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歴史散歩:根岸−下谷−寛永寺開山堂を歩く


2019年5月8日(水)
錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、歴史散歩。
  • 下谷道(金杉通り)は、坂本門から出立した寛永寺輪王寺宮が、千住を経て日光へ赴く道として栄え、根岸地区は輪王寺宮を中心とする文化人の集うところでもあった。
  • 小野照崎神社、三島神社は共に、元々、上野の山にあり、寛永寺建立にともなって下谷地区に遷座した。
  • 下根岸には、酒井抱一が晩年過ごした住居・雨華庵があり、その足跡は石稲荷神社に残っている。
  • 中根岸には、輪王寺宮が度々訪れたという御行の松が植えつがれながら、現在、第4代となった。根岸小学校の壁面には御行の松のレリーフが彫られている。
  • 台東区と荒川区の区境となる音無川旧河道を上根岸方面に上ると、段差・樹木に河道の名残を見いだすことが出来る。また、初音橋跡あたりは江戸期に鴬の鳴き比べをしたという石碑(初音里鴬之記碑)が残る。
  • 輪王寺宮の別宅・御隠殿跡はほとんど線路の下だ、鶯谷駅方面にかけて前田邸跡や子規庵が残る。
  • 区立忍岡中学校前からは、寛永寺の塀越しに「大猷院霊廟跡」を想像することが出来る。寛永寺の子院、現龍院には徳川家光の重臣の殉死者墓地がある。
  • 寛永寺開山堂の背後を見ると大きな空間があるが、ここには、寛永寺開祖・天海の像を祀った奥の院があった、近年、焼失し再建されなかった。表に回ると、焼失後、再建された開山堂を見ることが出来る。瓦や銅の灯籠に天海の家紋「丸に二引き両」を見ることが出来る。
  • 石塀で隔てられた閉鎖空間には、寛永寺三代目以後の貫首・輪王寺宮の墓がある。

国土地理院地図2500[ブラウザ:カシミール]に、主な地名・旧跡を書き加えた。

旧坂本町から旧金杉町へ(金杉通りを下る)

【下谷浅草古図 年代不明 国会図書館蔵】
下谷浅草古図に青色で地名を書き加えた。
金杉通りを下ると千住に至り、上ると寛永寺坂本門へ至る。寛永寺貫首・輪王寺宮が日光へ赴く時に通る道として整備された。
※この図では、小野照崎神社、嶺照院は坂本四丁目であり、下ると金杉上町、金杉下町と続く。※
【旧坂本町から旧金杉町へ、金杉通りを下る】
[金杉町町名由来]
鎌倉時代末(1333年)の記録によると、この付近の地名を姓にしたと思われる金曽木彦三郎なる人物がいたことから、始めは金曽木と呼ばれたようである。いつしか金杉村といわれるようになったが、江戸に入ると、金杉通りに沿って町屋が形成され、明治になると周辺の町を合併して町域を拡大した。
金杉通りは、奥州街道の裏道の役割を担っていたことから大変にぎわっていた。今も江戸・明治の面影を残す貴重な町である。
「金杉」という名は、住居表示制度発足とともに消えたが、「金杉通り」に名を残し、「金曽木」という名は「金曽木小学校」に名を残す。
(旧町名由来案内より)

[坂本町町名由来]
はじめ幕府領、のち東叡山領。東叡山寛永寺建立以前は、上野郷とも二葉郷広沢村とも称したが、寛永寺建立の際、近江比叡山下の坂本(滋賀県大津市)に倣って命名したと伝える。しかし、江戸期の名主・二葉伝次郎が所蔵する上野郷の1591(天正19)年の水帳には、既に坂本・坂本前・坂本屋敷前等の地名が見えているという(新編武蔵)(江戸町巡りウエブサイトより)
結局、坂本町町名由来は不明である。「坂本」という名は住居表示制度発足とともに消え、その後しばらく残存した「坂本小学校」も1996年廃校になった。

【小野照崎神社】
小野照崎神社の祭神は、平安初期の漢学者・歌人として有名な小野篁である。創祀の年代は不明だが、次のような伝承がある。篁は上野国司の任期を終え、帰洛の途についた際、上野照崎(忍岡、現在の上野公園付近)の風光を賞した。仁寿2年(852)篁が亡くなったとき、その風光を楽しんだ地に彼の霊を奉祀した。その後、江戸時代をむかえ、寛永2年(1625)忍岡に東叡山寛永寺を創建するにあたり、当社を移転することとなり、坂本村の長左衛門稲荷社が鎮座していた現在地に遷した、というものである。また、一説には、忍岡から孔子聖廟が昌平橋に移った元禄4年(1691)頃に遷座したのではないかともいう。
現在の社殿は慶応2年(1866)の建築で、関東大震災や東京大空襲などを免れた。また、境内には、富士浅間神社・御嶽神社・三峰神社・琴平神社・稲荷神社・織姫神社、さらには庚申塔が現存する。
例大祭は5月19日で、3年に一度、本社の神輿渡御が行われる。
(台東区教育委員会掲示より)
写真左が稲荷社の鳥居、右が小野照崎神社の鳥居。

【小野照崎神社拝殿】
つまり「小野照崎神社」は、平安時代、上野の山に創建され、寛永寺が出来ると、現地(坂本村)に移転を余儀なくされたとのこと。具体的には、「小野照崎神社」は、上野照崎・上野忍岡にあったとされている。一方、下谷善養寺町(今はJR線路の敷地)にあった善養寺(巣鴨に移転)の薬師如来は「小野照崎神社」の本地仏であったとの言い伝えがあるそうだ(江戸名所図会より)。また、善養寺には、小野照崎神社をにおわせる「尾先照稲荷祠 天長二乙巳年安置」と書かれた祠があるという。これだけでは、「小野照崎神社」発祥の地を特定することは出来ないが、善養寺(巣鴨に移転)をもう少し調べるべきか?

【長左衛門稲荷】
小野照崎神社が上野の山から移転する前に、当地に鎮座していた、いわば、地主神。

【下谷坂本富士】
この塚は模造の富士山で、1828年の築造と考えられている。『武江年表』同年の項に、「下谷小野照崎の社地へ、石を畳みて富士山を築く」とある。境内の”富士山建設之誌碑”によると、坂本の住人で東講先達の山本善光が、入谷の住人で東講講元の大坂屋甚助と協議して築造し、富士山浅間神社の祭神を勧請したという。
(左下へ続く)

【下谷坂本富士】
(右上より)ここの富士塚は高さ約5m、直径約16m。塚は富士の溶岩でおおわれ、一部欠損しているが原型がよく保存されている。
(台東区教育委員会)

【小野照崎神社境内の裏側】
小さな仏が放置されている。

【小野照山嶺松院:小野照崎神社の旧別当】
僧慶賢が寛永六年に東叡山より寺地を賜つて草創したのである。神佛分離までは同所小野照崎神社の別當を勤めて来た。分離せられると共に僧は還俗して神職となり小野氏を稱した。
(「下谷區史」より)

【観音像】
小野照崎神社周辺は関東大震災や東京大空襲を免れたこともあり、古い仏像がよく残っています。
刻まれた年代を見ると、元禄15年(1702年)、宝永4年(1707年)、文政11年(1814年)、天保5年(1822年)など、バラバラですが、童子とか童女などの銘も見られます。

【三島神社】
1281年、元寇の役の際、河野通有は氏神である大山祇神社(三島大明神)に戦勝祈願して出陣、大山祇神社の神使、白鷺の導きによって勝利を得た。その帰陣にあたり、夢の中で受けたという神のお告げにより、武蔵国豊島郡に三島大明神の分霊をお迎えし、上野山内の河野氏の館に遷座鎮祭したことが始まりという。
1650年、徳川三代将軍家光公より社地移転を命ぜられ、金杉村(現在の台東区根岸)に遷座。さらに1710年、社地が幕府の御用地に指定されたため、浅草小揚町(現在の台東区寿)に遷座した。
(→右へ)

【三島神社拝殿】
(→左より)
しかし、氏神様が遠くて困るという氏子一同の念願から、分霊を金杉村字金杉町(現在の台東区下谷)に勧請。これが現在の三島神社である。三島神社の宮司は代々河野通有の子孫が奉仕している。
なお、三島神社の御本社は、愛媛県今治市大三島にある元国幣大社の大山祇神社です。
(三島神社ウエブサイトより)

【三島神社社務所】
「河野」という表札が目に入る。

【三島神社、雷井戸】
昔、武蔵野の原野は雷が多く、里人たちはいつも怖い思いを強いられていました。そんなある日、三島神社の境内に雷が落ちたときのことです。神主が雷を井戸の中に封じ込めたところ、雷が「井戸から出してくれ」と頼んだそうです。神主は「二度とこの地に落ちない」ことを約束させ、雷を許してあげたという伝説が残っています。
以来、この地には雷が落ちないといわれており、井戸は雷除けの井戸として信仰されています。
(三島神社ウエブサイトより)

【火除稲荷社、三島神社の地主神】
三島神社境内には火除稲荷社(三島神社の地主神)が鎮座されています。昔、徳川氏が上野山内の火難方位除けのために勧請したと伝えられており、古くは「ミサキ稲荷社」と称していました。後に、この地が火除地と定められ、その際、火除稲荷と改称されましたが、その創建年代等、詳しくはわかっていません。
(三島神社ウエブサイトより)

【三島神社から吉原への道】
三島神社の横にある道路は、かつては川。その土手は吉原に通じていました。
人々は、川にかかる橋を渡って参拝し、橋は「三島様の石橋」として親しまれていました。明治の末期より、その石橋の一部を東参道の敷石として保存しております。
(三島神社ウエブサイトより)

【三島様の石橋】
樋口一葉(ひぐちいちよう)の『たけくらべ』に、「三島神社の角をまがりてより、これぞと見ゆる家もなく」との一文があり、これはこの道筋のことです。台東区の「一葉記念館」にも、この内容が記されています。
(三島神社ウエブサイトより)

【几号水準点】
几号(きごう)水準点とは明治初期に高低測量を行うために設けた基準となる測量点。 イギリス式の測量法に従って漢字の「不」に似た記号を不朽物に刻印したり、「不」を彫った標石を埋めて水準点とした。1884年測量法をドイツ式に変更したため几号(きごう)水準点は使用されなくなった。都内には150以上が設置されたというが、現在40程度が確認できる。

【了源寺、火除け観音】
了源寺は1644年創建。

【現代の、吉原への道】
なぜかこの道だけ歩車道が整備され美しい??


旧下根岸町から旧中根岸町へ

【下谷浅草古図 年代不明 国会図書館蔵】
【旧下根岸町】
呉竹の根岸の里は、上野山を背景にした田園風景と清流音無川の流れる静寂の地でした。このようなところであるから「根岸の里の侘び住まい」といわれ、江戸時代から多くの文人墨客が好んで住みました。
根岸の里の由来は、この付近に大きな池があったこと「上野の山の根岸にあれば起これり」という東京新撰名所図会の説明から、上野の山のもとで沼地の水際だったことに因んだようである。江戸時代の初期の根岸は金杉村に属していた。そして、1889年下谷區に編入されたあとすぐに上根岸、中根岸、下根岸に分けられた。
「雨華庵」酒井抱一は江戸後期を代表する日本画でした。武家に生まれたが芸術家として活躍この芸術家時代を送ったのが下根岸の雨華庵。彼の代表作に「夏秋草図」がある。
(旧町名由来案内 下町まちしるべ 旧下根岸より)

江戸時代には、金杉通り(下谷道)を逸れると、百姓地や寺社が目立つ。雨華庵はそんな一画にあった。雨華庵→石稲荷と辿ると、旧中根岸町に至る、大正時代には花街として栄えたところだ。

【酒井抱一住居跡、雨華庵跡】赤い矢印
抱一は姫路城主・酒井忠以 ( たださね ) の弟。少壮より文武両芸に通じ、1797年京都で出家、文詮暉真の名を与えられ江戸に帰った。画は尾形光琳に私淑して一家をなし、また俳諧等にも秀で、谷文晁・亀田鵬斎の文人と親交があった。(右へ続く)

【夏秋草図屏風(重文)酒井抱一1821〜1822年作】
東京国立博物館蔵
クズ フジバカマ ススキ オミナエシ ヒルガオ ユリ


(左より)
抱一は1809年以来、この雨華庵に閉居し、土地の名物鶯に因んで鶯村 ( おうそん ) と号し、正月 15日には画始 ( えはじめ ) 、10月 5日には報恩講を開き、また1826年6月には、庵で光琳忌を催している。抱一の後を継いだ画家・鶯蒲もここに住して、雨華庵二世と呼ばれた。(台東区案内板より)

【石稲荷神社】
1687年、豊島郡金杉村大塚(下根岸)に創建、徳川11代将軍家斎時代に下根岸に画室雨華庵を結び、雄頸採筆に一代を風靡した姫路城主の二男酒井抱一が、1813年2月初午に奉納された墨痕淋漓幾十春秋を経た旗幟が宝物として蔵している。(境内掲示より)
儒学者亀田鵬斎の晩年の住居も、この石稲荷神社の近所にあった。(根岸略図 国会図書館蔵)

【柳通(花街)へ抜ける小径】

【根岸柳通り(中根岸)、花街の中心部】
江戸期には静寂の地であった根岸が大正時代には花街として花開くが、1964年の東京オリンピックを境に衰退していく。しかし、高級飲食店は残っていったものがあった、花街の名残である。
「レストラン 香味屋」ランチ平均が4000円となると、散歩ついでというわけにはいかない。

【ステーキ 定谷】
よくテレビなどで紹介されているが、お任せで「20000円」というのも入りにくい。

【竹驤チ岡埜】
竹驤チ岡埜のウエブサイトでは、『こごめ大福』を売り出すにあたってその由来を次のように書いている。「江戸期の金杉村根岸には石神井川を源流とした音無川が流れ込んでいたが、この水が上質の米をもたらしていた。その頃の庶民は、その米で作ったこごめ餅を楽しんでいたが、御行の松近くの茶屋がこの「こごめ餅」に飴を包み入れ、輪王寺宮(五代目)公弁親王へ献上致したいそうお誉めを頂きこれを『こごめ大福』とお名付け下された。」竹驤チ岡埜は、古き良き時代の根岸を語り継ぎたいとのこと。


音無川跡(御行の松〜御隠殿跡)

【根岸全図と音無川跡】
地理院地図+カシミールスーパー地形に「橋跡」、「通り」などを書き込み。

根岸の里は上野台の崖下、小高くなった洲の上に形成された。
縄文海進終了時に、南からの海の流れと北からの川の流れによって、形成されたと思われる。江戸期を通して北へ抜ける主要道・金杉通りは旧海岸線であったようだ。但し、江戸期以前の主要道は金杉通りよりももう少し小高い場所を通っていたらしい。
音無川は、この洲の北境界に沿って流れていたようだ。
(右へ続く)

【根岸谷中辺絵図 根岸地区】



(左より)
音無川:三宝寺池を水源にした石神井川は、王子付近で音無川と名を変える。音無川は、飛鳥山下、田端を経て上根岸から台東区と荒川区の境を下り三ノ輪で直接、隅田川へ向かう流れと三谷堀を経て隅田川に注ぐ流れに分かれる。現在ではすべて暗渠だが、御行の松(呉竹橋跡)からはこの音無川跡に沿って御隠殿橋跡まで、その痕跡を辿ることにする。

【御行の松、西蔵院不動尊内】
東京市保険局公園課1927年 549-255 国会図書館蔵

 ◇1894年 正岡子規 薄緑お行の松は霞みけり◇

名称の由来は、「輪王寺宮が根岸を訪れたとき、必ず、この松の下で休まれたから」など諸説ある。初代の松は「江戸名所図会」や「歌川広重の錦絵」に描かれるほど、江戸期からよく知られていたが、1928年夏に枯れ死してしまった(当時、高さ約13m、周囲約4m、樹齢約350年)。
その後二代目として1956年に上野中学校から松が移植されたが、すぐに枯れた。不動堂に祀られている不動明王像は、初代の松の根を掘り起こして彫られたものである。荒川区立第三日暮里小学校には「弟松」が植えられており、同校と台東区立根岸小学校の校歌にも詠われている。

【現在の御行の松 不動尊】
左の写真は昭和初期、この頃は、音無川も呉竹橋も見えていたが、現在では、その面影すらない。

【最近植樹された四代目御行の松】
1976年8月に植えられた三代目は盆栽状であるため、地元の団体が初代のように大きく育つことを願い、2018年4月、隣に四代目を植えた。

【不動尊脇の小径は音無川の河道跡】
音無川の河道跡は、御隠殿橋跡あたりまで台東区と荒川区の区界と一致する。

【呉竹橋跡、音無川旧河道と御行の松通りの交差点】

【音無川旧河道の名残の段差1】
呉竹橋から音無川旧河道を遡ると、間もなく、段差が現れる。

【音無川旧河道の名残の段差2】
音無川旧河道を境にして、西側は小高くなっている。

【東日暮里四丁目南交差点】
音無川に交差する三河島道には初音橋が架かっていたが、道路拡幅(尾竹橋通り1926年開通)の為、橋は取り払われ、「笹の雪」も現在地に移転した。

【梅屋敷跡】
初音橋跡から間もない路地に貴重な遺跡が隠れている。江戸切り絵図では、「梅屋敷」と表記されているところ。幕末期に、ここで、鴬の啼き合わせが行われたことを記す「初音里鴬之記碑」がある。

[初音里鴬之記碑]
表に嘉永元年(1848)、裏に翌2年の銘記がある石碑。
その内容は、表に江戸時代末期に流行した鴬の鳴き声のうまい下手を競い合わせる啼(な)き合わせ(啼合会(ていごうえ)とも)がここ根岸の地でどのように始まったか記し、裏にこの啼き合わせの会に出品された鴬の名前と出品者の一覧が刻まれるものです。
啼き合わせは、室町時代の日記・看聞御記(かんもんぎょき)にも記されていますが、江戸で始まったのは文化年間(1804〜18)で、まず高田馬場で行われました。次に弘化2年(1845)頃まで向島で盛んに催されました。最後に根岸だったのですが、その年代がはっきりとわかったのは、本碑文の文章によります。それは弘化4年のことで、根岸の里の梅園、現在碑文が建つ地で行われたわけです。
(右へ)

【初音里鴬之記碑】
(左より)
碑文の文章は、寛永寺子院津梁院の僧侶慈広が作り、根岸に住んだ書家、関根江山が書を手掛けました。また上部、初音里鴬之記の文字は、長崎奉行や勘定奉行を務めた幕臣、戸川安清が書いたものです。書家関根江山は、別に詩歌連徘(しいかれんぱい)をもとむるのこと書(がき)(国立国会図書館蔵)という文を記しており、これは漢詩、和歌、連歌、俳諧募集の広告文で、募集元は根岸の梅園の主です。つまりは梅園で句会や歌会が行われたことを物語り、鴬の啼き合わせに関わったこれらの文化人たちが、初音里という場所を新たに名所化しようとしたことがうかがわれます。
(台東区ウエブサイト抜粋)

【音無川河道跡が尾久橋通りに合流する地点】

【水鶏橋石材】
鶯橋/旧水鶏橋と彫られた石材が残っている。

【水鶏橋跡】
尾久橋通りをはさんで見たところ。

【音無川旧河道が尾久橋通りを離れ細い道になっていくところ】
御隠殿は、1754年上野寛永寺門主輪王寺宮の隠居所となった。御隠殿橋は、その正門前の音無川にかけられた橋であった。橋の長さ約2.7メートル、幅約3.9メートル、石材でつくられた立派な橋であったが、1933年音無川暗渠工事で取り除かれ、橋げただけが道路の下に残っている。往時、このあたりは水鶏の名所で、やや下流には水鶏橋がかかっていた。
(荒川区教育委員会案内板より)
御隠殿橋跡には荒川区の案内板があるのだが、江戸期には御隠殿橋ではなく、大石橋と称していたという。
→【御隠殿跡、根岸薬師寺】
輪王寺宮一品法親王は、天台座主に就き、東叡山・日光山・比叡山の各山主を兼帯したので「三山官領宮」とも呼ばれ、第三世から幕末の第十五世まで、親王あるいは天皇の猶子(養子)を迎え継承されてきた。当地は、この輪王寺宮の別邸「御隠殿」があった所である。御隠殿の創建年代は明らかでないが、幕府編纂の絵図『御符内沿革図書』には、1753年7月に「百姓地四反一畝」を買上げ、「御隠殿前芝地」としたという記述があり、同年までには建造されていたようである。敷地はおよそ三千数百坪、入谷田圃の展望と老松の林に包まれた池をもつ優雅な庭園で、ことにここから眺める月は美しかったと言われている。輪王寺宮は一年の内九ヶ月は上野に常在していたので、その時は寛永寺本坊(現、東京国立博物館構内)で公務に就き、この御隠殿は休息の場として利用した。また、谷中七丁目と上野桜木二丁目の境からJRの跨線橋へ至る御隠殿坂は、輪王寺宮が寛永寺と御隠殿を往復するために設けられたという。1868年5月、御隠殿は彰義隊の戦いによって焼失し、現在ではまったくその跡を留めていない。(台東区教育委員会案内板より)
 ◇1897年 正岡子規 凧あぐる子守女や御院田◇


子規庵から鶯谷駅南口方面へ

【臺の下】
この辺り一帯は、臺の下と呼ばれていました。現在の根岸の地は、旧金杉村の内の居村と畑地であったところで、微高地でありました。しかし、この臺の下は子規庵のある加賀屋敷跡と比べても1mほど低く、根岸にはめずらしく田畑と松林があったところです。月の眺めは御隠殿と並び称され、根岸名物の一つであった水鶏も多く生息していたでしょう。

1893年 正岡子規 古澤や家居の中に水鶏鳴く
1901年 正岡子規 蛙鳴く水や上野の臺の下

(根岸 子規会案内板より)

【子規庵】
正岡子規(1867〜1902)は俳人・歌人・随筆家。幼名は升(のぼる)、本名は常規(つねのり)、別号を獺祭書屋主人、竹の里人などといった。伊予国藤原新町(現・愛媛県松山市)に生まれ、俳句・短歌の革新を唱え、また写生文を提唱した。
新聞「日本」及び俳誌「ホトトギス」により活動、子規庵での句会には森鴎外、夏目漱石も訪れ、歌会には伊藤左千夫、長塚節等が参加、歌誌「アララギ」の源流となる。
著書には、俳論「俳諧大要」「俳人蕪村」、歌論「歌よみに与ふる書」、歌集「竹の里歌」、随筆「墨汁一滴」「病床六尺」「仰臥漫録」など多い。
子規はこの場所に1894年2月から住み、1902年9月19日病のため没す。母八重、妹律は子規没後もここに居住し、その後は子規の門弟寒川鼠骨が庵を守りつづけた。
1945年戦災によって平屋造りの家屋は焼失したが、1950年鼠骨らにより旧規の通り再建され現在に至っている。(東京都教育委員会)

【正岡子規】
明治文学研究. 第2巻 国会図書館蔵
正岡子規は、根岸に住むことを誇りに思い根岸の光景を数多くの俳句に詠んだ。

◇1896年 正岡子規 庵からは 杉の上野の 花曇◇

◇1896年 正岡子規 加賀様を 大屋に持つて 梅の花◇
※子規庵の建物は加賀藩前田家下屋敷の御家人用二軒長屋の一軒という。

◇1896年 正岡子規 いくたびも 雪の深さを 尋ねけり◇
※病床から動けない子規は、自分で確かめることが出来ません。そのため雪がどれくらい積もったかを聞いているのです。「いくたびも」と詠んだところに、雪を喜ぶ子規の気持ちが表れているようです。子規庵にガラス障子を虚子が入れてくれたのは、1899年です。
(松山市立子規記念博物館ウエブサイトより)※

◇辞世の句 糸瓜(へちま)咲て 痰のつまりし 仏かな 1902年9月19日、享年34歳◇

【書道博物館】
書道博物館は、洋画家であり書家でもあった中村不折(1866-1943)が、その半生40年あまりにわたり独力で蒐集した、中国及び日本の書道史研究上重要なコレクションを有する専門博物館である。
(右へ)→
→(左より)
洋画家として出発した不折が書道研究に傾倒した最大の契機は、明治28年正岡子規とともに日清戦争従軍記者として中国へ赴いたことにある。この機会に約半年をかけて中国、朝鮮半島を巡遊し、後の彼の書に少なからぬ影響を与えた『龍門二十品』や『淳化閣帖』などの拓本をはじめ、漢字成立の解明に寄与しうる考古資料を目にし、それらを日本へ持ち帰ることを得たのである。書においては、こうした書の古典から多くを学び、なかでも北派の書を根底とした不折独自の大胆で斬新な書風を展開した。明治41年に書かれた、いわゆる“不折流”のデビュー作となった『龍眠帖』は、書道界に一大センセーションを巻き起こした。印象的で一風変わった不折の書は、そのデザイン性の高さと親しみやすさから、店名や商品名のロゴに用いられることが多かった。現在、我々が身近で目にすることのできる不折揮毫のものとして、「新宿中村屋」の看板文字、清酒「真澄」や「日本盛」のラベル、「信州一味噌」、「筆匠平安堂」などがある。
また、明治の文豪たちとの親交も深く、夏目漱石『吾輩ハ猫デアル』の挿絵や、島崎藤村『若菜集』、伊藤左千夫『野菊の墓』などの装幀・挿絵も手がけている。
(書道博物館ウエブサイトより抜粋)

【子規庵→鶯谷・新坂→上野公園へ】
根岸 子規会 制作案内板には次の図が掲示されている
「明治維新後、上根岸には前田邸・諏訪邸が出来ましたが、大正期にかけて前田邸・諏訪邸の解放、主要道路の開設、鉄道敷地の拡充などで上根岸は大きく変貌しました。しかし、よく見ると明治期の道は切れ切れに残っています。図の水色の→は、子規に会うために、夏目漱石・高浜虚子・長塚節などが歩いた道です。」
この図を基に、筆者が現代の地図に「子規に会うために、夏目漱石・高浜虚子・長塚節などが歩いた道」を赤線で書き入れたのが上図です。赤線に沿って元三島神社へ向かいます。

【八二神社】
1875年に前田家が、この地に来たとき、屋敷内に社殿を築造して、「八坂大神」「稲荷大神」「菅原大神」の三神を守護神としたことに始まる。1924年前田家がこの地を去るとき、三神社を八二神社と改称し、神社の守護を住民に委ねた。(根岸二丁目町会掲示板より)
この地が上根岸町82番地だったから、八二神社と称したとの話がある。前田家名残の神社である。
→【笹の雪】
尾竹橋通り拡張のため初音橋(正面信号機のあたり)から移転してきた。(以下は、初音橋にあった頃の話となる)

笹乃雪初代玉屋忠兵衛が絹ごし豆富を発明。
元禄四年(約三百十五年前)上野の宮様(百十一代後西天皇の親王)のお供をして京より江戸に移り、江戸で初めて絹ごし豆富を作り根岸に豆富茶屋を開いたのが当店の始まりです。宮様は当店の豆富をことのほか好まれ「笹の上に積もりし雪の如き美しさよ」と賞賛され、「笹乃雪」と名づけ、それを屋号といたしました。その時賜りました看板は今も店内に掲げてございます。当時の製法そのままに、井戸水とにがりを使用した昔ながらの豆富の味をご賞味くださいませ。(笹の雪ウエブサイトより)

 ◇1893年 正岡子規 水無月や根岸涼しき篠の雪◇

【台東区立根岸小学校】
校舎に「御行の松のレリーフ」、校歌にも「秋は御行のまつのかげ」というフレーズがある。

【旧陸奥宗光邸】
ここからは明治の歌人が歩いた道を離れるが、根岸小学校南方の路地に陸奥宗光が1883年〜1888年短期間所有した邸宅がある。
都内で最古の住宅用洋館の一つという、玄関を入るとすぐに階段があり、その階段の手摺りの親柱には陸奥家の家紋である「逆さ牡丹」が彫刻されているという。(非公開)
(根岸子規会案内板より抜粋)

【元三島神社参道入り口】
旧陸奥宗光邸を出て、言問通りを横断すると、元三島神社参道入り口がある。

【元三島神社】
由来、鎮座経緯は下谷にある三島神社と同じ、こちらはもともとこの地にあった熊野神社と合祀という形になっている。古図には熊野神社となっていることもあるようだ。「元」が付くのは、上野の山から金杉村に移転を余儀なくされたときの場所が現地に近いからだという。
結局、台東区には、浅草:本社三島神社、下谷:三島神社、根岸:元三島神社と3社あることになる。


上野寛永寺・大猷院霊廟の痕跡−開山堂−輪王寺宮墓地
【東亰上野公園地實測圖1878 国立公文書館蔵】
(東京国立博物館−両大師、開山堂部分)

鶯谷駅南口前の坂(新坂)を上ると、左側が忍岡中学校、右側が大猷院霊廟跡である。

家光の法要は寛永寺で行われ、日光山に埋葬されたが、ここ寛永寺にも霊廟が建立されたようだ。しかし、1720年に焼失後、厳有院廟に合祀されたので霊廟の詳細がはっきりしない。ただその痕跡はいくつか残されている。

といっても大猷院霊廟跡は寛永寺第一霊園で

【新坂(右)と正面(大猷院霊廟跡)】

【大猷院霊廟の勅額門があったと思われる場所】
正面は東京国立博物館の裏門、不自然な歩道の形が霊廟跡を感じさせる。

【寛永寺第一霊園内部】
大猷院霊廟跡は一般の墓として売り出された。

【大猷院霊廟跡】
1976-09-26 田口政典氏撮影
歩いてみました東京の町 第八章上野公園より転載
田口重久氏から提供されたものです。ここからの再転載を禁じます。
背後に見えるビルは台東区立忍岡中学校

【大猷院霊廟跡】
1976-09-26 田口政典氏撮影
歩いてみました東京の町 第八章上野公園より転載
田口重久氏から提供されたものです。ここからの再転載を禁じます。

【厳有院勅額門】
厳有院とは4代将軍徳川家綱公(1641-1680)の院号である。厳有院殿霊廟は、1680年に、もと家光の上野霊廟(大猷院霊廟)の勅額門であったものを転用したものと考えられている。国の重要文化財に指定されている。
(台東区教育委員会案内板より)

【寒松院、上野に残る3大名家の痕跡の1つ】
津藩主藤堂高虎は、徳川家康臨終に際し、天台宗に改宗して得度し、天海僧正から寒松院の法名を授けられた。当時、現在の上野動物園から上野東照宮にかけての地は、その当時、藤堂家の下屋敷だったが、高虎はその地に上野東照宮を建立し、1627年には東照宮の別当寺として寒松院を創建した。寒松院は戊辰戦争、第二次大戦時の戦火で焼失したが東京国立博物館脇に再建され、現在に至る。
・上野動物園旧正門付近に藤堂家の墓所があり、江戸期までの墓がある。(非公開)
・現在の寒松院の屋根瓦には「藤堂蔦」が描かれている。
・現在の寒松院の入り口に「旧東照宮別当寺」との石碑が建立されている
・現在の寒松院の入り口に「旧津藩主藤堂高虎公開創之寺」との石碑が建立されている
・藤堂家は代々和泉守を襲名していたので、神田にあった上屋敷の地域は、千代田区神田和泉町と名付けられた。

【林光院】
開基の宣雄大僧都は備前の国、岡山の人で光珍寺の澄宣大和尚の下で修行に励んでいましたが、当時、江戸で評判の高い寛永寺を開かれた天海僧正の高徳を慕って江戸へ出て僧正のもとで修行する事が許されました。
寛永初期、宣雄和尚は今のJR鴬谷駅上の台地に草庵を建て林広院と名づけました。1651年ご逝去の徳川家光公をまつる寛永寺の大猷院霊殿が建立されるにあたって当院の敷地が選ばれ、西北の地に移転しました。当時の林広院は埼玉・忍(おし)の城主、下総守・松平忠弘公の宿坊で公は宣雄和尚への尊崇の念厚く、草庵を改修し僧糧100石を寄進されたり、その他多くの業蹟を残された方で、当院の歴史上、忘れることのできない篤信者であります。
(天台宗東京教区ウエブサイト)

※石灯籠は大猷院霊廟に献上されたもの、上野公園を探すと意外な場所に大猷院霊廟の痕跡を見つけることが出来る。

【突き当たりが大猷院霊廟跡】
左が東京国立博物館、右が寛永寺子院群

【東叡山寛永寺 現龍院】
1628年開創
春日局と天海僧正はかねてより昵懇の間柄であり、こうしたことから、真岡藩主の稲葉佐渡守正成の法名(現龍院)を天海僧正自からがつけて、春日局が一院を建てた。開基は千葉三塗台(長福壽寺)の学頭を兼任した権大僧都什誉師であった。
第三世の亮伝大僧正は1651年家光の死に殉じた老中堀田正盛、阿部重次等の墓を建てることになる。これが今日に残る殉死者の墓である。春日局、堀田家縁の寺ということになる。
歴代住職には高僧が多く、学頭として十一代将軍家斉の葬儀を主導した鈴明大僧正、執当の鈴然僧正、江戸城紅葉山別当の公副僧正、天台宗参務から臨時宗務総長をへて、東叡山輪王寺門跡、寛永寺住職となった浦井亮玄大僧正などがいる。
(天台宗東京教区ウエブサイトより)

【殉死者の墓、現龍院墓地】
1651年4月20日、三代将軍徳川家光が死去した。その後を追って家光の家臣五名が殉死、さらにその家臣や家族が殉死した。ここには家光の家臣四名と、その家臣八名の墓がある。
堀田正盛(元老中、下総国佐倉藩主)。
阿部重次(老中、武蔵国岩槻藩主)。家臣の新井頼母・山岡主馬・小高隼之助・鈴木佐五右衛門・村片某。
内田正信(小姓組番頭・御側出頭、下野国鹿沼藩主)。家臣の戸祭源兵衛・荻山主税助。
三枝守恵(元書院番頭)。家臣の秋葉又右衛門。
殉死とは、主君の死を追って家臣や家族らが自殺することで、とくに武士の世界では、戦死した主君に殉じ切腹するという追腹の風習があった。江戸時代になってもこの風習は残り、将軍や藩主に対する殉死者が増加、その是非が論議されるようになった。家光への殉死から12年後、1663年に幕府は殉死を禁止。その後、この風習はほぼ絶えた。
(台東区ウエブサイト)

【現龍院墓地の内部】
非公開、立ち入り禁止なので細部は不明。鉄門の隙間からの撮影。
殉死者の墓は奥の古さを感じさせる墓石群か?

※現龍院創建の地は現在の当院墓地の一帯で、寺自体は、災害などにより、移転を繰り返し、現在地に落ち着いているが、墓地は動かなかったと思われる。

殉死のあった時代:主君・家光廟が見える位置に殉死者の墓地
殉死が禁止された時代:主君・綱吉廟が見える位置に側用人・大河内輝貞墓(寛永寺明王院)

このような観点から見ると、当時の主従関係の変化がうかがえるようだ。

【寛永寺旧本坊表門】
1937年、本坊跡から開山堂東に移転、現在は輪王殿(寛永寺の葬儀施設)正門として利用されている。(右へ→)
→(左より)
江戸時代、現在の上野公園には、寛永寺の堂塔伽藍が、整然と配置されていた。現在の噴水池周辺(竹の台)に、本尊薬師如来を奉安する根本中堂、その後方(現、東京国立博物館敷地内)に、本坊があり、寛永寺の場合、輪王寺宮法親王が居住していた。寛永寺本坊の規模は壮大なものであったが、1868年の上野戦争のため、ことごとく焼失し、表門のみ戦火を免れた。これはその焼け残った表門である。1878年、帝国博物館(現、東京国立博物館)が開館すると、正門として使われ、関東大震災後、現在の本館を改築するのにともない、現在地に移建した。
門の構造は、切妻造り本瓦葺の、潜門のつく薬医門である。薬医門とは、木柱が門の中心線上から前方にずれ、木柱と控柱を結ぶ梁の中間上部に束をのせ、その上に切妻屋根を乗せた門をいう。なお、門扉には、上野戦争時の弾痕が残されていて、当時の戦闘の激しさがうかがえる。(台東区ウエブサイト)

※歴代貫首は、三代目以降皇室から迎えられており、朝廷より「輪王寺宮」の称号を下賜され、東叡山・日光山・比叡山の貫首を兼任した。寛永寺の本坊はこの輪王寺宮の住居であった。

【開山堂(両大師堂)、輪王寺】
1624年、東叡山寛永寺創建、初代貫首天海
1643年、天海(慈眼大師)死去、108歳 二代目貫首 弟子の公海
1644年、開山堂(慈眼堂とも)創建、慈眼大師天海を祀る
屋根には「丸に二引き両」の家紋の飾り瓦が上がり、その家紋から足利氏の出自としていることが分かる。
寛永寺本坊内にあった慈恵堂から慈恵大師良源像を移し合祀したことから両大師と呼ばれるようになった。
※良源は平安中期の天台座主
(右へ→)
→(左より)
1654年、第三代貫首 守澄法親王(しゅちょうほっしんのう)=初代輪王寺宮:輪王寺門跡とも日光門跡ともいう(三山管領宮:東叡山寛永寺、比叡山延暦寺、日光山満願寺)
※輪王寺という名は、宮様個人の称号で、寺号ではない※
…(略)
十五世輪王寺宮、公現法親王は還俗となり輪王寺宮は廃絶

1883年、東叡山、日光山両山に「輪王寺」が門跡寺院として興される
(天台宗東京教区ウエブサイトより)
※1883年初めて「輪王寺」という寺が出現したが、実態として、慈眼大師天海を祀っている意味からは「開山堂」、歴代輪王寺宮墓地を管理している意味からは「輪王寺」であると思う。※


[開山堂の焼失と再建]
開山堂は1868年の上野戦争では焼け残ったが、1989年焼失、1993年再建された。
1989年9月4日の朝日新聞引用
「4日午前3時頃、輪王寺の本堂付近から出火、木造平屋建ての本堂と、棟続きの大書院や小書院、奥ノ院、庫裏など計650uが全焼した。この火事で奥ノ院にあった東京都の指定有形文化財の「天海僧正坐像」などが焼失した。
焼けた天海僧正坐像は、江戸時代初期に寛永寺を開山した天海僧正の死去のあと間もなく制作された。寄せ木造りで錆地漆塗り、彩色の高さ約82pの坐像。現存する天海彫像のうち最も優秀なもののひとつとされていた。」

【開山堂に残された銅灯籠】
天海の家紋:丸に二引き両
徳川将軍家の家紋:三つ葉葵

【御車返しの桜】
一本の木に一重と八重の淡紅色の花が同時に咲く優雅な樹、開花はソメイヨシノよりやや遅い。
「御車返し(みくるまがえし)」の名がついたのは江戸の始めの頃、当時の後水尾天皇が京都の常照皇寺に花見に行かれた際に、その桜があまりに美しかったので、帰り道に牛車を戻して再びご覧になったことから「御車返し」の名がついた。後水尾天皇の皇子である守澄法親王が当山の山主に就任されたとき「御車返しの桜」が当山にも植樹された。現在の「御車返しの桜」は三代目になる。
(寛永寺教化部案内板より抜粋)

【明治期に書かれた境内の略図(慈眼堂版)】
開山堂「お車返しの桜」の前に置かれた石碑を拡大した。
A:親王御墓地  B:奥之院
1,2,3,4,5,6と6個の銅灯籠が見えるが、1989年の火災の後、1,4は失われて4個になってしまった。  

【開山堂の裏手】
駐車場になっている。奥之院は火災で失われ再建されなかったようだ。なかにあった天海僧正坐像も失われてしまった。
【阿弥陀堂】
先ほどの[明治期に書かれた境内の略図(慈眼堂版)]には、釈迦堂と書かれているのですが、いつから[阿弥陀堂]と呼ばれるようになっのでしょうか?



左写真のようでは、内部を撮影することは憚れるのですが、そっと覗いてみると、右隅に銅鐘がありました。これが噂に聞く、「大猷院霊廟前の鐘楼」に懸けられていたものかもしれません。もしそうだとすれば大変貴重なもの、扱いが粗末ですね!!

【輪王寺宮墓】
宮内庁管轄であるため非公開。
しかし、上野周辺に住む人には、ボランティアお掃除の時に見られるという。公共物なのに残念なことです。

【輪王寺宮墓】
見せないというというものをみたいと思うのも人情。塀の上にカメラを乗せて撮ってみた。他ブログなどを参照すると、左の墓は、有栖川宮公紹親王墓のようだ。



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