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歴史散歩:旧藍染川(谷中、根津)→不忍通り→旧忍川(上野、台東)→三味線堀跡)を歩く

2014年12月1日(月)
錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、東京歴史散歩。今回は、藍染川の旧河道を辿り、不忍池へ、そこから忍川旧河道を辿り、三味線堀跡まで歩きます。谷中では寛永寺以前から存在する寺院を訪ねたり、古不忍池に架かっていた橋跡を見たり、東上野・台東では大名屋敷の痕跡も探します。
※今回は、上野に縁のある6人の協力を得て、7人で歩きました。ご協力に感謝します。なお、以下に書かれた見解、感想はInternet Walkの管理者個人のものです。

【コースの概略】
[旧藍染川河道と大名屋敷跡]
@藍染橋跡
A三浦家屋敷跡
B領玄寺貝塚
C玉林寺
D旧谷中坂町と善光寺坂
E松平伊豆守屋敷跡
F根津水路跡
G都電停留所跡
[H1877年頃の不忍池]
[忍川旧河道]
I三橋跡
J立花家屋敷跡
K佐竹家屋敷跡
L三味線堀跡
M生駒屋敷跡
[下谷御成街道界隈]
N旧下谷長者町
O松坂屋上野店

旧藍染川河道(台東区・文京区の区界)

【寛保享保ノ頃(1716-1743)谷中根津:国立国会図書館蔵】

【@藍染橋跡:旧藍染川と三崎坂】
上野の山は、武蔵野台地の東端、細かくいえば、本郷台地の東端に位置する。国土地理院のデジタル標高地形図を見ると、太古の昔、この台地を、石神井川が当初、東に下り、王子の飛鳥山に当たって、南下し東京湾に注いでいたと推定される。しかし、いつの時代からか、石神井川は飛鳥山を突き抜けて直接、東京湾(現隅田川)に注ぐようになる。それにもかかわらず、石神井川の南下の痕跡は、大幅に水量を減じたものの、台地の湧き水を集めて東京湾に繋がっていた。その名残が「藍染川」であり「不忍池」である。さらに、江戸期からは、不忍池から出た流れは、忍川となって台東区中央にある三味線堀まで繋がるようになる。

【藍染川旧河道】
くねくねと続いているので「ヘビ道」という名もある。
藍染川は、水はけが悪くよく氾濫したので、1921年から暗渠工事が始められた。流路の多くは台東区・文京区の区境の道路となった。
(文京区教育委員会案内板より抜粋)

【藍染川旧河道】
左(山側)が台東区谷中二丁目、右(谷側)が文京区千駄木二丁目
なぜか、住居表示板の色まで違う。

【A三浦家下屋敷跡とあかぢ坂】
細い藍染川旧河道をしばらく進むと、少し広めの交差点に出る。左方、上野の山へ登る坂を「あかぢ坂」という。「あかぢ坂」は明治期につけられた名前である。江戸期には、この坂の両側一帯に、美作勝山藩三浦家の下屋敷があった。
1869年、藩名を真島藩と改めた。
1872年、新しい町をつくる時、この辺一帯が「谷中真島町」となった。
[三つの坂]
(南の坂)三浦坂:三浦家に由来
(北の坂)真島坂:真島藩に由来
(中の坂)あかぢ坂:明治の財閥・渡辺治右衛門の邸宅が石垣の上一帯にあった事に因る。渡辺治右衛門は日本橋で「明石屋」という乾物屋を営んでいたので、通称、明石屋治右衛門といった。それが略されて「明治(あかぢ)」と呼ばれ、坂が出来たときには明治坂(あかぢさか)の名を持っていた。(「江戸と東京の坂」より)。九代目が東京渡辺銀行を設立したが、昭和2年の恐慌で破産。

藍染川旧河道を離れて、このあかぢ坂を上り、上野の山、西斜面の大名屋敷跡や寺を訪ねる事にする。

【あかぢ坂上から】両側、三浦家下屋敷跡

【三浦坂上から】
左が玉林寺(旧谷中坂町)、右が三浦家下屋敷跡(旧谷中真島町)
三浦坂は下らずに、反対の領玄寺に向かう。

【B領玄寺貝塚】
1649年、谷中感応寺9世日長が隠棲の地として開創。
日長山領玄寺という。開山上人の墓所周辺は「領玄寺貝塚」として知られている。
(日蓮宗東京都北部宗務所ウエブサイトより)
領玄寺境内の墓地や本堂裏手は、縄文時代中期(紀元前3000年〜2000年ころ)の小規模な貝塚が点々と散在し、「貝−ハマグリ・アサリ等、十二種類の貝」「土器−勝坂式・加曽利E式(中期後半)・堀之内式(後期前半)等の縄文土器」「石器−打製石斧、・石鏃・石錘等」などの遺物が発見されている。
領玄寺貝塚は上野台地の西端に立地し、北方には同時期の延命院貝塚が見られ、現在のJR線路に沿っては天王寺貝塚(谷中霊園内)や新坂貝塚(鴬谷駅南口付近)などの貝塚遺跡が分布する。

(台東区教育委員会案内板より抜粋)
次ぎに、玉林寺に向かう。

【三叉路に立つヒマラヤスギ】
領玄寺を後にして、崖を下る路地伝いに玉林寺へ向かう。
ヒマラヤスギの分かれ道を右方向にしばらく進むと、右側に崖を下る路地がある。玉林寺に出るまでに、寺院あり、住宅あり、古井戸ありで、いかにも谷中らしい風情が続く。
このヒマラヤスギと谷中寺町の町並みを保存しようと、住民の方々は努力しているようだ。

【C玉林寺】

1591年創建という年代は、寛永寺よりも古いお寺。当初は、旧谷中坂町の多くが寺域だったらしい(11100坪)が、他寺院に貸したり分けたりして、現在では、中心部が残るのみ。この玉林寺へ入る道も、正面入り口は善光寺坂からだが、他にも二つ、「三浦坂からの細い路地」、「ヒマラヤ杉右側から下る路地」がある。現境内、旧境内に現在も使える古井戸も、この寺の歴史を感じさせる。創建前よりあったという「椎の大木」が本堂裏手にあり、都指定天然記念物となっている。12月1日は朝から、雨で、寺の人に案内されて、「椎の大木」は見たのだが、撮影はうまくいかなかった。

【D旧谷中坂町と善光寺坂】
玉林寺を後にすると、言問通りの善光寺坂部分に出る。
「善光寺坂」という名は、この坂上の北側にあつた善光寺にちなむ。善光寺は、1601年信濃善光寺の宿院として建立され門前町もできた。寺は1703年の大火に類焼して、青山に移転したが、名称のみ残った。(台東区教育委員会案内板より抜粋)
今でこそ、この坂の北側には、多くの寺院があるが、1600年代の初期には、善光寺と玉林寺だけであった。

【E旧谷中清水町と松平伊豆守屋敷跡】
言問通り(善光寺坂)を横断して、南側に渡っても、旧善光寺門前と天眼寺の部分は、旧谷中坂町。ここを過ぎると、絵地図で見られる「松平伊豆守」という広い地域、1633年、松平伊豆守信綱が拝領した土地になる。松平信綱の一族は、もともと、大河内氏であったが、徳川家康から「松平」を称することを許されていた。幕末、鳥羽伏見の戦い後、新政府軍に加わり、信古の代から大河内氏に復姓した。1872年、大河内家屋敷地を一町として起立、谷中清水町と称した。
(台東区案内板より抜粋)

【御厩長屋】
旧谷中坂町と旧谷中清水町の境に、崖を下る路地がある。

【御厩長屋】

崖をおりきったところに、二つの井戸(現在使用中)がある不思議な空間に出る。ここは、松平伊豆守の家臣用の長屋があったところでで「御厩長屋」というそうだ。ここは、江戸・明治の風情を残す、貴重な空間として、あまりにも有名な場所だ。

【御厩長屋】
一つ目の井戸、これはNHKの「おしん」のロケに使われたことで、さらに有名になった。ロケ当時は、古い日本家屋があったのだが、取り壊され、現在、新築中。この井戸はどうなるのだろうか?

【御厩長屋】
二つ目の井戸、路地の中央にある。おそらくは、江戸期から、使われ続けてきた二つの井戸、多くの住民の囁きを聞いてきたに違いない。両側の住宅が新しくなっても、この路地の風情は、なんとか保存してほしいものである。

御厩長屋路地を抜けて、東の方向を見ると、突き当たりに、都立上野高校の崖下のグラウンドの塀が見えた。崖下のグラウンドは、大河内氏から借りたとか買ったとかいう話は、以前、聞いたことがある。大正1年の地積地図を見ると、グラウンドは「大河内正敏邸」となっている。

【F不忍池へ向かう水路跡】
古地図でわかるように松平伊豆守屋敷跡のすぐ西側に、藍染川の旧河道がある。しかし、言問通りを更に下った、根津一丁目交差点付近には、江戸期には幾つか水路があった。おそらく、本郷台地からの「湧き水」と「下水」の水路であろう。今回は、不忍通りに平行して走る、根津から不忍池に向かうもう一つの水路跡を辿ることにする。

【不忍池へ向かう水路跡】
「赤札堂」や「はん亭」の後ろを通って、不忍池に向かう。

【不忍池へ向かう水路跡】
根津方面からの水の流れは、ここで不忍池に注ぐことになる。
ここが、不忍池の北限(1700年代初期)だ。

【不忍池北限付近】
撮影地点は左と同じ、カメラを北向きから東向き振って撮影。写真の赤の矢印は、藍染川が不忍池に注ぐ地点。この道は、1700年代初期の不忍池北限と考えられる。

【G池之端児童遊園.都電停留所跡】
この交差点の一角に、都電停留所跡(池之端七軒町)があり、都電の展示がある。



1877年頃(明治初期)の不忍池
【H1877年頃の不忍池】
左の地図は、明治11(1878)年3月に内務省が太政官に提出したもので、内務省の地理局が刊行した初めての近代的測量地図と言われている。 (国立公文書館蔵・重要文化財)
公文書館からダウンロードした地図と現代の地図をパソコン上で重ね合わせ、縮尺・方位などを細かく修正して、比較した。現在の建造物の位置をで入れた。
当時の不忍池は、西と南に池と区切られた水路が出来ており、何ヶ所かに橋が架かっていたことがわかる。この水路は、龍門橋あるいは三橋のあたりから忍川と呼ばれ、三味線堀を経て、隅田川に注ぐようになる。
不忍池を巡る水路は、江戸後期に出来たが、不忍池に汚水(旧藍染川と根津方面からの水路を通る)が流れ込むのを減少させる役割があったと思われる。
現在は、暗渠になり、その上を不忍通りが走り、流れが見えなくなっている。橋のあった場所は、交差点や石碑で、かすかに忍ぶことが出来る。

【根津方面からの水路が不忍通りに出るところ】

右の道は、1877年頃の地図(上図)では、根津方面からの水路にあたるが、1700年代初期の地図を参照すると、不忍池の輪郭線に相当する。(江戸期には不忍通りはなかった)

【花見橋跡】
不忍池を横切って東京大学へ向かう横断歩道になっている。
右に見えるのは池之端交番。

【中橋跡】
不忍池西交差点、横断して西へ向かうと無縁坂。

【(現)池之端一丁目交差点】
赤い矢印は(現)台東区立上野区民館、1877年の地図によると、ここは、水路の中央。

【雪見橋跡】
赤い矢印が「雪見橋」の石碑。

【龍門橋跡】
不忍池の水が忍川に出る出口に架かっていた橋。



忍川旧河道(三橋−アメ横ビル−立花屋敷跡−三味線堀跡)

【I三橋跡】
中央通りを渡る「赤い矢印」が三橋のあったところ。忍川はそのまま路地に入っていく。
忍川が横断する(現)中央通りには、地下鉄銀座線が通っており、忍川跡も、その工事の際(1930年)、破壊されたと思われていた。中央通り西側の駐車場建設の際、石組み水路が発見された(2005年)が、状態は良好であり、台東区では復元する予定とのこと。
(台東区ウエブサイトより)

【東叡山黒門前 忍川 三橋】
「江戸名所図絵 1834-1836」(国立国会図書館蔵)
歴代将軍が寛永寺参拝に利用した御成道を、忍川が横切っていた。忍川を渡るために、三つの橋が架けられていたので、三橋と呼ばれた。中央の大きい橋は将軍などが通る橋、左右にある小さい橋は一般人が通行していた。

【東都下谷絵図 1857年 東京国立博物館蔵】

【忍川旧河道:A地点】
中央通りから忍川旧河道に入る、正面にアメ横センタービルがあるが、かまわずに進む(ビル内に入る)。左図のA地点はアメ横センタービルと思われる。

【忍川旧河道:B地点】
アメ横センタービルは突き抜けられないので、廻ってみるとAMEYOKO PLAZAの中央通路に出る。1884年の測量図と現代の地図を重ねてみると、上図のB地点はJRの高架橋の下に相当するので、この通路のどこかで南下をすると思われる。

【忍川旧河道:C地点】
忍川C地点は、「サテンドール」の看板か、もっと手前か?


【忍川旧河道】
C地点からJRのガードを抜けたところ、手前のUロードは新道であり、忍川旧河道は「喫茶店 丘」の向こうの道になる。

【忍川旧河道:D地点】
「喫茶店 丘」の前の路地を進むと、昭和通りにぶつかる。撮影地点からは、高速度道路が見える、ここがD地点。幕末の切り絵図では「三枚橋」と書かれている。

【忍川旧河道:E地点】
昭和通りD地点は、高速道路があり、横断歩道はない。少し迂回して、忍川旧河道を進む。正面の信号機がE地点、すなわち立花屋敷になる。現在の、この路地は東に真っ直ぐ抜けているが、江戸期には立花屋敷があり、忍川はこの地点で左右に方向に分かれ、立花屋敷を囲むように流れていた。

【忍川旧河道:F地点】
忍川旧河道を左に進むと、立花屋敷F地点になる(ローソン)。

【J立花飛騨守上屋敷跡】
西町太郎稲荷神社
立花氏は、九州の戦国大名大友氏の一門。豊臣秀吉の九州平定の際に、大友氏の先陣として活躍した立花宗茂は、筑後柳川13万石の城主となった。関ヶ原の戦いで西軍に味方して、柳川を追われるが、20年後の1620年、再び立花氏が城主となり、明治維新まで柳川を治めることになった。
屋敷地を囲む水路も暗渠?にされて、見えない、立花屋敷の痕跡は「西町太郎稲荷神社」のみである。
江戸時代、幕藩体制が整えられると、藩主の正室が江戸に居住するだけでなく、各藩の家臣たちも江戸詰と称して妻子を国元に残し江戸に単身赴任するようになります。柳川藩も他の藩と同様に江戸に上中下の広大な屋敷地を与えられていました。柳川藩の江戸屋敷は、上屋敷が下谷徒町、中屋敷が浅草鳥越、下屋敷が浅草末にあった。

江戸大名屋敷は通常、町人が立ち入ることはできませんでしたが、中には屋敷内の鎮守を公開し参詣を許可している所もありました。立花家の下屋敷に祀られていた「太郎稲荷」もそのひとつです。この太郎稲荷は疱瘡を治す神として人々の信仰を集めていました。

太郎稲荷への参詣は江戸時代に数度大流行したようで、立花家文書の中にもその繁盛ぶりを伝える書状が残されています。それによると、太郎稲荷への賽銭は月に百両にものぼり、あまりの人手に喧嘩口論まで起こる有様であったということです。そのような中、柳川藩では「太郎稲荷参詣」の鑑札を発行し、藩邸に入る人を管理するとともに、鑑札代を徴収し、収入の増加を目論んでいたようです。
(以上、「立花家資料館」ウエブサイトより)

明治維新後、多くの大名が東京に移り住む中で、立花家は柳川に留まった。第二次大戦後、旧華族たちが困窮する中、当時立花家の当主であった和雄とその夫人文子は、旧伯爵邸を利用して料亭「御花」を経営することを決意。最初は手探りの状態だったというが、やがて「御花」は水郷柳川の観光の拠点として、また、大名文化を今に伝える文化施設として親しまれるようになった。
(以上、「御花」ウエブサイトより)

【K秋田・久保田藩主佐竹右京大夫上屋敷跡】
ここは、春日通り、通りを挟んで、左側(北)が立花屋敷跡、右側(南)が佐竹屋敷跡、。右中央に、佐竹通り商店街入り口が見える。

江戸時代の切り絵図を見ると、佐竹屋敷も、立花屋敷と同様水路に囲まれていた。共に、忍川から三味線堀へ向かう川筋に当たる。

【佐竹通り商店街】
佐竹氏は、戦国末期、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して、常陸54万5800石の大名として安堵された。しかし、関ヶ原の戦いで、曖昧な態度をとったため、秋田・久保田藩20万5800石へ転封となった。
家紋は、「五本骨扇に月丸」のはず。上の写真は「白地に赤い太陽」となっている、切り絵図の家紋も、「赤地に白」なので、少なくとも、「太陽」ではないはず。商店会の間違えか???

【L三味線堀跡】
1630年に鳥越川を堀り広げて造られ、その形状から三味線堀という名が付いた。
忍川からの流れは、この三味線堀を経由して隅田川に流れていた。
堀には、船着き場があり、下肥・木材・野菜・砂利などを運搬する舟が隅田川方面から往来していた。
(台東区教育委員会掲示板より)

【三味線堀跡】
三味線堀跡には、都営住宅「台東小島アパート」1964年建築。
前の道路は清洲橋通り。

【M旧讃岐・高松藩生駒屋敷跡】金比羅神社
1587年、豊臣秀吉から讃岐国を与えられた生駒親正は高松城を築城した。1640年、生駒騒動で出羽国へ転封されるまで4代54年に及んだ。
生駒親正(1526-1603)は、織田信長の側室・生駒吉乃(1528-1566)の従兄弟。織田信長の次男信雄は尾張の生駒屋敷で生まれている。

【生駒屋敷跡、竹町金比羅神社】
2代藩主一正が徳川家康から拝領した中屋敷に、領国の讃岐象頭山・金比羅大権現から勧請した。東京に金比羅神社は幾つかあるが、ここは最古のものという。
生駒騒動で改易され、出羽国に減転封になったが、1884年の地図を見ると、「生駒邸」「琴平社」とあることから、屋敷の主要部分は、生駒氏所有のまま明治を迎えたようだ。

【旧竹町】
1872年、久保田藩主佐竹邸、津藩主藤堂邸、大洲藩主加藤邸、矢島藩主生駒邸と周辺の屋敷を含めて竹町が起立した。

【竹町公園】
竹町の由来は、佐竹邸の西門扉に竹を用いていたことにちなむという。この公園が西門付近だと思うのだが....


忍川旧河道から離れて、下谷御成街道沿いへ

【N旧下谷長者町】
江戸時代の切り絵図を見ると、下谷御成街道付近に「長者町」という町があったという。下谷長者が住んでいたという話もあるが、由来、起立年代共に、不詳とされている。町名変更で地図上からは消えた町だが、自治会組織が残っている。JR山手線沿いの一帯(御徒町駅付近)が該当する。

【長者ビル】
旧下谷長者町に、長者ビルという名のビルがあるというので探してみた。御徒町駅南口からすぐのところに、そのビルはあった。

【長者ビル内プレート】
江戸時代の狂歌、寛永寺の「鐘」と「お金」をかけています。長者町といっても、貧乏人も多かったのでしょう。

【O松坂屋 上野店】
新館取り壊し工事が行われている。本館は残る模様だが、東京で創業の地にある百貨店は、三越本店と松坂屋上野店だけになった。
【下谷広小路 広重】国立国会図書館蔵
[上野松坂屋の沿革]
1611年、織田信長の家臣であった伊東蘭丸祐道は、清須から名古屋に移り(清須越え)、名を源左衛門と改め、本町に店を構えて呉服小間物商の看板を掲げた。「いとう呉服店」の創業。
1768年、上野の「松坂屋」を買収し、同店を「いとう松坂屋」と改称。
尾張徳川家、加賀前田家の御用を務め、東叡山諸寺の法衣を独占販売するなど、世間の信望が厚かった。
1925年、店名を「松坂屋」に統一。
(以上、松坂屋ウエブサイトより)

※買収される前の「松坂屋」の由来は、1707年に伊勢松坂出身の商人・太田利兵衛がこの地に、呉服店を開業、自分の出身地名から「松坂屋」と名付けた事によるもの。
谷中・根津地区では、藍染川・その他の水路は暗渠化され見ることは出来ないのですが、台東区・文京区の区界になっていました。古い寺院が寺域を狭めながらも生き残り、細々した路地があることで、江戸の名残を見ることは出来ますが、防災上は問題がありそうですね。大名屋敷の付属の長屋の路地が現存していたり、古井戸の多さにも驚かされました。不忍池では、江戸期の池の規模を推定出来ましたし、架かっていた橋の跡も確認できました。忍川旧河道では、アメ横やJRの線路の下になって、実際に、旧河道を確認するのは困難でした。東上野・台東に入ってからは、町の区画・道路に旧河道の痕跡を見ることが出来ます。大名屋敷も規模の推定は容易ですが、大名が生活した痕跡は、大名屋敷に祀られた神社に見られるのみというのは寂しい限りです。せめて、大名の名をつけた町割りでもあれば、雰囲気がずいぶんと変わるだろうにと思います。



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