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歴史散歩:大久保−戸山を歩く


2023年11月6日(月)
錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、歴史散歩。
  • 江戸幕府開府以後、大久保村西側(ほぼ百人町1〜4丁目)は鉄砲隊百人組の給地、大久保村東側(ほぼ大久保町1〜3丁目)は鉄砲玉薬組の給地となった。鉄砲隊百人組の内職として始められた「つつじ栽培」は幕末にかけて、盛んになり、明治末には「つつじ園」が最盛期を迎えたが宅地化と共に消えていった。
  • その後、大久保地区には小泉八雲、島崎藤村、鈴木三重吉などの作家が住むようになる。現代になっても、鉄砲隊由来の百人町・大久保町の細長い地割りは変わっていないが、大久保通りはコリアンタウンになりつつある。
  • 江戸期以前から、西武新宿駅周辺の湧水を集めた蟹川は東大久保、戸山、早稲田を経て神田川に流れ込んでいた。その流路跡は「花道通り、文化センター通り」にほぼ一致するが、蟹川が削った低地は「大窪」すなわち「大久保」の地名由来であると言われる。
  • 蟹川の流れを利用して、尾張徳川家下屋敷・戸山荘が作られた。その時代の名残は人工の築山「箱根山」に見ることができるが、維新後、戸山荘跡は陸軍施設となり、現在は戸山公園となっている。近年、早稲田大学学生会館建設に伴い、「戸山荘・龍門の滝」の遺構が発見された。

鉄砲組百人隊(大久保組)から「つつじのさと」へ

【つつじのさと大久保】
つつじのさと大久保Vol2(大久保地区協議会文書)より転載
鉄炮組百人隊の給地(大縄地)は上図の橙色の地域、ほぼ、百人町(1〜4丁目)に重なる。現在においても、細長い地割りはそのまま残されている。
【大久保村の鉄砲隊とつつじ栽培】
鉄炮組百人隊:一組につき与力二十五騎、百人の同心からなり、それが四組(大久保組、青山組、根来組、甲賀組)あり、交代で江戸城の警備、将軍の身辺警護を行った。
大久保組の住む、大久保地区は江戸の警備上重要な場所であったので、敵が入りにくく守りやすいように狭い間口で奥行きの長い武家屋敷を作って定住した。
鉄炮組百人隊の勤務は楽であったが、俸給は安かった。その為、内職は公然と認められていて、それが、百人町のつつじ栽培の隆盛に繋がった。


※鉄砲玉薬組:鉄砲の調達・修理、火薬の調合・製造などが仕事、幕末期には繁忙を極め出世するものも多かったという。
鉄砲玉薬組の給地は、左図の「黄色」の地域、ほぼ大久保町(1〜3丁目)に重なる。

【JR中央線ガード下−大久保通り−に描かれた壁画】
鉄砲百人組とつつじが描かれている。
【つつじのさと(大久保地区)の変遷】
  • 1603  江戸幕府開府
  • 1750頃 つつじ栽培始まる
  • 1830頃 江戸大久保つつじ全盛
  • 1868頃 つつじの衰退
  • 1873  つつじ園再興始まる
  • 1883  つつじ園開設
  • 1885  山手線開設
  • 1889  中央線開設
  • 1895  大久保駅開業
  • 1899  明治天皇行幸、つつじ園最盛期
  • 1914  新大久保駅開業
  • ……  宅地化が進みつつじ園相次いで閉鎖  
つつじのさと大久保Vol2(大久保地区協議会文書)より転載

【新宿の花 つつじ 説明板、つつじの里児童遊園内】

【大久保つつじの説明板、つつじの里児童遊園内】

【百人町路地】
細長い路地が特徴の百人町の中心部に皆中稲荷神社はある。

【皆中稲荷神社】
ある鉄砲組隊士が稲荷の霊夢により百発百中の腕前に上達したことが「皆中稲荷神社」の由来。皆中は「みなあたる」の意味がある。
「鉄砲組百人隊行列(出陣の儀)」とは、皆中稲荷神社の例大祭で隔年(平成は奇数年)に開催される行事で、江戸時代に現在の百人町一帯に屋敷を与えられていた幕府鉄砲組百人隊が、神社に奉納したと伝えられる出陣式を再現したもの。
(新宿区教育委員会案内板要約)

【明治天皇歌碑1899年、皆中稲荷神社内】
「まがねしく 道のひらけて つつじ見に ゆく人おほし 大久保の里」
「まがねしく」とは「鉄道線路が敷かれて」という意味。
(つつじのさと大久保No.2より)
1889年には中央線が、1895年には大久保駅が開業している。山手線は開通しているが新大久保駅が出来るのは大正に入ってから。

【百人町路地】


作家が住んだ大久保

【小泉八雲(Patrick Lafcadio Hearn)、1889年頃】
(写真はウイキペディアより転載)
嘉永3年(1850)ギリシャのレフカダ島に生まれた。明治23年(1890)アメリカの新聞記者として来日、その後、記者をやめ小泉セツと結婚、松江・熊本で教鞭をとった。
明治29年(1896)日本に帰化し、以来、日本帝国大学、早稲田大学で英文学を講じながら「怪談」等幾多の英文による名作を執筆した。明治35年(1902)市谷冨久町からこの地大久保に居を移した。

【小泉八雲邸、現新宿区立大久保小学校】
明治37年(1904)9月26日妻子の身を案じ自分の仕事を気にしながら「ああ 病気のため...」の悲壮な一語を残し帰らぬ人となった、時に54歳であった。
伝統的な日本文化を広く欧米に紹介した彼の功労に対し、大正4年(1915)日本政府は従四位を追贈した。(昭和61年新宿区長山本克忠碑文より)

【小泉八雲記念公園】

【小泉八雲像】
「耳無芳一の話」の原文
THE STORY OF MIMI-NASHI-HOICHI  Lafcadio Hearn
Some centuries ago there lived at Akamagaseki a blind man named Hoichi, who was famed for his skill in recitation and in playing upon the biwa. From childhood he had been trained to recite and to play; and while yet a lad he had surpassed his teachers. As a professional biwa-hoshi he became famous chiefly by his recitations of the history of the Heike and the Genji; and it is said that when he sang the song of the battle of Dan-no-ura "even the goblins (kijin) could not refrain from tears." 
(ルイジアナ大学サイトより)
「「耳無芳一の話」の和訳
耳無芳一の話 小泉八雲
幾百年か以前の事、この赤間ヶ関に芳一という盲人が住んでいたが、この男は吟誦して、琵琶を奏するに妙を得ているので世に聞えていた。子供の時から吟誦し、かつ弾奏する訓練を受けていたのであるが、まだ少年の頃から、師匠達を凌駕していた。本職の琵琶法師としてこの男は重もに、平家及び源氏の物語を吟誦するので有名になった、そして壇ノ浦の戦の歌を謡うと鬼神すらも涙をとどめ得なかったという事である。
(戸川明三訳 青空文庫)

【島崎藤村】
詩人・小説家の島崎藤村(1872〜1943)は、馬籠(長野県)の生まれ。明治学院を卒業後、明治26年(1893)『文学界』の創刊に参加。明治30年(1897)の『若葉集』にはじまる四詩集で詩人としての地位を確立した。
明治38年(1905)34歳の時、家族を連れて長野県小諸から上京し、豊多摩郡大久保村大字西大久保405番地の植木職・坂本定吉邸内の貸家に入居した。藤村がこの地に住んだのは、明治学院の学友で角筈に住んでいた画家・三宅克己の世話になったもの。

【島崎藤村が『破戒』を書き上げた旧居跡】

間もなく引き続く不幸が重なり、とうとう大久保の住居も見捨て、今度は賑やかな粋な柳橋の芸者屋街に移転した。当時の藤村は非常に困窮しており、この地で書き上げた『破戒』を明治39年(1906)3月に自費出版し、世に認められるようになったが、栄養失調のためか三人の娘を次々に失い、妻も視力を失うなど、藤村にとっては辛い思い出の残る地となった。明治39年9月に浅草新片町に転居した。
(新宿区案内板、ウエブサイトより)

【児童文学作家・鈴木三重吉終焉の地、「赤い鳥」社跡】
新宿区歌舞伎町2-23-12のチェックメイトビルに「鈴木三重吉の終焉の地」

小説家・児童文学作家の鈴木三重吉(1882-1936)が、昭和4年(1929)から昭和11年(1936)6月27日に亡くなるまで暮らした住居の跡であり、児童文芸雑誌『赤い鳥』の編集・出版を行った「赤い鳥」社の跡である。
明治15年(1882)に広島市猿楽町に生まれた三重吉は、中学校在学中より創作活動を行った。東京帝国大学英文科で夏目漱石に師事し、生涯の師と慕った。
大正7年(1918)に『赤い鳥』を創刊し「芸術として真価のある綺麗な童話と童謡を創作する、最初の運動」として位置付けた。
右へ続く(→)

(→)左より
『赤い鳥』には、芥川龍之介・北原白秋・島崎藤村らの作品が寄せられ、坪田譲治・新美南吉ら新たな児童文学作家を世に送り出した。『赤い鳥』は18年間にわたり計196冊を刊行し、学校や地方の青年会などで輪読され多くの青少年に影響を与えた。『赤い鳥』は、日本の近代児童文学の出発点であり、その後の礎となる記念すべき雑誌である。
(新宿区案内板、ウエブサイトより)
【主な掲載作品】
1918年 西條八十(作詞)かなりや
1924年 北原白秋(作詞)からたちの花
1926年 北原白秋(作詞)この道
1918年 芥川龍之介(物語)蜘蛛の糸
1920年 芥川龍之介(物語)杜子春
1932年 新美南吉(物語)ごん狐
1920年 有島武郎(物語)一房の葡萄


蟹川は台地を削って窪地を作った

【大久保、戸山を流れた蟹川流路跡】
【蟹川の流れは台地を削りながら神田川へ注いでいた】
(カシミール3D 地理院地図+スーパー地形)
西武新宿駅周辺の湧水を集めた蟹川は東大久保→戸山→早稲田を経て神田川に流れ込んでいた。幕末・明治になっても、流れはあったようだが、その湿地帯は「新田」として開発された模様。
蟹川の流路跡は、東大久保・歌舞伎町地区では、「花道通り」、明治通りを越すと、「文化センター通り」にほぼ一致する。

蟹川が削った低地は「大窪」すなわち「大久保」の地名由来であると言われる。

【蟹川流路跡:新宿六丁目交差点】
明治通りと蟹川流路跡が交差する、新宿六丁目交差点。
(左の建物は日清食品本社ビル)

【蟹川流路跡:文化センター通り】
正面の茶色のビルが新宿文化センター、1926-1970までは都電大久保車庫だった。

【蟹川流路跡:文化センター通り】

【蟹川流路跡:文化センター通り】
この辺から、文化センター通りは坂になり、大通り(職安通り)に合流する。さらに左側の道を辿れば、蟹川流路跡になるはだが、ビルが行く手を阻んでいる。。

【東大久保村の田畑を流れる蟹川】
(府内場末其外往還沿革図書 東西大久保村 1852-1853年調べ 国会図書館蔵)青文字は筆者の書き込み。
  • 久左衛門坂、梯子坂、椎木坂もイメージ通りに、低地に下りる様子がわかる
  • 昭和になって、椎木坂の北側に大久保通りが、久左衛門坂の南側に職安通りが開通した。椎木坂、久左衛門坂は古道の名残として見ることができる。

【久左衛門坂】
(右の坂)この坂は,徳川家康の江戸入府以前から大久保に居住していた島田家の草創久左衛門が新しく開いた坂道であったため、こう呼ばれるようになった。(新宿区教育委員会)

【久左衛門坂の終点】
江戸期には、坂を下りきると、低湿地で水田が開けていたはずだ。蟹川を渡る橋があったはずだが、痕跡はない。

【梯子坂】
坂上には「坂道が急で、あたかも梯子を登るようであったため、梯子坂となずけた」とある。

【梯子坂下】
この地域には、久左衛門坂、梯子坂というような急坂がいくつかある。いずれも蟹川が削った低湿地と思われる。

【蟹川流路跡】

【蟹川流路跡】

【椎木坂下】
左右の道が「椎木坂」、ここから先が尾張藩戸山屋敷になる。蟹川は、この先「戸山荘庭園の池」に注ぐことになる。
※正面、小高い所に車が見えるが、この道は大久保通り、谷間を跨ぐように昭和になって作られた。

【椎木坂】
かつて尾張藩戸山屋敷の内に椎の大木があり、この坂道を覆っていたため、椎の木坂の名がついた。また、古くはこの辺りが砂利取り場で、東西に上る二つの坂があったことから向坂とも呼ばれた(新撰東京名所図会)
※右の道路は大久保通り

【蟹川流路跡】
大久保通りから蟹川流路跡を見たところ。

【蟹川流路跡】
同じ位置で、大久保通りをはさんで反対側を見たところ。


尾張徳川家下屋敷・戸山荘跡(現戸山公園)

【現在の戸山公園周辺】
大窪(大久保)の低地を作った蟹川(水色の線)は、上図1の地点から、尾張藩戸山屋敷に入り、戸山荘という広大な庭園の一部となった。蟹川は、龍門の滝(早稲田大学内)から戸山荘を抜け、大隈庭園を通過して神田川に注いでいた。
戸山荘の現在見られる痕跡を探すと、
・箱根山
・龍門の滝跡(早稲田大学学生会館)
・赤丸2の戸山荘の外郭の一部
痕跡ではないが、赤丸1は蟹川の戸山荘への流入口(推定地)
※水色の線は、明治末期の地図(1896-1909)に書かれた水路を筆者が書き入れた。

【尾張大納言下屋敷戸山荘】国会図書館蔵
戸山荘は、尾張徳川家の下屋敷で、二代藩主の徳川光友の時代1669年頃造営が始まった。当初は4万6千坪であったが、次々に土地を取得し、最終的に約13万6千坪という広大なものになった。光友が逝去した後は荒廃したが、九代藩主宗睦の時代に、将軍家斉を迎えるために再興した。(東京都パンフより)

その後、幕末・明治維新にかけて、再び荒廃したが、1874年から陸軍用地となり、戸山学校・射爆場として使用された。第二次大戦後には、戸山ハイツ・戸山アパートなど住宅が建てられ、1954年に都立戸山公園となった。

【新宿区立東戸山小学校】
大久保通りを横断して、見たところ。

【戸山荘・称徳場跡】
余慶堂の庭先にあった馬場に名付けられたもので、長さは約132mあり、中央に土手を作り、馬を追い回すように出来ていた。

【戸山荘箱根山】
元々は、江戸時代の尾張藩徳川家の下屋敷時代に回遊式庭園「戸山荘」として整備された際に、池を掘った残土を積み上げ固めて造成された築山「玉円峰」と伝えられている。この地が陸軍戸山学校用地となった頃から「函根山」「箱根山」と呼ばれるようになった。山手線内において一番標高が高い人造の山(築山)である。山頂にある水準点の標高は44.6メートルである。(東京都)

【戸山荘箱根山山頂】

【陸軍戸山学校跡】
・1873年、旧尾張藩下屋敷跡に陸軍兵学寮戸山出張所が設置され、上下士官の訓練事務を始めた。
・1874年、陸軍戸山学校と改称、射撃、銃剣術、体操、攻守戦法、操練、諸勤務、喇叭を教授した。
・第二次大戦後、旧近衛連隊の建物は、女子学習院校舎として、将校集会所は戸山教会・戸山幼稚園として使われている。

【将校集会所跡、戸山教会・戸山幼稚園】
将校集会所跡は、戸山教会・戸山幼稚園の基礎部分となっているようですね。

【将校集会所跡、戸山教会・戸山幼稚園】
こちらの窓は、完全に塗り潰されています。

【陸軍戸山学校軍楽隊、野外演奏場址】
1888 年、馬場先門外の第一軍楽隊等を1891年に戸山学校内へ移転したのが、のちの陸軍を代表する軍楽隊、陸軍戸山学校軍楽隊の嚆矢となる。
太平洋戦争末期には、東京音楽学校の優秀な在学生が入隊し、それが、結果的に最後の卒業生となった。その中に、芥川也寸志、團伊玖磨、斎藤高順、奥村一がいたが、戦後、音楽界で活躍した。

【戸山荘・茯苓坂跡】
御殿方向へ続く坂道で、左右に町屋風の茶屋などが並び、そばには古くから此の地の鎮守である和田戸明神があった。また、「茯苓」とは松の根に寄生する薬用のキノコを指しており、このキノコが採れたことからこの名がついた。(東京都)

【戸山荘・養老泉跡】
1687年に完成した園内名物の井戸であり、井筒は大きな紫色の石を掘りぬいたもので、そこから常に清らかな水が湧き出ていたと伝えられている。

【養老泉の図】
「尾張家外山御庭絵巻物」から「養老泉」部分をキャプチャー。(江戸期の原画・模写図は以下の通り)
尾張家外山御庭絵巻物 / 源和鼎 [編]
成島 竜洲, 1720-1808
竹口歌右衛門(写), 寛政11[1799]
(早稲田大学図書館古典籍総合データベース)

【都立戸山公園早稲田口】
尾張藩戸山荘は、現在、東戸山小学校、都営アパート、戸山高校、学習院女子大学、国際医療研究センターなどになっており、江戸期の名残は、「箱根山」のみとなっている。
しかし、その外側にも、重要な名残があるようだ。

【早稲田大学学生会館、龍門の滝遺構】
蟹川の流れを辿り、都立戸山公園早稲田口を出て、箱根山通りを横断すると、早稲田大学学生会館に入る。

1998年に早稲田大学の敷地内で江戸時代の大規模な石組みが見つかった。早稲田大学と新宿区教育委員会による発掘調査の結果、戸山屋敷にあった龍門の瀧の遺構であることが確認された。

【龍門の滝遺構、早稲田大学学生会館内】
学生会館受付で、「卒業生です、龍門の滝遺構を見学したい」と言ったら、展示場所まで案内してくれた。
吹き抜けのテラスに案内板と「発掘された石の一部」が展示してあった。

【龍門の滝、石組みの一部】
発掘された花崗岩の巨石(約360個、約250トン)は名古屋市徳川園に譲渡され、滝として再現されているようだ。ここには、その一部が記念として残されている。
ここは、現在、吹き抜けのテラス席、学生の喫煙場所として使われている。
私が学生だったころは、ここは運動場、「龍門の滝」の遺跡の上で、体育の単位をとっていたことになる。

【龍門の滝絵図】
「尾張家外山御庭絵巻物」から「龍門の滝」部分をキャプチャー。(江戸期の原画・模写図は以下の通り)
尾張家外山御庭絵巻物 / 源和鼎 [編]
成島 竜洲, 1720-1808
竹口歌右衛門(写), 寛政11[1799]
(早稲田大学図書館古典籍総合データベース)

【戸山荘外環道路の名残】
尾張大納言下屋敷戸山荘、赤丸2に相当する路地。
この路地と絵図を比較すると、戸山荘の範囲は、「早稲田大学学生会館」止まりと思われる。






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