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歴史散歩:滝野川−王子を歩く


2022年5月7日(土)
錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、歴史散歩。
  • 石神井川下流部は、滝野川といわれるほど滝が多く流れも急であった。近年の治水対策(直線化・護岸工事等)で荒々しさは失われたが、曲線部分に残された緑地にかつての風光明媚さを偲ぶことが出来る。
  • 石神井川は、おそらくは縄文期には、谷中・不忍池を経由して東京湾へ注ぐ河川であったことが知られている。飛鳥山のところで隅田川に抜けてからは、染井墓地周辺の湧水がその河道を流れていた。湧水の流れは東京湾方面ばかりでなく、石神井川方面への逆流もあった事が知られている(逆川)。逆川を遡って、古石神井川の河道を探ることが出来る。
  • 王子地区は、渋沢栄一の王子製紙開業をきっかけに、都市化が進み、近年では石神井川本川は飛鳥山分水路によってスムーズに隅田川に流れるようになった。かつて田畑を潤していた、用水路も痕跡を辿るのが難しくなっている。
  • かつて、畑の中で目立つ存在であった装束榎と装束稲荷も、移転はさせられたが都市の片隅にしっかりと存在し、王子稲荷神社への狐の行列も地元の若い人によって受け継がれているようだ。

国土地理院地図2500[ブラウザ:カシミール]に、主な地名・旧跡を書き加えた。

石神井川下流部を辿る

【武蔵野台地の東端(王子〜上野)】
国土地理院デジタル標高地図
(文字部分、水色・赤の線は筆者書き入れ)
かつて、石神井川は、小平市を水源として、途中の湧水・雨水を集めながら、武蔵野台地を東に流れ、王子付近で流路を南に変え不忍池を作り、東京湾に注いでいた。ところが、いつの時代かは不明だが、王子の所で台地を切って、隅田川(旧入間川、旧荒川)に合流してしまった。それは、大洪水があったとも、縄文海進で潮位が上がったとも、あるいは、人的な土木工事が原因であったともいわれているが、いずれも確証がない。南下部分は、水量は失われたが、染井の墓地あたりの湧水を水源として、北上部分は「逆川」南下部分は「谷田川」「藍染川」として、流れがあった。やがて、泉も涸れ、川の流れも失われたが、その流路は現在では「商店街」として見ることができる。まずは、石神井川に沿って、河川改修の前後を検証してみる。

石神井川・北区部分(河川改修以前)
東京都区分地図北区詳細図1947年頃
(国際文化センター所蔵、赤部分は筆者書き入れ)
【滝野川】
河川改修以前、石神井川は、下流部分(現北区)で大きく蛇行して大渓谷をなし、大きな滝がいくつかあった。このため、石神井川は「滝の川」と呼ばれ、滝之川・滝野河・滝川などと書いた。

【石神井川直線化工事と残された緑地】
戦後の流域の急速な都市化、屈曲の多い川筋が原因で、台風・集中豪雨の時氾濫が起こり、たびたび被害を受けた。その対策として、1975年頃、川筋の直線化、護岸工事が行われ、蛇行部分は緑地として残ったが滝は消えてしまった。

【石神井川・正面鉄橋は埼京線】
撮影は「あずまばし上」、ここから右岸の遊歩道を王子まで歩く。

【北区「石神井川遊歩道」案内板】

【音無くぬぎ緑地】

【音無くぬぎ緑地】

【音無こぶし緑地】

【急坂】

【音無かつら緑地】

【観音橋から上流(板橋方面)を望む】
川はかなり深くなっている

【観音橋から下流(王子方面)を望む】
川は更に深くなっている

【音無みずき緑地】

【音無もみじ緑地】

【音無もみじ緑地】
松崎弁財天洞窟は写真正面右辺りにあったが、1975年頃の河川改修で消えてしまった。

【音無もみじ緑地・松橋弁財天洞窟跡】
もともとこの辺りは、石神井川が蛇行して流れていた場所。春の桜、秋の紅葉、殊に紅葉の名所として知られていた。画面を見ると、岩屋の前に鳥居があり、その横に松橋が描かれています。水遊びをする人や茶店も描かれ、行楽客が景色などを楽しんでいる様子が見て取れる。
崖下の岩屋の中には、弘法大師の作と伝えられる弁財天像がまつられていた。(→右へ)

【東都名所 王子滝野川 広重 国会図書館蔵】

(左より→)このため松橋弁財天は岩屋弁天とも呼ばれていた。『新編武蔵風土記稿』によると、この弁財天に源頼朝が太刀一振を奉納したと伝えられているが、すでに太刀も弁財天像も失われている。
(松崎弁財天洞窟跡・現地説明板)

【金剛寺 紅葉寺:源頼朝の布陣伝承地】
1180年8月、鎌倉幕府初代将軍の源頼朝は配流先の伊豆で挙兵し、石橋山の合戦で敗れて安房に逃れたが、上総・下総を経て隅田川を渡り、滝野川・板橋から府中六所明神に向い、ここから鎌倉に入って政権を樹立します。
この途次の10月、頼朝は軍勢を率いて瀧野川の松橋に陣をとったといわれます。松橋とは、当時の金剛寺の寺域を中心とする地名で、ここから見る石神井川の流域は、両岸に岩が切り立って松や楓があり、深山幽谷の趣をもっていました。崖下の洞窟には、弘法大師の作と伝えられる石の弁財天が祀られていたが、頼朝は、弁財天に祈願して金剛寺の寺域に弁天堂を建立し、所領の田地を寄進したと伝えられます。
金剛寺は紅葉寺とも称されますが、これは、この地域が弁天の滝や紅葉の名所として知られていたことに由来するからです。(現地、東京都北区教育委員会解説板より)

【音無さくら緑地】

【音無さくら緑地の自然露頭】

【音無さくら緑地の湧水層】
旧石神井川の自然露頭が残され、地下水がしみ出している。

【正受院鐘楼門】

【不動瀧 江戸名所図絵 国会図書館蔵】
「不動瀧 泉流瀧とも云 正受院の本堂の後坂路を廻り下る事数十歩にして飛泉あり 滔々として峭壁に趨る 此境は常に蒼樹蓊欝として白日をさゝへ 青苔露なめらかにして人跡稀なり」と書かれている。

【王子 不動の瀧 広重】
正受院を開いた学仙坊が修行中に、石神井川から不動尊像をすくい上げ、瀧の傍らに安置したので、この瀧を「不動の瀧」というのだそう。江戸時代には、病気治癒祈願や涼を求める人で賑わったという。

【正受院の裏手】
不動の瀧は石神井川に面したこの辺りに、あったと思われるが、痕跡すらない。

【飛鳥山分水路呑口と大堰跡】
撮影は音無橋から西方向、ここにかつては大堰があったが、今や、飛鳥山分水路呑口となっている。

【石神井川直線化工事:東京都建設局資料】

【江戸末期の石神井川と王子周辺】
(武州豊嶋郡王子村絵図 国会図書館蔵、文字・矢印は筆者が書き入れた)
この大堰の上流側からは、上郷用水、下郷用水が流出、逆川が流入していた。ここからは、逆川を遡ることにする。

逆川を遡る

[(江戸末期)武蔵国豊嶋郡滝野川村絵図+武蔵国豊嶋郡西ヶ原村絵図 国会図書館蔵]
二枚の絵図を村界を流れる逆川に合わせて合成し(村界は赤の点線)、現代の町名を書き入れた。縮尺・方位の乱れがあり、厳密さには欠けるが、イメージ的には良好と思う。
いつの時代か、石神井川が飛鳥山を突き破り入間川(隅田川)に注ぐようになったとき、残された河道には、湧水から逆に石神井川に落ちる流れが出来ていた、これを「逆川」という。この旧河道は、暗渠になったが、現在でも辿ることができる、石神井川から西ヶ原銀座通り入口まで辿ることにする。

[現代の国土地理院地図+カシミール3D東京スペシャル上の逆川]
逆川を水色、町名・駅名など白文字は筆者が書き入れた。
逆川旧河道は路地によく残っているようだ。逆川は西ヶ原村と滝野川村の村界を流れ、現在でも西ヶ原町と滝野川町の境界となっている。3Dの地図から分かるように、逆川の流れは、すっぽりと石神井川旧河道に含まれている。外輪橋跡の標高が15.8m、石神井川に落ちる標高が14m、その差1.5mである。

【逆川流路跡】
醸造試験所跡地公園を東に沿って蛇行する。

【逆川流路跡】
醸造試験所跡地公園に沿って蛇行しながら、明治通りに至る。

【醸造試験所跡地】
1864年、江戸幕府は大砲を作るため、この地に反射炉を作り、動力用水車として千川用水を巣鴨から分水したが、幕府終焉により使われることはなかった。
1872年、鹿島万平は、この水車を利用して民間初の紡績工場(鹿島紡績所)を作った、1888年に東京紡績に吸収合併されるまでこの地での操業が行われた。
1880年には、鹿島紡績所の隣に大蔵省印刷局抄紙部配合分科が設置され、この水力を利用した日本最初の稲ワラパルプの製造が開始されたが1889年には王子工場に移転した。
(以上、飛鳥山3つの博物館ウエブサイト:以下、北区教育委員会案内板より)

【旧醸造試験所第一工場】
1904年、大蔵省が醸造試験所を設置、醸造の研究や品質の改良、講習などをおこなった。
(1995年、研究機能を東広島に移転し、醸造研究所と名称を変更。2001年、独立行政法人酒類総合研究所として新たにスタートした。)
第一工場は試験所の中核施設として、蒸米・製麹・仕込・発酵・貯蔵などの作業が行われていた。設計及び監督は大蔵省技師の妻木頼黄が担当した。躯体の煉瓦壁の一部に中空部分を設けて外部の温度変化の影響を受けにくくし、またリンデ式アンモニア冷凍機を用いた空調設備を備えるなど、一年を通じて醸造の研究が行えるように、ドイツのビール醸造施設を応用した設計がなされている。
跡地の建物は「旧醸造試験所第一工場」として2014年に国の重要文化財に指定。隣接地は「醸造試験所跡地公園」として2006年に整備された。
(北区教育委員会案内板より)

【逆川流路跡】
明治通りを横断して

【逆川流路跡】
明治通りはかなり土盛りをしていることが分かる。

【逆川流路跡】
再び、流れを遡る

【逆川流路跡】
やがて、都電荒川線踏切を横断する。
正面は、北区立滝野川第三小学校。流路はこの小学校敷地内へ入り、南門へ向かったと思われる。

【逆川流路跡】
北区立滝野川第三小学校南門付近から出た流路は、南下する。
【逆川流路跡】

【逆川流路跡】

【逆川流路跡】
左側が西ヶ原三丁目、右側が滝野川一丁目

【逆川流路跡】
新道が出来て分かり難くなっているが、逆川の流れは、新道を横切って左に曲がっている。

【逆川流路跡】
逆川の流れはここで左に曲がる。従って、左の建物の住居表示は本来「西ヶ原三丁目」のはずだが、新道のために、西ヶ原四丁目になっている。

【逆川流路跡】
逆川の流れは、新道に向かい、そしてすぐに右へ曲がる(西ヶ原銀座通りとなるが、西ヶ原銀座通りは、染井銀座通りに繋がる)。この辺から、逆川流路は滝野川から離れ「西ヶ原三丁目」と「西ヶ原四丁目」の境界を走っている。

【逆川流路跡】
逆川が、鎌倉古道(あるいは浅草道)と交差するところに、橋があったようだ。赤の矢印は、その交差点に建てられた「西谷戸新道」という石碑、逆川が暗渠化(下水道化)されて、新道が出来、西ヶ原銀座通りとなったと思われる。

【西谷戸新道碑】





石神井川飛鳥山分水路吐口・旧本川
ここから、滝野川一丁目から都電荒川線に乗って王子駅前に向かう。

【江戸末期の石神井川と王子周辺】
(武州豊嶋郡王子村絵図 国会図書館蔵、文字・矢印は筆者が書き入れた)

【現在の石神井川と王子駅周辺】
(国土地理院地図+カシミール3D、文字・矢印・流路は筆者が書き入れた)
  • 江戸時代には、石神井川本流は、武蔵野台地を切り、隅田川に流れ下っている。
    途中大堰を設けて、北へ向かう「上郷用水路」南へ向かう「下郷用水路」等が描かれている。
  • 日光御成街道沿いに見ると、まず下郷用水を飛鳥橋で渡る。現在の飛鳥山モノレールの出発点辺りに橋があったといわれるが痕跡もない。下郷用水は、音無川としてJR線路沿いに日暮里から根岸に流れ三ノ輪に至る流れであった。
  • 日光御成街道は、石神井川本流を渡ると左に折れ、森下通りを通り、次第に台地に上るようになるが、上り口で上郷用水を渡ることになる、そこには三本杉橋跡として石柱を見ることができる。
  • 明治維新後、王子地区にも都市化が進み、石神井川の治水対策が必要だった。川の直線化、護岸の整備が行われたが、仕上げとして、石神井川流路を飛鳥山の下に通す、「飛鳥山分水路」が設置された。
王子駅周辺は、日光御成街道、石神井川流路、農業用水路など複雑に絡み合っている。その痕跡を探ってみたい。

【飛鳥山分水路吐口と石神井川本川】

【石神井川本川跡】

【日光御成街道と上郷用水(現森下通り)】
JR王子駅の西側、森下通りには日光御成街道と上郷用水が併走していた。日光御成街道は森下通り交差点で左折し、台地を上ることになる。その時、上郷用水を橋で渡ることになるが、その痕跡が「三本杉橋石柱」として残る。

【森下通りから分かれる日光御成街道】
日光御成街道は左折し、三本杉橋を渡り、すぐに右折しながら台地を上っていった。森下通りとかつての上郷用水は王子稲荷神社へ向かう。
※日光御成街道は、石神井川本流を渡り直ぐに左へ曲がり、王子権現の裏を通る(現森下通り)事になるが、どの位置で、JRとクロスしていたのかもう少し調査が必要と思う。※
王子製紙、王子と王子稲荷

【武陽王子飛鳥山真景1888年】「洋紙発祥の碑」脇に展示されたパネルの画像をキャプチャー(原画は国立印刷局所蔵)

【洋紙発祥の地 王子 渋沢栄一】
渋沢栄一は、輸入に頼っていた洋紙の国産化を企画して、渋沢栄一・三井組・小野組・島田組の出資により、「抄紙会社」洋紙製造工場をスタートさせた。工場用地としては、豊富な水、原料の襤褸(ボロ、木綿の古布)の入手、運搬に優れることが必要であった。王子村は千川用水が利用できること、大都市近郊で襤褸の入手が容易であること、荒川への水運に優れていることから適地であった。
1875年「抄紙会社」が開業されると、関連工場が次々と建設され、日本近代産業発祥の地となっていった。1876年には、隣接地に大蔵省印刷局抄紙部工場が設置された。その後、王子製紙王子工場と名称を変えながら第二次世界大戦まで操業したが、大戦後、王子製紙は分割された。

【1936〜1943年頃の王子製紙王子工場】
「洋紙発祥の碑」脇に展示されたパネルの画像をキャプチャー
※「国立印刷局王子工場」と「王子製紙王子工場」の敷地区画の大方の様子は、当時も、現在も変わっていない。「国立印刷局王子工場」では、郵便切手その他諸証券類の製造を行っている。

【旧王子製紙王子工場→・・・→日本製紙→サンスクエア】
装束榎と王子稲荷神社
【王子の狐火と装束榎】
かつてこの辺りは一面の田畑で、その中に榎の大木がそびえていた。そこに社を建てて王子稲荷の摂社として祭ったのが装束稲荷である。
この社名の興りは、「関東八カ国の稲荷のお使いがこの社に集まりここで装束を整え関東総司の王子稲荷にお参りするのが慣わしになっていた」ことによるいう。
当時の農民はその行列の時に燃える狐火の多少によって翌年の作物の豊凶を占ったという。明治中期に、この大木は枯れ、その後の道路拡張に伴って、その位置も現在の王子二丁目バス停となり社もその東部に移された。第二次大戦後、地元有志により現在の社殿が造営された。(現地案内板より抜粋)

【王子装束稲荷と装束榎】

【王子装束ゑの木大晦日の狐火 広重 国会図書館蔵】

【王子稲荷神社へ向かう地下通路(入口)】

【王子稲荷神社へ向かう地下通路(出口)】

【王子稲荷神社】

【王子稲荷神社】

【王子稲荷神社】

【王子稲荷神社】
東都三十六景 王子稲荷 広重、国会図書館蔵




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