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歴史散歩:春日−後楽−本郷を歩く
2019年4月2日(火) 錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、歴史散歩。
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国土地理院地図2500[ブラウザ:カシミール]に、主な地名・旧跡を書き加えた。 |
富坂から牛天神北野神社へ | |
【小石川村→水戸藩邸→春日、小石川→後楽】 地理院地図淡色、カシミール+スーパー地図 江戸期以前(神田川・仙台堀が掘削される以前)、後楽園一帯は、小石川、神田川、周辺の台地からの細流が合流する湿地帯であった。これらの川は砂や小石が多かったので、この辺を小石川村と呼んだ。(文京区ウエブサイト)。江戸に入り、仙台堀が掘削されると、様相は一変する。低湿地は水戸徳川家の庭園になり、小石川も小川となって神田川に注いだ。※小石川:豊島区要町の粟島神社の湧水(弁天池)に発して長崎・池袋・大塚を流れた谷端川の下流を「小石川」といい、千川上水から養水を受けたので「千川」ともいった。(ウイキペディア)※ |
【春日通りの原型、旧東富坂、旧西富坂】 地理院地図淡色、カシミール+スーパー地図 旧東富坂、旧西富坂とは、上図で赤黒線で書き入れた江戸時代の急坂である。この急坂を含む赤線は、春日通りの原型になった道。江戸期には、本郷から伝通院方面への道は、寺院あり旗本屋敷あり急坂ありで直線ではなかった。旧東富坂・旧西富坂から下りた谷は「二ヶ谷」と呼ばれ、小石川や小川が流れていた。 1908年市電を通すに当たり、整備が行われ現在の傾斜の緩やかな春日通りが出来た。現在では、旧西富坂は礫川公園に含まれ、二ヶ谷には文京区役所が建つ。旧道の名残は、赤丸で示した路地だけである。 |
【礫川公園】 入り口の所、この辺に旧西富坂はあった。 |
【はぜの木(右側)】 童謡の名作を数多く残したサトウハチロー(1903〜1973)は、1937年秋、上野桜木町から向ヶ丘弥生町に転居した。家の庭には、はぜの木が植えられ、仕事部屋からよく見えた。童謡「ちいさい秋みつけた」は、深紅に染まったはぜの枝葉を眺め作詞された。1955年秋のことである。ハチローの没後、残された”はぜの木”は2001年10月この地に移植された。樹齢約70年、毎年深紅の枝葉が”ちいさい秋”を語り伝えてくれる。 (文京区教育委員会) |
【春日局像】 1989年NHK大河ドラマ「春日局」が放映され、これを契機に地域振興が図られ、記念として礫川公園内に春日局像が建立された。 現在の春日は文京区役所から西へ国際仏教大学大学院あたりまで広範囲であるが、本来の「春日」は別の所、これは後述ということになる。 |
【富坂上】 ほぼ上りきったところで、左に曲がる古道がある。 |
【小日向絵図 牛天神・神田上水部分】国会図書館蔵 水戸徳川家上屋敷地の外縁に沿って南へ進み、西岸寺、常楽院を経て牛天神北野神社へ向かう。この古道の東側には、中央大学、筑波大学附属大塚特別支援学校などがあるが、江戸期にはすべて水戸徳川家上屋敷地であった。中央大学理工学部付近には後楽園別園があり、江戸期のトータル後楽園は規模の大きいものであった。 |
【西岸寺】 |
【常楽院】 |
【牛天神北野神社北側の牛坂】 古くは潮見坂(しおみざか)・蠣殻坂(かきがらざか)・鮫干坂(さめほしざか)など海に関連する坂名でも呼ばれていた。中世は,今の大曲あたりまで入江であったと考えられる。牛坂とは,牛天神の境内に牛石と呼ばれる大石があり,それが坂名の由来といわれる。(牛石はもと牛坂下にあった) (文京区教育委員会案内版抜粋) |
【牛天神北野神社】 1182年、源頼朝が当地にあった岩に腰掛け休息した際、夢に牛に乗った菅原道真のご神託を受け、1184年頼朝がこの岩を奉り当社を創立した。これが撫で岩の発祥、牛天神の始まりで、この岩をねがい牛とも呼ばれる。 |
【牛石、ねがい牛、撫で岩】 |
【境内南側:中島歌子の歌碑】 中島歌子の歌碑は、歌子の死後、1909年に門下生によって建てられた。 「雪のうちに 根ざしかためて 若竹の 生出むとしの 光をぞ思ふ」 (訳)雪の降り積もった中で、深く根を入れている若竹が、すくすくと光り輝いて伸びている。 中島歌子(1844〜1903年):歌子は、すぐ近くの安藤坂の歌塾「萩の舎」の塾主。門下には、梨本宮妃、鍋島侯夫人や、前田侯夫人など、上流、中流層の婦人1,000余人がいた。樋口一葉・三宅花圃らは、その門弟だった。 |
【境内西側:参道】 江戸時代には、南に下る道があったのだが、今は、西の参道のみとなっている。 |
【葛飾北斎 富嶽三十六景「礫川 雪の旦」】 アメリカ議会図書館蔵 牛天神境内西側にあった茶屋より、遠く富士を眺望する絵。 日本国パスポートの新図柄は北斎の富嶽三十六景の内、この絵を含む24枚が採用されている。2019年度導入予定とのこと。 |
【牛天神旧門前町(左)を経て、坂下は神田上水】 |
神田上水−小石川後楽園−小石川門跡 | |
【牛天神門前から坂道を下ると神田上水跡(左右)】 |
【明治初期の後楽園周辺】 東京図測量原図1883年(農研機構配信) この頃には、水戸屋敷は後楽園を除いて、全体が旧陸軍東京砲兵工廠になっていた。神田上水は水戸屋敷を横断して白山通りから懸樋に向かっていた。 大久保藤五郎が徳川家康の命で小石川上水(後の神田上水)の整備に着手したのが1590年、初代水戸藩主の徳川頼房がこの地を賜ったのが1629年なので、神田上水の年代の方が古いということになる。 |
【微高地を通る神田上水】 地理院地図2500、カシミール3D+スーパー地図 水色の線が神田上水跡:神田上水跡は東京図測量原図1883年を重ねあわせて求めた。赤円は牛天神交差点:神田上水はここから水戸屋敷に入っていった。この立体地図は現代の地図情報をベースにしているが、それでも後楽園内の微高地をうまく通り抜けていった様子が覗える。 |
【神田上水が水戸屋敷に入る地点:牛天神交差点】 江戸期には、手前の道路部分は、水戸屋敷。神田上水は、人が歩いているあたりから水戸屋敷に入ったと思われる。 |
【小石川後楽園、水戸徳川家上屋敷跡】 ここは小石川後楽園の現在の入り口、水戸徳川家上屋敷正門は小石川橋の正面だった。 かつては沼地であり、樹齢数百年の高木が生い茂っていた土地を初代水戸藩主の徳川頼房が賜ったことに始まる(1629年)。地形は変化に富み、沼や丘等の起伏、樹齢数百年の高木等の自然的要素を備えていた。頼房より作庭を命じられた徳大寺左兵衛は、この自然的要素を活かし、沼を大泉水として中島(蓬莱島)を配置する等庭園の基礎をつくるとともに、日本各地の景勝地を表現した大堰川、清水観音堂、一つ松や音羽の滝、小廬山、棕櫚山等をつくった。当初は、下屋敷であったが明暦の大火後、江戸城防火のため、それまで江戸城本丸北側の吹上にあった上屋敷が移された。(右へ→) |
【小石川後楽園展示室】 水戸徳川家屋敷地の発掘資料、水戸徳川家の歴史などが展示されている。 (→左より)二代藩主光圀の代に、朱舜水により、宋の范文正公の「天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ(先憂後楽)」の語に則って、「後楽園」と命名され、水戸御殿から本庭園への入口として建てられた唐門には「後楽園」の扁額がかけられた。 1629年、将軍家から賜った屋敷地は約76000坪という広大なもの、現在残されている庭園部分(後楽園)は約20000坪である。小石川後楽園は特別史跡・特別名勝。 |
【小石川門】旧江戸城写真帖(1871年)より 東京国立博物館蔵 小石川門は1636年岡山藩主池田光政によって築造された。枡形石垣は1872年に取り壊され、その石材は1877年に常盤橋の石橋の石として使われた。 |
【小石川橋】 木製の橋は関東大震災で被災し、1927年に鋼橋に架け替えられ、2012年に改修された。正面ガード下は小石川門跡。 |
【小石川門跡と土塁跡】 小石川門跡は通路として、両脇の土塁はそのまま高架橋として使われた。土塁の石垣は積み方から判断すると、明治になってから積み直したと思われる。なお、橋桁の中央には、1904年ドイツ製との銘板が見られる。「甲武鉄道、飯田町−お茶の水間」が開通したのは1904年のことであった。(官報参照↓) |
【日本橋川起点(明治期)】 この一帯は神田川下流の平川と小石川が合流する地点で、駿河台と麹町台地に挟まれた低地にあたり、絶えず洪水の危険にさらされていた場所だった。1620年幕府は、江戸城下を洪水の危険から守るため、神田川の流路を東に替え、駿河台を掘り抜く「現在の神田川」を切り開いた。それまで日比谷入り江に注いでいた平川を神田川から切り離した。明治維新を迎え、この地域は陸軍用地となり、1895年には甲武鉄道飯田町駅が開業。水運が必要となったので、1903年再度開削し、日本橋川(旧平川)を神田川に接続させた。 (千代田区教育委員会案内板より) |
水道橋跡−神田上水懸樋跡−お茶の水坂 | |
【明治初期の後楽園周辺】 東京図測量原図1883年(農研機構配信) |
【東京ドーム、クリスタルアベニュー】 江戸以前は、神田川・小石川を始めとする中小の流れの合流地点で、河道は一定していなかったと思われる。その後、神田川掘削や水戸屋敷定着に従って、河道もこの辺りに定着して行ったと思われる。 |
【神田川と市兵衛河岸】 この河岸の名は、江戸時代中期頃まで、現在の後楽2-1-18あたりに「岩瀬市兵衛」の屋敷があったことによる(文京区案内板より)。小石川と運河・神田川の合流点であったが明治になると、水戸屋敷は砲兵工廠となり、その荷揚場としてにぎわった。 (水道橋上から撮影) |
【神田川と市兵衛河岸】 |
【現在の水道橋】 白山通りが通る。 |
【神田上水掛樋】 徳川家康は、江戸への入府に先立って家臣の大久保藤五郎に上水の開鑿をを命じ、大久保藤五郎は1596〜1615年に神田上水の整備に着手します。井の頭池・善福寺池・妙法寺池からの水を集めて現在の文京区関口あたりで堰を設けて上水を分水し余水は神田川として流した。上水は小日向から小石川後楽園を通り神田川に達し、神田川を越えるため水道橋の少し下流から掛樋で渡した。上水は、この先は埋樋で供給され、供給範囲は南は京橋川、東は永代橋より大川以西、北は神田川、西は大手町から一橋外までといわれます。懸樋は万治年間(1658〜1661)に架け替えられたため万年樋とも呼ばれた。(千代田区教育委員会案内板より) |
【水道橋名称由来と神田上水掛樋】 [現代の地理院地図2500]と[東京図測量原図1883年]を重ねあわせて旧水道橋の位置を求めた。 「水道橋」という名称、すぐ側に神田上水懸樋があったことに由来するというのが通説であるが、「掛樋跡」は「旧水道橋」より110m程下流に位置する |
【江戸図屏風に現れた水道橋と掛樋の関係】 江戸図屏風:国立歴史民族博物館蔵(1651年〜1657年頃制作) 調べていく内に、明暦の大火前に書かれた「江戸図屏風」という絵巻物にこの謎を解く鍵があった。江戸図屏風には、「神田上水懸樋」と「旧水道橋」はすぐそばに描かれている。掛樋は明暦の大火(1657年)後に、110m程下流に移動したものと思われる。おそらく、水道供給域を広げるために移動したものと思われる。 明暦の大火の後、吉祥寺は文京区本駒込に移転し、この地は火除地になる。 |
【東都御茶の水】 広重 名所三十六景 国立国会図書館蔵 お茶の水坂あたりから、掛樋、水道橋、富士を見る |
【現在の水道橋を見る】 左図と比較して.... 掛樋跡から富士方面を見た図、土手の上には松の代わりに中央線・総武線が、水道橋も見える。 |
【神田上水石樋】本郷給水所公苑内 この石樋(石垣樋)は1987年〜1989年にかけて発掘された神田上水幹線水路の一部を移築復元したものである。石樋の内部寸法は上幅150cm、下幅120cm、石樋の高さ120〜150cmで長さ180cm、幅60cm、厚さ30cm前後の蓋石がのせられている。 (東京都案内板より抜粋) |
【家康に菓子を献上する大久保藤五郎】 1590年、徳川家康の命を受けた大久保藤五郎は、小石川目白台下の流れをみたてて上水を開設した。この上水のみたての功により主水の名を与えられた。水は濁ることを嫌うことから「もんと」と呼ぶようにいわれた。小石川上水は後に神田上水に発展する。 (東京都水道歴史館) |
【神田上水と周辺の移り変わり】 1590年 徳川家康、江戸に国替えになる 1590年 家康の命を受け、大久保藤五郎、小石川目白台下の流れをみたてて小石川上水を開設する。 1596〜1615年 小石川上水は神田上水に発展する 1617年 大久保藤五郎死去 1615〜1626年 仙台藩による神田川開鑿 1629年 水戸徳川家中屋敷(後に上屋敷)を賜る 1651年 徳川家光薨去 1657年 明暦の大火 1658〜1661年 掛樋架け替え(万年樋) |
時代推移を考えると、次のように整理することが出来る ・神田上水は1600年代初期には完成し、駿河台下方面に飲料水を供給していた。 ・その後、神田川開鑿が行われ、掛樋が出来た。この頃、水道橋ができたのだろう。 ・水戸徳川家中屋敷(後に上屋敷)ができる ・明暦の大火 ・大火を受けて、神田上水再整備(万年樋の時代) |
【[お茶の水]名称由来】 明暦の大火以前、この辺にあった高林寺の境内に湧き水があり”お茶水”として将軍・家光に献上したことから「お茶の水」地名がおこった。『御府内備考』によれば「御茶ノ水は聖堂の西にあり、この井名水にして御茶ノ水に召し上げられしと・・・」とある。それ以来、この坂をお茶の水坂という。 (文京区教育委員会案内板より) |
【江戸図屏風に現れた高林寺門前の井戸】 江戸図屏風:国立歴史民族博物館蔵(1651年〜1657年頃制作) |
建部坂−金刀比羅宮東京分社 | |
【本郷湯島絵図 水道橋部分】国立国会図書館蔵 建部六右衛門、昌清寺、松平讃岐守に注目 |
【建部坂(初音坂)】 『御府内備考』に次のような記事がある。建部六右衛門様御屋舗は、河岸通りまであり、河岸の方はがけになっている。がけ上は庭で土地が高く、見晴らしが良い。がけ一帯にやぶが茂り、年々鶯の初音早く、年によっては十二月の内でも鳴くので、自然と初音の森といわれるようになった。1772年丸山菊坂より出火の節、やぶが焼けてしまったが、今でも初音の森といっている。初音の森の近くで、一名初音坂ともいわれた。 (文京区教育委員会の案内板より) |
→【徳川忠長と昌清寺】 当寺は浄土宗嶺松山弘願院昌清寺と称され、1615年の創建である。開基は朝倉きよ(お清の方)、駿河大納言忠長(家光の弟)の乳母である。父2代将軍秀忠と母お江は忠長を寵愛し、忠長に次期将軍職を譲ろうと考えた。しかし、兄家光の乳母春日局が家康に直訴するに及んで、将軍は家光に決まった。忠長は駿府城主となったが、なお大坂城主を要請したため家光の怒りにふれ、領地は没収され、高崎城に幽閉され自害した。1633年忠長28歳であった。 忠長死後、忠長夫人お昌の方(信長の曾孫)は剃髪し松孝院と号した。乳母のお清も剃髪し、お昌の一字をもらい、昌清尼と称した。松孝院は忠長の菩提を弔うにあたり公儀に配慮し、自分に代わって乳母のお清に昌清寺で忠長の供養をさせた。 (文京区教育委員会案内板より) ※徳川忠長の墓は高崎市大信寺にある) |
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→【松平頼重侯下屋敷跡】 この一帯(東京都立工芸高校、宝生能楽堂、金刀比羅宮東京分社)は高松松平家下屋敷のあったところである。高松松平家は松平頼重を藩祖とし徳川光圀とは兄弟の関係にあった。 (文京歴史研究会案内板より抜粋) 1819年下板橋宿の板橋市左衛門が所有地内に金毘羅大権現を勧請した。1880年無格社・金刀比羅神社として公認された。昭和30年代になり、崇敬者の要望により、松平頼明氏から寄進された現社地に金刀比羅宮直轄境外末社・東京分社として再興することになった。 ここは、高松藩松平家上屋敷の邸内社として1793年に勧請された金刀比羅宮が祀られていた場所である。 |
春日町−弓町の大椎−かねやす | |
【本郷湯島絵図 春日町部分】国立国会図書館蔵 【春日局と春日殿町、春日町、出世稲荷神社】 江戸末期の切り絵図には「春日町」の町名が見える。そこから少し登ると「稲荷」があるが、春日局の位牌を祀ったという「出世稲荷神社」である。 「むかしは野原であったのを、1630年、3代将軍家光の乳母春日局が、幕府に願い拝領し、局のお付きの御下男30人の住まいとした。 (御府内備考) 春日局とのゆかりで、古くは春日殿町と呼ばれ、のちに春日町となった。 (→右へ) |
(→左より) この地を拝領した1630年は、春日局52歳、江戸城大奥の総取締りとして威勢並ぶ者がなかった。拝領地になったとき、その鎮守のために稲荷社が祭られた。春日局の出世にあやかり『出世稲荷』と呼ばれ、現在も町の人にあがめられている。(出世稲荷案内板より) ※春日局は本名『ふく』父は明智光秀の重臣斉藤内蔵助利三である。戦いに敗れ、逆賊の家族として苦しい生活をした後、徳川三代将軍家光の乳母となり、江戸城大奥にて大きな力をもつに至った。※ ◇◇◇この地は、昭和40年までは、春日町であったが、現在は、本郷一丁目33番17号。「春日」を名乗る地域は、白山通りを越して、文京区役所から西の方へかなり広い地域となっている。今回の歴史散歩では、「地名を聞いても、その由来が直ぐには分からない地名3種ほど、「水道橋」「お茶の水」「春日」◇◇◇ |
【春日通りの原型、旧東富坂、旧西富坂】 地理院地図淡色、カシミール+スーパー地図 このページの最初に示した図になるが、旧道は分かり難くはなっているが丸印がキチンと存在している。 |
【かすかに残る旧東富坂】 写真は講道館の前からのものである。旧東富坂に繋がる丸印の道だ。 |
【かすかに残る旧東富坂】 白山通りを横断して(もちろん春日町交差点へ迂回するのだが)、ビルとビルの隙間の道に入ってみると、なだらかな坂道、この先が旧東富坂である。写真の赤矢印の位置に「この先行き止まり」との案内がある。 |
【春日通りに抜ける坂道】 丸ノ内線の南側に行ってみると、春日通りに抜ける坂道がある。文京区の案内板では、この道が「旧東富坂」となっているが、旧東富坂の一部というべきだろう。 |
【本郷湯島絵図 弓町部分】国立国会図書館蔵 本郷湯島絵図に、旗本、甲斐庄喜右衛門の名が見える。 甲斐庄氏は楠木正成の後裔といい、河内国錦部郡甲斐庄(現在の大阪府河内長野市付近)を領有していたことからこの姓を名乗ったという。(右へ) |
【本郷弓町の楠】 推定の樹齢は600年、樹高は20メートル、幹回りは8.4メートルを測る。 (左より) 甲斐庄氏の後裔は明治時代には屋敷と土地を維持していたが、大正時代初めに別の人に屋敷と土地を譲渡した。新しい所有者は、古い屋敷を取り壊して木造の西洋館を建築した。その西洋館も後には別の人が所有することになったが、この木は敷地の一角に残された。(ウイキペディア) |
【石川啄木旧居、喜之床】 明治の歌人・詩人・評論家、石川啄木(1886〜1912)の旧居跡。 蓋平館の住まいから、新築間もない理髪店「喜之床」の2階に移り、家族そろっての生活を始めた。 明治42年から小石川に移るまでの2年間の住まいである。 |
【かねやす】 現在の本郷三丁目交差点角に店を構える「かねやす」は1735年に歯科医兼康祐悦が乳香散という歯磨き粉を売る店として開店してから小間物屋として現代まで営業を続けており、1730年の大火の再興の際大岡忠相がここ以南の江戸城に近い側を土蔵造りの塗屋にすることを命じたためこれを指して「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」という川柳が残されている。 (ウイキ) ※本郷:湯島郷(ごう)の本郷の意味。江戸期になってから町屋が開け、中山道の西側に沿って南北に細長い町域となった。 (文京区案内板より) |
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