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歴史散歩:浅草橋〜東日本橋〜大伝馬町(旧日光街道)〜日本橋室町〜常盤橋

2014年11月10日(月)
錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、東京歴史散歩。今回は、浅草橋駅を出発し、神田川、隅田川沿いに薬研堀跡へ、御幸通りを通って横山町へ、ここから大伝馬本町通り(旧日光街道)をまっすぐ西へ、日本銀行を迂回して常盤橋門まで歩きました。(全行程約5.0km)
300年ぶりに旧地近くに戻ってきた「初音森神社」、七味唐辛子発祥の地「薬研堀」、明暦の大火で移転する「西本願寺跡地」、横山町問屋街、旧日光街道沿いに栄えた地本問屋「蔦屋耕書堂跡」・呉服店「下むら大丸呉服店跡」・紙木綿問屋「小津」等々、江戸の香りがあちこちに顔を出していました。常盤橋見附跡では、木造の橋はすでになく、震災で亀裂の入った石橋と、橋を覆うように高速度道路が目障りでした。
※今回は、上野に縁のある6人の協力を得て、7人で歩きました。ご協力に感謝します。なお、以下に書かれた見解、感想はInternet Walkの管理者個人のものです。

【コースの概略】
[馬喰町・東日本橋地区]
1.左衛門橋
2.柳原土手跡
3.浅草見附跡
4.郡代屋敷跡
5.初音森神社
6.両国広小路跡・両国橋
7.大木唐辛子店
8.矢ノ倉 石碑
9.薬研堀不動院
10.西本願寺跡
11.横山町問屋街
[大伝馬本町通り・旧日光街道]
12.蔦屋耕書堂跡
13.下むら大丸呉服店跡
14.馬込勘解由屋敷跡
15.(紙問屋・木綿店)小津
16.旧日光街道本通り 石碑
[日本橋室町・本石町地区]
17.室町三丁目南交差点
18.常盤橋見附跡
19.金座跡(現日本銀行)
20.三井越後屋(現三越)
21.十軒店跡
22.長崎屋跡
23.石町時の鐘 鐘撞堂跡
24.今川橋跡

日本橋馬喰町・東日本橋地区

日本橋北内神田両国浜町明細絵図 1850-1859年
(東京国立博物館蔵)


【1.左衛門橋】
JR浅草橋駅西口を出て、秋葉原方向へ40m程のところに、神田川を渡る左衛門橋がある。左の図にあるように江戸期にはなかったが、明治維新後架橋された。JR浅草橋駅あたりに、鶴岡藩・酒井左衛門尉の下屋敷があり、この辺の神田川河岸は左衛門河岸と呼ばれており、この名前が残ったらしい。
実は、この橋の中央は、千代田区・台東区・中央区の分岐点である。写真右半分(西側)は、千代田区神田、左(東側)の向こう岸は中央区馬喰町、左(東側)のこちら岸は台東区浅草橋である。

【2.柳原土手跡】
写真は台東区側から浅草橋上(江戸通りが通る)を写したもの。
正面のビルは、神田川対岸にある日本橋女学館(中央区日本橋馬喰町)、近年、この学舎建設に伴い発掘調査が行われ「土手の石垣の一部」が出土した(柳原土手跡遺跡)。柳原土手は筋違橋から浅草橋までの約1.1kmをいい、この土手の柳は太田道灌が植樹したという伝承がある(整備されたのは吉宗の時代)。1873年土手は崩されたが、柳という地名が随所に残る。柳森神社、柳原通り、柳北公園、向柳原、柳橋など。


【3.浅草見附跡】
神田川に架かる浅草橋は、江戸時代には浅草見附があったところで、台東区側に「浅草見附跡」の碑が建っている。浅草見附が置かれたのは1636年、江戸城の警護のため36ヶ所に設けられた見附の一つで、枡形の門は「浅草御門」と呼ばれ、警護人を置いて浅草観音や奥州への往来を取り締まった。

【4.郡代屋敷跡】
案内板は浅草橋の中央区側にある、屋敷の範囲は、現代の「日本橋馬喰町二丁目+日本橋馬喰町一丁目の一部」という広大なものであったと推定される。郡代屋敷が置かれると、馬喰町周辺には、地方からの公事師(訴訟代理人)のための旅籠屋が増えてきた。日本橋横山町に隣接していたことから、商人の出入りも盛んで、大小の旅籠が集中し、江戸一番の旅館街となった。

【5.初音森神社】
・1330年頃、創祠
・1400年代後半、太田道灌によって大社殿が建てられた。この地は、奥州街道沿い楠木などの生い茂った森であり、初音の森と呼ばれた。現在の馬喰町靖国通り交差点あたり。
・徳川入府後、浅草見附や郡代屋敷建設のため、墨田区千歳に移転
・1948年、旧地の一部である現地に、神社を建設。
・1973年、神殿及び儀式殿を近代建築にした。
(以上、初音森神社由緒より抜粋)
※初音森神社旧地には、隣接して初音の馬場(江戸最古の馬場)があり、1600年、徳川家康関ヶ原出陣の際、ここで馬揃えをして戦勝を祈願したという。


【6.両国広小路・両国橋】
明暦の大火(1657年)は江戸の市街の大半を焼失し10万余の死者を出した。その際このあたりで逃げ場を失って焼死する者が多数出た。このため対岸への避難の便を図り両国橋が架けられた。また延焼防止のため橋に向かう沿道一帯を火除け地に指定し空き地とした。やがてこれが広小路となり、江戸三大広小路の一つとして上野、浅草に並び称せられる盛り場に発展した。
(中央区日本橋両国町会 建碑より)
創架年は1658年、はじめて千住大橋下流に橋が架かった。その後、何度か焼失・崩壊にあい、現橋は1932年製。

【7.大木唐からし店】
1625年この地域で、中島徳右衛門が薬種商を開業し、漢方薬を食に利用しようと、「七色唐辛子」を考案した、これが「やげん堀七味唐辛子本舗」の始まり(やげん堀七味唐辛子本舗ウエブサイトより)。残念なことに、1943年薬研堀から浅草新仲見世に移転していった。
江戸期を通して、この薬研堀周辺には、薬問屋や医者が集まっていた、元祖「やげん堀七味唐辛子本舗」は移転していったが、後発(1656年創業)の「大木唐からし店」が残って、江戸の名残を伝えている。
※「やげん堀七味唐辛子本舗ウエブサイト」によると、創業の地は、古地図で「石井蜂之助」と書かれているところ。

【元柳橋】
両国回向院から見た薬研堀、、元柳橋。
幕末期に堀として残った薬研堀は、日本橋中学校の校庭と見られるので、元柳橋は横断歩道橋あたりと思われる。
※上に掲載した両国橋の写真は、この横断歩道橋から撮ったものである。
「江戸名所百景 両ごく 回向院 元柳橋 広重 1857年」(国立国会図書館蔵)









【8.矢ノ倉 石碑】
1645年、この地に幕府は米蔵を造り「谷之御蔵」と称した。中央には米を輸送するため、隅田川に直結する堀割が造られ「薬研堀」と称した。1698年火災により焼失し、移転していった、薬研堀もほとんど埋めたれられた。しかしながら、近世の住居表示実施まで[矢ノ倉町][米沢町][薬研堀町]など米蔵にちなむ名前が残っていた。
(この石碑は、日本橋中学校南西の角にある。)

【9.薬研堀不動院】
・1585年、紀州根来寺の大印僧都は、兵火に追われ根来寺に安置されていた不動明王を背負って東国に下り隅田川のほとりに堂宇を建立。
・1892年、川崎大師の東京別院となり現在に至る。

【順天堂発祥の地】
・1838年、佐藤泰然(順天堂の創始者)が、この地に蘭方医学塾「和田塾」を開く。
・1843年、医学塾「和田塾」を佐倉に移し、医学塾「順天堂」開設。
明治初頭、西洋医学導入に貢献する門人を育てた。佐藤尚中、松本良順、関寛斎、佐々木東洋などを輩出した。
・1873年、佐倉より下谷練塀町9番地に「順天堂医院」を開設した。


【10.西本願寺別院跡(旧日本橋橘町)】

日本橋中学校前の通りを「御幸通り」というが、御幸通りを西に向かい清洲橋通りに交差するところで、右に曲がると、両側が東日本橋三丁目。ここは、江戸期には「橘町」と呼ばれたところ。江戸初期に西本願寺別院があり、門前に立花を売る店が多かったので「橘町」と呼ばれたそうだ。
・1621年、准如上人が西本願寺別院を建立、「浅草御堂」とか「海辺御坊」と呼ばれた。
・1625年、幕府が西本願寺別院と認める。
本願寺本堂を中心に子院28寺というから、かなり広大な寺院であった。本堂の周りには隅田川からの堀割を巡らせ(東と南)、広大な庭園まであったというから、まさに海辺御坊であったらしい。
・1657年、明暦の大火で焼失、同地に再建は許されず、築地に移された。築地は、波打ち際であったらしく、門徒らは土砂を運んで埋め立て造成し、築地本願寺を造営した。
(三田商学研究第41巻第6号1999年 日本橋橘町商業史覚書 白石孝 より引用)

【11.横山町大通り】
清洲橋通りを更に行くと、旧日本橋橘町から日本橋横山町に出る。横山町大通りが大伝馬町本町通りと同一の旧日光街道である。
古地図によると、この通りには、花火の「鍵屋」とか「門跡の井」が記されてるが、案内板すら見つけることは出来なかった。
一般消費者お断りの看板が目立つ問屋街である。



大伝馬本町通り(旧日光街道)

【大伝馬本町通(旧日光街道)】
横山町大通りを更に西へ行き、緑橋跡を通過すると旧通油町になる。さらに、旧通旅籠町→旧大伝馬二丁目→旧大伝馬一丁目→旧本町と続く、江戸時代のメインストリート(日光街道)であった。明治維新後も、この通りの繁栄は続き、1882年には日本橋からの鉄道馬車が開通した。しかし、1904年現江戸通りに電気鉄道が開通すると、繁栄は現江戸通りに移っていった。以来、関東大震災・戦災で大打撃を受け、繁栄の歴史に終止符を打った。
「日本橋北内神田両国浜町明細絵図 1850-1859年」
(東京国立博物館蔵)


【12.蔦屋耕書堂跡、旧通油町】
1615-24年に牛込某が油屋を開いたことから町名になったという。
1688-1704年、浄瑠璃本を扱う鱗形屋が営業。
1783年、地本問屋蔦谷耕書堂開業、主人は、蔦谷重三郎。山東京伝、滝沢馬琴、十返舎一九などの作家や絵師を抱えていた。浮世絵を出版し、歌麿、写楽を見いだした。

【大丸呉服店】

日本之名勝(写真帳) 1900年刊行 (国会図書館蔵)
大伝馬町屈指の大店、明治期の様子。

【13.下むら大丸呉服店跡、旧通旅籠町】
大伝馬町3丁目は日光街道に沿った町場で、旅籠が並んでいたために、通旅籠町と呼ばれるようになった。大丸のあったところは、現在タキトミビルというビルがある。左図と撮影位置は、同じと思われる。旧日光街道と交差する通りは「大門通り」。

【14.馬込勘解由屋敷跡、現日本橋大伝馬町】
・馬込氏は、1590年徳川家康から道中伝馬役を命ぜられた。
・馬込氏の当主の多くは、代々「勘解由」の通称名を名乗った。
・当初、呉服橋御門付近(宝田村)に居住したが、江戸拡張に伴い1606年、現在地に移転、大伝馬町が起立した。馬込氏は大伝馬町の草分名主となった。
※道中伝馬役:公用旅行者のために、人馬の継立てを行った


【寶田恵比壽神社、現日本橋本町】
馬込氏の邸内奥には、宝田村の鎮守が勧請された。そのご神体である恵比寿像は徳川家康からの拝領物と伝わる。このご神体は、江戸後期頃から現在の寶田恵比壽神社にまつられている。

【15.小津産業、現日本橋本町】
馬込氏は三河の出身で、その配下の町人が三河木綿売買のために木綿問屋を開店した。これが、大伝馬町の木綿問屋街に発展をしていく。木綿問屋小津清左衛門は大店として有名であった。
1653年、現在地に、紙問屋「小津清左衛門店」を創業
1698年、木綿店を創業。


【16.旧日光街道本通り石碑、現日本橋大伝馬町】
ホテルの跡地が駐車場になっている、そこに、旧日光街道の石碑が建っている。この石碑がなかったら、大伝馬本町通りが旧日光街道であったと納得させるのは困難だ。江戸通りと比較すると、明らかに裏道風情だからである。

【蔦屋耕書堂】
「画本東都遊 1802 北斎 絵草紙店」(国立国会図書館蔵)


【大てんま町木綿店】
「名所江戸百景 1858 広重」(国立国会図書館蔵)




室町三丁目南交差点−常盤橋見付跡−今川橋跡

【旧日光街道と中山道の交差】
「日本橋北内神田両国浜町明細絵図 1850-1859年」
(東京国立博物館蔵)

【17.室町三丁目南交差点】
旧日光街道はここで、中山道と合流し日本橋(左方向)へ向かう。
正面に見えるのは日本銀行、日本銀行がなかった時代、直進すれば、常盤橋門に至る。


【常盤橋見付】
「旧江戸城写真帖常盤橋見付図 1871年」(東京国立博物館蔵)
江戸城枡形門の一つで、1629年に築かれた。浅草口、追手口とも呼ばれ、田安門、神田橋門、半蔵門、外桜田門と共に江戸五口に数えられた。江戸時代を通して、江戸城の正門である大手門へ向かう外郭正門であった。(千代田区案内板より)

【18.常盤橋見付跡】
1873年に撤去され、現在は枡形門の石垣だけ残っている。
江戸期には、木造の橋であったが、1877年、一部に小石川門の枡形石垣の石材を用いて石橋に架橋された。
2011年の東日本大震災で亀裂が入り、現在修復工事中。
(千代田区案内板より)
真上に高速道路が走り、景観が最悪になった。


【19.金座跡、現日本銀行】(旧常盤橋付近から撮影)
1595年、徳川家康が後藤光次(金工)を江戸に招いて小判鋳造を始めたのが金座の始まり。金座とは、江戸幕府から大判を除くすべての金貨の鋳造を独占的に請け負った貨幣鋳造組織のことで、金貨の鋳造のほか、通貨の発行という現在の中央銀行業務に相当する役割を担っていた。この組織は、勘定奉行の支配下にあり、御金改役を長官として、金座人と呼ばれる町人によって構成されていた。金座には、金吹所、金局、世襲の御金改役である後藤庄三郎光次の役宅が含まれていた。


【20.三井越後屋、現三越】
1622年、伊勢国の商家の四男に生まれた三井高利は、1673年52歳のとき伊勢松阪から江戸に出て、日本橋本町に三井越後屋呉服店を創業した。1683年駿河町の現在地に移転した。同時に呉服業の補助機関として「両替店」を設けた。この両替店は現在の「三井住友銀行」に発展する。
(日本銀行角から撮影、左側が三井本館、右側が三越本店)

【21.十軒店跡】
十軒店は雛市の立つ場所として知られていた。『寛永江戸図』に「十間たな」と記された、石町2・3丁目と本町2・3丁目に挟まれた小さな町で、日本橋通りの両側に面していた。江戸時代の初め、桃の節句・端午の節句に人形を売る仮の店が十軒あったことから、この名があるともいわれている。明治時代以降もこの地は「本石町十軒店」と称されていたが、明治44年(1911)に十間店町となり、昭和7年(1932)、旧日本橋室町3丁目に編入された。(中央区教育委員会案内板)


「画本東都遊 1802 北斎 十軒店雛市」
( 国立国会図書館蔵)
店先に小屋掛けまで設けて繁盛している様子が描かれている。

【22.長崎屋跡】
「江戸時代、ここに長崎屋という薬種店があり、長崎に駐在したオランダ商館長の江戸登城、将軍拝謁の定宿となった。将軍拝謁は、外国貿易を独占していたオランダが、幕府に謝意を表するために献上品を携えて行った行事。商館長に随行したオランダ人の医師の中には、ツンベルクやシーボルトなどの一流の医学者がいたので、蘭学に興味を持つ桂川甫周や平賀源内はじめ日本人の医者、蘭学者が訪問し、長崎以外における外国文化の交流の場として、あるいは、先進的な外国の知識を吸収していた場として有名。
(中央区教育委員会案内板)

「画本東都遊 1802 北斎 日本橋本石町長崎屋」
( 国立国会図書館蔵)
オランダ人たちは江戸滞在中も自由に外出はできなかった。


【23.石町時の鐘 鐘撞堂跡】
徳川家康とともに江戸に来た辻源七が鐘つき役に任命され、代々その役を務めた。鐘は何回か鋳直されたが、1711年に作られた「時の鐘」が十思公園に残る。
近くに長崎屋があったため、「石町の鐘はオランダまで聞こえ」の川柳がある。
(中央区教育委員会案内板より)

【24.竜閑川(神田八丁堀)跡:今川橋跡】
・1657年大火の後、防火のために8丁(約870m)の土手が築かれる
・1691年頃、町人達が自ら費用を負担して堀割を開削する。これが神田八丁堀と呼ばれ、神田と日本橋の境になった。後に、竜閑川と名付けられ千代田区と中央区の区界になっている。
・[今川橋]この堀割(運河)には、多くの橋が架かっていた。
ここ、中山道(現中央通り)と交差するところには、当時の名主今川善右衛門の尽力で今川橋が架けられた。
・1950年竜閑川は埋め立てられ(マンホールがあるところを見ると下水道になってるか?)、300年近く慣れ親しんだ今川橋も撤去された。


【今川橋交差点】
中山道を今川橋跡から少し北に進むと、今川橋交差点がある。この交差点名は、今川橋の名前だけを借りたものと思われる。
目の前に、JR神田駅がある。


【今川橋(江戸名所図絵)】(国立国会図書館蔵)
中央の通りは「中山道」、今川橋の下は、神田八丁堀。
浅草寺から続く旧日光街道は、台東区内は基本的に「江戸通り」であり、中央区内は、「横山町大通り+大伝馬本町通り」になります。中央区内、本通りは「江戸通り」に移ってしまって、旧道「横山町大通り+大伝馬本町通り」は裏道扱い。自動車は一方通行、徒歩でも昭和通りを渡ることが出来ません(地下道経由)。ならば、車禁止の記念館・資料館通りにして、江戸の雰囲気を出しても良いような気がします。常盤橋の上を高速度道路が通って、江戸の歴史が潰されています、石橋は東日本大震災で亀裂が入って修復中でした。この際、常盤橋は江戸期の木造に戻し、高速道路は地下にする発想はないのでしょうか?



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