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歴史散歩:掃部堤−千住大橋−下谷道−日光街道を歩く


2018年11月27日(火)
錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、歴史散歩。
  • 京成本線千住大橋駅集合、千住大橋を中心として栄えた掃部宿、河原町、橋戸町の今を歩く。小田原北条氏の落人「石出掃部介」は、この辺の湿地を穀倉地帯に変えるべく尽力し、掃部堤、掃部宿にその名を残す。千住河原町稲荷神社は千住青物市場(江戸時代の御用市場)の守り神だ。千住河原町(旧日光街道沿い)には、当時の問屋街の痕跡が残るが、それが、現在の足立市場へと繋がる。
  • 千住大橋は、江戸期に隅田川に最初に架けられた橋、水腐れに強い高野槙が使われたという。足立区側でも荒川区側でも高野槙を植林してシンボルとしたいようだ。千住大橋といえば、芭蕉が奥州へ旅立った地として知られる。足立区側でも荒川区側でも「矢立て初めの碑」がある。
  • 千住大橋は旧日光街道が通る橋として知られるが、上野・寛永寺の輪王寺の宮が日光参内する出発点でもあった。上野からの下谷道(現金杉通り)は素盞雄神社の所で浅草からの旧日光街道と合する。江戸期からの下谷道の名残がハッキリ見て取れる。
  • 下谷道に面する形で円通寺、上野戦争で戦死した彰義隊士の墓所として知られる、その縁で、上野の黒門が修理保存されている。
  • 南千住駅周辺には、江戸時代の刑死者を弔う回向院があり、小塚原刑場跡には延命院がある。周辺はJR貨物線の基地があり、東京メトロ線がありといった場所であり、鉄道工事の度に大量の刑死者の人骨が出土されることで知られる。

国土地理院地図(新版-淡色)[ブラウザ:カシミール]に、主な地名・旧跡を書き加えた。

掃部堤から千住大橋へ
【千住宿の南部分 江戸府内図(北半)伊能忠敬 国会図書館蔵】
  • 幕府は、1624年に日光山造営法度を出して日光と江戸を結ぶ日光道中の整備を始めた。
  • 千住宿は1625年に建設され、街道沿いに地割りを行った。当初の宿場は千住一〜五丁目でしたが、交通量増大により1658年に掃部宿・河原町・橋戸町が、1660年に千住大橋南側の小塚原町・中村町が宿場に加えられた。
  • 宿場は大名や日光門主など領主の公用通行のために、次の宿場までの荷物の輸送、本陣などの宿泊施設の設置、書状の伝達の機能を果たした。千住宿は宿場であるとともに流通の町として賑わった。橋戸河岸には荒川や綾瀬川を利用する船が発着し、米穀や野菜、陶器などさまざまな物資が流通した。また、千住掃部宿市場は1735年に御用市場となり、米穀・前栽・川魚などの問屋が軒を連ねていた。(足立区ウエブサイトより)

【京成千住大橋駅前の高野槙】
悠仁様のお印としても有名な「高野槙」。和歌山県の高野山に多く見られる常緑針葉樹です。この高野槙が、再開発の進む京成千住大橋駅前広場に植樹されています。水に強くて朽ちにくいことから、千住大橋の橋杭として用いられたのが高野槙で、伊達政宗から寄進されたといいます。以来、木造の千住大橋は何度か、建て替えられているが、1927年に木造橋から現在のアーチ橋へ建て替えられた。(足立区ウエブサイトより)

【河原町稲荷神社入り口(実は裏門)】

【河原稲荷神社】
「やっちゃ場の守り神」で、創建年・由緒記録が失われて不明という。

【千住青物市場330年記念碑、河原稲荷神社】
この碑は1903年に建立されたとあるので、青物市場「やっちゃ場」は1573年頃に成立したことになるが...

【河原稲荷神社 表門】
裏門(国道4号線)から入り、表門に抜けると、旧大師道(西新井大師へ)に出る。

【大師道が墨堤通りに出るところ】
旧日光街道から分かれる旧大師道はここで墨堤通りにでる

【千住宮元町交差点で墨堤通りを渡る】
交差点を渡りきったところが、千葉灸治療院跡である。

【千葉佐那 千葉灸治療院跡】
坂本龍馬の婚約者、千葉佐那が千住中組に1886年から暮らす。学習院女子部の舎監となり、この地で千葉灸治療院を開業、生業とした。
【龍馬のもう一人の妻】
←左図は現地案内板(龍馬のもう一人の妻 阿井景子著)

※千葉佐那:1838〜1896年は北辰一刀流・千葉周作の弟・千葉定吉の二女。小太刀に優れ、10代の頃に早くも北辰一刀流小太刀免許皆伝。龍馬より三歳年下である。16歳の頃、北辰一丁流桶町千葉道場に学びに来ていた龍馬と知り合う。1863年、龍馬は千葉佐那のことを姉の乙女に紹介している。そのころ二人は婚約したらしいが、結婚には至らず、龍馬の死を知った後も龍馬のことを思い続け、一生独身で過ごしたと伝えられている。
(NPO法人 千住文化普及会)

また、
足立史談・国井修一によると、「千葉佐那はこの地で死去した後、1896年土葬で谷中墓地へ埋葬、1950年八柱霊園無縁墓に改葬された」とある。

【墨堤通り(掃部堤)】
墨堤通り(掃部堤)を東方面に進むと、左に源長寺、旧日光街道を横断することになる。

【源長寺】
1598年この地に住み開拓した石出掃部亮吉胤により、1610年一族の菩提寺として開かれた。

【大ケヤキ、源長寺】
文化文政年間この地帯に多く見られたが、昭和二十年戦火の為最後の一本を焼失、その残りがこの切り株である。(現地案内版より)

【石出掃部介の墓】
江戸の初期、徳川将軍家が、武蔵東部に広がる湿地を穀倉地帯として開墾するため白羽の矢を立てたのが、戦国時代の騒乱で主家を失った浪人たち。その将軍家の呼びかけに応じ、一族郎党引き連れて入植してきたリーダーの1人が、かつては小田原の北条氏に仕えていた掃部介。掃部介の名前がついた掃部新田は、後に千住掃部宿となり、現在の千住仲町など千住南部一帯にあたる。
(足立区ウエブサイト:浪人たちのフロンティア〜江戸時代のはじめ荒地を拓いた男たちがいた〜)

【墨堤通り、千住仲町公園前】

【富嶽三十六景 隅田川関屋の里 葛飾北斎】
足立区立郷土資料館蔵
千住仲町公園に設置されたモニュメントだが、墨田区墨堤にも墨田区作成の同じ絵柄のモニュメントが設置されている。
文化遺産オンラインを見ると、「関屋の里は、京成線関屋駅から東武線牛田駅を中心とする隅田川に面した一帯を指す。」とあるので、千住仲町公園でも関屋の西端ということでギリギリセーフ?

【関屋天満宮、氷川神社、江戸名所図会】国会図書館蔵
江戸名所図会では千住仲町公園あたりを「関屋の里」といっています。

【仲町氷川神社】
名所図会に描かれた氷川神社
901〜23年に今より南東の牛田寄の元宮という所に祀った。1616年に現在地に遷座し、千住掃部宿の氏神となり、境内社に関谷天満宮、千寿七福神の弁財天がある。(東京都神社庁WEBページより)。千住掃部宿が整備され、氷川神社をお迎えしたのでしょう。

【関屋天満宮】
949年関屋の里に鎮座した。しかし、度々の水害で1787年氷川神社内に遷宮した。小祀を建てたが、塚の周りの葦が片葉であったために片葉の天神と呼ばれた。(現地案内版より)

【旧日光河道沿いにある掃部宿憩いのプチテラス】
狭い曲がりくねった小路を抜けると、旧日光街道、そこに掃部宿の紹介スペースがあった。プチテラスを後に、旧日光街道を南下。

【千住仲町交差点】
掃部堤と旧日光街道の交差するところ、千住河原町から見たところ。掃部宿方面がグンと低くなっているのがわかる。

【旧日光街道と旧大師道との分かれ道】
ここを右に曲がると、河原稲荷神社の前に出る。

【やっちゃ場と商店の痕跡】

【やっちゃ場と商店の痕跡】
【足立市場】
「足立市場」は、430年以上前にできた千住の青物市場、通称「やっちゃば」がその始まりと言われており、奥州・常陸に通じる街道の要衝の地として発達し、神田・駒込と並ぶ江戸3大青物市場の一つに数えられ幕府の御用市場となりました。1945年に千住河原町にあった青果市場荷受組合と西新井村本木町にあった東京北魚市場を現在地に収容し、総合市場として発足しましたが、取扱量の増加による施設の狭隘化にともない、1979年に青果部門を足立区入谷に移転させ(北足立市場として開場)、水産部門を扱う市場として現在に至ります。市場で扱っているモノの約4割がマグロ等の鮮魚、残りの約6割が冷凍品や塩干加工品となっており、マグロ類の競りには近隣の仲卸業者が集まり、朝5時から参加しています。
(東京都中央卸売市場、足立市場ウエブサイトより)

足立市場を後に、千住大橋へ向かう。

【千住大橋、国道4号線と旧日光街道分岐点】
●千住大橋は、隅田川に最初に架けられた橋。徳川家康の関東入国間もない1594年に、普請奉行伊奈備前守忠次によって、現在地より200mほど上流に架けられた木製の橋。1594年の架橋の際に、伊達政宗が資材を調達し、水腐れに最も強いという高野槙が使われたと伝えられている。
「伽羅よりもまさる 千住の槇の杭」という川柳が残されている。
●当初は、単に「大橋」と呼ばれていたが、1659年に両国橋が架けられてから「千住大橋」と称した。現在も、橋のプレートは「大橋」である。

【千住大橋(下り線)】
●江戸期だけでも6回、改修、改架が行われている。1767年に現在地に架け替えられたが、最初の架橋から1885年の台風による流出まで、流出することはなかった。1923年の関東大震災にも焼け落ちる事はなかったが、震災復興計画にもとづいて、近代化が計られ、1927年に現在のようなアーチ式の鋼橋となった。1973年に新橋(上り専用)が増設された。
●その昔に架けられていた橋の一部と思われる木杭が今もなお、水中に眠っている。桟橋の上から見えることもあるという。
(以上、足立区)

【奥の細道 矢立初めの地、大橋公園】
千住大橋下り線橋詰めにある、奥の細道 矢立て初めの地

【おくのほそ道行程図、大橋公園】

【奥之細道.上巻(巻頭部分)、与謝蕪村、1778、国会図書館蔵】
[下巻の末に「安永戌冬十一月寫於平安城南夜半亭旦畫六十三翁蕪村」の記載、与謝蕪村が「おくの細道」本文を書写し、俳画を挿入してある。原本は京都国立博物館所蔵で国指定重要文化財、東京国立博物館所蔵の物は1932年発行の復刻版]
挿絵の前後には、以下のように書かれている。
「弥生も末の七日あけぼのの空朧々として月は有明にて光をさまれるものから不二の峰かすかに見えて上野谷中の花の梢またいつかはと心細しむつまじきかぎりは宵よりつどひて舟に乗りて送る千住といふ所にて舟を上がれば前途三千里の思ひ胸にふさがりて幻のちまたに離別の涙をそそぐ
行く春や鳥なき魚の目は涙
これを矢立の初めとして行く道なほ進まず人々は途中に立ち並びて後ろ影の見ゆるまではと見送るなるべし」

【千住大橋御上り場】

【小金野鹿狩之図1849年作成、国立公文書館】
小金原でおこなわれる鹿狩りに行くために、隅田川を上ってきた将軍の船が千住大橋お上がり場に着岸する様子。
左→千住橋戸町、右→小塚原町

【千住大橋木製の頃の姿】
千住大橋駅前の「高野槙案内板」に掲示された写真(オリジナルは足立区立郷土博物館蔵)。


(千住大橋から荒川区へ)旧下谷道−旧日光街道
【江戸絵図 年代不明 南千住部分 国会図書館蔵】
千住大橋を渡り、荒川区に入ると、場末には違いないのだが、江戸に入ったという感じを受ける。大名屋敷跡あり、刑場跡あり、旧下谷道ありなど

【砂尾堤と砂尾長者】
南千住7丁目20番地付近から現在の隅田川に沿って台東区今戸に向かう道は、土手になっていて砂尾堤と呼ばれた。中世の石浜に砂尾長者とよばれる土豪が住み、この地を領していたことに因むという。石浜の地は古代から、武蔵国と下総国をつなぐ交通の要地であり、砂尾長者は、15世紀半ば千葉氏が内紛により下総国を逃れ石浜に入った後、家臣としてこの地に住んだといわれる。台東区橋場にある砂尾不動院の開基とも、中興ともいわれる人物である。
(※右へ)

【砂尾堤跡】
現在では、平坦な道路になっているが、江戸期の古地図を見ると、砂尾堤ははっきり描かれている。橋場の総泉寺まで続いていた。

(※左より)この一帯は昔から広範囲にわたりしばしば水害に見舞われた。汐入堤とも呼ばれたこの堤近くには昭和初期まで、砂尾・堤根という字が残っていた。
(荒川区教育委員会)

【日枝神社】
日枝神社は、江戸時代山王社とよばれた旧中村町(千住宿)の鎮守であり、1316年に建てられたと伝える。この社の入口にあたる旧砂尾堤土手北端に歯神清兵衛を祀った小祠がある。(右へ続く→)
【山王清兵衛の祠】
(→左より)いずれかの藩士清兵衛が虫歯の痛みに耐えかねてこの地で切腹し、遺言によってその霊を祀ったという。俗に山王清兵衛とよばれ、歯痛に悩む者が祈願して効き目があれば、錨をくわえた女性の絵馬を奉納する慣わしで、千住の歯神として有名であった。(荒川区教育委員会)

【千住河岸跡と熊野神社】
江戸時代、千住大橋袂の河岸には、秩父から荒川の水運を利用して高瀬舟 で運ばれてきた材木を取り扱う家が並んだ。古くからこの地で材木商を営んできた旧家に伝わる文書(『両岸渡世向書物』荒川区指定文化財)からは、これら千住の材木商が農業の合間を利用して材木を取り扱うようになったことにはじまり、それが材木問屋に発達するに至った経過などがうかがえる。
材木問屋は、千住大橋袂の熊野神社門前に多く、江戸への物資集散の拠点となるに至った。熊野神社には、1845年、千住の材木商が寄進した手洗鉢(荒川区登録文化財)や常夜灯 が残り、材木商たちの信仰の一端をうかがい知ることができる。これらの材木問屋 は、江戸時代の千住宿や近代以降の南千住の発展に大きく寄与した。
(荒川区教育委員会案内板より)

【熊野神社】
創建は1050年、源義家の勧請によると伝えられる。
大橋を荒川(現隅田川)にかける時、奉行伊奈備前守は当社に成就を祈願し、橋の完成にあたり、その残材で社殿の修理を行なった。以後、大橋のかけかえごとの祈願と社殿修理が慣例となった。また、このあたりは材木、雑穀などの問屋が立ち並んで川岸とよばれ、陸路奥州道中と交差して川越夜舟が行きかい、秩父・川越からの物資の集散地として賑わった。
(荒川区教育委員会案内板より)

※境内は立ち入り禁止だが、よく見ると、「高野槙」が植林されていた。千住大橋駅前のものよりもまだ小ぶり。
米倉屋敷跡、天王公園】
宝永4年(1707)、当時下野国(栃木県)皆川藩主であった米倉計昌照が、この地に下屋敷を拝領した。享保16年(1732)、屋敷の北側部分が相対替えで、屋代氏の所有に移り、残りの南側部分も、翌享保17年(1733)に上知(幕府が屋敷地を収公すること)となり、米倉氏はわずか20数年で、この地を去ることになる。
 北側部分は、さらに土屋氏・池田氏・曲淵氏の屋敷地となるが、現在でも、この天王公園のあたりは、土地の人々から「米倉屋敷」とも呼ばれ、親しまれている。
(荒川区教育委員会案内板より)
【橋本左内の墓旧套堂】
橋本左内は1834年福井藩奥外科医の子として生まれた。1857年松平春嶽の側近として藩政改革を行う。又、松平春嶽の意を受け一橋慶喜の将軍擁立に奔走するが、1859年小伝馬町の牢屋敷で斬首、小塚原回向院に埋葬される(安政の大獄)。1933年には橋本左内の墓を保護するために套堂が回向院境内入り口に造られた。套堂の施主は橋本左内を追慕し遺徳を広く発揚することを目的として1902年に設立された景岳会。2006年回向院の墓地整備に伴い套堂は解体の上荒川区に寄贈される。2009年、套堂はふるさと文化館前に復元された。(荒川区教育委員会案内板より)

旧下谷道と旧日光街道の分岐

【素盞雄神社、旧下谷道、旧日光街道】
下谷道、日光街道、素盞雄神社だけを見れば、その位置関係はよく保たれている。

旧日光街道は、日本橋を起点とし、浅草地区を抜けて千住へ至る道、一般の街道として整備されたが、旧下谷道は東叡山寛永寺かつ日光山門主・輪王寺宮が日光参内のため整備された。その為、旧下谷道沿線には、寺院・大名屋敷が多い。

[素盞雄神社]
  • 小塚原・三ノ輪・下谷通新町・三河島・町屋など、区内で最も広い地域を氏子圏とする鎮守。
  • 795年、小塚の中の奇岩が突如光を放ち、翁の姿をした二神(素戔雄命・事代主命)が現れて神託を告げたという。その石は「瑞光石」と呼ばれ、出現した二神(素戔雄命・事代主命)を祭神として祀る。(右へ続く)

【素盞雄神社正面】


[左より、素盞雄神社の続き]
  • [素戔雄命]天照大御神の御弟神、(別名)牛頭天王、(通称)お天王さま
    罪・穢・災・厄など身に降りかかる悪しきこと諸々を、荒々しい程の強い力で祓い清める災厄除けの神様
  • [事代主命]大国主神の御子神、(別名)飛鳥大神、一言主神
    善悪を一言で判断し得る明智を持たれた神様。後世には福の神としての性格が強まり、商工業繁栄・商売繁昌の「えびす様」として崇敬されている。
  • 江戸期には、「飛鳥社小塚原天王宮」とも呼ばれた。
(すさのお神社ウエブサイト要約)

【瑞光石】
  • 御祭神すさのお大神・あすか大神が光を放ち降臨した小塚の中の奇岩を「瑞光石」という。
  • この小塚から「小塚原」の地名が起こり、「江戸名所図会」には「飛鳥社小塚原天王宮」と紹介されている。
  • 現在の周辺小学校の名称に冠された「瑞光」もこの瑞光石に因む。
(すさのお神社ウエブサイト要約)

【天王社の大銀杏】
「素盞雄神社境内は、古来より「あすかの森」と呼ばれ、銀杏などの大木が林立していた。『江戸名所図会』にも、境内に樹木が生い茂っている様が描かれている。
この大銀杏は、幹の周囲約3.3m、高さ約30mである。この木の皮を煎じて飲むと、乳の出が良くなるという伝承を持つことから、絵馬を奉納祈願する習わしがあり、現在も続いている。」
(荒川区教育委員会案内板より、原文のまま)
【亀田鵬斎の書による「矢立て初め」の碑文】
「松尾芭蕉「奥の細道」矢立初めとなった有名な一節です。
文政3年(1820)10月12日の芭蕉忌に際し、俳聖「芭蕉」を偲び、江戸随一の儒学者で書家としても高名な亀田鵬斎が銘文を、文人画壇の重鎮である谷文晁の弟子で大川(現:隅田川)の対岸関屋在住の建部巣兆が座像を手がけるなど、千住宿に集う文人達により建てられました。
 建碑以来百七十有余年、永年の風雨により剥落損傷が激しく判読できぬ為に、平成7年当社御鎮座1200年祭に際し復刻し、これを契機に「奥の細道矢立初め全国俳句大会」が毎年春に開催されています。」
(すさのお神社ウエブサイトより、原文のまま)

【旧下谷道の名残】
根岸から続く旧下谷道が明瞭に残されている。
江戸名所図会を見ると、下谷道の東側(画面左側)は、素盞雄神社の門前、茶屋があり、池(湧水?)・弁天堂があった。

【素盞雄神社と旧下谷道の名残】
旧下谷道は画面右、素盞雄神社に突き当たって、素盞雄神社の前を通り旧日光街道に合する。この関係は古図と同じである。

円通寺と上野黒門

【百観音 円通寺】
791年坂上田村麻呂が開創したと伝える。
江戸時代、下谷の広徳寺・入谷の鬼子母神とともに「下谷の三寺」とよばれた。秩父・坂東・西国霊場の百体の観音像を安置した観音堂があったことから「百観音」の通称で親しまれたが、観音堂は1855年の大地震で倒壊した。(荒川区教育委員会案内板より)

【円通寺に移設され解体修理(1986年)後の上野黒門、円通寺内】
この黒門は、元、上野山内にあった。寛永寺の八門の内で表門にあたる。幕末、旧幕臣の彰義隊と新政府軍が戦った上野戦争では、黒門前でも激しい攻防が繰り広げられた。無数の弾痕が往時の激戦を今に伝えている。その後、円通寺は彰義隊戦死者を供養した、その機縁で、この黒門は1907年に帝室博物館より円通寺に下賜された。(荒川区解説板より)
※この黒門、実は、二つの部分に分かれており、右側は、将軍が通る「御成門」、左側が、その他の人が通行する「黒門」である。

【東叡山寛永寺・袴腰にあった黒門】
江戸切り絵図・下谷絵図・袴腰部分 国会図書館蔵

【上野黒門】
1900年発行の「旅の家つと. 第29」 国会図書館蔵

1873年「袴腰」から「東照宮脇」に移され、その後、「両大師脇」に移された。1907年帝室博物館より「円通寺」に下賜された。
この写真が、「東照宮脇」なのか「両大師脇」なのかわかりません。

【彰義隊士の墓】
1868年5月15日、寛永寺に集結した彰義隊は新政府との激戦の末上野の山から敗走した。戦いの後、累々と横たわる隊士の遺体はしばらく放置されたが、当時の円通寺の住職・仏磨和尚と神田旅籠町の商人三河屋幸三郎が新政府の許可を得て火葬し埋葬した。以来、円通寺は旧幕府方の戦死者供養の拠点となった。
(荒川区解説板より要約)

【上野黒門に残された無数の弾痕:クローズアップ】

【48の首塚、円通寺】
【48の首塚、石造七重塔、円通寺】
円通寺ウエブサイトによると、首塚上に建つ「石造七重塔の台座」には、「源義家が奥州を鎮定したとき、討ちとった48の首を寺域内に埋めて塚を築いたのが、小塚原の由来」との説明がある。しかし、素盞雄神社・瑞光石の塚も「小塚原」の由来であった。どちらが、妥当なのだろうか?このページの初めの「伊能図」を見てみる、千住大橋を渡って、荒川区に入ると、旧日光街道に沿って、小塚原町−中村町と記述されている、やはり、瑞光石の塚の方が「小塚原」の由来としては妥当なようだ。

小塚原刑場跡

【小塚原回向院】
回向院は、1667年、本所回向院の住職弟誉義観が、行路病死者や刑死者の供養 のために開いた寺で、当時は常行堂と称していた。安政の大獄により刑死した橋本左内・吉田松陰・頼三樹三郎ら多くの志士たちが葬られている。1771年蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが、小塚原で刑死者の解剖に立ち合った。後に『解体新書』を翻訳し、日本医学史上に大きな功績を残したことを記念して、1992年に観臓記念碑が建立された。
(荒川区教育委員会案内板より)

【観臓記念碑】
蘭学を生んだ解体の記念に
1771年・明和8年3月4日に杉田玄白・前野良沢・中川淳庵等がここへ腑分を見に来た。それまでにも解体を見た人はあったが、玄白等はオランダ語の解剖書ターヘル・アナトミアを持って来て、その図を実物とひきくらべ、その正確なのにおどろいた。その帰りみち3人は発憤してこの本を日本の医者のために訳そうと決心し、さっそくあくる日からとりかかった。右へ→

【観臓記念碑】
左より→
そして苦心のすえ、ついに1774年・安永3年8月に、「解体新書」五巻をつくりあげた。
これが西洋の学術書の本格的な翻訳のはじめでこれから蘭学がさかんになり、日本の近代文化がめばえるきっかけとなった。さきに1922年奨進医会が観臓記念碑を本堂裏に建てたが、1945年2月25日戦災をうけたので、解体新書の絵とびらをかたどった浮彫青銅板だけをここへ移して、あらたに建てなおした。
1959年 昭和34年3月4日第15回日本医学会総会の機会に
日本医史学会
日本医学会
日本医師会
(現地案内板、日付を除いて原文のまま)

※道路拡張のため、新本堂が出来、記念碑も、1974年、現在地に移転した。
→【小塚原の刑場跡】
1667年以前に浅草聖天町辺りから移転してきた。間口約108m、奥行き約54mで日光街道に面していたが浅草山谷町と千住宿の間の町並みが途切れる場所だった。
ここでは、刑罰が執り行われるだけでなく、刑死者や行倒れ人等の埋葬、刀の試し切り、腑分けも実施され、徳川家の死んだ馬も埋葬された。これらの供養は、回向院下屋敷が行った。
(荒川区教育委員会案内板より要約)

【史跡エリアに埋葬されている人々(必ずしも遺骨があるとは限らない)】
安政の大獄死者(吉田松陰、橋本左内...)、桜田門外の変・坂下門外の変の死者、ねずみ小僧次郎吉、高橋お伝など
【延命寺、小塚原刑場跡】
延命寺は、もともと小塚原回向院の一部でしたが、1895年鉄道工事のため線路によって分断され、1982年11月20日に線路の南側の部分が延命寺として開山した。

【首切地蔵】
1741年に造立された石造りの延命地蔵菩薩である。無縁供養のため、建てられたといわれる。1896年に開業した隅田川線の敷地予定地に安置されていたため、工事に伴い移された。
(荒川区教育委員会案内板より)

【題目塔】
1698年2月15日に京都三条の商人、八幡屋谷口氏と法春比丘尼により造立された題目塔、17世紀後半、法華信者の谷口氏が全国の街道筋の仕置場等に、一切衆生の救済のため造立した題目塔の一つであり、品川の仕置場等100基以上が確認されている。19世紀前半には土中に埋もれていたが、1867年江戸の法華信者によって再設置された。その際に小塚原の仕置場南端の日光道中沿いに移設し、小塚原の首切地蔵と並んで安置された。1896年、土浦線・隅田川線開通時に線路の南側から現在地に移動した。近代以降、小塚原の仕置場を象徴する石造物として紹介され広く知られるようになった。(荒川区教育委員会案内板より)



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