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歴史散歩:品川−高輪−三田を歩く

2015年5月11日(月)
錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、東京歴史散歩。まず、JR品川駅を出発し、旧東海道沿いに東禅寺、泉岳寺、高輪大木戸跡を辿りました。その後、元和キリスト教遺跡から崖を上り、更級日記縁の地、伊皿子貝塚遺跡を訪ねたあと、旧奥州街道沿いに三田・綱坂へ。有馬屋敷跡から桜田通りを南下、JR田町駅へ向かいました。
【コースの概略】
@品川駅創業記念碑
A西郷・勝予備会談地(GOOS)
B旧竹田邸洋館
C初期イギリス公使館跡(東禅寺)
D高輪海岸の石垣石(高輪二丁目)
E泉岳寺
F旧高輪牛町
G高輪大木戸跡
H元和キリシタン遺跡
I初期フランス公使宿館跡(済海寺)
J亀塚・上野沼田藩土岐家下屋敷跡
 (更級日記・竹芝寺伝説ゆかりの地)
K伊皿子貝塚遺跡(三田台公園)
 旧華頂宮跡
L綱坂
 ・松平主殿頭中屋敷跡(慶応大学)
 ・松平隠岐守中屋敷跡
  (イタリア大使館)
 ・島津淡路守上屋敷跡
  (綱町三井倶楽部)
M有馬中務大輔上屋敷跡
 ・赤羽水天宮旧地
 ・有馬家火のみやぐら旧地
 ・有馬家猫塚
  (港区立赤羽小学校)
N水野監物邸跡
  (赤穂浪士10名切腹地)
O西郷・勝会談地
  (薩摩藩蔵屋敷跡)
P本芝公園(旧雑魚場)


高輪鉄道

【新橋横浜間鉄道之図 1872年 重要文化財 国立公文書館蔵】
上図は、[新橋−横浜]の内、[品川−浜松町]間を切り出したものである。国立公文書館の解説では「作成した機関、年月日は不明ですが、恐らく鉄道を所管した工部省が仮開業前後に作成し、太政官に提出したものと思われます。」とあります。
[品川−浜松町]間は、海に堤防を築いて線路を敷設したことがよくわかる図である。田町駅、浜松町駅はまだなく、仮営業した「品川ステーション」は、現在の「品川駅」よりも南側に描かれている。

【品川駅】

【@品川駅創業記念碑】

【@品川駅創業記念碑】
  • 品川駅開業日:1872年5月7日(旧暦)
    [品川−横浜]間、仮営業開始日
  • 鉄道の日:1872年10月14日(新暦)
    [新橋−横浜]間、本営業開始日1872年9月12日(旧暦)

【田町駅付近、旧雑魚場】
鉄道敷設の後は、ここを漁船が出入りしていたらしい。
国土地理院の標高データを見ると、鉄道軌道面は、約3mで周囲の標高と同程度なので、開業以来、あまり変化がないと思われる。

【高輪大木戸付近】
ガード下1.5mの標識がある、タクシーがやっと通れる高さだ。
すぐ上を、京浜東北線が走る。

【高輪大木戸付近】
近づいて見ると、海岸線の標高から嵩上げされていないことがわかる。


旧東海道(高輪海岸に沿って)

【江戸切絵図 芝高輪辺絵図(高輪部分)1850年】
原図は国立国会図書館蔵、赤字・青字は当ウエブサイト管理者

【明治東京全図 1876年 国立公文書館蔵】
薩摩藩下屋敷跡→後藤象二郎
東海道に沿った浜辺に鉄道が描かれている。

【A薩摩藩下屋敷跡】
写真左側にシナガワグースが見える。そこには、薩摩藩下屋敷があったところ、目の前には袖ケ浦の海が迫っていた。ここで、西郷-勝の予備会談が開かれた。

【B旧竹田邸洋館】
江戸切絵図に見られる、島津・井伊・木下屋敷は、明治維新後、一塊にして、後藤象二郎の所有になった。その後、朝香宮邸、東久邇宮邸、竹田宮邸、北白川宮邸などとして使われたが、戦後宮家の皇室離脱で、宮家の手を離れ、現在、港区・京浜急行・プリンスホテルなどの所有になっている。当時の建物は、ほとんど廃棄されたが、旧竹田邸のみ、グランドプリンスホテル高輪の貴賓館となっている。

【C初期イギリス公使館跡、東禅寺】
1609年、溜池周辺に創建
1636年、当地に移転
臨済宗妙心寺派に属し、日向飫肥藩伊東家、仙台藩伊達家、岡山藩池田家の菩提寺であった。
1859年6月〜1865年6月、イギリス公使館であったが、その間、2度ほど襲撃事件が発生、他所へ移転した。
幕末期の公使館に当てられた寺院は、その後、大きく改変されるなかで、東禅寺の場合は、よく、保存されていると言われるが、残念ながら非公開で、見学は出来なかった。

【C東禅寺】
東禅寺門前から、江戸湾の眺望が良好であったと伝えられるが、現在は、ビル群に阻まれている。

【D高輪海岸の石垣石:高輪二丁目交差点】
1995年の遺跡調査(高輪2-20)で発掘された石垣のサンプル。石垣には、主に相模湾から伊豆半島周辺で採石された安山岩が用いられた。発掘調査では、3段の石積みを確認したが、3段目から下の石垣は現地でそのまま保存されている。
(港区教育委員会案内板より)

【高輪接遇所跡、(現)泉岳寺児童遊園】
当初、東禅寺にあったイギリス公使館は、度々、襲撃にあったので、代替え地を模索していたが、1865年、イギリス公使に着任したパークスは、泉岳寺前に公使館を建設するよう要求。幕府は、この地に、高輪接遇所を建設し、事実上のイギリス公使館にした。

【E萬松山泉岳寺】
・1612年、徳川家康が幼年、身を寄せた今川義元の菩提を弔うため、江戸城に近接する外桜田の地に創建。
・1641年、火災で焼失、高輪の現在地に移転再建。
尽力した毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の5大名が壇越となった。
・創建時より、諸国の僧侶が参学する叢林として、また曹洞宗江戸三か寺ならびに三学寮の一つとして名を馳せた。泉岳寺と青松寺の学寮は、その後、曹洞宗大学(駒澤大学)となった。
(一部、泉岳寺の縁起より抜粋)

【E赤穂浪士の墓】
赤穂藩浅野家の菩提寺であったことから、1702年の討ち入りの後は、赤穂47士の墓所としても知られ参詣者も多くなった。
・1701年、浅野内匠頭の墓が建立される
・1702年、赤穂浪士、吉良善央を討つ
・1703年、赤穂浪士、主君の墓側に葬られる。
(←左図)
【F東海道 高縄牛ご屋、暁斎 国立国会図書館蔵】

泉岳寺から高輪大木戸の一帯を、かつて「車町」といった。
1634年の増上寺安国殿建立、1636年の市ヶ谷見附石垣普請の際、京都の牛持ちたち(牛車運搬業者)が召し寄せられ、石材の運搬を勤めていた。御用が済んだ後も帰郷はかなわず、1639年家光の意向により、諸国から船で届いた荷を運ぶのに都合の良い高輪の土地を与えられ移り住んだ。牛車を使っての荷物運搬の独占権を与えられたので、この地を「車町」とも「牛町」とも呼ぶようになった。
(以上、港区 旧町名由来案内板より抜粋)
現在、この地域の山側に「願生寺」があり、牛の供養塔があるという、「牛町」の唯一の名残になっている。

【東都名所高輪全図、一立斎広重 国立国会図書館蔵】
高輪海岸、大木戸にかけての絵図。東海道が海岸沿いに走っていて、見晴らしは良かったものと思われ、茶屋も描かれている。大木戸の石垣が海側・山側に一つずつ描かれているが、幕末期には、大木戸そのものは廃止されていたようである。徒歩で行く人、馬に乗る人、かごに乗る人、が描かれているが、左下には、荷車を牽く牛の姿が見える。

【G高輪大木戸跡】
大木戸の石垣は、山側が撤去されて、海側だけが残る。現在の第一京浜国道は、旧東海道中心線を基準に拡張したように見える。石垣を基準にすれば、もっとすっきりした形になっただろうに、不思議な光景だ。山側の土地所有者に配慮した形になっている。

【G高輪大木戸跡】
高輪大木戸は、1710年に芝口門に建てられたのが起源。1724年現在地に移された。江戸の南の入り口として、東海道の両側に石垣を築き、夜は閉めて通行止めとし、治安維持と交通規制の機能を持っていた。1831年には、札の辻から高札場も移された。京登り、東下り伊勢参りの旅人の送迎もここで行われた。江戸後期には、木戸の設備は廃止され、石垣だけが残った。
(東京都教育委員会案内板より)


旧奥州街道−綱坂−田町駅

【江戸切絵図 芝高輪辺絵図(三田部分)1850年】
原図は国立国会図書館蔵、赤字・青字は当ウエブサイト管理者
【H元和キリシタン遺跡、旧智福寺境内】
第一京浜国道を北上、札の辻交差点手前、三田ツインタワー北側に「都旧跡 元和キリシタン遺跡」の石碑がある、1623年10月13日50人のキリシタンが火あぶりの刑に処せられた。処刑地は、京都に通ずる東海道の入り口にある丘が選ばれたという。後に、智福寺となる、済海寺の崖下であろうといわれている。
智福寺は、1966年、ここ三田から上石神井に移転しているが、上石神井霊園(智福寺境内)ウエブサイトに、
『寺に伝わる「智福寺開山一空上人略伝記」によると、当時同地は品川に向かう東海道沿いの丘にあり、長い間空き地になっていました。その理由は、江戸の初期に行われたキリシタン弾圧(天和の大殉教)の刑場跡地だったことによります。一空上人にこの地への移転を決心させたのは、悲しみを抱えた土地を寺院にすれば、刑死した人々も浮かばれるだろうとの考えからでした。』とあります。
旧奥州街道(崖上)

【I済海寺】
元和キリシタン遺跡から南に20-30mほどの所に、崖上に登るエレベーターがあり、済海寺の裏側に出られる。
・1621年開山、牧野家、松平家の菩提寺
・「更級日記に出てくる竹芝寺」の跡地との言い伝えがある。

【I済海寺、フランス公使宿館跡】
1859年8月12日、初期のフランス公使宿館となった。

【J亀塚公園、亀塚】
済海寺に隣接する亀塚公園は、上野沼田藩土岐家下屋敷であった。ここは、三田台から高輪、八ツ山に及ぶ一連の丘陵地の東端で、遙かに房総の山々を一望できる景勝地であった。特に、この亀塚からの眺望は素晴らしかったと思われる。西側の道路は古奥州街道にあたり、江戸開府前の主要道路であった。

【J亀山碑、更級日記ゆかりの地】
亀塚の頂上部に、亀山碑がある。1750年、ここに屋敷を構えた土岐頼熈(ときよりおき)が、建てたものであるが、「更級日記の竹芝伝説、酒壺の亀伝説」が記されている。土岐頼熈が、当時の教養人であることを示しているが、土岐氏が、ここに屋敷を構えた唯一の名残になっている。

【J亀塚公園】
亀塚公園東側に、高輪郵便局裏側に下る木製の急階段がある。落差は、20m程だろうか?踊り場にはベンチもあり、足腰を鍛える散歩コースとなっている。

【K三田台公園、華頂宮邸跡】
亀塚公園も三田台公園も江戸時代は、土岐氏の下屋敷だったが、明治維新後は、一時、華頂宮邸となったことがある。この井戸は、その華頂宮邸時代の井戸であるが、水面まで7.5m、水底まで12mであり、煮沸すれば飲める水質との説明がある。(港区案内板より)

【K三田台公園、伊皿子貝塚】

【K三田台公園、伊皿子貝塚 4000年前の様子】
綱坂−桜田通り−田町駅(大名屋敷跡と海岸線)

【L三田綱坂下】
坂下左:慶應義塾中学、会津藩保科家下屋敷跡
坂下右:慶應義塾大学、島原藩松平家中屋敷跡
福沢諭吉は、1871年、人の住まなくなった島原藩松平家中屋敷を借り受け、慶應義塾大学を移転した。

【L綱坂】
綱坂左:会津藩保科家下屋敷跡と佐土原藩島津家上屋敷跡。1913年、三井家が賓客の接待所として三井別邸「綱町三井倶楽部本館」を建てた。現在、非公開。
綱坂右:松山藩松平家中屋敷跡。1932年イタリア大使館となる。
1939年、「赤穂浪士切腹の地」の碑が建てられた。さすがにイタリア、歴史を大切にする国である。

【芝赤羽橋之図 広重 国立国会図書館蔵】
「赤羽橋」の向こう岸に、有馬屋敷が見える。のぼりは「水天宮」、左端は「火の見櫓」。
【M久留米藩有馬家上屋敷跡】
綱坂を上がりきり、突き当たると、久留米藩有馬家上屋敷跡である。
有馬屋敷の名物は三つあった。
  1. 水天宮
    久留米から分霊した水天宮、江戸庶民にも開放したが、明治維新後、人形町へ移転。
  2. 火の見櫓
    幕府から、芝増上寺の火の番を下命され、ひときわ高い火の見櫓があった。明治維新後、取り壊し。
  3. 有馬の猫塚
    「お殿様の寵愛が深かった側室が、他の側室の嫉妬によるいじめで自害してしまう。自害した側室が可愛がっていた猫が主人の敵をうつ」というお話し。
    その猫の霊を弔う塚なのだが、これが「港区立赤羽小学校体育館裏」に現存するという情報を得て、見に行ってきました。受付で「見学」申し込みをして、猫塚にお参り? 古川を見下ろす崖上にありました。この塚が、有馬屋敷があった事を示す唯一の名残と思うと、「よくぞ残った」と感激しました。写真を取り損ないました。
【N岡崎藩水野家中屋敷跡】
桜田通りが、慶応大学に沿って西へ曲がるところ、東方向へ田町駅に抜ける細い路地がある(慶応仲通り)、この路地が終わろうとするところに、石灯籠と案内板があった。

「水野家は、のちに天保の改革を主導する水野忠邦を輩出した譜代大名の名門の家柄で、水野監物忠之(1669〜1731)は、第4代藩主である。1701年3月浅野内匠頭長矩の吉良上野介義央に対する殿中刃傷事件の折りには、幕命により鉄砲洲の赤穂藩邸(中央区明石町の聖路加国際病院)に赴き混乱を防いだ。
1702年12月15日元赤穂藩士たちのお預けが決まると、9名をこの屋敷に引き取った。1703年2月4日幕府の裁きにより9人は、この屋敷で自刃し、武士の本懐を遂げた。
水野家は細川家とともに元赤穂藩士の取扱は丁重で世評もよく、『細川(越中守綱利)の水の(水野監物)流れは清けれど、ただ大海(毛利甲斐守綱元)の沖(松平隠岐守定直)ぞ濁れる』という落首がその状況をよく伝えている。」
(東京都教育委員会案内板より抜粋)

【O西郷・勝会談地、薩摩藩蔵屋敷跡】
新政府軍の江戸城総攻撃は、1868年3月15日と予定されていたが、その前日、勝はここで降伏条件を示し、総攻撃は回避された。
会談が行われた薩摩藩蔵屋敷の裏は、すぐ海であり、この屋敷は国元からの荷物を陸揚げする機能を担っていた。

【P本芝公園、雑魚場跡】
薩摩蔵屋敷隣には「雑魚場」と呼ばれる魚市場があった。この付近は、古川河口の三角州で江戸時代以前に開けたところ、本来の芝という意味で「本芝」と呼ばれている。落語・歌舞伎「芝浜の革財布」はこの土地が舞台である。
(芝地区総合支所協働推進課案内板より抜粋、改変)

【P本芝公園、江戸時代の海岸線と鉄道】
明治維新になり、雑魚場の目の前の海に鉄道が通ることになった、が、雑魚場は鉄道下のガードから東京湾に通じていた。そのため、江戸時代からの海岸線が最近まで残っていたが、周囲の埋め立てが進み、1968年ここも埋め立てられ「本芝公園」となった。
(芝地区総合支所協働推進課案内板より抜粋、改変)
※本ページの始めに紹介した「高輪大木戸」付近の状況と同じである。
古地図、錦絵などを丹念に調べ、現在を歩いていると必ず、その痕跡にであう。特に、港区の場合、遺跡巡り(保存ではない)に困らないように、随所に石に描かれた案内板が用意されていたのは便利であった。




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