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歴史散歩:日暮里〜谷中〜根岸
2013年6月25日(火) 錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、東京歴史散歩。今回は、江戸時代から風光明媚であった日暮里高台〜別荘地であった根岸(音無川沿い)を歩きます。 |
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【コースの概略】 @JR西日暮里駅→A地蔵坂→B諏訪神社→C富士見坂→D日暮里寺院の林泉→E七面坂→F延命院→G天王寺五重塔跡→H天王寺→I芋坂→(旧音無川沿い)→K善性寺→L羽二重団子→(御隠殿跨線橋)→M御隠殿跡→N御行の松 →O西蔵院→P根岸小学校→Q入谷鬼子母神(全行程 約4.5km) |
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〔江戸切絵図〕根岸谷中辺絵図 1849-1862 (国立国会図書館デジタル化資料より) |
【散歩行程】は、「幕末期の切り絵図」を基に構成しました、訪問した地点に★印を入れ【コースの概略】と対比できるようにしました。 ◇江戸時代末期、音無川を境にした土地利用に明確に違いがあることがわかります(崖上と崖下の違いで当然ですが) ◇また、この図では、「天王寺」「御隠殿」「御行の松」が明瞭に描かれていることから、当時の人々の意識の中にも大きな存在であった事がわかりますね。 ※このページで使用した絵図・錦絵(合計9枚)は、すべて、国立国会図書館近代デジタルライブラリー(古典籍資料)からダウンロードしたものです。ここへの掲載は、事前に、承認を得ています。 |
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日暮里、地蔵坂・諏訪の台 |
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名所江戸百景 日暮里諏訪の台 広重 1856 (国立国会図書館デジタル化資料より) |
@〜A【地蔵坂を上る】 JR西日暮里駅から東に回り、JR線路の下のガードをくぐれば地蔵坂を上れる。 坂名の由来は、諏方神社の別当寺であった浄光寺に、江戸六地蔵として有名な地蔵尊が安置されていることにちなむという。 広重の「諏訪台」にも、3人の人物が地蔵坂を上る様子が描かれている。現在、電車からはこの坂がよく見えるのだが、JRの線路が出来たため、坂の方向が一部分、曲げられたようである。 |
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A【地蔵坂を上りきったところ】 広重の「諏訪台」には、見晴らしが良く、筑波山がクッキリと描かれ、景勝を楽しむ人の様子があります。江戸時代には、有数の景勝地だったのでしょう。 現在では、その景勝を目にすることは出来ませんが、この地に鎮座する諏方神社は日暮里・谷中の総鎮守となり、多くの人が訪れます。 |
B【諏訪の台(諏方神社)】 【諏方神社】 1202年(元久2年)創立 1635年(寛永12年)現地に社殿 明治時代、日暮里・谷中の総鎮守となる (諏方神社ウエブサイトより) 【日暮里】 日暮里地域は、江戸時代中期以降、「一日過ごしても飽きない里」という意味で「ひぐらしの里」と呼ばれるようになりました。 これに呼応して、明治十年、もともと「新堀」であったこの一帯が「日暮里」と正式に表記されるようになりました。 (荒川区役所ウエブサイトより) |
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富士山が見えることで有名だった富士見坂 |
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C【富士見坂】 都区内で富士山が望めるスポットの一つとして有名 坂の途中のお宅の塀に、このことを示す写真が掲示してある |
ここを訪れたのは、6月25日、しかし矢印の位置にマンションが建ち眺望を遮った。翌26日の朝日新聞夕刊「富士見坂に嘆きの壁」によると、眺望を遮ったのは20日ごろとあるので、ほとんど直後と言うことになります。また、ひとつ江戸が消えていきます。 |
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日暮里寺院の林泉(庭園) |
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名所江戸百景 日暮里寺院の林泉 広重 1857 (国立国会図書館デジタル化資料より) |
D【日暮里寺院の林泉(林泉とは山水を模った庭園のこと)】 広重「日暮里寺院の林泉」には、富士見坂を上る人や、寺院の庭園を散策する人の様子が描かれている。諏訪の台南西斜面の3寺院(青雲寺、修性院、妙隆寺)は競うように周辺に花樹を植えた。その結果、諏訪台およびその南西斜面は地形的にも、庭園としても絶好の観光スポットになったようです。 【花見寺・青雲寺】 諏訪台地(西日暮里公園)を含んでいたが、縮小 【花見寺・修性院】 第一日暮里小学校敷地を含む崖下まで、現在は縮小 [花見寺・妙隆寺跡] 明治に廃寺(修性院に合併) 江戸の頃と比較すると、3寺院とも、大幅に規模縮小ですが、縮小なりに、しだれ桜などが整備されているよう。桜が美しい季節に訪れると花見寺の片鱗がうかがえるかもしれません。 |
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【花見寺・青雲寺】 |
【花見寺・修性院】 |
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七面坂と延命院 |
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E【台東区と荒川区の境界、七面坂】 花見寺から延命院に向かうとき、いわゆる「夕焼けだんだん」と呼ばれている石の階段を上ります。すると、右方向にある坂道に気づきます。これが、七面坂、延命院の中にある七面堂にちなむという、この坂が、荒川区と台東区の境になっているという。なにか、おもしろそうな予感がします、このことについては、次のコマで考えてみることにします。 |
F【延命院】 日蓮宗の寺院で宝珠山と号する。開基は四代将軍徳川家綱の乳母三沢局。家綱出生の際に安産を祈祷した慧照院日長が、三沢局の信施を受け、甲州身延山の七面大明神を勧請。慶安元年(1648)別当寺として延命院を開創したという。 七面大明神には、胎内に慶安3年(1650)法寿院日命が願主となり、仏師矢兵衛の手で作られたことを記した銘文がある。秘仏とされ、七面堂に祀られている。境内には樹齢600年を超えるといわれる大椎(都指定天然記念物)がある。(荒川区教育委員会) |
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江戸方角安見図鑑 2巻. [1] 1680 (国立国会図書館デジタル化資料より) 【延命院を区切る七面坂】 左(1680年)と右の絵図(1834年)を見比べると、現在の七面坂は、延命院(七面大明神)を区切る道路であることが、よく理解できる。 (右へ続く→) |
江戸名所図絵7巻[14] 日暮里惣図 其2 (1834-1836) (国立国会図書館デジタル化資料より) 【夕焼けだんだんは延命院内の参道?】 (→左からの続き)さらに、「夕焼けだんだん」と呼ばれている石の階段は延命院(七面大明神)内の参道と見るのが自然のようだ。 |
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【ここに七面大明神が??】 左下の小さな石板に[七面宮]という文字が... |
【生き残る延命院の老木シイ!】 上の「日暮里惣図の赤い矢印」にも描かれている[東京都指定天然記念物]のシイの老木、推定樹齢600年(荒川区教育委員会)。 1855年 江戸大地震で延命院堂宇は倒壊したが、このシイは生き残った。 2002年 腐朽が原因で南側の大枝が崩落し現在の姿に (東京都教育委員会) |
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延命院日当話 芳年 1885 (国立国会図書館デジタル化資料より) |
【延命院事件】 1803年春の頃、延命院に大奥の女中が出入りしているという噂が立ち、寺社奉行が内偵の上、踏み込み全貌が明らかになった。淫行した女性の数50人以上、僧侶は女犯の罪でお裁きを受けた。この延命院事件を題材にして、明治初期に河竹黙阿弥が歌舞伎に仕立てた。 |
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谷中天王寺と芋坂(芋坂跨線橋) |
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江戸名勝図会 天王寺 広重 (国立国会図書館デジタル化資料より) |
G【天王寺五重塔跡】 1644年 五重塔建立 1722年 明和の大火で五重塔焼失 1791年 五重塔再建、高さ約34m 1957年 放火により五重塔焼失 【広重 天王寺】 左の錦絵に描かれているのは浅黄桜すなわち鬱金桜 近年、谷中霊園に植樹されたというが、6月は花の季節ではなく、私が、見分けるのは困難。 |
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江戸名所図絵7巻 [14] 谷中 感應寺 其2 1834-1836 (国立国会図書館デジタル化資料より) |
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H【現在の天王寺】 「江戸名所図絵7巻 [14] 谷中 感應寺 其2 1834-1836」 及び 「江戸初期の古地図」を見ると、五重塔わきの参道の正面に天王寺があるはずであるが、現在では、少し右寄りである。 写真の大仏も、旧天王寺の向かって左側にあったはずで、台座ぐらい残っているかもしれない、再訪したとき検証してみようと思う。 |
天王寺の歴史を見てみると
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I【芋坂跨線橋から見た東京スカイツリー】 JR線路が通るため、崖上から崖下に下るときは、ガード下か跨線橋になる、この芋坂の場合は、跨線橋になった。この跨線橋に立つと上野台地の崖がよく見渡せる 、また、東京スカイツリーのビューポイントの一つになっている。 目の前に見える跨線橋は御隠殿坂からの跨線橋。 芋坂は江戸時代の地図にも登場する主要な坂だが、明治に入ってからも、文学作品(正岡子規や夏目漱石、田山花袋)によく登場する。 芋坂も団子も月のゆかりかな 子規 |
【眺望を阻む芋坂跨線橋のガード】 しかし、跨線橋に乗ってしまうと、ブルーのガードが眺望を阻んでいる。東京スカイツリー、上野台地の崖、JRの線路を見るためには、ブルーのガードの隙間を利用しなければならない。 〔江戸切絵図〕根岸谷中辺絵図 1849-1862、を見ると、この芋坂下には、妙揚寺というお寺があった事がわかる。この妙揚寺、開創は1612年、当時の感応寺住職のご母堂とのこと、少なくとも、江戸初期までは、感応寺の勢力範囲は広大であった事がうかがい知れる。 |
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善性寺と羽二重団子 |
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K【善性寺と将軍橋】 芋坂を下ってしばらく行くと、旧音無川に出る、正面が善性寺である。詳細は案内板の通りだが、切り絵図にあるように、音無川にかかる将軍橋を渡ると王子街道があった事に注目である。 |
L【藤の木茶屋・・・羽二重団子】 1819年 音無川と芋坂が交差するこの地に「藤の木茶屋」が開業、団子を提供した。 |
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御隠殿跨線橋と御隠殿跡 |
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【御隠殿跨線橋】 御隠殿坂は東叡山寛永寺住職輪王寺宮法親王が寛永寺から別邸の御隠殿へ行くための坂。坂下は、線路が敷設されたので跨線橋になっているが、この辺り一帯が御隠殿だったのだろう。 |
M【根岸薬師寺にある御隠殿址】 | |
【御隠殿址の脇にある説明版】 この地域の住民の方が描いた、御隠殿の説明図 |
輪王寺の宮の別邸「御隠殿」の敷地はおよそ三千数百坪という広大なもの、慶応4年(1868)彰義隊の戦いで焼失し跡形もない。 ウエブサイトを丹念に探すと、発掘をすれば「御隠殿から音無川にかかる橋の跡」が見つかる可能性があるという記述が見つかる。そこに、記念碑でも建てもらいたいものである。 |
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「音無川」と「御行の松」の街、根岸 |
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江戸名勝図会 御行松 広重 (国立国会図書館デジタル化資料より) |
N【切り絵図や錦絵に出てくる御行の松】 左図の川筋は音無川、武蔵野台地東縁に沿って、王子駅前から続き、御隠殿跡あたりから、台東区と荒川区の境界になっている。区の境界(音無川跡?)を更に進むと「御行の松」に出る。 「御行の松」は、江戸時代の切り絵図、古地図には必ず出てくる名所、目立つ松だったのだろう。古地図を見ると、この川の東側は田ばかり、西側は寺院や別荘地であった。 |
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【根岸は「音無川」と「御行の松」の街だったのに...】 この周辺を歩いてみると、NTTや東電の電柱に「東音無支」とか「御行松支」といった文字が目立ちます。「音無川」と「御行の松」がこの街のシンボル的存在であることがよくわかりますね。しかし、再開発の波はこの歴史ある根岸地区にも押し寄せてきているようで「14階建てワンルームマンション絶対反対」のビラが目立っていました。(上の写真は、3枚を合成してあります) |
【御行の松は3代目】 「御行の松」の名の由来には諸説あり、輪王寺宮が御隠殿周辺を散策する折、この松の下にきて必ず休まれた、とか、この松の下で行を行ったとか、いわれる。別名、時雨の松ともいう。 ・昭和3年 第1代目枯死 ・昭和31年 第2代目を上野中学校から移植したが、枯死 ・昭和51年 第3代目を植える |
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O【西蔵院は、根岸小学校発祥の地】 西蔵院(真言宗)は、1400年頃開山の名刹、根岸小学校発祥の地でもある。
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P【現根岸小学校の壁面に、「御行の松」のレリーフ】
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入谷・鬼子母神 |
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Q【恐れ入谷の鬼子母神】 1659年創建の真源寺内に祀られている 「入谷の鬼子母神といえば朝顔市を思いだす。毎年7月上旬になると境内いっぱいに朝顔の市がたつ。市の期間にお参りすると朝顔の造花がついた子育お守りをいただける。」(台東区のウエブサイト) 江戸時代、この地は入谷田圃といわれ、大きな植木屋さんがたくさん集まっていたと言われています。 「入谷の朝顔が有名になったのは明治2、3年頃だといわれる。あるお寺が、朝顔の鉢植えをつくって人に見せたのが始まりで、それを真似て数軒の本職の植木屋がやり出して、いよいよ入谷の朝顔は有名になっていく。明治15、6年から末期にかけてのことである。」(台東区のウエブサイト) |
【鬼子母神とザクロ】 この地を訪れたのは、6月25日結実期を迎えたザクロがキレイでした。 「鬼子母神はインド仏教上の女神の一人。子供をうばい取っては食ってしまう悪神だったが、釈尊の戒めによって善神に転向、子育・安産の神として信仰される。」(台東区のウエブサイト) 実際には、鬼子母神を見たことはないのですが、聞くところに寄ると、右手にザクロの枝を持ち、ふところに子供を抱いているという。 「鬼子母神とザクロ」については、諸説あるようです。
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