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歴史散歩:白金〜高輪を歩く
2021年11月10日(水) 錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、歴史散歩。
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国土地理院地図2500[ブラウザ:カシミール]に、主な地名・旧跡を書き加えた。 |
上大崎から白金台へ | |
【白銀絵図 松平讃岐守下屋敷周辺 国会図書館蔵】 青線は三田用水路、1846年の絵図(御府内場末往還其他沿革図書)を参考に筆者が書き加えた。 江戸時代、目黒通りは、馬の背のようにだらだらと長い尾根の道で「永峯」といわれた。また、永峯六軒茶屋町という町名が見られるが、これは、この通りが目黒不動尊への参詣道にあたり「茶屋が六軒」あったことに由来する。 |
【現在の上大崎〜白金台】 地理院地図+スーパー地形(カシミール3D)使用 目黒通りより東側は、谷の多い起伏に富んだ地形になっている。三田用水は、その中でも小高い所を巧みに選んで通っていた。 |
【松平讃岐守下屋敷→白金火薬庫→白金御料地】 明治に入ると、旧高松藩邸は火薬庫となり、海軍省・陸軍省が管理した。1913年に火薬庫が廃止され、1917年からは宮内省帝室林野局に委譲され白金御料地となった。
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【1896-1909年頃の松平讃岐守下屋敷跡】 今昔マップをカシミールで表示 白金火薬庫と書かれている左側に、三田の火薬製造所からの引き込み線が描かれている。1872年には海軍省の火薬庫になり、1893年には陸軍省の火薬庫にもなり、1913年に火薬庫は廃止された。 |
【東京都庭園美術館】 |
【国立科学博物館附属自然教育園】 |
【白金台どんぐり児童遊園】 |
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白金台で三田用水路跡を辿る | |
【江戸時代末期の白金村、今里村】 白銀絵図 国会図書館蔵 A、B図は江戸末期、C図は明治末期、D図は現代 1は三田用水路が目黒通りに出る地点、4は分岐地点 2,3,5,6は三田用水路に架かる橋(跡) |
【江戸時代末期の白金村、今里村を通る三田用水】 白金台どんぐり児童遊園の沿革に添えられていた、1846年の絵図(御府内場末往還其他沿革図書)に筆者がポイントを入れてみた。 |
【明治末期の白金村、今里村を通る三田用水】 [東京市芝區全圖(1907) ・国際日本文化研究センター蔵] |
【現代の白金台】 地理院地図+スーパー地形(カシミール3D)使用 |
【三田用水が目黒通りに出ている部分、A,B,C,Dの[1]地点】 妙円寺は谷になっており、三田用水は目黒通りに迂回した形になっている。 |
【上今里橋へ至る路地への入り口】 茶色のビルに[港区白金台3-14-1]のプレートがある |
【三田用水、上今里橋跡への道】 路地は右方向へカーブする、古図の通りである。 |
【三田用水、上今里橋跡A,B,C,Dの[2]】 古図で[石橋]と書かれてあるところ。三田用水は右(現在は建物)から左へ流れていた。 |
【三田用水水路跡】 上今里橋跡を左に曲がると、流れに沿った道を歩くことになる。左側の駐車スペースが三田用水と土手の部分と思われる。この状況は古図の通りであるし、正面に見える「白い外壁と赤い屋根の建物」は三田用水上に建っていると思われる。 |
【三田用水水路跡】 更に進むと、右側に団地とその駐車場が現れる。ここは、芝白金団地、大正〜昭和にかけては藤原銀次郎氏の邸宅のあったところ。 [藤原銀次郎]三井銀行・富岡製糸場支配人・三井物産を経て、1933年、王子製紙、富士製紙、樺太工業の三社合併を実現し、資本金15000万円、国内シェア90%を持つ巨大製紙企業を出現せしめた。藤原は新生王子製紙の社長に就任し、「製紙王」の異名を取るようになった。 1938年、私財800万円を投じて、人材育成を目指して日吉キャンパスに藤原工業大学を設立した。藤原工業大学は、機械工学科・電気工学科・応用化学科の三学科からなる、大学予科3年・本科3年の6年制で、私立大学としては初となる工業単科大学であった。第一期生126名が卒業した1944年に、慶應義塾大学工学部となった。(三田評論より) |
【三田用水水路跡と今里橋跡A,B,C,Dの[3]】 珍しく橋の欄干が残されている、正面の細長い建物は三田用水水路上に建っていると考えられる。 |
【三田用水水路跡に沿って】 今里橋跡A,B,C,Dの[3]を渡り、水路に沿って歩く。白い車は、水路跡に駐車しているようだ。 |
【三田用水路遺構A,B,C,Dの[4]】 三田用水は、江戸市街の拡大で増加した水の需要に応じるため、1664年に玉川上水の水を下北沢で分水したもの。中村八郎衛門・磯野助六によって開かれたといわれ、代田、代々木、渋谷、目黒を経て現在の白金台、高輪、三田、芝地区に配水された。一時、廃止されたが、廃止の翌々年から農業用水として復活、一宿十三ヵ村の用水として使用された。 当時の水道は自然に流れるだけでしたので、この付近では堤状に水路を残して通す工夫をしました。ほとんど失われてしまった三田用水路の貴重な遺構は、特に断面がわかるように残されています。また、水路の通っていた位置を示すための色違いのタイルを地上に並べて記念としています。(港区教育委員会 ハイクレスト白金台管理組合案内板より抜粋) |
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【環状4号線建設反対運動】 測量、調査、捺印など協力拒否と書いてあります。 |
【東京都の文書】 この地区の説明会用の文書がネットから見つかりました。 三田用水路遺構も道路計画のなかにすっぽり入っているようですね。貴重な遺構なのに、環状4号線が出来ても、道路の中央に安全地帯でも作って、残して欲しいですね。 東京都市計画道路幹線街路 環状第4号線及びその延伸部 (港区白金台三丁目から同区港南一丁目まで)平成27年8月 |
【今里地蔵(赤)が見える地点】 更に進むと、今里地蔵が見えてきます。 |
【南里橋A,B,C,Dの[5]】 妙円寺からの道路がここで三田用水を横切る(写真では、左から右へ)地点。ここには、南里橋があったが、後に、今里地蔵が置かれた。今里地蔵は1945年頃五反田田圃から掘り出され、ここに安置されたと信じられている。 「古地図BとC」によると、ここから三田用水の分水が久留島信濃守屋敷地へ向かっている。 |
【般若苑その後】 跡地には地上4階・地下2階、延面積約1万uの豪邸・テラス白金が建設された。 この建物の左奥(南側) |
【久留島信濃守屋敷地跡】 久留島信濃守下屋敷→→寺島宗則伯爵邸→畠山一清(般若苑)→(一部)畠山記念館、と所有者が変化している。 畠山記念館ウエブサイトを見ると、 「創立者畠山一清(1881―1971)は能登国主畠山氏の後裔であり、技術者としてポンプの開発に取組み、株式会社荏原製作所を興した。事業のかたわら、即翁と号して能楽と茶の湯を嗜み、長年にわたり美術品の蒐集に努めた。昭和の初めには旧寺島宗則伯爵邸のあった白金猿町の土地約三千坪を購入、奈良般若寺の遺構や、加賀前田家重臣横山家の能舞台などを移築して、私邸「般若苑」を造営した。1964年には、苑内の一角に茶の湯の美術館(畠山記念館)を建設した。」 ウイキペディア「般若苑」を見ると 第二次世界大戦後、一時石橋湛山大蔵大臣の公邸として用いられた後、売りに出て料亭・般若苑となる。1948年に開業したこの料亭は多くの政財界人に愛された。外務省によってリチャード・ニクソンやジョン・フォスター・ダレス、ジョゼフ・ドッジといった外国要人の接待に用いられ、三島由紀夫の小説『宴のあと』の舞台にもなった。経営者である畔上輝井とその夫の有田八郎が三島由紀夫の小説「宴のあと」の登場人物のモデルとなっており、小説の舞台となる料亭「雪後庵」も般若苑をモデルにしている。2005年に閉店し、解体された。 |
【畠山記念館】 テラス白金の奥(南側)に畠山記念館が現存するが、改築中のため長期休館となっている。 |
【三田用水水路が道路と交差する地点 猿町橋跡、地図A,C,Dの[6]】 三田用水水路は右側の建物に含まれるが、この橋を境にして、左側になる。 [江戸切絵図A]によれば、左の建物の角あたりが毛利安房守屋敷正門ということになる。 |
【明治末期の今里村】 [東京市芝區全圖(1907) ・国際日本文化研究センター蔵] [江戸切絵図A]で毛利安房守屋敷地だったところ、上の[明治末期の地図]では「日本家畜市場株式会社、東京共有屠牛場」との記述が見える。 |
【猿町橋付近は東京初の屠殺場】 「1866年、中川嘉兵衛は横浜から江戸に出てイギリス公使館があった高輪東禅寺付近に牛肉店を開業した。しかし横浜の屠畜場から江戸間で肉を運ぶより江戸に屠畜場を設けた方が新鮮な肉を供給できるとして場所を探した。当時は江戸郊外の趣が濃かった白金今里の名主の堀越藤吉が畑の一部を提供することとなり、1867年5月この場所(現在の港区白金台二丁目)に屠畜場を開場した。(Blog - Deep Azabuウエブサイトより)」 [今里ブランドの牛肉] 明治時代にすき焼屋を始めた店で「今」の文字を使う店が沢山ありました。これは、以下のような意味があります。明治時代牛肉を食べる文化が出来た頃、東京に持っていくとどんな牛でも売れるということで、正規のルート以外から牛が入ってきました。それは、病気で死んだ牛、老衰でとても食に適さない牛などさまざまな牛でした。その頃政府から認められた牛の食肉工場が今里町(現、芝白金付近)にありました。そこで、今半は今里町から来た牛肉だけを使用しています。と言う意味と当時流行った今様(いまよう)と言う語句の「今」の文字を使ったと言われています。 そして、「半」は共同経営の「半太郎」というところから屋号を「今半」としました。 (今半ウエブサイトより) |
【三田用水路跡はさらに続く】 三田用水路跡(左の写真、左側の建物に含まれる)は猿町橋跡を越えて、都営地下鉄・高輪台駅付近(桜田通り)へ向かう。 【玉名池跡へ向かう】 三田用水路跡を追うのは一旦終了し、北側斜面地−玉名池跡−玉名川跡を追うことにする。(左の写真の赤い矢印、地図F、G、Hの[1]) |
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玉名池跡と玉名川跡 | |
【江戸末期の白銀地区】 江戸切り絵図、白金絵図、国会図書館蔵 |
【明治末期の玉名池】 [東京市芝區全圖(1907) ・国際日本文化研究センター蔵] |
【現代の白金台】 地理院地図+スーパー地形(カシミール3D)使用 |
【玉名池跡へ、地図F、G、Hの[2]】 ここからが南部遠江守下屋敷地で玉名池があったところ |
【玉名池?、地図F、G、Hの[2−3]】 急坂下(南部遠江守下屋敷地)はいかにも湧水がありそうな、池になりそうな窪地となる。この玉名池には湧水と共に、三田用水の分水が流れ込みかなり豊富な水量があったようだ。 |
【桑原坂下】 さらに進むと、桑原坂下に出る。玉名池を発する玉名川が八芳園へと続く川筋、地図F、G、Hの[3] |
【玉名川が通過する谷間、地図F、G、Hの[3]】 桑原坂下の谷間を、玉名川が通過することになる。 正面の赤茶色の建物は高台にある明治学院大学。 |
【玉名川は八方園に向かう、地図F、G、Hの[3−4]】 |
【玉名川は八方園に向かう、地図F、G、Hの[4]】 |
【玉名川は八方園に向かう】 正面は行き止まりだが、八芳園 |
玉名川の川筋を追って、八芳園→シェラトン都ホテル東京→覚林寺へと向かう | |
【江戸末期の白銀地区】 江戸切り絵図、白金絵図、国会図書館蔵 |
【明治末期の白金地区】 [東京市芝區全圖(1907) ・国際日本文化研究センター蔵] |
【現代の白金台】 地理院地図+スーパー地形(カシミール3D)使用 |
【八芳園入口】 自然の丘陵と小川跡を利用してつくられた八芳園には、樹齢数百年の樹木や渡り鳥の姿を見ることのできる日本庭園がある。 大久保彦左衛門屋敷地(江戸初期)→→(江戸中期不明)→→松平薩摩守下屋敷(幕末)→渋沢喜作(明治末)→久原房之助(大正〜昭和、実業家・政治家)→長谷敏司(八芳園前社長)と所有者が交代している。 |
【八芳園庭園、玉名川跡?】 外にいる案内係りの方に「お庭を見せて下さい」と申し出ると、スムーズに、庭園に入れました。その時、八芳園庭園散策ガイドも頂けたのですが、池の項に「その昔、この付近の丘陵地帯に沼があり、そこから流れていた川の跡を池にした」とあります。玉名池と玉名川のことと思われます。 明治初期、南東の台地上の大名屋敷跡は「海軍埋葬地」になったり「明治学院」ができた。明治学院に学んだ島崎藤村の自伝的小説『桜の実の熟する時』には、崖下の様子について次の描写がある。(右へ続く) |
【八芳園庭園、玉名川跡?】 「捨吉は講堂の前から.....学校の敷地について裏手の谷間の方へ坂道を下りていった。一面の藪で、樹木の間から朽ちかかった家....竹藪のつきたところで坂もつきている。彼はよくその辺を歩き回り、林の間に囀る小鳥を聞き、奥底の知れない方へ流れ落ち行く谷川の厳かなささやきに耳を澄ましたりして....」(文中の「捨吉」は島崎藤村)(『桜の実の熟する時』1917年作は国会図書館蔵) 少なくとも、明治の頃までは、深山幽谷の趣でしたね。 |
【目黒通り−日吉坂−】 再び目黒通りに戻り、日吉坂を下りるとシェラトン都ホテル東京に至る。 |
【シェラトン都ホテル東京】 八芳園に隣接し、玉名川が流れる谷地となっている。八芳園が大名屋敷跡であるのに対して江戸期の持ち主については不明である。 1897年、藤山雷太がこの湿地帯を安く購入し、その後、40年をかけて庭園を造り上げた。藤山雷太は佐賀藩出身の実業家、海外からいろいろな石像を購入してこの庭園に配置し現存している。藤山雷太死後、息子の藤山愛一郎は実業家から政治家に転身し死後、1979年シェラトン都ホテル東京が建設された。 |
【シェラトン都ホテル東京】 ここも、外の案内係に「お庭を見せて下さい」というと、直ぐ通して頂けました。但し、外回りではなく、ホテル内部から庭園に出られるようになっています。庭園に出て直ぐ、上りになっているので、この写真は川の流れの跡かと思います。 |
【シェラトン都ホテル東京】 庭には、石仏、石像等、藤山雷太さんのコレクションがあるのですが、すべて外国から購入したものとのこと。 |
【清正公前交差点少し手前】 シェラトン都ホテル東京を後にして、目黒通りをすこし進むと、不思議な、というよりも、未完成な交差点に来ました。正面に見える上り坂は「天神坂」ですから、地図I、Jで分かるように、明治期までは、清正公前交差点はまだなく、この地点から天神坂へ向かってほぼ直角に曲がる通りのみのはず。 |
【古道 or 玉名川跡】 とりあえず、地図I、Jの通りに、右へ右へと辿ります。 この道は、細川屋敷へ向かう古道なのか玉名川跡なのか? |
【清正公大神儀】 この石碑、もし移動していなければ、「清正公堂」に入る橋の脇にあったと思うのですが... |
【覚林寺正門】 |
【覚林寺 清正公堂】 覚林寺略縁起には 「通称 白金の清正公さまと呼ばれる当山は最正山覚林寺と号し1631年可観院日延上人(韓国の王族)によって開創されたお寺であります。 開創と同時に上人によってご奉安申し上げられた清正公大神儀は古く江戸時代より開運の神様として霊験まことにあらたかで広く庶民大衆に崇敬されてまいりました。 毎年5月4日5日の両日に行われる清正公大祭には人生の苦悩に打ち勝つお守りとして「しょうぶ入り御勝守」が授与され東部における清正公信仰のみなもととして今もなお各界の参詣祈願者でにぎわいます。」とあります。 ※「日延上人」については、朝鮮の王族であるか否かは諸説あるようです、しかし朝鮮出身者であることは共通しているようです。 「日延上人」や「白金覚林寺と加藤清正」については、次のウエブサイトが詳しい。 EDO→TOKYO 東京の町並みから江戸の輪郭を探る、白金の清正公様-白金覚林寺と加藤清正 |
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【海軍墓地跡】 江戸期は松平丹波守下屋敷(江戸切り絵図[I]参照)。明治初期に海軍の葬祭地になり、大正期に、明治学院大学の敷地となった。日清・日露戦争の犠牲者を祀る。現在は、記念堂のみ残り立ち入り禁止となっている。 |
玉名川跡に沿って(覚林寺〜立行寺) | |
【江戸末期の白金−高輪地区】 [江戸切り絵図、白金絵図、国会図書館蔵] |
【明治末期の白金-高輪地区】 [東京市芝區全圖(1907) ・国際日本文化研究センター蔵] |
【現代の白金−高輪地区】 地理院地図+スーパー地形(カシミール3D)使用 |
【玉名川の流れが覚林寺の背後から表に出る地点】 地図L、M、Nの[1]の地点。左側はシェラトン都ホテル東京の駐車場に繋がる。 |
【玉名川は覚林寺前面を流れる。】 地図L、M、Nの[1→2]の地点。 |
【玉名川跡】 |
【玉名川の流れが天神坂を横切る】 地図L、M、Nの[2]の地点。清正公前交差点が出来て、様子が変わってしまったが、正面の茶色の建物に向かって緩やかな下り坂の道があったはず。その道に沿って玉名川も下っていったと思われる。 |
【玉名川の流れ跡】 地図L、M、Nの[3]の地点。交差点を渡ると、桜田通りの東側に旧道がある。 |
【玉名川の流れ、大久保だんご総本店】 地図L、M、Nの[4]の地点。地図Mでは玉名川は右に曲がったようだ。 |
【玉名川の流れ】 突き当たりが地図L、M、Nの[5]の地点。地下水が...豊富らしい。 |
【路地裏】 ここが樹木谷? ※樹木谷については諸説ある。筆者は「江戸切絵図・白金絵図」や「豊国の白銀樹目谷」を参考にして、この辺と思った。しかし、多くのウエブサイトでは「高輪1丁目の正満寺、円真寺の墓地」としている、また、ある古図によると、その辺りを「地獄谷」と呼んでいるようだ。 |
【白銀樹目谷】 江戸名所百人美女 豊国 国会図書館蔵 Lの絵図を見ると、3,4,5辺りは[樹木谷と云う]と書いてある、豊国の[白銀樹目谷]を見ると清正公が目前という位置関係にある。清正公は元々、加藤家(後に細川家)の屋敷地であったから、屋敷内の樹木谷に下り、正面が清正公であったのだろう。 |
【玉名川の流れ】 地図L、M、Nの[6]の地点。崖上には港区立高松中学校 ここは、細川家下屋敷跡、維新後「高輪御殿」となり、皇族の住まいとなった。高松宮が住むようになってからは「高松宮邸」となり、一部は港区立高松中学校となり、中学校名に名が残った。 |
【旧道と玉名川川筋】 桜田通りで分断された旧道、清正公から立行寺に向かう道を赤で示した。青の矢印は「地図L、M、Nの[6→7]」の玉名川の流れ跡だ。 |
【玉名川の流れ。K,L,Mの7の地点】 左奥が立行寺 |
【玉名川が古川へ流れ落ちる道】 左(ミラーのあるところ)が立行寺。明治末期の地図(M)を見ると、玉名川はこの道を真っ直ぐ古川へ流れたのではなく右側の低地を見つけるように蛇行して流れたようだ。 |
【立行寺】 白金にある立行寺は、1631年彦左衛門によって麻布市兵衛町に創建され、1668年現在地に移転しました。彦左衛門の墓があることから大久保寺とも呼ばれています。(右へ続く→) |
【大久保彦左衛門の墓】 (→左より)大久保彦左衛門(1560-1639) 世間から将軍御意見番といわれ、戦国生き残りの硬骨漢ぶりを発揮する一方、粗衣粗食に甘んじ、常に大勢の浪人たちを養っては禄につかせた義侠の士でした。大たらいに乗って登城したなど、数多くの逸話が伝えられますが、講談などによって誇張されたこともあり真偽は定かではありません。(港区ゆかりの人物データーベース) |
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