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歴史散歩:北品川(御殿山跡−東海寺跡−第四台場跡−猟師町跡)を歩く


2023年4月18日(火)
錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、歴史散歩。
  • 江戸期初期には、将軍の御殿があり、中期以降も桜の名所として栄えた御殿山。幕末期には台場建設のための土取り場となり、明治以降も鉄道建設用地となり、今や見る影もありません。
  • 東海寺も、明治維新で後ろ盾を失うと疲弊し、道路・学校・鉄道用地になっていきました。象徴的なのは、東海寺大山墓地、東海道線・山手線・東海道新幹線に挟まれ、その余った敷地に存在するような感じ、しかも、その下をリニア新幹線工事が進行中でした。
  • 幕末期に建造された複数の台場も、明確に見ることができるのは第三台場・第六台場ですが着工後中止された第四台場は天王洲アイルの一角にその石垣を見ることができます。
    品川猟師町は周囲の埋め立てが進み、寄木神社・利田神社・鯨塚がその面影を伝えています。
  • 一部で、品川の語源と言われた蛇行した目黒川も直線化され、河口部分は八ツ山通りとなっていました。

北品川−御殿山

【高輪遍絵図(1850年頃北品川部分)国会図書館蔵】
幕末期の切り絵図には、
  • 目黒川が蛇行しながら、海に注ぐ様子
  • その両側に、東海寺及びその塔頭
  • さくらの名所・御殿山
  • 海岸沿いに旧東海道
などが描かれている。
【北品川の移り変わり】
品川という言葉の由来は、「目黒川がしなりながら流れ、海に注ぐ」ところから付けられたという説がある。品川の町は、目黒川の河口に位置し、古くから湊として栄えてきた。江戸期になると、東海道最初の宿場町として発展し、多くの寺社が建造された。また、背後の御殿山は海が迫る眺望の良いさくらの名所として、江戸市民の憩いの場であった。
しかし、幕末になると、ペリーの来航以来、御殿山は台場建設のための土取で崩された。明治になると、開基・沢庵和尚の名刹東海寺が疲弊し、御殿山も東海寺も鉄道敷設(山手線・東海道線)のため、姿を変えてしまった。幕末期に建造された台場も、あるものは、小学校敷地に、あるものは、埋め立て地の中に姿を消し、台場として目にするのは2ヶ所のみである。品川の言葉の由来となった目黒川も治水の面から直線化が図られ、従来河口であった所は埋め立てられ八ッ山通りに姿を変えた。そしてまた、旧東海寺の敷地の一部はリニア新幹線の変電所として再出発しようとしている。変貌著しい北品川において、現代から未来に受け継がれるものを見ていきたい。

【御殿山公使館図1862年頃:東京大学史料編纂所蔵】
(赤の書き込み文字は筆者のもの。)
この頃には、台場建造騒ぎは収まっていたが、土取場跡が無残に残され、周囲には各国公使館建設が計画されていた。

【北品川・御殿山現代図】
左の図を参考に、現代図に筆者が書き入れたもの。
現代図はカシミール3Dと地理院地図を使用。
【午前の散歩順路1〜5】
1.京浜急行・北品川駅:この周辺に「磯の清水」といわれる良質な飲料水が出る井戸があった。
2.品川台場建造のための土取り場跡
3.御殿山の断面(土取のために削られた御殿山)
4.焼き討ちされた未完成のイギリス公使館跡
5.権現山公園(御殿山の名残の高台)
【午前の散歩順路6〜10】
6.東海寺塔頭・妙解院跡:細川家の墓地
7.現東海寺(東海寺塔頭・玄性院に鐘楼などが移され、東海寺と称する)
8.東海寺大山墓地
9.官営品川硝子製造所
10.東海寺塔頭・少林院跡:山手線敷設のため消滅、著名人の墓は大山墓地に移された。
【1磯の清水、江戸名所図会 7巻[4]16/83】
国会図書館蔵
江戸名所図会には「この井戸、清泉にして旱魃にも涸れることがなかった」とあり、清水横町の名称の由来となっています。今の京浜急行北品川駅南側付近にありました。この清水井戸の水は、自由に汲むことはできず、水屋から買い入れて使用していました。(品川区ウエブサイト)。御殿山、八ッ山などの麓に位置し、良質の飲料水が得られる場所であった。

【高輪遍絵図(1850年頃北品川部分)】の[磯の清水]にも、2つの○が描かれている。左【磯の清水、江戸名所図会】の2つの井戸枡と一致する。

【1東海道品川宿入口:磯の清水】
本来、ここに「磯の清水の案内板」があったはずだが、現在、工事中で除去されている。

【1清水の井】
京浜急行北品川駅前、清水の井があったのは、このあたりか?
【2.御殿山の変貌】
寛永13年に品川宿を見おろす丘陵地に、品川御殿と呼ばれる将軍の館が建てられ、この丘陵地は御殿山といわれるようになった。品川御殿は、元禄15年の火災で焼失して以来、再建されることはなかった。八代将軍徳川吉宗の時代になると、飛鳥山ともに桜の植林が進められ、御殿山は花見の名所となった。幕末になると、台場建設用の土取で崩され、維新になると鉄道建設によって東西に分断されていった。

【2.品川御殿やま、広重、パブリックドメイン美術館より】
←手前から、洲崎・猟師町、目黒川、鳥海橋、品川宿、削られた御殿山へと、人々がさくらの花見に上っていく様子が描かれている。

【2.削られた御殿山】
北品川駅前の国道15号に架かる歩道橋を渡り、西に直進すると、鉄道にぶつかり、その背後に見えるのは、現在の御殿山と東京マリオットホテルである。

【2.削られた御殿山】

【3.御殿山の断面】
削られた御殿山の断面がよくわかる場所になっている。

【4.御殿山英国公使館建設跡地(幕末期)】
上りきると、御殿山の名残の高台となる。
品川区北品川3-5-9、北品川郵政宿舎

【5.権現山公園】
さらに進むと、鉄道にぶつかるが、崖上に小さな公園が残されている。

【5.権現山公園】
御殿山は台場建造の土取で切り崩されたばかりではなく、鉄道建設のために大きくえぐり取られた。

【5.権現山公園】
手前から、東海道線、東海寺大山墓地、山手線、御殿山を望む


旧東海寺境内

【寛保延享の頃の東海寺】

7.東海寺
1638年(寛永15年)に三代将軍徳川家光が、名僧沢庵のために創建した臨済宗大徳寺派のお寺。かつては15万7千平方メートル余りの広大な寺域を有し、享保元年には塔頭が17院に及んだが明治維新で荒廃、現在の東海寺は、塔頭のひとつだった玄性院がその名を引き継ぎだもの。(右へ続く→)

【武蔵野国北品川宿東海寺全景】
荏原郡役所跡の案内板の一部(黒文字は筆者記入)
(→左より)
旧東海寺の境内からは、東に白帆の舟が浮かぶ静かな品川浦の海が、西には富士の嶺、南には水清らかな目黒川の流れ、そして北には桜の名所として知られた御殿山が望めた。
この天然の風向には、永く京都に住み慣れた沢庵和尚もきっと、満足していたことだろう。
(荏原郡役所跡の案内板より)

【現山手通り】
旧東海寺の参道は、現在、山手通りになっている。
東海寺塔頭・妙解院跡:細川家の墓地

【6.東海寺塔頭・妙解院跡:細川家の墓地】
熊本藩主細川家の菩提寺、東海寺塔頭の一つ妙解院があった。
1871年妙解院は廃寺となったが、墓所の部分は細川氏の所有となり現在に至る。通常、非公開。

【6.細川家墓域】
非公開だが、裏に回ると、立派な石灯籠が見える。この辺に細川家の墓があると思われる。

【6.細川家墓域と目黒川散策路】

【7.現在の東海寺】
東海寺の名を引き継いでいるが、元々は、東海寺塔頭玄性院。

【7.鐘楼】
鐘楼にある梵鐘は1692年(元禄5)の鋳造で、五代将軍綱吉の母、桂昌院が将軍家光の冥福を祈るために寄進したもの。旧東海寺から移設されたもの。

【8.荏原郡役所跡】
現東海寺の道を挟んだ西側の東海寺境内地に、1878年荏原郡役所が置かれた。

【8.東海尋常高等小学校発祥の地】
1908年、東海寺境内地に東海尋常高等小学校が開校との碑がある。

【9.東海寺大山墓地入口】
山手通りを西へ進むと、「京浜東北線・東海道線」ガードに至る。ここをくぐって右に折れると、『東海寺大山墓地入口』である。

【9.東海寺開山沢庵禅師墓道】

【9.東海寺開基、沢庵の墓】
沢庵:1573(天正1年)〜1645(正保2年)、江戸時代初期に活躍した禅僧で、名は宗彭、沢庵は道号。但馬国出石(現、兵庫県豊岡市)に生まれ、幼少の頃出家して禅を学び、各地を修行して信望を集め、1609年(慶長14年)大徳寺の153世住持となった。
1629年(寛永6年)紫衣事件で流罪となり、出羽国上山(現、山形県上山市)藩主土岐頼行にお預けとなる。3年後許され、その後は三代将軍徳川家光に重用される。1639年(寛永16年)家光によって創建された品川・東海寺の開山に迎えられ、晩年を送った。
沢庵は禅僧として大成しただけでなく、兵法、儒学に通じ、書画、詩歌にもすぐれ、茶道に造詣が深かった。
(品川区教育委員会)

【9.絹本著色沢庵和尚像(堺市祥雲寺所蔵):重要文化財】
「この沢庵像は頂相といわれる禅僧の肖像画の典型で、画面上部に沢庵の手になる賛が書かれています。賛からこの肖像は沢庵が67才のものであること、祥雲寺の創建に関わった堺の豪商、谷正安の依頼によって描かれたものであることがわかります。」(堺市ウエブサイトより転載)
※堺市祥雲寺は、1625年(寛永2年)沢庵和尚によって創建された。
※死に際し、弟子に辞世の偈を求められ、「夢」の一文字を書き、筆を投げて示寂したという。
※沢庵は紫衣事件で出羽国に流罪となり、春雨庵(山形県上山市)に隠遁したが、付近住民の差し入れた大量の大根を干して漬け込み、保存食にしたといい、現在、春雨庵境内には「沢庵漬名称発祥の地碑」がある。
※宮本武蔵との関係は、吉川英治の創作で、沢庵との関係はない。

【9.服部南郭の墓】
服部南郭:1683年(天和3年)〜1759年(宝暦9年)
14歳で江戸へ下り、歌と画をもって柳沢吉保に仕えた。のち職を辞し、塾を開いて教授。荻生徂徠門下で、経学の太宰春台とともに、詩文派の代表として双璧をなし、温厚な人柄と、詩人的天分の豊かさによって、門人は遠く山陽、九州からも集った。著書に『南郭文集』、『唐詩選国字解』、『大東世語』などがある。(ブリタニカ国際大百科事典より)

【9.服部南郭肖像】
肖像集 5. 服部南郭・狩谷懐之、〔栗原信充//画〕江戸後期、国会図書館蔵

【9.服部南郭注解による唐詩選国字解(部分)】
国会図書館蔵
  • 1780年(安永9年)8月18日原版刻成
    注解者 服部南郭(故人)
    1882年(明治15年)6月5日刻成
    版主 小林新兵衛
  • 表書きには、南郭先生辨、(門人)林元圭録
「唐詩選国字解」とは、江戸時代を代表する詩人服部南郭が、弟子を相手に『唐詩選』の詩を一首ずつ分かりやすく講釈した当時のベストセラー。その質には、いろいろな見解があるようですが、話し言葉を記録したもので、今日、日常会話でも『唐詩選』が出てくるきっかけとなったもの。大いに評価すべきでしょう。
(以下の詩は、左の赤枠の部分)
春暁 孟浩然
  • 春眠不覚暁 處處聞啼鳥
    夜來風雨聲 花落知多少
注解 服部南郭
  • 春ハ子ムタイジブンナレバ夜ノアケルヲモシラズウツラウツラトソイレバ鳥ノ声ガキコエル夜ガアケタソウナ
    昨夜ハ風雨ガハケシカッタガサダメテ花モ大ブンヲチタデアラフ春ノスギユクヲオシム情ナリ。
    ナンノ意モナイヤウナ詩ナレドモ。真景實非玄悟者不能道。

【9.渋川春海の墓】
渋川春海:1639年(寛永16年)〜1715年(正徳5年)
京都で生まれ、14歳で父の跡を継いで幕府の碁所となり安井算哲(2代)と称した。以後の研鑽の一方で天文・数学・暦学を学び暦学者となった。
その頃、日本では中国の宣明暦を使っていたが、2日の誤差があったので、春海はみずから計算して新しい歴をつくった。これが貞享元年(1684)に還暦となり翌年から用いられ、貞享暦として後の太陰暦の基本となった。(右へ)

【9.渋川春海像:ウイキペディア】
(左より)
貞享暦は日本人の手でつくられた初めての和暦であり、春海はこの功によって、幕府初の天文方に任ぜられ、本所に宅地を拝領した。春海は、屋敷内に司天台(天文台)をもうけて天体の観測にあたった。これが江戸で最初の天文台である。
(品川区教育委員会案内板より)

【9.井上勝の墓】


【9.島倉千代子の墓】
島倉千代子:1938年(昭和13年)〜 2013年(平成25年)
日本の演歌・歌謡曲歌手。東京府東京市(現在の東京都)品川区北品川出身。
主な歌:この世の花、東京だョおっ母さん、からたち日記、人生いろいろ。

【9.ロンドン留学中の井上勝】

【9.賀茂真淵の墓】
賀茂真淵:1697(元禄10年)〜1769年(明和6年)
  • 遠江国敷智郡浜松庄伊場村(今の浜松市中区東伊場)に賀茂神社の神官岡部政信の三男として生まれた。
  • 11歳の時、荷田春満の姪に手習いを学ぶ。
  • 26歳の時、歌会で荷田春満に出会い、国学へ目覚める。
  • 31歳の頃、上京し、荷田春満に入門、詠歌・学問に励む。
  • 春満没後、江戸に住む
  • 50歳の時、八代将軍徳川吉宗の次男田安宗武の和学御用となる。
  • 64歳で隠居、著述と門弟の養成に努めた。
  • 73歳で逝去

【9.賀茂真淵像:円山応震画、本居宣長記念館蔵
賀茂真淵は「万葉集」を研究し、【国学】を樹立した。
主な著書に[万葉集遠江歌考]、[万葉解]、[万葉考]、[歌意考]、[国意考]、[祝詞考]、[にひまなび]、[文意考]、[五意考]、[冠辞考]、[神楽考]、[源氏物語新釈]、[ことばもゝくさ]などがある。

真淵の門人は、340名もいたという。
橘千蔭、村田春海、楫取魚彦、加藤宇万伎、平賀源内、塙保己一等々。大名の後室や侍女など女性の門人も多かったという。
最も優れた門人は本居宣長で、真淵の学問を継承・完成させたという。
(この項は、賀茂真淵記念館本居宣長記念館、ウイキペディアを参考にしました)
【東海寺墓地と鉄道の位置関係】
左に地図は、「中央新幹線北品川非常口及び変電施設(地下部)新設工事における環境保全について」JR東海、より
(但し、青の書き込みは筆者)
  • 東海道線敷設で東海寺分断
  • 山手線敷設により、塔頭少林院消滅
  • 山手通りが境内を縦断
  • 中央新幹線(リニア)の非常口・変電施設が旧境内地に出来る

【9.墓地の西側】
山手線、新幹線など

【9.墓地の東側】
京浜東北線、東海道線、上野東京ラインなど

【10.官営品川硝子製造所跡】
「興業社」→「品川硝子製造所」→「第一三共物流センター」→中央新幹線北品川非常口、変電施設
(大崎今昔物語「品川歴史博物館」より)
  • 1873年(明治6年)、明治政府は、東海寺境内の目黒川河畔に模範工場として日本初の板ガラス製造工場「興業社」設立した。...失敗
  • 1876年(明治9年)、工部省は「興業社」を買収し、官営の「品川硝子製造所」となった。国産板ガラスの製造に着手したが、本格製造には至らず。
  • 1879年(明治12年)、洋食器の製造開始
  • 1885年(明治18年)、西村勝三に払い下げられる。
  • 1888年(明治21年)、業務拡張、ビール瓶を手がける
  • 1892年(明治25年)、解散
ここで育った職人岩城滝次郎は「岩城硝子」を興し、島田孫一は「島田硝子」を興した。また、硝子製造技術は「日本光学」に受け継がれた。硝子製造用の窯に必要な耐火煉瓦製造が「品川白煉瓦製造所」を生み出す。
(大崎今昔物語「品川歴史博物館」より)

【10.中央リニア新幹線工事現場】

【10.中央リニア新幹線工事現場】
山手通りを横断するのは、リニア新幹線掘削土砂搬出設備と思われる。

【11.東海寺塔頭・春雨寺】
出羽上山にある春雨庵(しゅんぬあん)は沢庵和尚が流刑にあった3年間を過ごした寺。この寺を、1673年(延宝元年)土岐頼行のとき、江戸・品川宿、東海禅寺境内(現在地)に移し、土岐家の菩提寺とした。春雨庵では、沢庵さんの絶筆とされる『夢』一文字の書や雲谷筆与の筆による絹本墨画『沢庵和尚像』、土岐頼芸の筆による紙本墨画『鷹図』などの東京都指定有形文化財を所蔵している。
この寺の経営方針により、マンションを併設、その利益により寺を運営しているとのこと。
(一部、春雨寺ウエブサイトより)

【12.東海寺塔頭・少林院林泉】江戸名所図会
ここ少林院墓地には「賀茂縣主大人墓」と「南郭先生墓」が見える。

東海寺少林院は江戸文人のサロンの場として、多くの学者、文人を集めていた。(東京都都市計画局案内板より)
その為、賀茂真淵、服部南郭などの文化人の墓もあったが、鉄道敷設(山手線など)のため、大山墓地への移転を余儀なくされた。
※夕日を見物する台地は、御殿山の南西端と思われる。



第4台場〜猟師町〜御殿山下台場
大崎駅周辺で昼食後、りんかい線で天王洲アイル(第4台場)向かう。
【御台場の築造】
1853年(嘉永6年)6月のペリー来航後、幕府は再訪する黒船を迎え撃つ必要に迫られ、ペリー再訪までに、品川沖の海中に砲台島として2列11基、海岸付近に1基、計12基の砲台を築造することが決定された。工事は急ピッチで進められたが、安政元年1854年(安政元年)1月のペリーの再訪までには一部しか完成せず、3月には日米和親条約が締結された。結局、お台場は江戸湾海戦に用いられることはなかった。
  • 第一台場、第二台場、第三台場は1854年7月竣工
  • 第五台場、第六台場、御殿山下台場は1854年12月竣工
  • 第四台場、第七台場は着工したが途中で中止
  • 第八台場〜第十一台場は未着工
築造は、江川太郎左衛門の指揮の下に行われ、築造資材としての坑木(松・杉)は関東地方の御林から調達し、石材は相模・伊豆・駿河から海上輸送、土砂は品川御殿山、八ッ山、泉岳寺山を切り崩して運び、総工費は約100万両という膨大なものとなった。
最終的に完成した6基の御台場は、江戸湾防衛の拠点として、親藩・譜代を中心とする大名家によって警備され、幕末まで続いた。
【その後の御台場】
  • 御殿山下台場:「東品川一丁目」の一部となり、区立台場保育園・区立台場小学校となっている。五角形の台場の形は道路上に残っている。
  • 第四台場:明治期には、緒明菊三郎が緒明造船所を設けた。現在は、埋め立て拡張され「天王洲アイル」となっている。
    天王洲大橋から当時の石垣の一部を見ることができる。
  • 第一台場、第五台場:「品川埠頭」造成時に含まれてしまって、当時の形を辿ることはできない。
  • 第二台場・第七台場:撤去
  • 第三台場・第六台場:東京市に払い下げられ、1926年(大正15年)国指定史跡となった。
    第三台場は陸続きで「台場公園」として解放されているが、第六台場は立ち入り禁止になっている。
(品川歴史館解説シート(品川御台場)、ウイキペディアを参照した)

【東京市高低図・1925年頃の品川部分】
後藤・安田記念東京都市研究所蔵
御殿山下台場、第一台場〜第七台場までの位置関係を示す。
赤枠、赤字は筆者の書き込み。
当時の航路(澪すじと思われる)が描かれている、台場を建造してやってくるペリー艦隊を挟み撃ちにする計画だったようだが、建造中にやってきては砲台としては役に立たなかったものと思われる。

【1909年頃の北品川】
後藤・安田記念東京都市研究所蔵

【御台場の痕跡を求めて:合成図】
現代の地図に、東京市高低図・1925(赤枠)を重ね合わせて、御殿山下台場・第四台場の現在地を明確にした。

【午後の散歩順路】
  1. 第4台場跡:天王洲アイルは第4台場跡(緒明造船所跡)を、南西に拡張する形で作られている。
  2. 寄木神社:猟師町全体に、ある時期までは、海岸線が接近していたようだ。寄木神社の付近は、埋め立てが進んでも船だまりとして使われた形跡がある。
  3. 正和稲荷神社:直ぐ脇に御殿山台場跡の区画がクッキリと見える場所がある。ほとんど海岸線と思われる。
  4. 御殿山台場跡
  5. 利田神社と鯨塚
  6. 目黒川河口の現在


【1.海岸通り・天王洲大橋】
傍らには、東京モノレールが走っている。ここから、未完成の第4台場跡の石垣を見ることができる。

【1.第4台場跡・ボードウォークから見た東京モノレール】

【1.第4台場跡・ボードウォーク】
第4台場跡(石垣)上に設けられた遊歩道「天王洲アイル ボードウォーク」

【1.第4台場跡・ボードウォーク】

【1.シーフォートスクエア】
ボードウオークと第一ホテル(右側)

【1.対岸の品川埠頭】
京浜運河の対岸は品川埠頭、ここには、第一台場・第五台場が含まれている。

【1.品川埠頭橋】
品川埠頭橋は天王洲アイルと品川埠頭を結んでいる。

【1.新東海橋】
天王洲アイルを離れ、天王洲運河を渡り品川猟師町へ。

【2.寄木神社】
創建年代不詳、猟師町の鎮守である。

寄木神社にある「江戸漁業根源の碑」には、
「大坂陣後、豊臣の本田九八郎一族は家康を狙って江戸に下るが志かなわず品川で漁師になり瀬戸内漁業を広めた」とある。
江戸幕府は、一つの寒村にすぎなかった品川猟師町に、関西地方の漁師を移住させ進んだ漁法を伝えると共に幕府の魚介調達の任務にあたらせたのだった。
御菜肴八ヶ浦(金杉浦、本芝浦、品川浦、大井御林浦、羽田浦、生麦浦、新宿浦、神奈川浦)を定め1ヶ月に3度の鮮魚の献上を義務とした。(右へ続く→)

【2.寄木明神社】
江戸名所図会 7巻 [4] 第4-6冊 巻2、国会図書館蔵
江戸期の絵図では、海岸線が神社の目前だった、明治になって、埋め立ても進み船だまりになったと思われる。実際、道を隔てたところに、区立洲崎公園があるが、船だまりの名残だろう。

(→左より)
[浦高札、寄木神社蔵]猟師町の定めが書かれているようだ(海難救助、密貿易など)
(品川区公式チャンネル しながわネットTVより)

【2.寄木神社前の尾根道】
寄木神社の前には、旧猟師町の細い尾根道走っている。
寄木神社とは反対側に、小さな区立公園が見える。

【2.区立洲崎公園】
近寄ってみると、区立洲崎公園とある。合成図では、旧猟師町の入り江になっているので、船着き場であったようだ。

【2.品川海苔取、歌川広重、東京国立博物館蔵】

[海苔の養殖]
江戸開府前から、江戸では、海苔は食用にされていたようだが、浅草海苔の名が生まれたのは、慶長年間という。次いで、品川漁師が大量養殖法を開発してから、生産は品川主体となっていく。江戸時代の延宝年間(1673-1680)の頃、品川の漁師が、魚活簀の木柵にノリが生えているのを発見した。これが海中にナラ・カシなどの粗朶ヒビを建てる海苔養殖法の発明に繋がったという。その後、木ヒビは孟宗竹へさらに椰子の繊維へと変わり、戦後は丈夫な合成繊維へと進化した。

【2.収穫した海苔を天日で乾燥する】
東海道名所圖會 6巻 [6] 寛政9 [1797] 68/87

・海苔の養殖は9月頃「ヒビ」をたて、海苔の胞子を付ける。
・11月に成長した「海苔摘み」が始まる。
・細かく刻み型に流し込んで成形し天日で乾かす。
・1955年の生産量は9500万枚に及んだが、1962年大東京港建設のために漁業権を放棄して幕を閉じることになる。(品川歴史館解説ノートより)

【3.正和稲荷神社】
しばらく、旧猟師町の細い尾根道を北へ進み、御殿山下台場にさしかかる所に鎮座している。

【3.御殿山下台場を区切る路地】
左側のブロック塀は正和稲荷神社のもの、右の白い塀は御殿山台場の上に築かれた区立台場小学校。とすると、正和稲荷神社は御殿山下台場築造以前の波打ち際にあったことになる。

【4.御殿山下台場(砲台)跡】
路地を更に進むと、区立台場小学校と区立台場保育園の正門に出る。モニュメントの石垣は、御殿山下台場のもの、しかし灯台は、1870年(明治3年)に第二台場に造られた灯台を模したもの。本物の灯台は、愛知県犬山市の明治村に移設保存されている。(品川区教育委員会案内板より抜粋)

【3.御殿山下台場を区切る路地】
御殿山下台場(砲台)跡を大きく回ると(合成図U参照)、再び小学校に戻るが、この路地を直進すると、正和稲荷神社に出て一周が終わる。
【5.洲崎弁天:利田神社】
1626年(寛永3年)に創建された。沢庵宗彭が目黒川の砂州に弁才天を勧請したのが起源である。当時は「洲崎弁天」と呼ばれ、修験道当山派の修験者が堂宇を管理していた。
明治時代の神仏分離政策に伴い、弁才天に相当する日本古来の神「市杵島姫命」に祭神を変更し、「利田神社」と称する神社になった。「利田(かがた)」とは、江戸時代の品川宿名主だった「利田氏」に由来する。(ウイキペディアより)

【5.鯨塚】

【5.鯨碑】

【6.旧目黒川】
旧目黒川は直線に改修され、しなるような流れは失われ、八ツ山通りとなった。

【6.旧目黒川】

【6.品川浦の船だまり】
目黒川河口部は、船だまりとして、つり船や屋形船が舳先を並べている。

【6.品川浦の船だまり】




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