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東京歴史散歩:千駄木〜弥生〜湯島〜神田

2013年11月12日(火)
錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、東京歴史散歩。今回は、団子坂下を出発点に本郷台地の崖線と古不忍池を歩き、湯島、神田を経由し旧中山道−筋違見附を終点としました。

崖上には、弥生遺跡、大名屋敷、神社などがあり、古不忍池や遠く東京湾が見渡せる、高級住宅地であったようです。江戸城周辺が手狭になると、崖下の古不忍池や湿地帯に旗本、寺社が移り住むようになり下町が形成されていきました。また、旧中山道が神田川を渡るあたりにあった筋違見附は、多くの道が交差し江戸時代は賑やかな場所であったといわれますが、現在は、ひっそりと眠りについているようです。

※今回は、上野に縁のある4人の協力を得て、5人で歩きました。ご協力に感謝します。なお、以下に書かれた見解、感想はInternet Walkの管理者個人のものです。

【コースの概略】
東京メトロ千駄木駅→[@花やしき、紫泉亭跡]→[A汐見坂、観潮楼跡]→藪下通り→[B太田摂津守下屋敷跡]→[C根津神社]→不忍通り→崖を登って、弥生坂へ→[D弥生遺跡候補地]→東京大学、浅野地区へ入る→[E弥生二丁目遺跡]→[F向ヶ丘弥生町の由来碑]→[G境稲荷神社]→無縁坂を経て→[H無縁寺(講安寺、称仰院)]→[I麟祥院]→[J湯島天神]→男坂を下りる→[K旧三組町]→妻恋坂を上る→[L妻恋神社]→清水坂下を経て、神田明神裏口を上る→[M神田明神]→正門を出て、旧中山道沿いに歩く→[N神田松住町、神田旅籠町]→昌平橋を経て→[O筋違見附跡](全行程、約6km)

【切り絵図に重ね合わせたコース】
この図は、〔江戸切絵図〕駒込絵図、本郷湯島絵図、下谷絵図1849-1862(国立国会図書館デジタル化資料)を貼り合わせて作成しました
点線は、現在ある道路。(団子坂下)などの名称は、現在の交差点名です。矢印は、実際に歩いた行程。切り絵図は、原図そのまま使用してあるので縮尺が大変不正確になっています。
不忍通り、春日通り、蔵前橋通り、言問通りは明治以後新設されましたが、中山道(国道17号線)、御成道(中央通り)は、江戸時代のなごりを残しているといえそうです。
※このページで使用した絵図・錦絵(合計9枚)は、すべて、国立国会図書館近代デジタルライブラリー(古典籍資料)からダウンロードしたものです。ここへの掲載は、事前に、承認を得ています。


千駄木〜根津谷へ
@【団子坂花やしき】
名所江戸百景 千駄木団子坂花屋敷 広重 安政3
(国立国会図書館デジタル化資料より)

切り絵図には、四季花屋敷・紫泉亭となっている。紫泉亭は団子坂の中腹のはずであり、崖下に続く「桜並木」「池」の眺望はすばらしかったと推定される。
この池は、現在の団子坂下交差点付近と見られる、1800年代には、古不忍池は乾燥が進んでいると考えられるので、本郷台地のわき水であろうか?(位置としては、大幅にずれるが、不忍池を書き入れたとの説もある。)

A【汐見坂、観潮楼跡、汐見小学校】
【汐見坂】団子坂又の名を汐見坂ともいう。ビル街もJR線路もなかった江戸期には、この坂から東京湾が見えたのであろう。
【汐見小学校】近くに、汐見小学校という小学校があるが、これは、1927年に付けられた名前。
【観潮楼跡】さらに、崖の中腹には、観潮楼という屋敷があった。森鴎外が1892年30歳のときから、1922年60歳で亡くなるまで、家族とともに住んだ家で、2階からは遠く海が見えたと言われ、鴎外により観潮楼と名づけられた。跡地に、2012年文京区立森鴎外記念館がオープン。(森鴎外記念館)

【森鴎外記念館から見た東京スカイツリー】
標高約20mの高台にある観潮楼跡、現在では、ビル街に遮られて、眺望はありませんが、そのビルの隙間から東京スカイツリーを見つけました。

B【太田摂津守下屋敷跡】
鴎外記念館の少し手前を左折すると
根津神社に通ずる小道がある、通称、藪下通りという。
藪下通りの中ほど右手に、緑地があり「千駄木ふれあいの森」という。

江戸時代、ここは太田道灌の子孫である太田摂津守の下屋敷で、その当時は、現在の日本医科大学から世尊院あたりまでの広大な敷地であった。明治に入ると、屋敷は縮小して、かつての屋敷跡は「太田の原」と呼ばれた。時代の変遷とともに、屋敷内に連なっていた崖地の緑もここを残すのみとなり、市民緑地として一般公開されている。(文京区役所案内板より)
「千駄木ふれあいの杜」のほぼ中央に設置された案内板、同じものが文京区のウエブサイトにある、よく見ると、ここと関係のある図は二枚のうち下の絵図、屋敷の様子が描かれている。
C【根津神社】
藪下通りを抜けると、根津神社裏門に出る。根津神社を見下ろす位置だが、江戸初期の地図を見ると、ここには、まだ根津神社はなく、古不忍池(または湿地帯)が広がっている。

その後、5代将軍綱吉の兄である甲府中納言綱重の屋敷地となった。綱吉は、1705年兄綱重の子綱豊を養嗣子に定め(後の6代将軍家宣)、綱豊の生まれたこの地を、根津神社(当時、団子坂の北にあった)に献納、天下普請と言われる大造営を行なった。 翌1706年完成した権現造りの本殿・幣殿・拝殿・唐門・西門・透塀・楼門の全てが欠けずに現存し、国の重要文化財に指定されている。
(文京区)

江戸名所図会に現れた「根津神社」は、社殿はもちろん、規模、参道に至るまで当時のまま残されていると考えられる。


江戸名所図絵 根津権現社 1834-1836
(国立国会図書館デジタル化資料より)

【根津神社池】今は、単なる池ですが、江戸期には湧水があったものと思われます。

【根津神社社殿】国指定重要文化財

【不忍通り、根津神社入り口交差点】
根津神社を出て、不忍通りへ向かう。根津神社入り口交差点から、南へ根津一丁目交差点まで根津門前町(旧根津八重垣町)の大通りが広がっていた。根津一丁目交差点には根津神社総門があった。明治維新後には、この両側に200あまりのサクラが植樹されていたそう。この通りは拡張され、不忍通りとなった。(文京区)
根津神社入り口交差点を右に曲がり、不忍通りを少し歩き、根津神社の大きさを実感します。

【お化け階段を上り弥生町へ】
崖上に登るために不忍通りを右折(Uターンの形)、しばらく直進します。突き当たりに崖上に登る急階段(通称お化け階段)があり、登り切ったところが「旧向ヶ丘弥生町」となります。


「弥生時代」、『弥生』という名の発祥の地を求めて歩く

【向ヶ岡弥生町】
  • このあたり一帯は、水戸徳川家の中屋敷であった
  • この説明では、「弥生」という名も「向ヶ岡」という名も徳川斉昭の歌から来ているという
  • さらに、この辺に、弥生式土器の発掘場所があるという
地理的にも、歴史的にも大変重要な意味のある地区であり、その痕跡を検証していこう。

D【明治時代に発見された弥生遺跡は今いずこ?】
お化け階段を上り、弥生坂に至る一帯は弥生遺跡の候補地
1884年東京大学の坪井正五郎、白井光太郎と有坂しょう蔵の3人は、根津の谷に面した貝塚から赤焼きのつぼを発見した。後に縄文式土器と違う事から地名を取って弥生式土器と呼ばれるようになったのだが、いつの間にか、その場所はわからなくなってしまったという。それ故、「弥生式土器発掘ゆかりの地」という、おかしな碑が建っている。候補地としては、以下の3地点といわれる
・東京大学農学部の東外側(サトウハチロー旧居跡付近)
・弥生坂中腹の案内板(弥生式土器ゆかりの地)のあるあたり
・根津小学校の校庭裏の崖上
(以上、文京区)

E【東京大学浅野地区にある弥生二丁目遺跡とは】
1974年、東京大学浅野地区で工学部校舎建設に伴う発掘調査により、二条の溝と貝層、弥生式土器等が検出された。都心部における弥生時代の数少ない貝塚を伴う遺跡として重要であることが評価され、1976年に「弥生二丁目遺跡」として国の史跡に指定された。
(案内板より)
明治期に発見された弥生遺跡の場所は不明だが、昭和期に発掘されたこの弥生二丁目遺跡の存在により、この一帯すべてが弥生遺跡と推定されている。そして、今、その遺跡本体は、工学部9号館の下になってしまった。知性の代表であるべき「東京大学」のなす事ではない、早急に、付近の校舎を取り壊して、発掘し直し、弥生遺跡保存をすべきと思う。

F【東京大学浅野地区浅野南門にある向岡記碑】
東京大学による説明文によると、
『碑は、後の水戸藩九代目藩主 徳川斉昭の自撰自書で、寛永寺の寺領「忍岡」の向かいの「向岡」に位置した水戸藩中屋敷に建立された』とある。 さらに、『碑が建立された殿舎と庭園のあった場所は現在の浅野地区と考えられる』とのこと。
碑文の拓本は読みにくいので、東京大学が活字体にしたものが左の写真である。
その中で、特に重要なのは、赤の四角で囲った部分

 文政十萬梨一登勢止移布年能夜余秘能十日
  ↓   
 『文政十一年(1828)弥生(三月)十日』と読める

 名尓進於不 春爾向賀 岡難連婆 余尓多具肥奈岐 華乃迦計哉
  ↓
 『名にし負う 春に向うが 岡なれば 世に類無き 華の影かな』
と読める

弥生時代の「弥生」という言葉の由来!!
それを、「向ヶ岡」に掛けて使った徳川斉昭の華麗さ!!
「向ヶ岡弥生」とは、何という見事な、ロマンに満ちた言葉なのでしょうか!!

それなのに

1965年以降、町名変更により
「向ヶ岡弥生町」は「弥生町」になってしまいました。

弥生二丁目遺跡も工学部9号館の下

最高学府の足下で行われた文化の破壊は見過ごすことが出来ませんね
左は、水戸徳川家中屋敷の絵図である(東京大学浅野南門に掲示してあるもの)文政9年(1826)当時のものと思われる。

この図より2つの手がかりが得られる
  • 言問通り
    中央の屋敷内の黒い道は現在の「言問通り」と思われる。やはり、言問通りはでたらめに、旧水戸屋敷を貫いているのではなかった、ちゃんとした理由があるようだ。
  • 屋敷北方と南方の池
    北にある池は根津神社の池と思われるが、南の池は?
    いずれにしても、湧水が豊富であったことが伺える。
原図をどこかに行ってみれば、更にはっきりわかるのだが、今は推定でしかない。


境稲荷神社・弁慶鏡ヶ井戸

G【境稲荷神社と弁慶鏡ヶ井戸】
東京大学池ノ端門のすぐ脇にある井戸と神社。

説明板にあるとおり、「忍ヶ岡」と「向ヶ岡」の境に位置する。弁慶の伝承が正しければ、このあたりは、少なくとも、鎌倉期には、古不忍池というよりは、湿地帯であり、本郷台地からの湧水が不忍池に流れ込んでいたというのが妥当であろう。


無縁坂・称迎院・講安寺

H【無縁坂】
江戸時代の古地図にも現れる無縁坂ですが、その名前は、坂の上に無縁寺があったことに由来するという。現代の地図で見ると、坂の北側に講安寺と称仰院という寺が現存する。
もともと、湯島天神下にあった無縁山法界寺という寺が、当地には1704-1711年に移転したという。移転後、法界寺境内に無縁寺という庵を開き、後に、法界寺→講安寺、無縁寺→称仰院になったとのこと。

旧湯島両門町案内板(この案内板は講安寺門前無縁坂にある)

むかし、湯島郷に属した。講安寺門前、称迎院の門前町として開かれた町屋である。明治2年、この二つを併せて、両寺の門前なので、湯島両門前町と名づけられた。
南は江戸時代、榊原康政(徳川家康四天王の一人)の屋敷跡。明治維新以来、紆余屈折を経て、岩崎弥太郎の本邸となり、現在、都立旧岩崎邸庭園として公開されている。

この榊原康政の屋敷跡と講安寺・称迎院の間の坂が無縁坂と呼ばれる。

称迎院は、無縁山法界寺(現講安寺)内に設立された、無縁寺という庵であったという。後に、法界寺→講安寺、無縁寺→称迎院に分かれたと。無縁坂は、この無縁山や無縁寺が由来という。
無縁坂とは、森鴎外の小説「雁」の舞台となり、さだまさしの「無縁坂」という歌に歌われている、江戸時代の由緒ある坂。

講安寺は外壁が漆喰で何度も塗り込められた土蔵造りの本堂(区指定文化財)となっており、火事に悩んだ江戸の人たちの防火対策の知恵である。現存する建物の建築年ははっきりしないが、江戸時代の防火建築をよく現しているといわれる。
(文京区教育委員会)


麟祥院

I【天沢山麟祥院 臨済宗妙心寺派】
江戸時代には臨済宗妙心寺派の触頭(ふれがしら)を浅草海禅寺、高輪東禅寺、牛込松源寺と共に勤めていたという名刹。手入れのよく行き届いた境内でした。

江戸名所図絵 麟祥院
(国立国会図書館デジタル化資料より)

春日局の墓
1624年 徳川家光の乳母だった春日局の隠棲所として作られ、
当初「報恩山天沢寺」
1643年 春日局の死を持って彼女の菩提寺となった。
「天沢山麟祥院」と改称した。
春日局の法号:麟祥院殿仁淵了義尼大姉
(東京都文京区教育委員会)

【東洋大学の前身、哲学館跡】
1887年麟祥院の一室から東洋大学の前身、哲学館が出発した。
「創立者井上円了は、1858年越後国(新潟県)の寺に生まれる。
1885年東京大学文学部哲学科卒業。
1887年哲学と宗教の啓発のため、私塾「哲学館」を境内の一棟を借りて開校する。哲学館では、授業以外に今日の通信教育ともいうべき講義録を毎月3回発行し哲学の普及につとめた。
1919年円了、大連で逝去。享年61歳。
(東京都文京区教育委員会)


湯島天神界隈
J【湯島天神】
・458年  創建
・1355年 菅原道真公奉祀
・1478年 太田道灌再建
・1591年 徳川家康朱印を寄進
・1704年 徳川綱吉再建
・1885年 改築
・1995年 現社殿

学問の神様として知られる菅原道真公を祀っているため、受験シーズンには多くの受験生が合格祈願に訪れている。

湯島天神は、本郷台地が東にせり出した崖の上に建てられた。不忍池や東京湾の眺望が素晴らしかったであろうと思う。
実際、1960年前半頃までは、不忍池が見えたのだが、その後、ビル群が眺望を遮った。


←名所江戸百景 湯しま天神坂上眺望 広重 安政3
 (国立国会図書館デジタル化資料より)

この錦絵にも見られる男坂を下り、昼休み後、天神下通りを南に向かう。
K【三組坂上、三組坂下】
天神下通りの西斜面は、この案内板にあるように、江戸時代は「三組町」と呼ばれた。文京区の案内板が写真では見にくいので要約して付け加えると:
1616年に徳川家康は駿府で亡くなり、家康お付きの中間・小人・駕籠方の「三組」の者は江戸に召し返され、当地に屋敷地を賜った。駿河から帰ったので、このあたりは駿河町と呼ばれていた。
1696年 三組の御家人拝領の地である由来を大切にして、町名を「三組町」と改めた。
1965年 元禄以来、呼びなれた三組町は、湯島3丁目となった。
(文京区教育委員会)

神田に駿河台という地名がありますが、これも、同じようないわれがあるのでしょう。

しかし、時代が変わり、町名も変わっても、三組町を貫く坂道の交差点に、「三組坂上、三組坂下」という名称は残っています。

L【妻恋坂、妻恋神社】
天神下通りを更に南下すると、蔵前橋通りとの交差点「妻恋坂」にでる。しかし、江戸時代、蔵前橋通りはなく、もちろん、現「妻恋坂」交差点もない。交差点の少し手前、右方向湯島台地に登る坂が、切り絵図に出てくる「妻恋坂」だ。

「妻恋坂」と「妻恋神社」の由来は、文京区の説明板参照。


【妻恋神社】
「妻恋坂」を登り切るあたりに、「妻恋神社」がある。さして大きそうには見えない神社だが、坂や交差点に、名前が残るとは運の良い神社なのだろう。
【清水坂】
切り絵図でわかるように、妻恋坂上からは、北上(湯島天神へ)する道はあったが、南下する道はなかった。
現在では、JRお茶の水駅から東京医科歯科大学の東側を通り湯島天神まで北上する坂(清水坂)があり、蔵前橋通りとの交差点を清水坂下と呼んでいる。
今回は、清水坂を下り、神田明神に向かう。

M【神田明神】
東都名所 神田明神 広重 
(国立国会図書館デジタル化資料より)

神田明神は、江戸開府以前は平将門塚付近にあり、その後、江戸城の拡大に伴って、1616年に湯島台地に移ってきたという。祭神は大国主命と平将門の2神とのこと。この地も、観潮楼・弥生遺跡・湯島天神などと同様、はるかに江戸湾を望む眺望豊かな高台であった。

【蔵前橋通りは谷間、神田明神から見た東京スカイツリー】
『神田明神の立地(高さ)』を実感するために、蔵前橋通りに面した、裏門の急階段を登った。蔵前橋通りを挟んで、湯島の台地が望める、蔵前橋通りとは、谷であることが見て取れる。この谷では、湯島の台地からの湧水で水田を作っていたという話もあり、納得が出来る。
『神田明神駐車場』
周りは、ビルが建て込み、この高台でも、見通しはきかない。わずかに、東京スカイツリーの上部が見える程度である。


旧中山道を通り筋違見附へ
【神田明神の鳥居を出ると、旧中山道・国道17号線】
神田明神の鳥居を出ると、すぐ旧中山道、国道17号線に出る。
正確には、旧中山道と国道17号線は一致していない。写真「左の小道」が旧中山道、しかし途中で失われる。
旧中山道と17号の一致した部分を東へ、最初の信号を右折して、旧中山道を進む、ひとまず、17号と分かれる。(後に詳述)

【神田松住町】
上の案内板(千代田区)の要旨抜粋
「1688〜1711には、「湯島横丁(ゆしまよこちょう)(のちに湯島横町)」という名前が付けられています。また、町内に材木を扱う商人が集まっていたことから「材木町」という通称もありました。ほかに町の南側を流れる神田川の河岸周辺には、薪(まき)を売る商人が集中していたことから「薪河岸(まきがし)」という異名もあったといわれます。」
江戸時代、旧中山道沿いの商業地として栄えたという。

N【神田旅籠町】
ここで、再び、旧中山道と17号が一致する。上の案内板(千代田区)は昌平橋の脇にある。写真の文字が小さくてわかりにくいが要旨は以下のようになる。
「中山道板橋宿と日光御成街道川口宿への街道筋として、多くの旅籠が建ち並んでいたため、旅籠町と呼ばれた。中山道は京都に通じ、日光御成街道は将軍が日光参拝で通る、いづれも重要街道だった。しかし、幕末の頃には、米・炭・塩・酒などの問屋街となり、旅籠は姿を消していった。」

【昌平橋から見た旧中山道・17号】
左方面は「旧神田松住町」、右方面は「旧神田旅籠町」
新旧街道の交わり、鉄道の分岐、由緒ある旧町名、ここに立つと、歴史の流れを感じます。

【昌平橋から万世橋方面を見る】
今では、万世橋に国道17号線が走っています。
旧万世橋駅舎、筋違橋跡(想像ですが)を見ると、街道と鉄道の栄枯盛衰を感じます。

O【筋違見附跡】
旧中山道は昌平橋を通り越して、筋違橋から神田川を渡りますが、今や幻の橋なので、昌平橋を渡ります。昌平橋を渡り左折して、しばらく進むと、古ぼけた一枚の案内板...うっかり通り過ぎてしまうほどポツンと...を発見。「御成道」という案内板。上の写真はその一部を切り取り手を加えたものです。これが、今回の終点です。
「旧中山道」「日光お成り街道」「東叡山への御成道」が交差する、重要な地点。栄枯盛衰を一望できる地点の記念碑としてはあまりに寂しい扱いです。

【筋違八ッ小路】
名所江戸百景 筋違内八ッ小路
(国立国会図書館デジタル化資料より)

八方向は、筋違橋御門、昌平橋、駿河台、小川町、連雀町、日本橋通り、柳原、小柳町へ向かう出口を言いました。


(付録)旧万世橋駅ホームと万世橋(国道17号線)

【旧万世橋駅ホームへ上がる階段】
中央本線のターミナル駅として、筋違見附跡に建てられた万世橋駅舎でしたが、鉄道が神田、秋葉原と延伸すると、しだに忘れ去られていきます。ついには、ホームと階段のみとなりましたが、2013年秋になって、高架下に商業施設「マーチエキュート神田万世橋」が出来、ホームではお茶が飲める施設が出来ました。この喫茶店で、中央線の電車を眺めながら、しばし、休息。

【万世橋(現代の筋違橋)から上野方面を望む】
筋違見附跡を離れ、秋葉原へ向かいます。万世橋からの眺めですが、ここが、現代の筋違橋というべき橋。ここでは、国道17号線(新中山道)と中央通り(御成道ではありませんが...)が合流する場所となっています。江戸時代の筋違見附付近の繁栄が、現代では秋葉原電気街の繁栄に移っています。




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