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歴史散歩:湯島聖堂−秋葉原−下谷御成道−西黒門町を歩く


2024年11月5日(火)
錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、歴史散歩。

お茶の水駅聖橋口→[昌平橋眺望]→[昌平坂学問所跡]→[湯島聖堂]→[古跡・昌平坂]→中山道→[神田明神]→[神田明神男坂]→[滝沢馬琴住居跡]→[旧金沢町][旧旅籠町]→[講武稲荷神社]→[昌平橋]→[筋違橋跡]→秋葉原駅→[神田川と旧堀割地点]→[佐久間橋跡]→[神田相生町火除地]→[秋葉原貨物駅跡]→[神田青果市場跡地]→[花房稲荷神社]→[下谷練塀小路跡]→下谷御成道(中央通り)→[千代田区旧五軒町]→[台東区旧西黒門町]→[可否茶館跡地]→[箭弓稲荷神社]→[松坂屋上野店]→御徒町駅


湯島聖堂の変遷

【湯島聖堂、神田明神下周辺】
  1. 広重「昌平橋聖堂」と同じ構図の眺望
  2. 昌平坂学問所跡案内板
  3. 湯島聖堂
  4. 古跡・昌平坂
  5. 神田明神
  6. 神田明神男坂
  7. 芳林公園、滝沢馬琴住居跡
  8. 東本願寺跡→前田屋敷跡→旧金沢町
  9. 旅籠町、伊勢丹発祥の地
  10. 講武稲荷神社
  • 下谷御成道は、ほぼ中央通りと一致するが、筋違橋への接続が失われ、跡も不明になった。

【(1)聖橋から東方を見た】
左から湯島聖堂、神田川、お茶の水駅ホーム
右の錦絵と同じ構図、聖堂の築地塀、神田川、はるかに見える昌平橋。周辺のビル群、鉄道を消去してみれば、広重の世界が見えてくる。

【(1)昌平橋聖堂】
絵本江戸土産5編、広重、国会図書館蔵
左の写真と同じ構図、聖堂の築地塀、深く切れ込んだ神田川、はるかに見える昌平橋

【聖橋から見た東京医科歯科大学】

【聖橋から見た湯島聖堂】
昌平坂学問所の中心部を本郷通りが貫いている。

【(2)昌平坂学問所跡の案内板】
・江戸時代、儒学の府であった聖堂の一部、昌平坂学問所(昌平黌)があった所である。
・1797(寛政9)年、学寮・宿舎が建てられ、旗本や藩士の子弟を対象とした教育が施された。

【聖堂、1836年頃】
江戸名所図会、湯島聖堂の図、東京国立博物館蔵
左から、昌平坂学問所、大成殿、寛政期に東に拡張された部分(管理棟)と続く。

【(3)聖堂、大成殿】
儒学に傾倒した徳川綱吉は、1690(元禄3)年、林家塾を湯島に移し「湯島聖堂」とした。孔子を祀る大成殿や学舎を建て、自ら「論語」の講釈を行うなど学問を奨励した。
この大成殿は、江戸期4度の火災、1923(大正12)年の関東大震災で焼失したが、1935(昭和10)年鉄筋コンクリートで再建。

【(3)聖堂、入徳門】
入徳門→杏壇門を通して、大成殿が見える。
この入徳門、1704(宝永1)年建造、唯一残る木造建築で貴重。
以下、聖堂出来る前、聖堂拡張期、明治維新を迎え縮小するまでの移り変わり

【1670年(寛文10)(昌平志、国会図書館蔵より)】
  • 1609年、御坊光瑞寺(東本願寺)が移転してくる
  • 1616年、神田明神が移転してくる
  • 1657年、明暦の大火
    大火の後、東本願寺は浅草へ移転、跡地には前田家が上屋敷を構えた。

【1671年(寛文11)新板江戸外絵図、国会図書館より】

【1673-1680(延宝年間)(昌平志、国会図書館蔵より)】
空地に太田邸が移転してくる。
この時代の筋違門外・中山道沿いには、神田明神、前田邸・本多邸太田邸等の大名屋敷、旅籠などの町屋があった。火除けとなる空地もあったようだ。

【1687(貞享4)(昌平志、国会図書館蔵より)】
・1682(天和2)年は、天和の大火の年。駒込大円寺から出火し、北西風により延焼、筋違門外にあった前田邸も類焼し、再建されなかった。跡地は、「金沢町」が起立し、この名称は、昭和まで続いた。
・筋違門外には、当初、火除地数多く設けられた。その後、幕末に至っても、町屋が密集というわけでもなく、他地域の代地として利用されたようだ。

【1691(元禄4)(昌平志)】
1690年(元禄3年)、馬場や火除地(空地)に、上野忍岡から林家塾を移し湯島聖堂とした。地名を取って「湯島聖堂」とも、孔子の生地を取って、「昌平坂聖堂」とも呼ばれた。初期の段階では、湯島聖堂の規模は大きくなく、昌平坂は神田神社参道の正面にあり、現在の坂の位置とは異なる。

【元禄辛未(元禄4年)改作昌平廟学図(昌平志、国会図書館蔵より)】
1691年(元禄4年)、徳川綱吉は林家三代の林信篤(鳳岡)に蓄髪(還俗)を命じ、従五位下に叙して大学頭(唐名は祭酒)の官職に任じた。以後、大学頭の官職は代々林家が世襲して任じられ、聖堂の長の役割も担った。

【1799年(寛政11)昌平志】
1790年(寛政2)〜1797年(寛政9)、聖堂を林家の家塾とする従来の位置づけを改め、幕府の直轄機関「昌平坂学問所」(昌平黌)を設置し、旗本や家人の学問の場とした。
この時以後の地図を見ると、「昌平坂学問所」は東西北に拡張していることがわかる。昌平坂も神田神社正面から東に移動した。

【1853年(嘉永6)本郷絵図】
1817年(文化14)〜、従来、昌平坂学問所の教師は林門に限られていたが、やがて林門以外の儒者による講義も行われるようになり、聴講も幕臣に限られなくなり、陪臣・浪人・町人にも許可された。

【跡地の利用、1884年(明治17)五千分一東京図測量原図】
  • 1868年(慶応4)には新政府に接収され、官立の「昌平学校」として再出発した。
  • 1871年(明治4)昌平学校閉鎖
    幕府の開成所・医学所の流れをくむ東京開成学校・東京医学校が東京大学の直接の前身となったのと異なり、昌平黌以来の漢学の系統は、主流にはなり得なかった。
【跡地の利用】
[師範学校]
・1872(明治5)年、師範学校開校
・1873(明治6)年、東京師範学校に改称
・1886(明治19)年、高等師範学校と改称
・1902(明治35)年、東京高等師範学校と改称
・1903(明治36)年、大怩ヨ移転
・1949(昭和24)年、東京教育大学に吸収
[東京女子師範学校]
・1874(明治7)年、東京女子師範学校設立(一時、高等師範学校に吸収)
・1890(明治23)年、女子高等師範学校として独立
・1908(明治41)年、東京女子高等師範学校に改称
・1920〜1930年、大怩ヨ移転
・1949(昭和24)年、お茶の水女子大学に吸収

[東京医科歯科大学]
・1930年、東京高等歯科医学校が移転してくる(東京女子高等師範学校跡地)。
・1951年、東京医科歯科大学に吸収
・2024年、東京工業大学と共に「東京科学大学」に統合予定。


[図書館、博物館]
・1872(明治5)年、書籍館[ショジャクカン]開館(湯島聖堂内)。旧幕府系(昌平坂学問所、蕃書調所、和学学問所)の書籍中心
・1874(明治7)年、書籍館は浅草へ移転(浅草文庫)、浅草文庫の蔵書は、内閣文庫→国立公文書館と帝室博物館→東京国立博物館へ引き継がれる。
・1875(明治8)年、東京書籍館開館(湯島聖堂内)、文部省由来の書籍と国内出版物を受け入れた。
・1880(明治13)年、東京図書館と改称
・1885(明治18)年、東京教育博物館と合併して上野へ移転(通称、上野図書館)

【(4)古跡 昌平坂】
18世紀末、湯島聖堂拡張で、昌平坂は東にワンスパンズレている。現代の昌平坂を上り、神田明神へ。



神田明神男坂を下り筋違門外へ

【神田明神入口】

【(5)神田明神】

【(6)神田明神男坂(坂上から)】

【(6)神田明神東坂、広重】国会図書館蔵
男坂上は、江戸期においても、眺望も良く、茶屋が繁盛したようだ。

【(6)坂の中程に「KAIKA」ビル・開花楼跡地】
『現、KAIKAビル。この地には明治10年創業の料亭、開花楼がありました。海抜40mの高台に建つ開花楼の座敷からは、浅草から本町、深川に至るまで見渡せる眺望の良さと、江戸前の料理が好まれ、通人や粋人が集う場所として東京名所図会など多くの書物に残されています。(右へ→)

【(6)往時の開花楼】
(→左より)「開花楼」は、単に料理屋として著名であるだけでなく、書画展や古書市、見本市など当時として貴重な文化事業が開催され、大広間では文豪の島崎藤村の結婚式が行われました』(現地解説版)

【神田明神男坂下の路地を抜けると明神下通り】
筋違門外には湯島横町、御台所町、神田旅籠町、金沢町、神田花房町など江戸の香りを残す町名が最近まであったが、1964年住居表示施行により消滅した。

【御台所町】
江戸初期には、幸龍寺や万隆寺などが軒を連ねる寺社地だったが、明暦の大火後は、江戸市中外側に移転していった。跡地は、御台所御賄方の武家屋敷として再建されたが、1672(寛文12)年頃には、町屋が形成され、次第に神田御台所町と呼ばれるようになった。1964(昭和39)年、外神田二丁目に編入となり消滅

【東都下谷絵図、1851(嘉永4)年頃】
【湯島横町】
神田明神移転以来、「湯島一町目横町」といわれていた。元禄・宝永年間(1688〜1710年)、周辺地を合わせて「湯島横町」となった。1872(明治5)年、縁起を担ぎ、「松住町」と改称。
1964(昭和39)年、外神田二丁目に編入となり消滅

【神田花房町】
もとは本多下野守、1724(享保9)年からは水野隼人正の屋敷だった。
1725(享保10)年、東南の町屋の区域が神田花房町となった。
1964(昭和39)年、外神田一、四丁目に編入となり消滅

【(7)芳林公園、滝沢馬琴住居跡】
ネットを探すと、少し古い(平成17年)の案内板が出てくる、そこには「ここは、西丸書院藩士を勤めていた旗本橋本喜八郎の所有する50坪の土地で、16坪の家屋が建っており、1818(文政1)年、まず、息子、母、妹が暮らし、1824(文政7)年には、馬琴もここに引っ越してくる。隣家を買収し、80坪の敷地として、書斎や庭園を設けたという」と書かれている。 下谷絵図を見ると、明神下東に「橋本喜八郎」の名が見える。
この植え込みにある千代田区「滝沢馬琴住居跡」の案内板は最近、更新されたようだ。
滝沢馬琴は、『南総里見八犬伝』、『椿説弓張月』などを著わした江戸時代の戯作者。旗本松平信成の家臣の子として生まれた馬琴は、元飯田町中坂下の下駄屋会田家の養子となり、家業を人に任せ、戯作者としての道を歩み始める。やがて、ここに転居し、戦国時代の物語をまとめた『近世説美少年録』や、南朝再興の物語をまとめた『開巻驚奇侠客伝』などを著している。1836(天保7)年に、四谷信濃坂に転居するまでの12年間ここで暮らした。(千代田区)

【(8)金澤町】
江戸初期、東本願寺があった。
1657(明暦3)年、明暦の大火後、加賀藩前田家上屋敷
1682(天和2)年、「八百屋お七」火災の後、前田屋敷は再建されず町屋に
1684年、金沢町が起立
1964(昭和39)年、外神田三丁目に編入となり消滅

千代田区の案内板の背後(北側)の建物は、昌平小学校、1993年淡路小学校と芳林小学校が合併して出来た小学校。
さらに、「芳林」とは、幕末期に神田牛込袋町代地(現、秋葉原駅周辺)に建てられた私塾(芳林堂)に由来するらしい。

【(9)筋違門外旧旅籠町周辺】
中山道の板橋宿、日光御成街道の川口宿へ向かう街道筋として、旅籠が数多く立ち並んでいたため、「旅籠町」と呼ばれるようになった。1964(昭和39)年、外神田一、三丁目に編入となり消滅

・江戸末期には、旅籠の数は減少し、材木業や衣料品業が盛んになったという。過去のホームページを検索すると、正面の「住友不動産秋葉原ファーストビル」の「P」の標識のあるあたりは「伊勢丹」発祥の地とされているが、今やその面影はない。※伊勢丹:1886年「伊勢屋丹治呉服店」として創業、1933年新宿へ移転


【(10)筋違門外講武所付町屋敷跡】
「加賀藩前田家上屋敷」焼失後、神田昌平橋北詰は加賀ッ原と呼ばれた「火除地」になっていた。幕末には、ここを町屋にして、軍事教習所の講武所運営の費用を捻出したという。明治になってからは、神田明神下の花街の芸者衆を講武所芸者といったという。現在では、外神田一丁目となり、「講武稲荷神社」のみが名を残している。

【昌平橋周辺】
・昌平橋の架設は寛永年間と伝えられていて、その当時は、芋洗橋とも相生橋とも呼ばれていた。湯島聖堂建立後、1691年昌平橋と改名された。
・松住町(湯島横町)から見た昌平橋
・昌平橋の奥に見える鉄道橋は中央線
・手前に見える鉄道橋は総武線

【筋違見附、1871年頃】
旧江戸城写真帖より転載、東京国立博物館蔵
この場所は、徳川将軍が江戸城大手門から上野寛永寺へ向かう「下谷御成道」と日本橋から板橋・本郷へ向かう「中山道」が筋違いに交差していた所で、「筋違門」と呼ばれていた。

【筋違門跡→万世橋駅跡】
・筋違門跡には1912(明治45)年に、中央本線ターミナル駅として万世橋駅が出来たが、神田駅・秋葉原駅開業で見捨てられ、31年後の1943(昭和18)年、廃駅となった。


秋葉原駅周辺の変遷
筋違門は、中山道と下谷御成道が交差する門でり、下谷御成道の東側には武家屋敷が密集する地帯が広がっていて、鉄道を通すなどの再開発は最も遅れた地域であった。

【秋葉原駅周辺・現代】
  • 北側は、下谷練塀小路を中心とする武家地
    南側は、町屋と代地が入り混ざった密集地だった。
  • 明治初期に南側で、大火が起こり、大きな火除地が設けられた。
  • 明治中期には、この火除地を利用して、上野駅の貨物取扱所ができる。
  • 関東大震災後、上野−神田間が高架で開業すると、秋葉原駅も旅客営業を開始した。
  • 昭和初期、御茶ノ水−両国間が開通すると、旅客の比重が増大していく。
  • 昭和初期、貨物駅の利便性があり移転してきた「神田青果市場」も、平成になり、大田区へ移転していった。
  • 平成には、つくばエクスプレスも開業し、ターミナル駅として存在感がある。

【神田相生町、神田佐久間町周辺、1862年(文久2年)】
東都下谷絵図をさらに拡大、将来、秋葉原と呼ばれる地域を示した。
神田佐久間町、神田相生町、神田山本町、神田松永町、神田松下町、下谷練塀小路等が見られる。

【神田佐久間町周辺に設けられた火除地、1870年頃】
東京五拾区縮図、三拾二番組(神田佐久間町(四丁)其他)
特別区協議会蔵を拡大したもの

【神田佐久間町周辺に設けられた火除地、1884年頃】
東京図測量原図、東京府武蔵国神田区佐久間町及下谷区仲御徒町近傍(カシミールよりキャプチャー)
[鎮火社]
・1870年(明治2)、神田相生町の塗師職方から火災が発生。神田相生町を始めとする近隣8か町が全焼し、「相生町の大火」とも呼ばれる火災が起こる。
・1871年(明治3)、神田相生町他を火除地として取払い、中央に「東京府火災鎮護の神社」を創建。宮城内紅葉山より鎮火三神を勧請し、「鎮火神社(ひしずめじんじゃ/ちんかじんじゃ)」と名付けた。
・1888年(明治21年)、秋葉原貨物取扱所建設のため、大日本鉄道に払い下げられることとなり、神社は現在の地(東京都台東区松が谷3-10-7)に遷座されることとなる。
[鎮火社→秋葉神社→秋葉原]
・元々は、「鎮火神社」として創建した神社であったが、江戸で「火防の神」として信仰を集めていた秋葉信仰と混同され、「秋葉さま」と呼ばれるようになった。台東区へ遷座した後の空地も「秋葉さま」があったという意味で「秋葉原」と呼ばれるようになる。

【秋葉原貨物駅、1904年頃】
台東区アーカイブ・神田区全図明治37年(1904)
・1884年(明治17年)5月に上野−高崎開通し、上野駅で旅客、貨物の取扱が始まった。しかし、取扱量が急速に伸び、上野駅の逼迫だけでなく周辺道路の渋滞が酷くなっていた。
・そこで、この火除地を貨物取扱駅として使い、神田川の水運を利用して貨物を捌くという計画が立てられた。
・1890年(明治23年)秋葉原貨物取扱所開設、上野駅とは地上線で結ばれることになった。
・1893年(明治26年)には神田川からの堀割を掘削して船だまりが完成し、水運との連絡が始まった。
・しかし、貨物の伸びは止まらず、第一次世界大戦(1914-1918年)を境に伸びは異常になり、地上線であった秋葉原貨物線は踏切渋滞を起こし、行き詰まりが明白になった。

【秋葉原駅:1937(昭和12)年頃】
台東区アーカイブ蔵・大東京区分図三十五区之内下谷区詳細図植野録夫著昭和12年(1937)1月15日(一部切り取り)
・1923(大正12)年の関東大震災で、秋葉原貨物駅も大きな被害を受けたが、この災害が、上野−東京間高架線の建設促進になった。
・1925(大正14)年、上野〜神田間が高架で開通すると、中間にある秋葉原駅は旅客営業も開始した。しかし、貨物線は引き続き地上を走ることになった。
・1928(昭和3)年、貨物設備の一部が高架化されたが、貨物量の減少は続いていった。
・1932(昭和7)年には総武本線御茶ノ水−両国間が開通し、三層立体構造の高架駅となった。
・1975(昭和50)年、同駅での貨物取扱いは廃止された。
・2005年(平成17)年つくばエクスプレスが開業した
【神田川と旧堀割地点(佐久間橋児童遊園)(1)】
後ろに見えるビルは「千代田区和泉橋出張所」、丁度、この幅で、秋葉原貨物駅と神田川を繋ぐ堀割があった。

【神田佐久間町一丁目名称由来】
「佐久間町」の町名は、かつて佐久間平八という材木商が住んでいたことに由来するとされている。この辺は、あまりに多くの材木問屋が集まっていたため、神田材木町という通称で呼ばれていたという。町内には、薪や炭を扱う業者も多かったという。とくに幕末から明治にかけては活発な取引がおこなわれたようで、この町における炭の相場の変動が、東京全体の炭の価格に影響していたと伝えられている。(千代田区)

【佐久間橋跡(2)】
神田川を渡り、秋葉原駅前南通を越えると、 千代田区立秋葉原公園がある。この公園は堀割跡に造られており、堀割を跨ぐように佐久間橋があり、親柱が二つ残っている(赤の矢印)。

【堀割跡と総武線高架橋(3)】
総武線の北側に見えるのは「ヨドバシカメラ マルチメディアAkiba」。正面に見える緑の高架橋部分が堀割部分にあたる。

【秋葉原、ヨドバシカメラ マルチメディアAkiba(4)】
ヨドバシカメラ マルチメディアAkibaとこの広場は火除地の一部であり、この広場の中央には堀割があった。

【堀割中心部から旧練塀小路(5)を行く】
進入禁止の標識の位置に上野からの貨物線が入ってきたようだ。

【発掘された石垣の展示:秋葉原UDXの北東角(6)】
発掘された石垣の一部は、秋葉原UDXの築堤石垣とモニュメント使われているようだ。

【1657(明暦3)頃の地図:展示物を拡大】
明暦の大火(1657)の直前頃の地図と思われる。筋違門、中山道、下谷御成道が描かれ、前田屋敷(松平加賀)もまだここにある。説明板では、大名屋敷の石垣との説明がされているが、大名屋敷が移転した後の旗本屋敷跡のように見える。

【神田青果市場跡地(6)】
神田青果市場は、江戸時代の1612(慶長17)年、神田多町に設けられたが、1928(昭和3)年、この地に移転してきた。この秋葉原の地は、東北地方からの貨物(上野駅)、房総からの貨物を鉄道・舟運での取扱に便利であったことによるという。しかし、ここも手狭になり、1989(平成1)年大田区に移転していった。その跡地は、秋葉原ダイビル、秋葉原UDX、神田消防署となっている。

【神田山本町代地周辺、東都下谷絵図1862年(文久2年)】
東都下谷絵図をさらに拡大、将来、神田青果市場となる部分を赤枠で示した。

【花房稲荷神社(7)】
「神田田代町」と「花房稲荷神社」
1793(寛政5)年、湯島の無縁坂から出火した大火で神田川周辺にあった町が類焼し、町の一部が火除地となった。翌年、そこに住んでいた人々が、御成道の旗本永井伊織の屋敷跡を代地として与えられて移転してきた。そのため、この一帯は神田須田町二丁目代地、小柳町三丁目代地、神田松下町一丁目代地、神田花房町代地などと呼ばれる町になった。1872(明治5)年、このあたりが俗に「神田代地」と呼ばれていたことから、「田代町」と名づけられた。1947年からは「神田田代町」と改称され、1964年には「外神田4丁目」になった。
町内の路地裏には「花房稲荷神社」があるが、現在の社は戦後、地元住民が再建したもので、神社そのものは江戸時代からこの地にあったとされ、古くから地域のシンボルとして人々に親しまれている。(千代田区町名由来板より抜粋)

【練塀小路(8)その後】
練塀とは、瓦と練土を交互に積みあげ、上を瓦で葺いた土塀のこと。瓦と土の織りなす縞模様が美しい塀で、関東ではとくに武士たちに好まれていた。江戸時代のこの界隈は、練塀が一帯に広がる武家地で、ことに南北に神田から下谷まで通じる道には、立派な練塀の屋敷が多かったため、「下谷練塀小路」と呼ばれていた。
1890年に火除地に秋葉原貨物駅が出来ると、練塀小路から西側は線路敷になり、近年、旅客専用駅になって線路敷きの半分は回復した。練塀小路の下には、つくばエクスプレスが走っている。

【千代田区神田練塀町と台東区立秋葉原練塀公園(9)】
練塀町という正式な町名になったのは、1872(明治5)年のこと。1878年に全体が下谷区練塀町になったが、1943年には下谷区練塀町(北側)と神田区練塀町(南側)に分かれてしまう。北側は、1964年松永町と共に台東区秋葉原になり、南側は1947年から千代田区神田練塀町のままとなる。
【練塀】
左の写真は、現在の湯島聖堂、周りを練塀で囲まれている。
この練塀は、昭和の終わり頃、改修工事が行われたので、江戸期のものとは多少違っているものと思われる。


下谷御成道から上野新黒門町(西黒門町)へ

【大名屋敷その後】
東都下谷絵図(台東区デジタルアーカイブより)
  • [五軒町]江戸時代、この界隈には、上総久留里藩黒田家上屋敷、下野黒羽藩大関家上屋敷、安房勝山藩酒井家上屋敷、播磨林田藩建部家上屋敷、信濃上田藩松平家下屋敷と、五つの大名屋敷が並んでいた。「五軒町」と呼ばれていたのはそのため。1964(昭和39)年、外神田六丁目に編入となり消滅。
  • 外神田六丁目に大名屋敷の痕跡を探すのは困難。

【千代田区旧五軒町と台東区旧西黒門町】
  • 1626(寛永3)年、東叡山寛永寺の創建の翌年、寛永寺の門前町として御成道の両側に「上野新黒門町」が造られた。
  • 1869(明治2)年、上野新黒門町は御成道で東西に分けられ、「上野東黒門町」と「上野西黒門町」として発足。
  • 1872年、「上野西黒門町」は石川邸と周りの武家地を合併して町域が拡大し、1911年には「西黒門町」と改称。1964年には住居表示に伴い「上野一丁目」となる。
  • 町内に存在する「箭弓稲荷神社」は、石川邸の邸内社であった。

【可否茶館跡地】
(明治21年)下谷区西黒門町二番地
(現在)台東区上野1-1、ローソン上野中央店前

【可否茶館跡地】
以下、現地解説版(新聞記事)そのまま
《遠からん者は鉄道馬車に乗ツて来たまへ近くは鳥渡寄ツて一杯を喫したまへ抑下谷西黒門町二番地(警察署)隣へ新築せし可否茶館と云ツパ広く欧米の華麗に我国の優美を加減し此処に商ふ珈琲の美味なる思はず鰓を置き忘れん事疑ひ無し館中別に文房室更衣室あるは内外の遊戯場を整へマツタ内外の新聞雑誌縦覧勝手次第にて其価の廉なる只よりも安し咲き揃ふ花は上野か浅草へ歩を運ばせらるゝ紳士貴女幸に来臨を辱ふして当館の可否を品評し給へかしと館主に代りて鶯里の思案外史敬で白す》定価カヒー一碗壹銭半同牛乳入金貮銭

【箭弓稲荷神社(やきゅういなりじんじゃ)】
掲示された縁起によると「石川主殿頭成行の屋敷神であったが、徳川家光より銀杏を下賜されたことを機に[銀杏稲荷]と称された。明治に入り、埼玉県東松山市にある箭弓稲荷神社の分霊を勧請した。関東大震災で、社殿・ご神木は焼失した。焼け残ったご神木で[ご神体]を彫刻し、残った木で社殿を造った。」とある。現在、社殿前に二本の銀杏があるが、震災後に植えたものらしい。

【石川日向守上屋敷跡】
御成道に沿って伊勢亀山藩石川家の屋敷など様々な大名屋敷があった。池波正太郎は、この辺を舞台として、「鬼平犯科帳」「雲霧仁左衛門」「その男」などの物語を描いている。
「鬼平犯科帳」では、石川家屋敷の塀外が舞台となった。「火付盗賊改方の密偵・伊三次が盗賊・強矢の伊佐蔵に刺され瀕死の重傷を負います。石川家屋敷内の足軽長屋に担ぎ込まれた伊三次は、「狗」と蔑まれる密偵の翳りは少しもなく、長谷川平蔵が深く信頼していた男でした。平蔵は枕頭に詰めて回復を願いましたが、虚しく息絶えます。」(台東区案内板より)
【松坂屋上野店】
・1611年(慶長16年)、織田信長の家臣であった伊藤蘭丸祐道が、名古屋に移り、呉服小間物商「伊藤屋」を創業した。
・1768年(明和5年)、江戸に進出し、上野の松坂屋を買収して屋号をいとう松坂屋と改めた。寛永寺や尾張徳川家、加賀前田家の御用を承る大店として知られた。
・1868年(慶応4年)、彰義隊と官軍による上野戦争が起こり、上野店は、大村益次郎率いる官軍の本営になった。
また、新選組の土方歳三は、これより20年ほど前に、上野店で丁稚奉公をしていたという。
(左は、大正期の松坂屋:関東大震災で焼失)



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