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歴史散歩:中里−西ヶ原−染井−巣鴨を歩く
2018年4月3日(火) 錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、歴史散歩。
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国土地理院地図(新版-淡色)[ブラウザ:カシミール]に、主な地名・旧跡を書き加えた。 |
JR尾久駅から中里貝塚・上中里へ | |
[JR尾久駅から中里遺跡へ2017.11.5撮影] JR尾久駅は、JR宇都宮線・高崎線の「上野−赤羽」間の小さな駅。尾久車両センターがあるので、多数の線路の中にヒッソリと駅があるといった感じ。西を見渡せば、武蔵野台地の東端が望める。 |
[タイムカプセル平成ロード(尾久構内架道橋)2017.11.12撮影] 中里貝塚は、尾久車両センターと京浜線・山手線・東北新幹線の狭間にある。その狭間に行くために、尾久車両センターの長い地下道を通る。 |
[中里貝塚、上中里二丁目広場2017.11.5撮影] 中里貝塚は縄文時代中期中葉から後期初頭(約4500〜4000年前)に海岸につくられた貝塚。海で採取してきた貝を浜辺で処理し身だけを取り出し、貝殻を海に向かって捨てていた。浜辺で貝を処理した施設も後ろの広場で発見され、巨大な貝塚は目の前に広がっていた。こうして造られた「干し貝」は自家消費だけでなく、交易に使われたと考えられている。中里貝塚は、海岸につくられた「水産加工場」だったようだ。(北区教育委員会解説板より抜粋) |
[中里貝塚、上中里二丁目広場2017.11.5撮影] 中里貝塚は、上中里二丁目広場で1996年に発掘調査され、ハマグリやマガキの4mを超す貝層や国内初の貝処理施設などが出土し、縄文時代を見直す発見として一躍注目された。 ※貝の層のはぎ取り標本は北区飛鳥山博物館で見られる。 (東京都北区教育委員会解説板より) |
[中里貝塚、中里貝塚史跡広場2017.11.5撮影] 中里貝塚史跡広場は、1999年に発掘調査され、2m近い貝層が確認された。100m以上も離れたこの場所にも厚く堆積する貝層が良好に残っていることが判明した。また、貝層下から岩盤が波によって削られた波食台と呼ばれる地形を掘り込んだ土杭が発見され、地盤がぬかるむためか、土杭に通じる長6.5m上の丸太(樹種コナラ亜属)を半割した木道も設置されていた。海岸で水を使った何らかの作業場であったと考えられる。(右へ続く→) ※カキやハマグリを採取して、食用に或いは交易用に用いた縄文人は崖上(御殿山や西ヶ原)に住む人々であったと考えられている。 |
[中里貝塚、中里貝塚史跡広場2017.11.5撮影] →(左より)中里貝塚がこれまで知られていた他の貝塚と大きく異なるのは、規模の違いがあげられる。周辺での発掘調査、貝殻の散布状況、江戸・明治期の記録などを詳細に分析した結果、貝塚の範囲は長さ1km前後、幅70-100mにわたると推定される。この面積は、他の大型貝塚と比較しても桁違いに大きいことがわかる。しかも中里貝塚の貝層は、縄文時代中期の中頃から終わりにかけての500年程の間に集中的に形成されている点からも特異な貝塚といえる。 (東京都北区教育委員会) |
[上中里村庚申堂] 武州豊嶋郡上中里村絵図面(江戸末期、国会図書館蔵)を見ると、崖上(平塚神社)から崖下に下りたところに「庚申」とある。 |
[上中里村庚申堂2017.11.12撮影] 現在、相当する位置に「庚申堂」がある。明治時代の地図を見ると、庚申堂の前の道は隅田川に抜ける主要道と思われ、この庚申堂を中心に上中里村の集落が集まっていた。 |
[上中里駅に通じる跨線橋2017.11.12撮影] エレベーターに乗って、跨線橋を渡り上中里駅に向かう。 |
[上中里駅から王子駅方面に通じる飛鳥の小径2017.11.12撮影] 崖の中間ぐらいの高さがあるが、新幹線の橋脚や建造物があるので崖下を見渡せる高さではない。七社神社へ向かう。 |
七社神社〜西ヶ原一里塚〜無量寺 | |
[無量寺と七社神社]江戸名所図会 国会図書館蔵 江戸名所図会には、別当寺であった無量寺の境内に描かれていた。(北区教育委員会解説板より) |
[七社神社2017.11.5撮影] 明治初めの神仏分離令に際して現在地である一本杉神明宮社地に移され、西ヶ原の総鎮守として奉祀されている。由来については、1793年の火災により古記録が焼失していてよくわからない。 (北区教育委員会解説板より) |
[一本杉神明宮]江戸切絵図 巣鴨絵図 国会図書館蔵 一本杉神明宮はもともとこの地にあった神社だが、七社神社の移転により、末社となり、天祖神社と呼ばれるようになった。(右へ続く→)(北区教育委員会解説板より) [七社裏貝塚] この境内地から隣地にかけての一画は、七社神社裏貝塚として知られた遺跡で、縄文式土器・弥生式土器・土師器などが出土している。(北区教育委員会解説板より) |
[一本杉神明宮の神木(切り株)2017.11.5撮影] (→左より)神木が樹齢1000年以上といわれる杉であったことから一本杉神明宮と呼ばれた。この杉の古木が枯れたため、1911年に地上3〜4メートルを残して伐採されたが、今でも、その切り株は残っている。(北区教育委員会解説板より) |
[西ヶ原一里塚(南側)2017.11.5撮影] 1604年2月、江戸幕府は、江戸日本橋を基点として全国の主要街道に一里塚を築き、街道の道程を示す目安とすることを命じた。 西ヶ原一里塚は、本郷追分の次の一里塚で、日本橋から数えると日光御成道の2番目の一里塚にあたる。都内の日光御成道は現在の本郷通りが主要なルートにあたるが、岩淵宿から船で川口宿に渡ると鳩ヶ谷・大門・岩槻の各宿場を北上して幸手宿で日光街道に合流した。将軍が日光東照宮に社参する際の専用街道として使用されたので、この名称が定着したが、岩槻藩主の参勤交代や藩の公用通行路に使われたので岩槻街道とも称された。 (東京都北区教育委員会) 三里目の「稲付一里塚」は東京都北区赤羽西2丁目にあった。「稲付一里塚」は明治中頃まではその跡があり、村の掲示場として官有地だったが、明治21年に隣地の所有者に払下げられ現在は残っていない。(北区飛鳥山博物館ウエブサイト) ※左写真中央の石碑は「二本榎保存之碑」、南側の一里塚が保存された経緯が書かれている。※ |
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[旧位置に保存された西ヶ原一里塚2017.11.12撮影] 旧道をはさんで一対の塚が現存しているが、これは旧位置に保存されている都内の一里塚として貴重な文化財。車道の中に位置する方の塚には「二本榎保存之碑」と題される1916年6月の記念碑がある。西ヶ原一里塚は当時、東京市電の軌道延長路線上に位置したため、この工事に伴う道路改修工事で撤去されそうになった。碑には、こうした経緯と、渋沢栄一や東京市長・滝野川町長を中心とする地元住民の運動によって保存に成功したことが刻まれている。西ヶ原一里塚は、大正時代に文化人と住民が一体となって文化財の保存に成功した例としても記念碑的な意義をもつものといえる。(東京都北区教育委員会解説板) |
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[東京高等蚕糸学校発祥之地2017.11.5撮影] 1886年10月 麹町内山下町より移設 農商務省蚕病試験場 1896年3月 (改称)農商務省蚕業講習所 1914年3月 (文部省移管)東京高等蚕糸学校 1940年4月 (移転)東京都小金井市 1944年4月 (改称)東京繊維専門学校 1949年5月 (昇格)東京農工大学 ※国立印刷局東京病院→花と森の東京病院(2013年移管) |
[御殿前遺跡2017.11.5撮影] 御殿前遺跡は、先土器時代から近世にわたる複合遺跡。なかでも奈良・平安時代に造られた建物の跡は、武蔵国豊島郡の郡衙(地方役所)と推定されている。古代の武蔵国には、21の郡が置かれ、現在の東京都は豊島郡・荏原郡・多麻郡にあたる。 (北区教育委員会解説板より) |
[西ヶ原牡丹屋敷→戸川家下屋敷→陸奥宗光邸→古河邸 →都立旧古河庭園] 染井地区には、植木屋が多く居たことで知られるが、隣地である西ヶ原にも「牡丹屋敷」といわれる植木屋仁兵衛の屋敷があった。多いときは800本少ないときにも600本の牡丹を作っていたという。天保年間には武家屋敷となり姿を消した。(北区飛鳥山博物館だより ぼいす 2006.3.20より) 幕末期に描かれた「江戸切絵図 巣鴨辺絵図」を見ると、戸川播磨守下屋敷となっている。また、古河庭園内の案内を見ると「明治の元勲陸奥宗光の別宅でした。その後古河家が譲り受け、三代目当主の古河虎之助が大正3年頃に従来の敷地は本宅用地とし、新たに隣接地を買収して、庭園としたのが始まりです。」とある。 つまり、植木屋→武家屋敷→明治の元勲→東京都、と持ち主が変わったが、『植木屋さんの庭が、時を経て、洋風庭園』に変身したということだろう。無量寺にあった七社神社旧地を買い取った時期はわからない。 ※江戸切絵図 染井 王子 巣鴨辺絵図 国会図書館蔵 |
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[六阿弥陀 三番目 無量寺 裏門2017.11.12撮影] 日光御成道(本郷通り)から無量寺方面に向かうと、無量寺裏門に出る。左は、旧古河庭園方向。 |
[無量寺 裏門2017.11.12撮影] 西側に下る道となるが、旧古河庭園(左方向)はかなりの高台(西斜面地に形成された庭園)であることがわかる。裏門(写真正面)は、施錠されているので、左へ迂回して、表門へ向かう。 |
[無量寺 表門2017.11.5撮影] 無量寺は佛寶山西光院と号し、真言宗豊山派に属する寺院。創建年代は不明だが、調査によって十四世紀頃の板碑が多数確認されている。また、『新編武蔵国風土記稿』や寺伝等には、1648年に幕府から八石五斗余の年貢・課役を免除されたことや、1701年に五代将軍綱吉の生母桂昌院が参詣たこと、寺号が九代将軍家重の幼名長福丸と同じてあるため、これを避けて現在の名称に改めたことが記されている。 本堂の正面には、平安時代後期に造られたといわれる阿弥陀如来坐像が安置されている。江戸時代には、江戸六阿弥陀詣第三番目の阿弥陀として親しまれた。 (東京都北区教育委員会解説板) |
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[無量寺 本堂2017.11.12撮影] [江戸六阿弥陀詣] 江戸時代、春秋の彼岸に六ヶ寺の阿弥陀仏を巡拝するもので、その巡拝地は順に 1.上豊島村西福寺(北区) 2.下沼田村延命院(足立区、のち恵明寺に合併) 3.西ヶ原村無量寺(北区) 4.田端村与楽寺(北区) 5.下谷広小路常楽院(台東区ABABのち調布市へ移転) 6.亀戸村常光寺 となっていた。 江戸六阿弥陀には奈良時代を発祥とする伝承がありますが、文献上の初見は明暦年間(1655〜58)であることから、六阿弥陀詣は明暦大火後の江戸市中拡大、江戸町方住民の定着にともなう江戸町民の行楽行動を示すのみといえる。 ※亀戸常光寺に現存する「六阿弥陀道道標」には、延宝7年の銘があり、江戸六阿弥陀詣に関する最古のもの。※ (常光寺にある江東区教育委員会案内板要約) |
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[谷戸川(藍染川)河道跡、カシミール3D 国土地理院を使用] 太古(おそらく縄文期初期頃)には、石神井川が流れていた谷間は、縄文海進終了以後、王子駅周辺で石神井川が入間川に抜けて水量が減少した。その後は台地の湧き水を集めて谷戸川(藍染川)としての流れが明治頃まで続いた模様。谷戸川(藍染川)河道跡は、染井銀座商店街→霜降銀座商店街となった。 |
[染井銀座商店街→霜降銀座商店街2017.11.12撮影] 写真正面に「しもふり」の字が見える、このあたりが豊島区、北区の区境(手前が豊島区駒込6丁目、先が北区西ヶ原1丁目)。 |
桜の里を歩く | |
[染井村]江戸切絵図 染井 王子 巣鴨辺絵図 国会図書館蔵 日光御成道(本郷通り)をJR駒込駅から東へ下る坂に「妙義坂」という名がついている。女子栄養大学のところを左折すると、妙義神社。 「妙義神社」→「門と蔵のある広場」→「西福寺」→「染井通り」へと向かう。 |
[染井通りと植木屋] 江戸中期から明治にかけて、染井通りには植木屋が軒を連ねた。 伊藤家・丹羽家などの植木屋が見られる。 |
[妙義神社2017.11.5撮影] 「新編武蔵風土起稿」によると、最初に江戸城を築いた室町時代後期の武将太田道灌は、1471年、古河公方足利成氏との戦に出陣する際、当社に参詣し、神馬、宝剣を寄進し戦勝を祈願した。その後、道灌は戦のたびに必勝を祈願し、見事勝利を収めた。当時から、当社は「勝負の神様」「戦勝の宮」と呼ばれ、人々よりあつい信仰を集めた。(右へ続く→) |
[妙義児童遊園2017.11.5撮影]ここも、かつては妙義神社境内地 (→左より)空襲で社殿・古文書・宝物などを消失したが、1965年に現在の社殿を再建することになり、工事の時に境内から発掘された寛永九年十一月の記録が残る庚申塔と、寛政十九年の手水鉢が現在に引き継がれている。(東京都豊島区教育委員会) |
[門と蔵のある広場2017.11.5撮影] このあたりは、染井村と呼ばれ、江戸時代から植木の一大生産地。この土地の元の所有者である丹羽家は1780年代から明治後期まで、この染井を代表する植木屋。代々「茂右衛門」を襲名して、造り菊、石菖、蘭、ツツジなどを得意とした植木屋。藤堂家や尾張徳川家等の大名屋敷に出入りするなど武家にも信用を得ていた。8代目茂右衛門(明治29年生まれ)で植木屋をやめたが、当地域の旧家として知られている。(門と蔵のある広場碑文より) |
[旧丹羽家腕木門、門と蔵のある広場2017.11.5撮影] 旧丹羽家の門は、腕木と呼ばれる梁で屋根を支える腕木門と言われる形式で簡素な構造、染井通りをはさんで向かい側にあった藤堂家下屋敷の裏門を移築したものといわれている。この門が丹羽家の所有になった年代ははっきりしないが、屋根を除いて当初からの部材が残っており貴重な文化遺産となっている(豊島区) |
[大師道と刻まれた道標] 「門と蔵のある広場」から「染井通り」に出るところに、この道標がある。にすでに、ブロック塀と一体化した道標。すぐ奥の「西福寺」への道標とも、「西新井大師」への道標ともいわれるが、定かではない。 |
[西福寺2017.11.5撮影] 西ヶ原無量寺の末寺である。創建の年代は明らかではない。江戸時代、藤堂家の下屋敷に近く、祈願寺であった。 |
[六地蔵、西福寺境内2017.11.5撮影] 六道すなはち地獄道・飢餓道・畜生道・修羅道・人道・天道について教えを説くための六体の地蔵が刻まれた六地蔵がある。これは1655年に造られたもので、豊島区内では最古のもの。 (豊島区教育委員会解説板より) |
[染井稲荷神社2017.11.5撮影] 300年以上の歴史を持つ神社、西福寺が別当寺であったということ以外、詳しいことはわからない。ここにあった「染井」という泉が染井の由来だというが、調べてもわからない。泉があったということは、あり得ることとは想いますが... |
→[伊藤政武墓(東京都指定旧跡)、西福寺2017.11.5撮影] 江戸時代の園芸家、染井村に生まれた。号を樹仙という。伊藤家は代々伊兵衛を名乗り、近くの伊勢津藩藤堂家の下屋敷に出入りして、庭の世話をしているうちに植木屋となり、江戸第一の種苗商となった。その種苗目録を「地錦抄」という。四代目の政武は江戸城にも出入りして将軍吉宗の御用植木師となり、城内の植木を管理していた。日本の園芸が独自に発達したのは江戸時代であり、キク、ツバキ、カエデ、ツツジ類、アサガオなどの園芸植物が改良され、また、朝鮮や中国をはじめ外国からも多くの植物が輸入されている。政武は特にカエデを好み、深山楓に舶来の楓を接き木することに成功した。 写実的な絵画を得意とし、園芸植物に関する著書に「草花絵前集1699年」「増補地錦抄1710年」「広益地錦抄719年」「地錦抄附録1733年」などがある。1757年81歳で死去した。 (東京都教育委員会) |
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[染井よしの桜の里公園2017.11.5撮影] ここでは、ソメイヨシノ、エドヒガン・オオシマザクラが見られる。 |
[ソメイヨシノの由来]
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[染井之植木屋 北尾政美] 『絵本江戸桜』(1803年刊) 都立中央図書館特別文庫室所蔵 ※画像の使用にあたっては、都立中央図書館に申請し掲載許可を得ております。無断複製を禁じます。※ 染井通りの南側には、上図のような植木屋が軒を並べていた。図には「伊兵衛」という文字が見えるので、伊藤伊兵衛の屋敷と想われる。 |
[伊藤伊兵衛屋敷跡、専修院境内2017.11.16撮影] 専修院自体は、1908年浅草から移転してきた。 元々、この土地は、植木屋・伊藤伊兵衛の屋敷跡と考えられ、1997年の埋蔵文化財発掘調査では、江戸時代後期の遺構が発見された。建物の礎石や地下室のほか、溝や生垣を何度も作りなおした跡などがあり、広い敷地の中を区切って利用していた様子がうかがえる。 |
染井霊園と周囲の寺 | |
[染井霊園と周辺の寺院] 染井霊園は1874年、明治政府は播州林田藩建部邸跡地を染井墓地として開設された。1889年東京市へ移管、1935年には名称を染井霊園と改めた。また、染井霊園の周囲には、専修院、蓮華寺、勝林寺、慈眼寺、本妙寺などの寺院が存在するが、これらは、東京の都市計画で移転を余儀なくされたもので、江戸期から存在したものではない。ただ、著名人の墓も寺と同時に移転してきているものが多い。 |
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[勝林寺2017.11.16撮影] 1616年、徳川家康没後、御殿医中川元享が湯島天神前に創建。1657年大火で焼失、寺社奉行太田備中守下屋敷・駒込に移転建築する。1721年、1772年に大火で焼失、中興開基田沼意次により再建、1908年本郷通り拡張のため墓地だけを染井に改葬する。1940年再び道路新設のため染井墓地内に新築、1945年戦災により焼失、1953年5月再建。(「豊島の寺院」より) |
[田沼意次(1719〜1788)墓、勝林寺2017.11.16撮影] 徳川家治に寵愛され、家禄六百石から五万七千石の相良藩大名となり「田沼時代」といわれる全盛期をなした。 |
[慈眼寺2017.11.16撮影] 了現院日盛により深川六間掘猿子橋に開創。1615年、日盛の弟子慈眼院日遼、一寺を建立。1693年本所猿江に移転。1700年身延山久遠寺末から水戸久昌寺末となる。1907年・1912年の水害により堂宇の大半を損壊、1912年谷中妙伝寺と合併、現在地へ移転。(「豊島の寺院」より) |
[慈眼寺墓地2017.11.16撮影] |
[司馬江漢(1747〜1818)の墓、慈眼寺2017.11.16撮影] 蘭学者、画家、日本で最初の銅版画 |
[芥川龍之介(1892〜1927)墓、慈眼寺2017.11.16撮影] 東京帝国大学在学中「新思潮」に発表した「鼻」が夏目漱石に激賞され文壇に登場した。羅生門、或る阿呆の一生、河童など |
[本妙寺前から染井墓地を望む2017.11.16撮影] |
[本妙寺、明暦の大火(振袖火事)の火元2017.11.16撮影] 1571年駿府に創立。1590年江戸に移転、清水御門内に堂宇を建立したが、徳川家康の江戸築城にあたり替地を飯田橋に賜る。牛込・小石川を転々とし、1636年4代目日円上人の代に本郷丸山に移る。6代目日浄上人の1657年振袖火事の火元として本堂・庫裡・宝物など悉く焼失、享保年間にも火災をおこし、一山全焼。その後再建され本郷にあったが1911年12月本郷区菊坂町82より現在地に移転。戦災により全焼。(「豊島の寺院」より) |
[本妙寺境内図2017.11.16撮影] |
[関宿藩主久世大和守歴代の墓、本妙寺境内2017.11.16撮影] |
[江戸期の剣豪、千葉周作成政の墓、本妙寺境内2017.11.16撮影] |
[名奉行 遠山金四郎景元の墓、本妙寺境内2017.11.16撮影] |
[囲碁家元本因坊歴代の墓、本妙寺境内2017.11.16撮影] 囲碁の本因坊家は江戸時代に成立した四家元の一つ(他には井上、安井、林の各家)。「本因坊」の名称は、京都・寂光寺の塔頭の一つ 本因坊において、日海(後の算砂)が居住していたことに由来する。(右へ続く→) |
(→左より)算砂は本因坊家の初代頭領として興隆への道を切り開き、囲碁界最高の栄誉である「名人・本因坊」に叙せられ、また1603年、江戸幕府から初代の「碁所」に任ぜられた。 「碁所」とは、江戸城において将軍の御前で対局をする「御城碁」の棋士の手合いを差配したり、棋士の段位を定めたり、免状の発行権をもつなど、囲碁界最高の地位を保障された棋士。 碁所をめぐって四家はしばしば識烈な争いを展開したが、その中で頂点に立ったのが本因坊家であり、庶民への広まりも含めた碁界の興隆に貢献した。 その理由は実子相続を前提とする世襲制ではなく、弟子のなかで優れたものが相続する実力制だったことが挙げられる。 本妙寺は創立後何度も場所をかえ、1910年、現在地へ移転したが、その時に墓所の配置はほぼ現在の形となり、四世本因坊道策より二十一世本因坊秀哉に至るまで、本因坊代々の棋士と縁の人々が祀られている。 「最後の名人」二十一世本因坊秀哉は、1937年引退を決意し、本因坊の名跡を日本棋院に譲った。現在は日本棋院が主宰し、その年の「本因坊」のタイトルを持つ棋士が祭主を務め法要が行われている。 (財団法人日本棋院解説板より抜粋) |
[明暦の大火(振袖火事)供養塔、本妙寺境内2017.11.16撮影] 明暦の大火とは明暦3年1月18日(1657年3月2日)から明暦3年1月20日(1657年3月4日)までに江戸の大半を焼いた大火事。(右へ) |
(左より)最初は本郷・本妙寺から出火したが、小石川・麹町からも次々に出火したとされる。外堀以内のほぼ全域、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半が焼失し、死者数については諸説あるが3万から10万人と記録されている。また、将軍・徳川家綱在位中に起きた明暦の大火において焼失した江戸城天守閣は、保科正之が「再建を暫し延期する」と述べたが遂に再建されなかった。 明暦の大火を契機に江戸の都市改造が行われ、御三家の屋敷が江戸城外に転出するとともに、それに伴って武家屋敷・大名屋敷、寺社が移転した。 また、市区改正が行われるとともに、防衛のため千住大橋だけである隅田川の架橋(両国橋や永代橋など)が行われ、隅田川東岸に深川など市街地が拡大される共に、吉祥寺や下連雀など郊外への移住も進んだ。 更に、防災への取り組みも行われ、火除地や延焼を遮断する防火線として広小路が設置された。幕府は、防火のための建築規制を施行した。それに加え、耐火建築として土蔵造や瓦葺屋根を奨励した。もっとも、その後も板葺き板壁の町屋は多く残り、「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるとおり、江戸はその後もしばしば大火に見舞われた。 (ウイキペディアより) |
[高村光雲(1852〜1934)墓、染井霊園2017.11.16撮影] 明治の木彫の第一人者。岡倉天心に招かれて東京美術学校教授となる。西郷隆盛像の作者。高村光太郎(1883〜1956)墓、高村智恵子(1886〜1938)墓。 |
[岡倉天心(1863〜1913)墓、染井霊園2017.11.16撮影] 東京美術学校設立の起動者となり、29歳で(事実上の)初代校長。辞職後、日本美術院創設、横山大観らを育てる。 |
[藤堂高潔の墓、染井霊園2017.11.16撮影] 伊勢津藩の第12代(最後)の藩主。 |
藍染川(谷戸川)源流を歩く | |
[御府内場末往還其外沿革圖書1856 上駒込村・巣鴨村 国会図書館蔵] 「建部邸跡地」は染井霊園の中心部、水路は水色で強調した(加筆) |
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[谷戸川推定図、カシミール3D 国土地理院を使用] 長池跡、慈眼寺付近、下瀬坂付近に水源があったことがわかる。 上の古絵図と比較すると、谷戸川の水源としては、長池・二つの泉ということになる。石神井川が王子駅のところで、隅田川方面に抜けたのは縄文海進の頃という説もあるから、その後は、台地の湧き水を集めて谷戸川(藍染川)となったのだろうか? |
[谷戸川水源付近] 江戸切絵図 染井 王子 巣鴨辺図 国会図書館蔵 この絵図では、長池を水源として、(後の)慈眼寺・(後の)勝林寺の門前を通って流れ下って谷戸川になったと見られるが、他にも、湧水があり、合流して谷戸川になったのだろう。 |
[長池跡、染井霊園2017.11.16撮影] |
[慈眼寺前・橋柱2017.11.16撮影] |
[水の流れ2017.11.16撮影] 水の流れは、この辺りから「勝林寺」方面、「下瀬坂」方面に一旦分かれるようだ。 |
[下瀬坂2017.11.16撮影] 「下瀬坂」方面に流れた水は、この辺りから谷間に流れ下ったと思われる。 |
巣鴨御薬園〜巣鴨地蔵通り(旧中山道) | |
[中山道] 江戸切絵図 染井王子巣鴨辺図 国会図書館蔵 長池跡と中央卸売市場の間を抜けると、国道17号(白山通り)。国道を横断すると、巣鴨地蔵通り(旧中山道、高岩寺・真性寺)に出る。 |
[左:中央卸売市場、右:染井霊園・長池跡2017.11.16撮影] 左側は、もともと伊勢国津藩主藤堂和泉守家の抱屋敷の一部であった。1769年に、伊奈半左衛門預かりの幕府御用林となった後、1798年頃に幕府に仕えた渋江長伯が管理する巣鴨薬園となった。 (左下へ続く) |
[東京都中央卸売市場豊島市場表門2017.11.16撮影] (右上より)巣鴨薬園を管理していた渋江長伯(1760-1830)は、幕府に仕える医師かつ本草学者であり、1799年には幕命により蝦夷地での薬草調査に出かけている。約一万二千坪あったといわれる巣鴨薬園は、別名綿羊屋敷とも呼ばれていた。これは、渋江長伯が1817年に日本で初めて綿羊を飼育し、羅紗織の試作を行ったことからきたものとされている。明治維新後、巣鴨薬園は廃止されて私有地になっていたが、1937年東京市中央卸売市場豊島分場が開設され、その後、東京都中央卸売市場豊島市場となった。 (豊島区教育委員会) |
「洗い観音、高岩寺境内2017.11.16撮影」 中央卸売市場豊島市場は国道17号線に面している。横断すると、高岩寺裏口に出る、高岩寺表門は、旧中山道(巣鴨地蔵通り商店街)に面している。 明暦の大火(1657年)で、当寺の檀徒の一人「屋根屋喜平次」は妻をなくし、その供養のため、「聖観世音菩薩」を高岩寺に寄進した。この聖観世音菩薩像に水をかけ、自分の悪いところを洗うと治るという信仰がいつしかうまれた。これが「洗い観音」の起源。観音はすり減ってきたので、1992年新観音に変わった。 (巣鴨地蔵通り商店会ウエブサイトより) |
[高岩寺2017.11.16撮影] 「とげぬき地蔵尊(秘仏)」の名で親しまれるこのお寺は、1596年に江戸湯島に開かれ、約60年後下谷屏風坂に移り、巣鴨には1891年に移転してきた。写真手前の道は旧中山道(巣鴨地蔵通り商店街)。 「とげぬき地蔵尊御影」 縦4センチ横1.5センチの和紙の中央に尊像が描かれている。痛いところに貼ったり、のどに骨が刺さったとき飲んだりすると治るといわれる。高岩寺本堂で授与している。 (巣鴨地蔵通り商店会ウエブサイトより) |
[真性寺2017.11.16撮影] 創建年代不詳。1615年〜1624年中興。江戸六地蔵の第四番が安置されている。 [銅像地蔵菩薩坐像] 1714年に造られ、江戸六地蔵の4番目(巡拝では3番目)。 1番目:品川寺、2番目:東禅寺、3番目:太宗寺、5番目:霊巌寺、6番目:永代寺(廃寺) |
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