歴史散歩 トップ>Walking-Ryogoku | |
Internet Walk トップ>Walking-Ryogoku |
歴史散歩:旧本所地区(法恩寺−北斎通り−両国)を歩く
2019年10月29日(火) 錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、歴史散歩。
|
|
国土地理院地図2500[ブラウザ:カシミール]に、主な地名・旧跡を書き加えた。 |
大横川(法恩寺と旧清水町) | |
【上野にあった頃(1680年頃)の法恩寺1】 江戸方角安見図鑑 2巻. [1]-40谷中(国会図書館蔵) 1680年は徳川家綱が薨去し、徳川綱吉が将軍になる変わり目の年。上野東照宮は1627年創建ですが、現存する社殿は1651年徳川家光によって建立されたもの。1657年には、江戸は明暦の大火に見舞われますが、上野東照宮は無事でした。上野東照宮の背後を火除地とするため、清水町は本所への移転を命じられました。この1680年時点では、図では「清水町跡地」となっています。 その後、清水谷→寛永寺寺域→上野動物園敷地となります。 (右へ続く→) |
【上野にあった頃(1680年頃)の法恩寺2】 江戸方角安見図鑑 2巻. [1]-39東叡山(国会図書館蔵) (→左より) さらに寛永寺側の事情を見ると、大猷院霊廟や厳有院霊廟を造立したため、寺域を広げ寛永寺子院を移転させる必要が生まれました。このような事情から、清水谷を取り込み、法恩寺も本所へ移転させる(1695年)ことになったと思われます。移転先が、すでに移転した清水町の近所でしたが。 その後、法恩寺寺域→護国院寺域→都立上野高校敷地となります。 |
【江戸切絵図 本所絵図 国会図書館蔵】 法恩寺、能勢妙見別院、清水町 |
【江戸名所図会、法恩寺】 |
【平河山法恩寺は太田道灌が開いた】 寺伝によれば、古来法恩寺は平河村(後の江戸城平川口付近にあった村)にあった小さな草庵で、1457年に太田道灌の助成により一寺造営を果たした。当初は道灌が帰依した学徳兼備の住職、日住上人の院号をとって本住院と号したが1524年に法恩寺に改めたと伝えられている。寺号は道灌の子資康の法号「法恩斉日恵」にちなんだもので、資康の子資高が父の追善供養のため堂塔を再建したのが改号の機縁になったとされている。そして、1605年頃に神田柳原へ移転し、1649年頃には再び所在を変えて谷中の清水坂に落ち着いた。また、1689年には幕府の命により当地に移転し、以後は20もの塔頭をを擁する寺院として栄えることになった。 (墨田区教育委員会、法恩寺 第56世 日元代) |
【法恩寺参道】 当地を太平町と称するのは、太田道灌の「太」と平河山の「平」を合わせたものである。大正大震災、昭和20年3月10日の戦災に遭遇、二度焼失、昭和29年10月現在の堂宇が建立された。 上野から本所に移転した時期:寺の掲示では1695年、墨田区の掲示では1688年である。 (墨田区案内板と法恩寺掲示板より) |
【法恩寺門前】 東京スカイツリーを見ながら参道を進むと、「太田桔梗」の家紋のついた案内板が出迎える。特に「ご自由に御参拝下さい」という言葉は、ホット一息つくことが出来ます。 |
【平川清水稲荷】 当山開基太田道灌公築城の江戸城内に平川と言はるる清流あって人呼んで小川の清水といい道灌公もこれを愛でて 武蔵野の 小川の清水絶えやらで 岸のねせりを洗いこそすれ と詠まれている 当時その小川の畔 本住院(当時の旧称)の側に稲荷の祠が祀られていて 平川清水稲荷を称えられていた 現在法恩寺境内にその碑柱が伝わって由緒を物語っている。 (境内の平川清水稲荷縁起) |
【太田氏七代供養塔】 地輪に太田資清、資長(道灌)、資康、資高、康資、重正、資宗(初代浜松藩主)ら太田氏七代の法号と忌日が刻まれている。既存の五輪塔を転用したものと思われる。 太田氏は元来、太田道灌開基の法恩寺を菩提寺としていたが、子資康の代に北条氏との関係をめぐって住持と対立、菩提寺を本行寺に変更した。その後、対立は解消した模様だが、太田氏は法恩寺に帰ってこなかった。後世になって、太田氏との歴史的継続性を重視した法恩寺は、太田氏七代供養塔を設けたものと考えられている。 (墨田区教育委員会案内板を要約) ※本行寺は1525年に太田資高を開基として創立され、以来太田氏の菩提寺となっていた。江戸時代には遠州掛川藩5万石を拝領した太田家とその一族の墓所となった。 (荒川区教育委員会案内板) 本行寺は江戸城内平川口に建立、神田、谷中を経て、1709年より現地(荒川区西日暮里)に落ち着く。当初は、法恩寺の塔頭であった。 |
|
【能勢妙見山とは】 750年頃、行基菩薩が為楽山山頂に北辰星(北極星)を祀る。 986年、清和源氏の源(多田)満仲公は厚い妙見信仰を持っており、邸宅内にお祀りしていた鎮宅霊符神像(妙見大菩薩像の別称)を当地へ遷座された。 1028〜1037年、その末裔がこの地に移住し、能勢氏を名のる。 戦国末期、多田満仲から数えて22代目能勢頼通は織田信長に逆らって落命、弟能勢頼次は本能寺の変で明智光秀に味方し、備前の国岡山の城下へ落ち延る。 1600年、関ヶ原の戦いで能勢頼次は徳川軍として大きい戦功を立てて、家康からかつての能勢氏の領地を与えられる。 [能勢妙見山と能勢頼次] 頼次は、日蓮宗日乾上人に帰依し、眞如寺を寄進する。日乾上人は能勢氏の家鎮として古くから祀られてきた妙見大菩薩を法華勧請し法華経のご守護神とし、さらに武運長久を願って武具甲冑を身につけ剣を手にした妙見大菩薩像を日乾上人自ら彫刻して授与し、これを能勢の領地が一望できる為楽山の山頂(大空寺趾)に祀った。これ以後、為楽山は妙見山と称されるようになった。 |
【能勢妙見山別院】 能勢妙見山の東京別院は正式名称を「妙見山別院」といい、能勢頼直の代に江戸の下町本所に下屋敷を賜ったため、1774年屋敷内に堂宇を建立し妙見大菩薩の分体をお祀りしたのが始まり。妙見尊像は関東大震災や第二次世界大戦の厄をまぬがれた。 [妙見菩薩]インドに発祥した菩薩信仰が、中国で道教の北極星(北辰)信仰と習合し、北極星(北辰)を神格化して、これを「北辰菩薩」と称した。次第に、善悪や真理をよく見通す者という意味で「妙見菩薩」と称するようになった。(ウイキペディア) [千葉氏と妙見信仰] 千葉氏は妙見菩薩を守護神としたが、その教えは「北辰一刀流」 を創始した千葉周作にも受け継がれた。 北辰一刀流兵法の巻物には、北極星と北斗七星に直接関係のある技や教えが数多く記されている。(北辰一刀流ウエブサイト) [勝海舟、坂本龍馬、千葉佐那] また、勝小吉と勝海舟親子の熱烈な信仰を得ていたことで知られ、「龍馬伝」の龍馬伝紀行で龍馬と佐那がよく参拝に訪れた寺院としても紹介された。(能勢妙見山ウエブサイトより) |
【摂州能勢妙見本山案内】 |
【旧清水町】 もとは谷中清水坂の町屋で、1661年に東照宮の火除地となり、1662年、本所松代町の代地へ移ったが、1684年に本所経営中絶により退去した。1693年12月に本所長崎町の北に下付された代地に復帰した町地は、2,024坪余、家数は11軒(町方書上)。 (江戸町巡りより) 現在の上野動物園にあった「清水町」、都立上野高校にあった「法恩寺」共に、相前後して、本所の地に落ち着くことになった。 |
【大横川親水公園】 法恩寺橋から大横川親水公園へ下り、北斎通りまで歩く。 1657年明暦の大火後に、幕府は本所深川の本格的な開発に乗り出す。まず着手したのは、竪川、大横川、北十間川、横十間川などの運河と堀割の開削と両国橋の架橋であった。大横川は、本所地域を南北に貫通しており、近年まで舟運、材木の貯留など産業経済の発展に貢献してきた。 (右へ続く→) |
【大横川親水公園、榛の木】 (左より→)しかし、道路・鉄道の整備や経済環境の変化によって、かつての機能は失われ、1981年から大横川の埋め立てが進められた。その後、緑と清流を復活させ、豊かな自然を楽しめる憩いの空間づくりを基本に公園整備を行い、1993年に完成した。 横川という名前の由来は、江戸城に対して横の方向に流れていることからきている。その後、1965年施行の河川法により水系を一にしていた大島川とつなげて、大横川と呼ばれるようになった。 (墨田区案内板より抜粋) |
【清平橋】 大横川親水公園をまたぐ清平橋は、関東大震災の復興事業により1929年に架けられた。かつては川の西側(画面右方向)が清水町、東側(画面左方向)が太平町と呼ばれていたことから、両町名から一文字ずつ取って清平橋と名づけられた。架橋時は鋼橋だったが、老朽化が進行したため、架橋から82年が経過した2011年に、コンクリート橋に架け替えた。 (墨田区案内板より抜粋) 太平町という町名は健在だが、清水町という町名は既になく、現在では石原町4丁目。 |
【長崎橋モニュメント】 大横川親水公園を北斎通りまで進むと、「長崎橋のモニュメント」がある。この「長崎」という名称は、大横川西側にあった「長崎町」に由来する。(次のコマ、江戸切絵図 本所 南割り下水参照) ※「長崎町」は長崎出身者が多くいたので付いた名称、江戸初期には、中橋広小路の南側にあり、明暦の大火後、霊岩島に移り、その後、本所に落ち着いた経緯がある。 |
南割下水(北斎通り)に沿って | |
【江戸切絵図 本所 南割下水】 |
【大横川親水公園と北斎通りのクロス】 |
【北斎通りと南割下水跡】 堀割の一つが南割下水で、雨水を集めて川へ導くために開削されたもの。幅は一間(約1.8m)から二間足らずで、水も淀み、暗く寂しい場所でしたので、本所七不思議の「津軽屋敷の太鼓」「消えずの行灯」「足洗い屋敷」の舞台にもなった。昭和初期に埋め立てられたが、この付近で葛飾北斎が生まれたことから、今では「北斎通り」と名を変えている。また、このあたりには、三遊亭円朝や歌舞伎作者の河竹黙阿弥も住んでいた。(墨田区案内板より) |
【野見宿禰神社】 かつてこの東側に相撲の高砂部屋があった。1885年に親方の高砂浦五郎が、津軽家上屋敷の跡地であったこの地に、相撲の神様として知られる野見宿禰を祀ったのが、この神社の始まり。石垣の石柱には、力士や相撲関係者の名前が刻まれており、本場所前には必ず、相撲協会の神事が行われる。境内には、1952年に相撲協会によって建てられた歴代横綱石碑があり、その一基には、初代の明石志賀之助から四十六代朝潮太郎までの名前が、もう一基には四十七代柏戸剛以降の名前が刻まれている。(墨田区案内板より) |
【野見宿禰神社】 野見宿禰は、垂仁天皇、即位7年秋7月7日、垂仁天皇の命により当麻蹴速と角力(相撲)をとるために出雲国より召喚され、蹴速と互いに蹴り合った末にその腰を踏み折って勝ち、蹴速が持っていた大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を与えられるとともに、以後垂仁天皇に仕えた。 (ウイキペディア、日本書紀 より) ※奈良・平安時代には、宮中行事として7月7日に天覧相撲・相撲節会が行われるようになり、これが、現在の大相撲に繋がることになる。 |
【野見宿禰と当麻蹴速】 芳年武者无類 国会図書館蔵 左:当麻蹴速、右:野見宿禰 |
【歴代横綱の碑、野見宿禰神社】 第一代 明石志賀之助 〜 第四十六代 朝潮太郎 (日本相撲協会建立) ※初代横綱・明石志賀之助は江戸初期の宇都宮出身といわれるが確証はない、伝説上の人物である。 |
【歴代横綱の碑、野見宿禰神社】 第四十七代 柏戸剛 〜 (日本相撲協会建立) |
【すみだ北斎美術館前(津軽家上屋敷跡)】 [葛飾北斎生誕地] 1760年、本所南割下水(墨田区亀沢)に生まれた北斎は、浮世絵の役者絵を出発点として、狩野派、光琳派、大和絵など、さまざまな流派の技法を学び、新しい画風をどんどん確立させて、多くの名作を残した。 代表作『富嶽三十六景』は、1831年から1833年にかけて制作。とても70歳を過ぎてからの作品とは思えない。80歳を過ぎても創作意欲は衰えず、死の床に就いた1849年、「あと10年、いや5年でよいから生きさせてくれ、そうすれば真の画工になれる」といって息を引き取ったといわれている。常に新しい画法に取り組んできた北斎らしい臨終の言葉だった。(墨田区) |
【江川太郎左衛門屋敷前跡】 江川太郎左衛門は、伊豆韮山を本拠地とした幕府の世襲代官で、太郎左衛門とは江川家の代々の当主の通称。なかでも有名だったのが、三十六代の江川英龍(1801-55)。 彼は洋学の中でも、とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、日本に西洋砲術を普及し、韮山に反射炉を築いて、江戸防御のため江戸湾内に数ヶ所あった砲台(お台場)を造った。また、日本で初めてパンを焼いた人物だともいわれている。 この屋敷は代官の役所も兼ねていて、英龍は、土佐国中濱村の漁師で、嵐で遭難し、米国の捕鯨船に救われ、ほぼ10年振りに帰国した中濱萬次郎を敷地内の長屋に住まわせ、英語を講義させたといわれている。(墨田区) |
【陸奥弘前藩津軽家上屋敷表御門跡、墨田区緑2-16】 津軽家上屋敷は南北には[北斎通り]〜[京葉道路]まで及んでいた。(右へ続く→) |
(→左より)弘前藩は、弘前城に藩庁を置き、立藩当初より津軽氏の歴代当主が藩主をつとめました。津軽氏は初代為信を祖とする外様大名で、十二代にわたって津軽地方を支配した。その津軽氏が神田小川町にあった上屋敷を当地へ移したのは四代信政の時代(1691年)。上屋敷はその後、1717年に北側の幕府地を取り込み、その規模は約26000平方メートルになったという。上屋敷は明治を迎えた1871年まで当地に所在し続けた。表御門は実際には、京葉道路の中央付近にあったと考えられている。(墨田区案内板抜粋) |
両国地区 | |
【本所亀沢町、松坂町】 江戸切絵図 本所 国会図書館蔵 |
【榛稲荷神社、榛馬場跡】 この辺りには、榛馬場と呼ばれた馬場があった。本所に住む武士の弓馬の稽古のために設けられ、周りを囲む土手に大きな榛(カバノキ科の落葉高木)があったことから、そう呼ばれたようだ。勝海舟の父小吉の著書『夢酔独言』の中にも、子供の頃の回想として、榛馬場のことが出ている。馬場の傍らに祀られていたのが、この榛稲荷神社。葛飾北斎も娘のお栄といっしょに稲荷神社脇に住んでいたことがある。(墨田区) |
【伊藤宗印屋敷跡】 1879年に十一世名人を襲位した八代伊藤宗印がここに屋敷を構えていた。将棋でいう名人とは、将棋指しの家元の第一人者が名乗った称号。江戸時代には大橋家本家、大橋家分家、伊藤家の三家が持ち回りで世襲していた。 三家とも初めは本所に屋敷を構えたが、間もなく転居し、明治に入って宗印だけが戻ってきた。宗印はここで棋士の育成を始めた。後の名人関根金次郎もこの屋敷で腕を磨いた。さらにその関根に弟子入りしたのが本所生まれの名人木村義雄だった。木村はこの屋敷でめきめきと頭角を現わし、現在の将棋の隆盛を築き上げた。(墨田区) |
【勝海舟生誕地、両国公園内】 勝海舟は、1823年ここにあった男谷精一郎の屋敷で生まれた。父小吉は男谷忠恕(幕府勘定組頭)の三男で、1808年7歳の時勝元良に養子入りし、元良の娘のぶと結婚、男谷邸内に新居を構えた。海舟は7歳までの幼少期をこの地で過ごした。その後は、本所地内を転々とし、1830年旗本岡野融政の貸地に落ち着き、1846年赤坂に転居するまでそこで暮らした。1843年蘭学者永井青崖に師事し、1850年には「氷解塾」を開いて西洋兵学を教授し始めた。1855年には目付大久保忠寛の推挙で異国応接掛手附蘭書翻訳御用となり、1856年に講武所砲術師範役、1859年に軍艦操練所教授方頭取に就くなど、活躍の場を広げていった。1860年には日米修好通商条約の批准使節に随伴し、軍艦咸臨丸の艦長として太平洋横断に成功した。また、帰国後も軍艦操練所頭取や軍艦奉行を務めるなど政局の混迷の中重要な役割を担うことになった。1868年西郷隆盛との会見は徳川家の存続と徳川慶喜の助命、無血開城の実現に導き、維新期の混乱収拾に力を発揮した。維新後も新政府で高官に任ぜられたが、辞した後は、旧幕臣の名誉回復・経済支援に尽力した。1899年77歳で病没。(墨田区教育委員会) |
【竪川、二之橋】 1659年、竪川が開削されると五つの橋が架けられ、隅田川に近い方から一之橋、二之橋、三の橋、四之橋、五之橋と名付けられた。 一之橋を渡る通りは、(現)一の橋通り、一之橋は赤穂浪士が泉岳寺へ向かう際に通った橋として有名。二之橋を渡る通りは(現)清澄通り、五之橋を渡る通りは(現)明治通りである。 |
【本所・立川、富嶽三十六景 葛飾北斎】 富士山を描いた「富嶽三十六景」シリーズの一枚。北斎が70歳頃の版行。江戸時代、竪川の北側(旧相生町一丁目〜二丁目付近)には、その水運を活かした材木問屋が密集していた。北斎はそれら問屋と職人たち、木材の間から覗く富士山を描いた。(写真・文とも墨田区案内板より) |
【本因坊屋敷跡】 ここに本因坊屋敷があった。本因坊家は、囲碁の名門で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人に仕えた日海(一世本因坊算砂)を開祖とする家系で名棋手を輩出してきた。「本因坊」の名は、算砂が住職を務めた寂光時の塔頭の一つに由来している。もともとその拝領地は芝金杉にあったが、幕府に接収されたためその代地として1667年この場所が屋敷となった。江戸期を通じて、常に囲碁四家元(他に安井家、井上家、林家)の筆頭の地位にあり、道策・丈和・秀和・秀策などの棋手を生んでいる。特に江戸末期の秀策は、史上最強の棋士として「棋聖」と呼ばれた。現在は、実力制で争われるタイトル戦のさきがけとして名が残っている。(墨田区) |
【塩原太助炭屋跡】 ここに、塩原太助(1743〜1816)の炭屋があった。太助は、文化年間、当時の本所相生町二丁目に炭屋を開いた。 18歳で江戸に出、職を変えながら42歳で炭屋山口屋に奉公した。独立後、木炭の粉を丸くこね固めた炭団が当たり、「本所に過ぎたるもの二つあり、津軽屋敷に炭屋塩原」と謳われるほどの成功を収めた。名人と呼ばれた落語家三遊亭圓朝は、その人生を「塩原多助一代記」として作品化した。故郷、上野国(現在の群馬県みなかみ町)にいた頃の愛馬との悲しい別れや江戸での苦労の末に成功を収めていく姿に共感が集まり、その後も芝居や講談、浪曲などの数多くの題材となった。(墨田区) |
【塩原太助と愛馬あお別れの像】 塩原太助翁記念公園(塩原太助生家) (みなかみ町観光協会ウエブサイトより転載) |
【忠臣蔵 前原伊助宅跡】 この辺りに、前原伊助宅があった。伊助は、赤穂浪士四十七士の一人で、浅野家家臣前原自久の長男として生まれ、1676年に家督を継ぐ。金奉行として勤仕したため、商才に長けていた。浅野内匠頭の刃傷事件後は江戸急進派として単独で別行動を取った。初めは日本橋に住んでいたが、やがて吉良邸裏門近くの本所相生町二丁目に移り住み、「米屋五兵衛」と称して店を開業し、吉良家の動向を探った。その後、大石内蔵助と行動をともにした。 討ち入りの直前には、亡君の刃傷事件から討ち入りまでの経過を漢文体で克明に書き綴った「赤城盟伝」を著している。(墨田区案内板より) |
【吉良邸裏門跡】 吉良邸の裏門はこの辺りにあった。赤穂浪士討ち入りの際、裏門からは大石主税以下24名が門をたたき壊して侵入、寝込みを襲われ半睡状態に近い吉良家の家臣を次々と切り伏せた。吉良家にも何人か勇士がいたが、寝巻き姿では鎖帷子を着込み完全武装の赤穂浪士には到底敵わなかった。広大な屋敷の中で一時間余り続いた討ち入りは、壮絶なものであったが、吉良家側の死傷者が38名だったのに対し、赤穂浪士側は2名が軽い傷を負っただけであった。(墨田区案内板より) |
【吉良邸跡、本所松坂町公園】 吉良上野介義央の屋敷は広大で、東西73間、南北35間で、面積は2550坪(約8400平方メートル)だったとされている。吉良上野介が隠居したのは1701年3月の刃傷事件の数ヶ月後で、幕府は呉服橋門内にあった吉良の屋敷を召し上げ、代わりにこの本所二ツ目に屋敷を与えています。現在、吉良邸跡として残されている本所松坂町公園は、当時の八十六分の一の大きさに過ぎない。この公園内には、吉良上野介座像、邸内見取り図、土地寄付者リストなどの他、吉良上野介を祀った稲荷神社が残されている。(墨田区) |
【吉良上野介義央像】 この像は2010年建立され墨田区へ寄贈された。1690年頃吉良上野介50歳の時、自らが造らせたといわれている寄木造り(檜材)の座像(愛知県吉良町にある吉良家の菩提寺華蔵寺蔵)がモデルである。(公園内案内板より) |
回向院と両国広小路 | |
【京葉道路に面した回向院表門と旧国技館(大鉄傘)跡】 旧国技館は、1833年から回向院で相撲興行が行われていたことから、1909年に、その境内に建設された。建設費は28万円(現在の価格では75億円程度)であった。ドーム型の洋風建築で、収容人数は13000人。開館当時は両国元町常設館という名前であったが、翌年から国技館という呼び名が定着し、大鉄傘と愛称された。しかし、東京大空襲まで、三度の火災に見舞われるなど御難続きで、戦後は進駐軍に接収された。返還後は日大講堂として利用されていたが1983年に解体された。左手奥の両国シティコアビル中庭の円形は当時の土俵の位置を示している。 ※相撲興行は、戦後もGHQに接収されていた国技館で行われた。しかし、メモリアルホールと改称された後は本場所の開催が許されず、明治神宮外苑や浜町公園の仮設国技館での実施を経て、台東区に新設された蔵前国技館における興行に至る。そして1985年、JR両国駅北側の貨物操車場跡に新国技館が完成、「相撲の町両国」が復活した。(墨田区案内板より) |
【京葉道路に面した回向院表門】 回向院 1657年、江戸史上最悪の惨事となった明暦の大火が起こり、犠牲者は十万人以上であった。遺体の多くが身元不明、引き取り手のない有様だった。そこで、四代将軍徳川家綱は、こうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に「無縁塚」を築き、その菩提を永代にわたり弔うように念仏堂が建立された。 有縁・無縁・人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くという理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に、安政大地震、関東大震災、東京大空襲など様々な天災地変・人災による被害者、海難事故による溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物などありとあらゆる生命が埋葬供養されている。 (墨田区案内板より抜粋) |
【明治初期の回向院と両国橋】 五千分一東京図測量原図 1884年参謀本部陸軍部測量局作成 農研機構配信 |
→旧両国橋は現在の両国橋の下流約50m辺りに架かっていた。完成は1659年12月。1657年の大火が大災害となったため、幕府が防災上の理由から架け、武蔵と下総の国を結ぶ橋なので両国橋と呼ばれた。橋の上は四方が眺望できる絶景の場所で近くは浅草の観音堂、遠くは常陸の筑波山まで見えた。橋が架かったことで交通の要衝となると共に、橋の袂には火除地として広小路が設けられた。西側(日本橋側)は「両国広小路」といわれ、芝居小屋や寄席、腰掛け茶屋が立ち並び、東側は「向こう両国」と呼ばれ、見世物小屋、食べ物屋の屋台が軒を連ねる繁華街となった。(墨田区案内板より)
|
【回向院旧正門跡(両国幼稚園前、一の橋通りに面する)】 回向院の正面は、かつてこの位置にあった。回向院の伽藍は東京大空襲で焼失したが、戦後、再建され、正門は現在の京葉道路沿い国技館通りに正対する位置に移された。かつての回向院正門は、江戸城側から両国橋を越えると真正面にあり、橋上からその姿をはっきりと見ることができた。両国橋があたかも回向院参道の一部を成しているかのようで、明暦の大火による焼死者十万人以上を埋葬する回向院の社会的な存在意義を表したものといえる。両国橋や回向院正門に至る広小路や元町の賑わいは、北斎画「絵本隅田川両岸一覧(両国納涼)」などに描かれている。(墨田区案内板より) 隅田川を背に撮影している、目の前の駐車場は「向こう両国」にあたる。 |
【隅田川と今の両国橋】 振り返って見ると、旧両国橋のあった位置。対岸が「両国広小路である」。右の橋は現在の両国橋。 |
→【葛飾北斎「隅田川両岸景色図巻」(旧両国橋付近)】 北斎壮年期(1805年)の傑作で、長さ6m以上に及ぶ大作(すみだ区報2016年4月21日すみだ北斎美術館特集号より取得)。1902年にフランスで競売にかけられて以降、行方不明になっていた作品で、墨田区が買ったと話題になった。 この絵は、柳橋から舟で吉原へ向かう人々を描いていると思われる。とすれば、向こう岸の大屋根は回向院ということになる。 |
|
【東都名所 両国回向院境内全図 広重 1842 都立中央図書館特別文庫室所蔵】 東京大空襲で焼失する前の回向院の参道は隅田川に向かって延びていた。本堂に向かって右側(南側)によしず張りの小屋が見える、ここで相撲興行が行われたようだ。大相撲興行は、当初、深川富岡八幡宮、本所回向院、湯島天神社など江戸各地で、行われていたが、1833年からは、本所回向院でのみ行われた。その後、1909年、回向院北側に国技館建設につながることになる。 |
|
【昭和10年代の国技館】墨田区案内板より |
【第二次世界大戦前の回向院】墨田区案内板より 左に旧両国国技館が見える |
→【忘れ去られた隅田川の百本杭】 両国百本杭、1902年仁山智水帖より 国会図書館蔵 両国橋の風景を特徴づけるもののひとつに、百本杭がある。1930年に荒川不水路が完成するまで、隅田川には荒川、中川、綾瀬川が合流していた。そのため隅田川は水量が多く、湾曲部ではその勢いが増して川岸が浸食された。 両国橋付近はとりわけ湾曲がきつく流れが急であったため、上流からの流れが強く当たる両国橋北側には、数多くの杭が打たれた。水中に打ち込んだ杭の抵抗で流れを和らげ、川岸を保護するため。夥しい数の杭はいつしか百本杭と呼ばれるようになり、その光景は隅田川の風物詩として人々に親しまれるようになった。 1884年に陸軍参謀本部が作成した地図には、両国橋北側の川沿いに細かく点が打たれ、それが百本杭を示している。 しかし、明治時代末期から始められた護岸工事で殆どの杭は抜かれ、百本杭と隅田川がおりなす風情は今では見られなくなった。 (墨田区教育委員会案内板抜粋) |
歴史散歩 トップ>Walking-Ryogoku | |
Internet Walk トップ>Walking-Ryogoku | (C)2019 KUWAJIMA Toshihisa |