっている。 今戸神社のすぐ裏に弾左衛門の屋敷があり、幕府と弾左衛門の親交が伺い知れる。 |
【隅田川八景 今戸夕照 広重】 (国立国会図書館蔵) 今戸から橋場にかけての隅田川沿いは、今土焼きの産地、窯から立ち上る煙が風物詩となった。日用雑器・植木鉢・瓦などが生産されたという。 |
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【弾左衛門の菩提寺、本龍寺】 今戸神社正門と今戸橋の中間に、弾左衛門一族の菩提寺、本龍寺がある。このお寺、よく見ると、真宗大谷派、1616年起立とあります。少し形は違うが、葵の紋...徳川家康と大変親密なお寺であることが想像できます。弾左衛門、賤民身分ではあったものの、江戸の運営には欠かすことの出来ない人物だったのでしょうね。 |
【弾左衛門の墓(本龍寺)】 矢野(弾左衛門)の墓とのこと、どちらに弾左衛門が眠っているかは不明 |
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【今戸橋 真乳山 広重】 (国立国会図書館蔵) 音無川が山谷堀を経て隅田川に合流するところ、 今戸橋の様子、ひときわ目立つ待乳山聖天。 |
【今戸橋】 現在の今戸橋、右の道は「石浜通り あるいは 橋場通り」と呼ばれる道で、江戸以前の奥州街道 (古道)である。 |
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K【隅田公園内、竹屋の渡し跡】 竹屋の渡しは、山谷堀口から向島神社の前あたりを結んでいた渡しである(現在地は、隅田公園内)。待乳山聖天の真下に当たるので、「待乳の渡し」とも呼ばれていたようである。1928年言問橋の架設に伴い渡し船は廃止された。(台東区教育委員会) 写真の後方に見えるのは、山谷堀が隅田川に出る水門である。 |
【隅田公園内、花の歌碑】 武島羽衣作詞、滝廉太郎作曲の「花」は、1900年歌曲集「四季」の第一曲。この名曲の背景には、いろいろな説があるようですが... 墨田区役所のウエブサイトにこんな記述を見つけました。 「1883年、明治天皇を迎えて行われた旧海軍のボート競漕が、学生のボート熱に拍車をかけ、翌年、国内初の学生レースが行われました。このレースが契機と なり、向島の土手にはいくつもの白塗りの艇庫ができ、隅田川の新名所になりました。」 この学生レガッタの激しさと、桜が散りゆく美しさを「櫂のしづくも花と散る...」と表現したのでしょう。この歌碑の字は武島羽衣の直筆。 |
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L【待乳山聖天】 隅田公園から通り(石浜通り、あるいは、橋場通り)を隔てた向かい側に、待乳山聖天がある。 浅草寺の子院で正しくは待乳山本龍院。創建は、縁起によれば、601年、夏干ばつで人々が苦しんでいるとき、十一面観音像が大聖歓喜天に化身してこの地に姿を現し、人々を救ったため「聖天さま」として、祀ったといわれる。 この地は、湿地帯にあっては珍しい天然の丘で、それ故、江戸期から景勝の地であった。この境内では、巾着は商売繁盛、大根は健康と一家和合を現すとされ、信仰の対象になっている。 |
【待乳山聖天 築地塀】 待乳山聖天そのものは、関東大震災・戦災によって焼失し、現在の本堂は1961年建立。従って、この築地塀だけが、江戸の名残をとどめる唯一のものになっている。 |
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【待乳山聖天から見た東京スカイツリー】 |
【待乳山聖天に復元された戸田茂睡の歌碑】 「哀れとは夕越えて行く人も見よ 待乳の山に残す言の葉」 (戸田茂睡 江戸初期の歌人) |
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M【浅草追分】 徳川家康が江戸に入る前、奥州方面・水戸方面に行く場合は、隅田川沿いの道を進み、幾つかある渡し場(竹屋の渡し、橋場の渡し等々)から向こう岸に渡った。現在の橋場通りである。 徳川家康が江戸に来て、1594年、隅田川に千住大橋を作ってから、街道筋が変わることになる。現在の吉野通りである。 (上図は撮影した案内板に説明を加えたもの) |
【浅草追分、言問橋西交差点】 関東大震災復興事業として、1928年、昭和通りや言問橋が完成し、奥州・日光街道は下谷を通り、水戸街道もここから隅田川を渡ることになってしまった。 時代は変わっても、浅草追分(言問橋西交差点)は、東京スカイツリーのビュースポットとして人気である。 |
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N【浅草猿若町 市村座跡】 この地は、丹波国園部藩主小出氏の下屋敷であったが、幕府は、1841年天保の改革の一環として、この屋敷を公収し、その跡地に境町・葺屋町・木挽町にあった芝居小屋を移転させた。町名は、江戸芝居の始祖といわれた猿若勘三郎(初代中村勘三郎)の名を取って「猿若町」という。一丁目には「中村座、薩摩座」、二丁目には「市村座、結城座」、三丁目には「河原崎座」が移った(1842-1843)。このうち、中村座・市村座・河原崎座が世にいう猿若三座である。 (以上、台東区案内板) 1707年、町奉行所の判決が出るまで、その興業は弾左衛門の支配下にあったとのこと。江戸時代、世間では歌舞伎役者は河原者と呼ばれ、江戸庶民の差別意識は強いようでした。 |
【名所江戸百景 猿わか町夜の景 広重】 (国立国会図書館蔵) |
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姥ヶ池跡→二天門→浅草寺 |
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【今戸・箕輪・浅草絵図 1853年】 (国立国会図書館蔵) |
O【姥ヶ池跡】 浅草寺東参道を二天門方向に進むと、右側に花川戸公園がある。この中に、切り絵図にある「姥ヶ池跡」があった。案内板には、隅田川に通じる大池とあるが、今は、その面影はない(1891年埋め立て)。 |
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P【二天門 1649年頃】 1618年建立、当初は境内にあった東照宮の随身門であった。豊岩間戸命(とよいわまどのみこと)・櫛岩間戸命(くしいわまどのみこと)の二神をまつり、俗に「矢大神門(やだいじんもん)」ともいわれた。1646年東照宮は焼失し、その後の再建は許されずに「石橋(しゃっきょう)」(影向堂前)とこの門だけが残った。だたし、建築様式などから、現在の門は1649頃の建立と見られる。 明治時代の神仏分離の際、二神を廃し、鎌倉鶴岡八幡宮の経蔵にあった二天を奉安して「二天門」と改称したが、両像は戦時中、修理先で焼失。現在の二天像は、上野・寛永寺の巌有院(第4代将軍徳川家綱)霊廟より拝領したもの。(浅草寺ウエブサイトより) |
【二天門前、手水鉢 1777年】 手水鉢とは、社寺の参拝前に手を清めるために置かれる鉢のことである。鉢の側面には、「1777年に観世音1150年法会供養の日に臨時連中によってによって寄附された」とある。また、銘文に「随身門前」とあり、1813年に編纂された「浅草寺志」にも「裏門の外」と記されていることから、場所を変えずに今に至ると判明する。(以上、浅草寺説明板より) |
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【浅草寺 東照宮、石橋 1618年】 石橋は「しゃっきょう」と読む。現存する都内最古とされるこの石橋は、1618年浅草寺に東照宮が造営された際、参詣のための神橋として造られたものである。寄進者は、徳川家康の娘振姫の婿、紀伊国和歌山藩主浅野長晟である。この石橋は1948年、文部省より重要美術品に認定されている。(以上 浅草寺 案内板より) 日光東照宮へ向かう「神橋」の下には大谷川が流れていますが、この石橋の下にも、大谷川を模した池の水が流れています。 二天門、石橋、手水鉢は、建立年代が比較的ハッキリわかり、しかも、場所を変えずに、今に至っているという。何度も火事で焼かれ、震災で倒れ、戦災で焼かれたものが多い中で、「時空を越えて残るもの」を見いだしたとき、爽やかな気持ちになる。 |
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Q【金龍山 浅草寺】 隅田川で漁をしていた、桧前浜成・竹成兄弟(ひのくまのはまなり・たけなり)が「人型の像」を拾い上げた。郷土の文化人であった土師真中知(はじのなかとも)がこの像を見て、「聖観世音菩薩の尊像」であると解説したところ、桧前兄弟はこれを信心するようになった。次の日、漁に出ると大漁を得たという。土師真中知は僧になり、さきの観音像を供養護持したという、これが浅草寺の起源。 成立年代は、飛鳥といわれるがはっきりしない、平安初期に慈覚大師円仁が来山し、「お前立のご本尊」を彫刻した。 本尊:聖観世音菩薩(秘仏) お前立本尊:聖観世音菩薩(慈覚大師円仁作) (浅草寺ウエブサイト) 浅草文化観光センター8F展望テラスから撮影、五重塔が浅草寺の左側にあるのに注目。 |
【浅草寺 時の鐘】 江戸時代、人々に時刻を知らせる役割を果たしていたのが時の鐘。当初、江戸城内にあったが、江戸市街地の拡大に伴い日本橋本石町、上野寛永寺、浅草浅草寺など九ヶ所で時を知らせた。 鐘の大きさは、高さ2.12m、直径1.52m 鐘銘によれば、1692年徳川綱吉の命により、深川住の太田近江大掾藤原正次が改鋳し、その費用を関宿藩主牧野備後守成貞が黄金200両を寄進したとある。 この鐘は、さまざまな文学作品にも登場しているが、中でも松尾芭蕉の句、「花の雲 鐘は上野か 浅草か」はあまりにも有名。 鐘自体は、1945年空襲で火を浴びたが無事に残った。 (台東区教育委員会) |
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【名所江戸百景 金龍山 浅草寺 広重】 (国立国会図書館蔵) 広重の五重塔は右側にあるのに注目 |
【浅草寺 五重塔跡】 この場所は、1648年、徳川家光によって再建された旧国宝の五重塔が建立されていた場所で、、現在の五重塔とは反対側に位置していた。 浅草寺の五重塔は942年平今雅により創建され、その後いく度か炎上するもその都度再建されている。江戸時代、家光再建の五重塔は、上野寛永寺・谷中天王寺・芝の増上寺の塔とともに「江戸四塔」として親しまれていた。 (浅草寺 案内板より) |
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R【浅草神社(三社さま)】 聖観世音菩薩を拾い上げた桧前浜成・竹成兄弟とその像の奉安者土師真中知の3人を神として祀ったのが浅草神社(三社さま)。浅草寺・浅草神社の成立は、平安の末期から鎌倉にかけての頃という。 (浅草神社ウエブサイト) 現在の社殿は、1649年徳川家光が再建したもので、江戸時代初期の代表的権現造として評価が高く、国の重要文化財。 (台東区教育委員会) |
【三社さま、3基のお神輿】 浅草神社には3基のお神輿があり、祭礼の際は、一之宮には土師真中知命、二之宮には桧前浜成命、三之宮には桧前竹成命の御神霊をそれぞれお移しし、町中を渡御します。歴史的には、戦前まで7基のお神輿があったが、戦災ですべて焼失。現在のお神輿は、1950年に2基、1952年に1基と、すべて新調されたものである。 祭礼は、5月17,18日に近い金土日、3日間行われる。3日間で150万人の人出が見込まれる三社祭は、東京の初夏を代表する風物詩の一つになっています。 (浅草神社ウエブサイトより) |
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S【浅草六区】 明治新政府は、浅草寺を中心とした公園造りに着手した。浅草公園を六つの区画に分け、六区が興業街(映画・演劇)として繁栄した。戦後、この区分けは解消されたが、「浅草六区」という名が記憶に残ることになる。 |
浅草寺付近は、一時、観光客が減少し、危機的な状況が叫ばれていましたが、東京スカイツリーが出来てから、賑わいが戻ってきたようです。将来にわたって、高層ビルなどに埋もれることなく、江戸の魅力を継承していってほしいものだと思います。 | |
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