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歴史散歩:外堀跡(幸橋門跡−虎ノ門跡、赤坂門跡)を歩く
2022年11月17日(木) 錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、歴史散歩。 (第一部)幸橋門跡から溜池落ち口跡までの外堀を歩く
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幸橋門跡−虎ノ門跡 | |
(第一部)幸橋御門跡から溜池落ち口までの外堀跡を歩く。青線は埋め立てられた外堀を表す。 国土地理院地図2500[ブラウザ:カシミール]に、埋め立てられた外堀(青線)、以訪問地点(数字)を書き入れた。 @外堀に沿って走る東海道線(鉄道は、外堀の直ぐ内側、幸橋御門跡をかすめて通された。) 1910年6月25日東海道線が烏森駅(新橋駅)から有楽町駅まで延伸された。 1914年には東京駅開業 |
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【鉄道が出来る前の幸橋御門周辺】 赤丸は、鉄道ができた後の「幸橋架道橋B」の位置。 五千分一東京図測量原図1883年 |
【鉄道計画中あるいは建設中の幸橋御門周辺】 赤丸は、鉄道ができた後の「幸橋架道橋B」の位置。この頃になると、外堀(南側)の埋め立てはかなり進み、堀の北側に細い水路を残すのみとなっている。 明治四十年一月調査東京市麹町區全圖1907年 (国際日本文化センター蔵) ※鉄道は、1910年にこの(烏森駅−呉服橋駅)間が開通している。 |
【鉄道が開通した当初の幸橋跡付近】 南北方向の外堀には舟が浮かんでいるが、東西方向の外堀は埋め立てられ、建設が進んでいる。 Bに幸橋架道橋が見えるので、「幸橋」ギリギリに鉄道が通っていることになる。 |
【当時と変わらぬ現在の幸橋架道橋B】 両側に、建設当時の橋桁が見える。ここを通過して反対側から見てみる。 |
【反対側から見た幸橋架道橋B】 橋桁は明治の建設当時のものと思われる。 橋桁の向こうに、外堀跡に建つ第一ホテルCが少し見える。 |
【幸橋跡と外堀跡】 横断歩道が幸橋跡、正面、第一ホテルCが外堀を埋め立てて建っている。 |
【幸橋跡と外堀跡】 少し北へ歩いて撮影。 第一ホテルCがすっぽり外堀跡だから撮影地点は枡形門の中ということになる。 |
【区境】 外堀は西へ延びるが、この道を境に、左は港区新橋一丁目、右は千代田区内幸町一丁目となる。しばらくの間、外堀跡は港区である。 |
【東京府庁跡D】 1883年の五千分一東京図測量原図を見ると、幸橋の内側に「東京府庁」の文字が見える。東京都公文書館ウエブサイトには、「1868年7月17日、江戸を東京とする詔書が発せられると、市政裁判所は廃止され、東京府が設置されます。府庁舎には、幸橋内にあった元大和郡山藩柳沢家の上屋敷があてられました。正式な開庁は8月17日、全ての業務を府庁舎へ移して、執務を開始したのは9月2日でした。それまでは元の市政裁判所、すなわち町奉行所の建物で業務を行っていました。」との記述がある。 |
【樋口一葉生誕地D】 1872年3月25日、内幸町にて、東京府庁に勤める樋口則義と母たきの次女に生まれる。士族の誇りを胸に、つつましく見えて時に大胆、心根はやさしくときに辛辣。女であることを嘆きつつ、ときに国を憂いた。文学を志し、1894年より、「大つごもり」「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」「われから」と次々に発表、奇跡の十四ヶ月と評される。1896年11月23日本郷円山福山町で死去。享年24歳。(現地、解説板より) |
【NHK東京放送会館】 ウイキペディアより転載 |
【放送記念碑E:日比谷シティ内】 「日本放送協会は1938年から1973年までこの地にあった」とのみ書かれている。 (以下は筆者注) 1925年3月、東京放送局が仮放送を開始(芝の東京高等工芸学校内) 1925年7月、愛宕山に本局舎が完成し移転、本放送を開始 1938年、NHK東京放送会館(内幸町)運用開始 1945年8月、玉音放送送出 1945年9月、GHQに一部接収 1952年、接収全面解除 1953年、テレビ放送開始 1973年、NHK放送センター(渋谷)に移転 1981年、日比谷シティ竣工 |
【外堀跡F、発掘された石垣石】 日比谷フォートタワー前の外堀遺跡 |
【虎ノ門跡周辺の外堀跡の様子(再掲)】 GChuo Nittochiビル、H虎ノ門跡、I文科省中庭の石垣遺跡 J地下鉄部の石垣遺跡(修復済み)、K旧教育会館前石垣遺跡、L溜池櫓台遺跡 |
【外堀跡、外堀の曲がり具合】 |
【外堀跡】 |
【霞ヶ関3丁目交差点付近、虎ノ門内部H】 ・自動車からY字型照明灯辺りまでが虎ノ門枡形内部H ・Y字型照明灯辺りが虎ノ門 ・Y字型照明灯より左が外堀の中(正面文科省ビルは、Y字型照明灯から左が外堀の中) |
【明治初期、虎ノ門Hの外】 ・手前の堀は、現在、Chuo NittochiビルG ・虎の門橋は桜田通り ・橋の奥の外堀は、文科省ビルが半分入っている |
【文部科学省中庭に保存されている外堀遺構I】 直前の写真で正面に見えている石垣と思われる。 |
【地下鉄部の石垣遺構J】 地下展示室に詳細な説明あり。 |
【旧教育会館前に保存されている外堀遺構K】 |
【虎之門外の図】広重(国会図書館蔵) 堀に面して、日向国延岡藩(宮崎)内藤家7万石、内藤能登守政義の上屋敷があった。この石垣の一部が、IJK及びLとして、現在目にすることが出来る。 |
←【溜池櫓台跡L】 江戸城外堀に3つ設けられた隅櫓のうちの1つ。残る2つの隅櫓は、筋違門と浅草門に所在していたが、どちらも取り壊されており、唯一この石垣だけが現存している。 かつて、この地点は近世初期には外桜田門を起点とする小田原道が通り、溜池上水の起点にもなるなど、江戸城の防備と都市政策の両方にとって重要な地域だった。 地形の上でも、この地点は西側に広がっていた溜池一体を見下ろすことができる位置。 |
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【虎門金比羅】(港区郷土資料館蔵) 手前の人で賑わっている辺りは金刀比羅宮、 左側から中央に向けて上る坂は葵坂で、坂道に面して佐賀藩鍋島邸が描かれている。坂の上はタチアオイの花が咲いていたことから「葵が岡」と呼ばれていた。坂の北側には溜池から流れ出る水の落ち口があり、どうどうと音をたてていたことから「どんどん」と呼ばれていた。 |
【虎ノ門金刀比羅宮M】 1660年、讃岐国丸亀藩主であった京極高和が、金刀比羅宮(本宮)の分霊を当時藩邸があった芝・三田の地に勧請 1679年、京極高豊の代に現在の虎ノ門(江戸城の裏鬼門にあたる)に遷座致した。江戸市民の熱烈なる要請に応え、毎月十日に限り邸内を開き、参拝を許可した。 従来、金毘羅大権現と称されていたが、1889年には金刀比羅宮に社号を改称し現在に至る。 |
【旧工部学校碑N】(東京大学工学部の発祥の地) 以下、千代田区による説明文 「1873年、この地(日向国延岡藩上屋敷跡)に工業分野における人材育成を目的とした工学校(工学寮内に設置)が開校。1877年には、工学寮が工部大学校と改称された。工部大学校では、土木・機械・造家などの学科が諸外国から招聘された外国人教師によって教授された。1886年に帝国大学と合併し、本郷に移転していった。跡地は、帝室博物館などに使用されたが、1923年の関東大震災で建物は倒壊した。そこで、工部大学校出身者たちは、倒壊した建造物の煉瓦などを利用して、1939年に「工部大学校阯碑」を建設した。」 |
【虎ノ門工部大学校 井上安治明治前期作(江戸東京博物館蔵)】 この頃は、外堀の形もあり、堀には水があったようだ。大名屋敷が工部大学校に入れ替わったかのようだ。 ※日向国延岡藩上屋敷跡の変遷※ 日向国延岡藩上屋敷→工部大学校(1873年〜1886年)→東京虎ノ門女学館(1890年〜1923年、震災により焼失、広尾新校舎へ移転)→文部省(1931年竹橋から移転) |
【東京倶楽部O】 1884年に創設された会員制社交クラブである。 1912年に麹町(現・霞が関)の国有地に赤レンガのビルを建築した。工部大学校の隣接地で、葵坂の向かいの外堀石垣に沿って建てられた。戦災で焼失したが、再建され、その後、再開発で「東京倶楽部ビルディング」が建てられた。 |
赤坂門跡周辺 | |
(第二部)溜池の終点、赤坂門周辺を歩く 溜池の終点は青山通りの下り線に含まれ、赤坂門は青山通りの上り線に含まれるようだ。 |
【赤坂絵図 部分】国会図書館蔵 |
大岡越前守忠相下屋敷跡P 大岡越前守忠相:大岡越前守忠相は旗本の子として江戸で生まれ、35歳で山田奉行(伊勢奉行)に就任、様々な訴訟を裁きましたが、伊勢(幕領)と松坂(紀州藩)の境界争いをめぐる訴訟の際、紀州藩に非ありと采配しました。この時紀州藩主だった吉宗は、敗訴したにもかかわらず、忠相の公正な裁きに感服し、八代将軍になると、忠相を江戸町奉行に抜擢しました。その後、吉宗の享保の改革に参画し、司法制度の改革、目安箱の設置などいろいろな改革を行い、その結果吉宗により、正式な大名として取り上げられました。江戸時代において、町奉行から大名になったのは、忠相のみです。(赤坂一ツ木通り商店街振興組合ウエブサイトより転載)この地は、1887年赤坂小学校敷地に組み込まれ、現在では、国際医療福祉大学東京赤坂キャンパスとなっている。 |
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【豊川稲荷東京別院Q】 豐川稲荷は正式名を「宗教法人 豐川閣妙嚴寺」と称し山号を圓福山とする曹洞宗の寺院。祀ってあるのは鎮守・豊川ダ枳尼眞天、その豊川ダ枳尼眞天が稲穂を荷い、白い狐に跨っておられることからいつしか「豐川稲荷」が通称として広まった。 |
【豊川稲荷東京別院Q】 赤坂の豊川稲荷は、大岡忠相が、赤坂一木にあった下屋敷内に愛知県豊川市の「三州本山豊川稲荷」を分祀したのが始まり。時を経て、1887年赤坂小学校が建てられることになり、神社だけが、交差点斜向かいに遷座した。金運や健康、運アップ、良縁祈願や縁切り祈願など「何でもあり」の祈願所となっていて若い人で賑わっている。 |
【豊川稲荷東京別院Q内にある大岡越前守忠相霊廟】 |
【赤坂御用地巽門】 豊川稲荷を出ると、紀州徳川家上屋敷跡である。現在は、赤坂御用地、写真は巽門、秋篠宮邸がある。 |
【旧大山街道の名残R】 神奈川県伊勢原市にある大山は、別名「雨降山」とよばれ、昔から雨乞いの神様の山として崇められた。江戸中期以降、江戸の庶民が大山詣(大山阿夫利神社)の道として盛んに利用した。赤坂御門が起点となるが、青山通りの整備によって旧道が分かり難くなった。 |
【赤坂絵図 部分】国会図書館蔵 |
【赤坂御門[24]】 東京ガーデンテラス紀尾井町、テラスの小道 [赤坂御門の石垣と刻印]案内板より 右側が溜池、左側が弁慶濠、弁慶濠正面の石垣が現存しており、テラスの小道上から石垣の刻印を見ることができる。 |
千代田区教育委員会案内板より |
【赤坂桐畑雨中夕けいS】 (二代目歌川広重 江戸名所百景 国会図書館蔵) 「赤坂桐畑雨中夕けい」は、溜池の土手補強のため植えられた桐畑を前景に雨の中、赤坂門へ上っていく人々を描いた傑作。 溜池はその名のとおり、人が水を溜めてつくったもので、1606年頃できた。大名の浅野幸長(当時和歌山藩のち広島藩主)が家康にとりいって、江戸城防備の外堀の一環とするとともに、飲料用の上水ダムとしてつくった人口の湖。溜池は、水質もよく、風景も美しく、浮世絵などによく描かれた。 右へ→ |
【赤坂門へ上る坂S】 広重の絵とほぼ同様の立ち位置、少し傾斜が足りないか? 青山通り下りは、本来、溜池。 →左より 琵琶湖や淀川からわざわざ鯉や鮒を取り寄せて放したという話もあり、蓮を植えてその花を鑑賞し蓮根を採取したという。やがて周囲がだんだん埋め立てられて、町屋や馬場・紺屋物干場などができ、水が悪くなり、明治7、8年ごろ堰堤となっていた石を取り除いてから陸化しはじめ、埋め立ても進み現在の外堀通りになった。(港区ウエブサイトより) |
→【松平出羽守上屋敷跡、雲州屋敷跡[21]】 松平出羽守は出雲国松江藩を治めたことから、この屋敷を俗に雲州屋敷と称した。初代藩主・直政は家康の次男・結城秀康の第三子として生まれ出羽守に任ぜられた。上屋敷を構えたのは2代藩主の松平綱隆。この地には、徳川家康から初代藩主の松平直政が受け継いだとされる井戸枠が現存するという。島根県選出の細田博之衆議院議長は、地元の客をこの井戸に案内して、松江藩との縁を披露しているという。(山陰中央新報デジタルより) |
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【東京女学館発祥の地[21]】 衆議院議長公邸の外壁に「東京女学館発祥の地」とのプレートが埋め込まれている。 「東京女学館は、 1887年、この地を皇室より貸与され、1888年『国際性を備えた知性豊かで気品ある女性の育成』を建学の精神として、伊藤博文、渋沢栄一、岩崎弥之助、外山正一、コンドル、アレクサンダー・ショーなど、日本の近代化の礎を築いた明治の元勲を初めとする各界の名士により創設された。その後、麹町三年町 (旧工部大学校) に移り、 「虎ノ門女学館」と称せられた。1923年関東大震災のため焼失し、渋谷御料地に移り, 女子の一貫教育の場として今日に至っている。」 (現地、「東京女学館発祥の地」プレートより) |
【衆議院議長公邸[21]】 雲州屋敷は、(維新後)閑院宮邸→東京女学院→閑院宮邸→(現在)衆議院議長と参議院議長の公邸となっている。 |
【参議院議長公邸[21]】 ここも、同じく松平出羽守上屋敷跡、雲州屋敷跡[21] |
【青山通り歩道橋上から撮影した赤坂見附交差点】 ここから見ると、広重の「赤坂桐畑雨中夕けいS」がよく理解できる気がする。歩道橋の上だからかなり高さが稼げるが..... |
【青山通り歩道橋上から撮影した赤坂門跡[22]】 赤坂御門は1636年に、筑前福岡藩の藩主である黒田忠之により築造された。弁慶堀と赤坂溜池の谷に挟まれた急峻な斜面地に設けられた城門。門の構造は高麗門と右折の位置にある渡櫓門からなる枡形門で、前面には土橋が設けられていた。 右へ→ |
【赤坂門[22]の石垣】 →左より 櫓などの建築部分は1871年に撤去され、石垣の大部分が明治30年代に撤去された。現存する弁慶堀に面する石垣は、約15mの高石垣が残っており、その中には黒田家の家紋「裏銭紋」の刻印が数多く見られる。 |
【東京ガーデンテラス紀尾井町、テラスの小道[24]】 弁慶濠に面する石垣の様子を見ることができる。 |
【赤坂御門の石垣と刻印[24]】 [東京ガーデンテラス紀尾井町、テラスの小道]より撮影 石垣の刻印には、黒田家の家紋、裏銭紋が数多く見られる。 |
→【弁慶橋[23]】 紀尾井町の東側から南側に水をたたえている弁慶堀に架かっている橋。清水谷公園前を通って、紀尾井町から港区元赤坂一丁目に通じる道筋にある。1889年に、それまで神田松枝町と岩本町との間にあった弁慶橋が不用になったため、ここに移された。江戸城普請の大工の棟梁であった弁慶小左衛門が作った橋であることから、弁慶橋と名付けられたといわれていう。弁慶橋ができたため、それまで遠く迂回して行き来していた両側の住民は大変喜んだ。それまでは清水谷公園前の道は人通りも少なくさびしい道だった。現在の弁慶橋は、1985年11月に改架した、コンクリ−ト橋。(千代田区観光協会) |
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[旧北白川宮廷洋館・煉瓦基礎遺構] 2011年、旧李王家東京邸(現赤坂プリンスクラシックハウス)の保存工事の過程で地中より旧北白川宮邸洋館の煉瓦積基礎が発見された。 |
紀伊徳川家中屋敷跡[25]の変遷 【明治期】 明治になって北白川能久親王に下賜され、1884年に洋館を中心とする大規模な殿邸が建設された。この時の洋館は1894年の東京地震で被災した。 ※北白川宮能久親王(1847.4.1-1895.10.28)※ 伏見宮邦家親王の第9王男子、1867年5月、江戸に下って上野の寛永寺に入り、最後の輪王寺の宮となった。1868年戊辰戦争が始まり、上野戦争敗北の後、5月25日幕府海軍の榎本武揚と共に東北地方に逃れた。9月18日新政府軍に降伏し蟄居した。1869年9月に処分を解かれ伏見宮に復帰した。1872年北白川家相続、1878年親王に復帰、1884には陸軍少将となった。1895年台湾へ出征したとき、マラリアで薨去。※ |
【東京都指定有形文化財 旧李王家東京邸[24]】 現赤坂プリンスクラシックハウス |
【大正期】 1912年北白川宮家は高輪南町の新邸に移転し、跡地には、1930年李王朝家東京邸が建設された。ここに生活していたのは、最後の皇帝、純宗の皇太子 李垠(り・ぎん/イ・ウン)(1897-1970)殿下と妻である梨本宮方子妃のご家族。 【戦後】 戦後、西武鉄道に売却され1955年、客室35室で赤坂プリンスホテルとして開業。1983年、新館の誕生以降は宿泊施設の役目を終え主に婚礼施設やバー・レストランを中心として利用されてきた。 |
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