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歴史散歩:新橋−汐留-築地−聖路加−佃島を歩く


2016年11月28日(月)
錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、歴史散歩。
  • 新橋駅を出発、ここでのポイントは日本鉄道発祥の地・旧新橋停車場。日本初の鉄道は、伊達家・脇坂家といった大名屋敷跡から始まった。都心に突然大きな空き地ができる、それが新しい時代の追い風となった。
  • 築地地区に入ると、ここも大名屋敷の跡地、日本海軍発祥の地になった。水路部が測量を担当し、それが結局は東京天文台に繋がる。当時の海軍は、今では想像のつかない超エリート集団であったようだ。
  • 明暦の大火で移転してきた、西本願寺は相変わらず築地の中心にあるが、本坊と子院群の間には晴海通りが通り、子院の数も激減、場外市場に溶け込んでしまった。
  • 聖路加地区は、たびたび住人が変化している。浅野家−奥平家などの大名屋敷、その後、外国人居留区となり宣教師によるミッションスクールが多数生まれた。ミッションスクールが都心に移動した後は、聖路加の施設が中心である。解体新書の翻訳地(奥平家屋敷地)が聖路加国際病院となっているのは何かの因縁か?
  • 東京オリンピックの時に佃大橋ができたという佃・石川島地区、石川島地区の高級マンション群は印象的だ。昔からの佃煮屋さんも3軒営業していた。

新橋駅と旧新橋停車場

【江戸切絵図 芝愛宕下絵図】国立国会図書館蔵
【新橋駅と旧新橋停車場】
日本初の鉄道として、1872年に「新橋駅−横浜駅」間が開通したが、この時の「新橋駅」は、脇坂家上屋敷跡であった。江戸から東京へと時代が移ったとき、先ず利用されたのは、新政府が召し上げた大名屋敷からであったことがわかる。その後の「新橋駅」の推移は以下のとおりである。
  • 1872年、「新橋駅(汐留駅)−横浜駅(桜木町駅)」間、開通
  • 1889年、「新橋駅(汐留駅)−神戸駅」間、開通
  • 1900年、鉄道唱歌誕生、大和田建樹・作詞、多梅稚・上真行・作曲「汽笛一声新橋をはや我汽車は離れたり...」
    この歌の「新橋」は、旧新橋停車場のはず、しかし、歌碑は「新橋駅」にある。
  • 1909年、烏森駅(現新橋駅)、高架で誕生
    烏森−品川−新宿−池袋−田端−上野、山手線電化で開通
  • 1914年、東京駅開業で「烏森駅」は「新橋駅」と改称、東京駅が東海道線の起点となる。「旧新橋駅」は「汐留駅」と改称、貨物駅となる。
(鉄道開通日は「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室ウエブサイト」より)

【烏森駅→新橋駅 鉄道唱歌碑】
1909年、山手線の駅として開通したときは、烏森駅という名称であった。その当時、東海道線の出発点は、旧新橋停車場であったから、この歌碑がここにあるのは不適当。

【新橋駅西方に現存する烏森神社】
武蔵の国桜田村と呼ばれていた時代には、江戸湾の砂浜で、一体は松林であった。その当時から、この一帯は「枯州の森」「空州の森」「烏の森」とも呼ばれていた。明治以降昭和7年まで町名として使われていたが、その後新橋に改められ、今ではJR新橋駅の烏森口としてその名をとどめている。(烏森神社ウエブサイトより)

【伊達家上屋敷跡→日本テレビタワー北玄関】
新橋駅から第一京浜(旧東海道)を渡ると、右側は伊達家上屋敷跡(日本テレビタワー北玄関)に出る。
上図は、幕末の伊達家上屋敷:歌川広重 東京都立図書館蔵
(画像の無断複製や二次使用を禁ずる)

【伊達家上屋敷跡の案内板】
ここは、汐留駅の発掘調査によって、仙台藩上屋敷の表門の遺構が発見された場所である。伊達家上屋敷は、江戸初期には日比谷に置かれたが、1676年からこの地区に移り、以後幕末まで仙台藩の江戸における拠点となった。
本所吉良邸において、主君浅野内匠頭長矩の仇討ちを成し遂げ、その墓所高輪泉岳寺へ向かう赤穂浪士は、この場所で粥のもてなしを受けたと言われる。あたかもレトルト食品のように瞬く間に作られた粥は、仙台名産の仙台糒(ほしい:うるち米を蒸して乾燥させた保存食)であった。※赤穂浪士の項は諸説あり※
(仙台市、日本テレビの案内板より)

【脇坂家上屋敷跡→鉄道発祥の地(旧新橋停車場)】
1872年〜1914年の間、横浜方面・関西方面への起点駅となった旧新橋停車場が再現された(2003年)。
※脇坂家は、浅野内匠頭刃傷事件の後、赤穂城受け取りの正史を勤めたことで知られる。

【旧新橋停車場、0哩標識】
石積みのプラットフォームが再現され、レールも敷設された。レールの起点には「0哩標識」と車止めも復元されている。
1870年4月25日、測量の起点となる第一杭がこの場所に打ち込まれました。(0哩標識説明板より)

【旧新橋停車場、復元】
日本初の鉄道ターミナル・旧新橋停車場の駅舎の外観を、当時と同じ位置にできるだけ忠実に再現ている。

【旧新橋停車場、開業当時の姿と思われる】(復元された駅舎階段前に掲示されている写真)
鉄道に関する知識のなかった日本は、イギリスからエドモンド・モレルという優秀な技師を招き、一から鉄道の技術を学びます。鉄道建設のための資金や必要な技術だけでなく、蒸気機関車や客車、さらには線路や枕木そして燃料の石炭など、鉄道建設や運用に必要な資材や技術など、そのすべてをイギリスから輸入して、ようやく新橋〜横浜間の開通にたどり着きました。当時、新橋〜横浜間(29km)をわずか53分で走り抜けた鉄道は、日本中に大きな衝撃を与えた。(GOTRIP!ウエブサイトより転載)


築地(大名屋敷跡→海軍跡→現代)

【蓬莱橋から奥平家上屋敷跡を望む】
撮影地点は汐留川に架かっていた蓬莱橋上である。蓬莱橋交差点を汐留川跡(高速道路高架)に沿って進むと左側が奥平家上屋敷跡。

【奥平家上屋敷跡→逓信省→銀座郵便局】
逓信省は1923年関東大震災で焼失するまで、この地にあった。
[検査業務開始の地碑]
1876年6月17日、この地に工部省電信寮の碍子試験所が発足して電信用碍子の電気試験が行われた。これが我が国における近代的物品購入検査の始まりである。(郵政省・電信電話公社)

※1885年、工部省は廃止され、逓信省と農商務省に分割統合された。

【中央卸売市場引き込み線踏切】
東海道線の始発駅が旧新橋駅から東京駅になると、烏森駅→新橋駅、旧新橋駅→汐留駅にそれぞれ改称され、汐留駅は貨物駅となった。関東大震災後、中央卸売市場が築地にできると、荷物運搬のために、汐留駅−市場間に鉄道が引かれた。引き込み線が使われなくなって久しいが、踏切だけが記念のため残された。

【国立がん研究センター周辺】
引き込み線跡地を進むと、朝日新聞社・朝日ホールの南側に出る。朝日新聞本社正面に回ると、隣が東京国税局、向かいは国立がん研究センター。国立がん研究センターの一角が工事中で、工事の看板が出ていた、ほぼ青の点線に沿って新橋演舞場・采女橋方向に進むことにする。

【水路部周辺地図】
海上保安庁海洋情報部所蔵
1911年頃の水路部(現海洋情報部)周辺の地図。図には浴恩園の名残りの春風池や秋風池を見ることができる。
築地地区の大名屋敷跡は、逓信省や海軍の施設となっていた事がわかる。しかし、1923年の関東大震災で灰燼に帰し、その後、魚市場がやってくる。
※左の写真で「現在地」となっているところが、こちらの図では「水路部」と書かれている場所にあたる。

【稲葉家上屋敷→海軍部水路局→海上保安庁海洋情報部→東京国税局】
左の写真、奥の茶色の建物が朝日新聞本社、手前の白の建物が東京国税局、東京国税局庁舎前広場に水路記念碑がある。
(右へ)
(左より)東京国税局ができたのは、2015年であるが、それ以前の変遷は次のとおり
  • 1871年9月12日、日本が独自で海図作製をするために、兵部省海軍部水路局を設置。この日を記念して水路記念日が制定された。
  • 1872年、海図第一号刊行「釜石港」
  • 1948年、海上保安庁水路局
  • 2002年、海上保安庁海洋情報部
  • 2011年、江東区青海に庁舎を移転
  • 2015年、東京国税局が新築転入してきた
[水路記念碑:日本国海図及び海洋調査発祥の地]
明治4年、ときの政府は、海運や国防のために船舶が安全に航海するため海の深
さや目標物を記した海図の整備が急務であると考え、兵部省海軍部水路局を現在の東京都中央区築地に創設し、外国人に頼らず独力で海洋調査を行って日本国として初めての海図を作製しました。これらの業務は海上保安庁海洋情報部に引き継がれ、現在も続けられています。
平成23年、海洋情報部の庁舎を江東区青海に移転することとなり、140年に亘る
長い歴史を刻んだ築地の地を発祥の地として後世に伝えることとしました。

【采女橋とみゆき通り】
このあたりは、江戸前期に松平采女正の屋敷があり、1724年の大火で焼けあと火除地になって、俗に采女が原と呼ばれました。橋の名前はこれに由来する。(東京都中央区)
采女橋の下は、築地川跡(現在高速道路)、采女橋左は新橋演舞場、采女橋正面は時事通信ビル(明治・大正期には精養軒が建っていたが、関東大震災で焼失、本店を上野店に移す)。
采女橋を通る道路を「みゆき通り」という。

【采女橋東、海軍兵学寮跡碑】
国立がん研究センターの西の端、金網に囲まれて「海軍兵学寮跡碑」がある。現在工事中で、近寄れない。キチンと保存してもらいたいものである。
ウイキペディアによると、
  • 1868年、大村益次郎により海軍操練所を築地の浅野家下屋敷跡に開設
  • 1870年、海軍兵学寮となる
  • 1876年、増山家下屋敷跡に移転して、海軍兵学校と改称
  • 1883年、東京で最初の二階建て洋館学舎が落成、記念に明治天皇が皇居から行幸した道が「銀座みゆき通り」
  • 1888年、江田島に移転
海軍兵学校は多くの海軍士官を輩出した、東郷平八郎、山本権兵衛....「坂の上の雲」の主人公・秋山真之も築地の海軍兵学校に学んだが、在学中に江田島に移転した。

【大名屋敷→海軍→東京中央卸売市場】
[浴恩園跡のプレート]
浴恩園は、江戸時代後期の寛政の改革で著名な松平定信(1758-1829)の下屋敷に作られた庭園です。1792年に一橋家の一部約17000坪余りを賜り、園内には春風の池、秋風の池、築山などが配され風光明媚で林泉に富み、浴恩園と名付けられた汐入回遊式庭園でした。明治維新以降は海軍関係の用地となり海軍発祥の地ともされます。関東大震災で被害を受け、その後、日本橋にあった魚市場が移転してきて現在に至ります。(東京都教育委員会)

【旗山碑(魚河岸水神社遙拝所境内)】
海軍水路局の創設当初、測量に際しての基点が定まっていなかったため、柳楢悦局長は海軍施設内にある旗標竿を調査し、これを基点と定めることにした。旗標竿は賜山(たまものやま)と呼ばれるところに位置していた。ここに、海軍卿旗をたてたことから「旗山」と呼ばれていた。(海上保安庁海洋情報部海洋情報資料館ウエブサイト)
1872年4月、太政官布告130号海軍省標竿の経度を139°45′25.05″とした。
旗山碑は旧位置から移動して魚河岸水神社遙拝所にある。
しかし、同年、この基点は芝区飯倉に移転、やがて東京天文台へと繋がっていく。

【春風亭、浴恩園図記の一部】国立国会図書館蔵
広瀬蒙斎著・谷文晁画で1794年の日付が見られ、完成直後の庭園の様子が描かれている。

【秋風亭、浴恩園図記の一部】国立国会図書館蔵

【賜山、浴恩園図記の一部】国立国会図書館蔵
旗山碑は正面の小高い山のあったのだろうか?

【波除稲荷神社】
波除稲荷神社の起立は1658-61年といわれています。当時、築地一帯の埋立てに際し、堤防がたびたび波に崩されて工事が難行していました。ある日、海中に漂う稲荷神の像をみつけ、これを祀ったところ、風も波もおさまり、工事が無事完了したと伝えられています。「波除」という尊称もこの伝説に由来するものです。(中央区教育委員会掲示より抜粋)

【波除稲荷神社に突き当たる道路】
采女橋から続くこの道路は、「みゆき通り」、波除神社で突き当たり、晴海通りができる前は主要道路だった。道路左側は築地川東支流跡、現在場外市場。道路右側は築地本願寺寺内町跡で、ここでは場外市場と3つの子院が共存している。(晴海通りの北側に2ヶ寺あるので、関東大震災後には合計5ヶ寺が築地に残ったことになる)

【市場橋交差点から見た場外市場】
元西本願寺寺内町であったところ。

【西本願寺総門付近】江戸名所図会 国立国会図書館蔵
西本願寺本坊は参道の奥になる、この図で見える範囲(左の築地川を含めて)はすべて、場外市場になっている。
【軍艦操練所跡】
波除稲荷神社から、北方へ晴海通りに出るところに案内板がある。
ペリーによる黒船艦隊の来航後、西洋式海軍の必要性に迫られた江戸幕府は、1857年、旗本や御家人、諸藩の藩士等から希望者を集めて、航海術・海上砲術の講習や、オランダから輸入した軍艦の運転を練習させる目的で軍艦教習所(後の軍艦操練所)をこの地にあった築地講武所内に創設しました。設立当初は旗本永井尚志が総督をつとめ、長崎の海軍伝習所修業生を教授方としていました。その後、向井将監や勝海舟等が頭取をつとめました。(中央区教育委員会)


築地(築地本願寺周辺)

【築地西御堂之図、一立斎広重】国立国会図書館蔵、幕末の築地本願寺
1617年の創建当時は、浅草近くの横山町に第12代宗主(門主)准如上人によって浄土真宗本願寺派の「別院」として建立され、「江戸浅草御堂」と呼ばれていました。しかし、1657年、「明暦の大火」で坊舎を焼失してしまいました。
幕府の区画整理のため、もとの場所への再建が許されず、その替え地として用意されたのが、八丁堀の海上でした。そこで佃島の門徒が中心になり、本堂再建のために海を埋め立てて土地を築きました。それが「築地」という地名の由来となっています。再建されたのは1679年、「築地御坊」と呼ばれるようになりました。このときの本堂の正面は西南(築地市場方向)に向いて建てられ、大きな屋根は江戸湊(みなと)に入る目印にもなっていたようです。現在もにぎわう場外市場のあたりは寺内町でした。(築地本願寺ウエブサイトより抜粋)

【築地本願寺南門】
江戸時代は、この辺に正門があり、本堂も南西向き(こちら向き)であったという。

【築地本願寺正門】
江戸時代からの大きな甍を持った本堂は、関東大震災(1923年)で焼失。1934年、向きを西向きにして「インド様式」の石造り本堂が落成した。(築地本願寺ウエブサイトより)

【築地本願寺南門から築地場外市場を望む】
築地本願寺と寺内町は晴海通りで分断され、旧参道の左右は築地場外市場となってしまった。しかし、場外市場の近くに行くと「ここは昔参道だった、ここが本当の通り」との声が聞こえた。築地に住む人は築地本願寺を誇りを持っているように聞こえた。

【築地場外市場(築地本願寺、旧寺内町)】
妙泉寺ビルが見える。1,2階を場外市場に貸し、3階以上がお寺。周囲に溶け込んでいます。

【森孫右衛門供養塔、築地本願寺境内】
森孫右衛門は江戸時代以来、隅田川河口に佃島を築き、日本橋魚河岸のもととなる店を開いた人物とも伝えられています。
供養塔の右側面の銘文には、孫右衛門は摂津国(大阪府)佃村の人で、二代将軍徳川秀忠の時、漁猟の許可状及び33人の漁師の漁業権を拝領したことなど、佃島の漁師と徳川家との関わりが書かれています。また左側面には、1624〜1644年に百歩四方の土地を賜り、島を築き、1644年に築城し、佃島と名付け、豊島郡に属した佃島の成り立ちや代々、佃島の名主を務めたことなどが刻まれています。これらは佃島の造営を語り伝える貴重な資料といえます。(中央区教育委員会案内板より抜粋)

【酒井抱一墓、築地本願寺境内】
酒井抱一(1762〜1828)は播磨国(兵庫県)姫路藩主酒井忠仰の次男として江戸に生まれ育ちました。1797年、江戸下向中の京都西本願寺文如上人の弟子として出家し、等覚院文詮暉真と称し、抱一と号しました。画筆に秀で、茶道・俳諧・狂歌等にも長じ、文人墨客とも交わりを深めた風雅の人でした。画技は狩野・土佐・円山等の諸派や浮世絵に通じていました。尾形光琳の画風に傾倒し、1815年光琳の100回忌を営み、『光琳百図』などを出版しました。また、その画技をおさめて、『四季花鳥図屏風』『夏秋草図屏風』などを残しています。門人には鈴木其一、池田孤村、田中抱二などがおり、抱一は京都の華麗な装飾画法である琳派を江戸の地にふさわしい粋で瀟洒な江戸琳派として完成させました。1828年根岸の雨華庵で没し、翌月築地本願寺に葬られました。(中央区教育委員会掲示板)

【間新六供養塔、築地本願寺境内】
間新六光風(1681〜1703)は、播磨国(兵庫県)赤穂藩主浅野長矩の家臣、間喜兵衛光延の次男として生れました。1702年父および兄の十次郎光興とともに、主君、浅野長矩の殿中刃傷事件の仇討ちに加わり、1703年麻布の毛利邸で切腹し、姉聟の中堂又助が当寺に葬りました。他の義士と共に、高輪泉岳寺(港区)にも墓石がありますが、新六のみが当寺に葬られたのは、当寺の檀徒であったのか、あるいは、生前の特志によるものであろうといわれています。(中央区教育委員会)

【築地本願寺北側】
左:築地本願寺、道路:堀跡、右:岡山藩池田家中屋敷
現在でも藩邸を囲む道がそのまま残されているため、藩邸の場所がはっきりと特定できます。広さは約1万6000uで、海岸に近く、藩邸前に掘があったことから、蔵屋敷としての役割を持っていたものと考えられます。(岡山市ウエブサイトより転載)

【現在の備前橋北側:公園】
当時は藩邸の前に堀があり、対岸との間に「備前橋」という橋が架けられていました。言うまでもなく、備前藩邸の前にあることから付けられた名称です。昭和60年ころまでは、掘割の一部が築地川として残り、備前橋も橋として機能していましたが、その後川は埋め立てられて公園となり、備前橋も片側の欄干と親柱を残すのみとなっています。(岡山市ウエブサイトより)

【現在の備前橋南側:駐車場】


鉄砲洲(大名屋敷跡→外国人居留地跡→聖路加病院周辺)
【大名屋敷→外国人居留地→聖路加地区】
備前橋跡を過ぎあかつき公園西端をかすめて進むと、聖路加国際大学に出る。

以下、実際に歩いた順とは異なるが、時代を追っての記述となる。
  • 赤穂藩主浅野家上屋敷の時代
  • 浅野家改易後、諸大名、特に、奥平家中屋敷の時代
  • 明治維新で大名屋敷跡地は、外国人居留地になり、宣教師達がやってきて、ミッションスクールが花開いた時代
  • ミッションスクールは都心に出て行き、その跡に聖路加病院ができた

【赤穂藩・浅野家上屋敷跡】
ここから北西の聖路加病院と河岸地を含む一帯8900坪余りの地は、赤穂藩主浅野家の江戸上屋敷があった場所で、西南二面は築地川に面していました。
(中央区教育委員会案内番抜粋)

1667年、浅野内匠頭長矩はこの地で生まれたが、1701年松の廊下で刃傷事件を起こし、即日切腹、お家断絶となった。赤穂への第一報はこの屋敷から出立した。
近年、赤穂浅野家・古鉄砲洲上屋敷図が発見され当時の屋敷の様子が明らかになった。(たつの市ウエブサイト)

【奥平家・鉄砲洲中屋敷跡】
[蘭学の泉はここに]
前野良沢・杉田玄白・中川淳庵の三人が、この奥平家中屋敷で、オランダ語の解剖書『ターヘル・アナトミア』の翻訳を行い(1771年〜1773年)、「解体新書」4巻として刊行(1774年)。
※『ターヘル・アナトミア』はドイツ人医師ヨハン・アダム・クルムスの医学書”Anatomische Tabellen”のオランダ語訳※

[慶應義塾発祥の地]
1834年、福沢諭吉は大阪中津藩邸で生まれた。
1858年、福沢諭吉は、藩命により、鉄砲洲中津藩中屋敷に蘭学塾を開き、藩内外の希望者に蘭学を教えた。
1859年、英語の必要性を痛感し、独学で英学を学んだ。
1868年、塾を芝新銭座(有馬家控屋敷跡に移し、「慶應義塾」と命名。
1871年、芝三田(島原藩中屋敷跡)に移転
1890年、大学として正式に認可され、日本初の私立大学となった。
(慶應大学ウエブサイトより抜粋)

【築地外国人居留地跡】背景は区立明石小学校
江戸幕府は1858年に欧米五カ国と修好通商条約を結び、横浜・神戸など五港の開港と江戸・大阪の開市を取り決めた。居留地は開港・開市の土地に設けられた条約締結国の外国人の居住や通商のための専用特別区だった。
江戸(東京)の開市は1868年、明治政府になってからで、この条約に基づいて現在の明石町地域を築地居留地と定めた。築地居留地は商館の多かった横浜や神戸などは異なり、外国公使館や領事館(イギリス、オランダ、ポルトガル、アメリカ、ドイツ、スペイン、ペルー、スイス、チリの計9カ国)をはじめ、海外からの宣教師・医師・教師などの知識人が居住し教会や学校などを数多く開いて教育を行っていた。このため、築地居留地は日本の近代化に大きな影響を与えた一地域を形成していた。
※1:居留地時代のレンガ塀遺構、居留地42番と52番の地境にあって、関東大震災・空襲による戦禍を免れたもの。移築保存。
※2:ガス灯、明治末年頃のもの
(中央区教育委員会案内板より)

【外国人居留地跡の現在】
現在、この地域には、聖路加国際大学、聖路加国際病院、聖路加ガーデンなどを中心としたビル群がある。その道端の至る所に、「ミッションスクール発祥の地碑」や「アメリカ公使館跡碑」「東京運上所跡碑」などが立ち並んでいる。
上図は、五千分一東京図測量原図(1883年参謀本部陸軍部測量局作成)を参考に、現代の地図を重ねたものである。
茶色の線で1883年当時の道路を示してあり、黄色の線でその後作られた道路を書き加えたものである。
  • 数馬橋跡〜明石橋跡までの間の明石堀はあかつき公園になっている。中央区保健所や慶應義塾発祥の地碑は、明石堀の埋め立てではないことが読み取れる。
  • 鉄砲洲川は埋め立てられ(暗渠かもしれないが)、広々とした道路になった。

【雙葉学園発祥の地】築地居留地45・46・47番
雙葉学園は17世紀にフランスのニコラ・バレ神父によって創設された修道会「幼きイエス会」を設立母体としています。バレ神父は教育を受ける機会のない当時の貧しい子どもたちのための学校を開きました。そこで教師として働く修道女たちのために設立したのがこの修道会でした。
1872年、「幼きイエス会」のメール・セン・マチルド他4名が海外からの修道女として初めて来日しました。横浜で孤児の養育・教育などを始め、1875年には築地明石町に語学学校を設立しました。これが雙葉学園の前身です。
(雙葉学園、千代田区六番町、ウエブサイトより抜粋)

【関東学院発祥の地】築地居留地42・43番
1884年、横浜山手に米国バプテスト伝道協会により横浜バプテスト神学校創立(のち東京学院神学部)
1895年、築地に東京中学院、のち牛込に移り東京学院設立
1919年、横浜市南区三春台に中学関東学院設立(東京学院中学部廃止)。
1927年、財団法人関東学院が組織され、中学部、東京学院神学部・高等学部を併合
(関東学院大学、横浜市金沢区、ウエブサイトより抜粋)

【カトリック築地教会】築地居留地35・36番
1872年にパリ外国宣教会のマラン神父が、鉄砲洲の稲荷橋付近の商家を借りて開いた「稲荷橋教会」がその前身とされる。1874年神父は宣教会の名義で築地居留地35・36番を借り受け、ここに司祭館と聖堂を建てた。1878年には、ここにゴシック様式の聖堂が献堂されますが、この聖堂は関東大震災で焼失し、現在の聖堂が1927年に再建さた。(中央区教育委員会案内板より抜粋)

【暁星学院発祥の地】
1888年1月、青少年育成のためマリア会宣教師5名来日
1888年2月、築地司教座聖堂に開校
1888年7月、麹町区元園町に移転
1890年7月、麹町区飯田町(千代田区富士見)へ移転
(記念碑文より)

※マリア会:シャミナード神父はフランス革命後、荒廃した社会を再建すべく、青少年の教育に携わる修道院(マリア会)を創立。今では世界30数カ国において約1600名のマリア会員が約8000名の教師と協力し、大学、高等学校、中学校、小学校ならびに幼稚園を含む135の教育施設で教育にあたっております。
(暁星学園ウエブサイトより抜粋)

【立教学院発祥の地】
築地居留地37番(1882)→築地居留地57-60番(1896)
1874年、ウィリアムズ主教(米国リッチモンド市出身)、築地に聖書と英学を教える私塾を数名の生徒で始める。間もなく立教学校と称する。
1883年、外国人居留地37番に完成したゴシック風レンガ校舎に移転。立教大学校と称した。
1918年、池袋に移転
(立教大学、豊島区西池袋、ウエブサイトより抜粋)

【女子学院】築地居留地6番
1870年、ジュリア・カロゾルスにより、築地居留地に設立されたA六番女学校に始まる、キリスト教主義の学校です。その後、B六番女学校(後の新栄女学校)・原女学校とミセス・ツルーをはじめとする婦人宣教師たちによりその精神は引き継がれ、1890年に桜井女学校(1876年、桜井ちかによって設立)が新栄女学校と合併して校名を「女子学院」と改め、矢嶋楫子を初代院長として、現在地(千代田区一番町22-10)に校舎を新築して発足しました。
1920年、高等科(現在の大学教育に相当)を東京女子大学に統合し、以後、質の高い中等教育(中学・高校の6年間一貫教育)をめざして今日に至っています。
(女子学院、千代田区一番町、ウエブサイトより抜粋)

【明治学院発祥の地】築地居留地17番
1863年、J.C.ヘボン夫妻が横浜にヘボン塾を開設。
1877年、東京一致神学校が築地居留地に設立された。
1880年、ヘボン塾が築地居留地に移転して築地大学校と改称し、J.C.バラが校長となった。
1886年、東京一致神学校、東京一致英和学校及び英和予備校を合併して、名称を「明治学院」とした。※東京一致英和学校は、築地大学校と横浜のアメリカ改革教会経営の先志学校が合併してできた学校。※英和予備校は、神田に開いた東京一致英和学校の予科。※
1887年、東京府から私立明治学院の設置が認可され、現在の白金の地にキャンパスが開かれた。
1889年、J.C.ヘボンが初代総理に就任
(明治学院大学、港区白銀台、ウエブサイトより抜粋)

【青山学院記念の地】築地居留地13番
青山学院は、米国メソジスト監督教会の宣教師により創立された3つの学校が源流。
1877年海岸女学校(築地)
1878年耕教学舎(築地)
1879年美曾神学校(横浜)
1882年、「耕教学舎」「美曾神学校」が青山で合併し「東京英和学校」ができる。
(青山:伊予西条藩松平家の上屋敷跡地)
1894年、「東京英和学校」は、青山の地名をとって「青山学院」と改称
1894年、「海岸女学校」が青山に移転して「青山女学院」となる
1927年、「青山学院」と「青山女学院」が合併
青山学院大学は、この青山学院を母体として1949年に新制大学として開設された。
(青山学院大学、渋谷区渋谷、ウエブサイトより抜粋)

【芥川龍之介生誕の地】
1883年ごろ、この付近(当時の京橋区入舟町八丁目一)に「耕牧舎」という乳牛の牧場がありました。作家芥川龍之介(1892-1927)は、その経営者新原敏三の長男として、ここに生まれました。
龍之介は誕生後7ヶ月にして、家庭の事情から母の長兄芥川道章に引き取られて、本所区小泉町(現、墨田区両国三町目)に移り、12歳の時、芥川家の養子になりました。
東京帝国大学在学中から文筆に親しみ、夏目漱石の門に入り、『地獄変』、『羅生門』、『河童』、『或阿呆の一生』など、多くの名作を遺しましたが、1927年、35歳で自害しています。
(中央区教育委員会案内板より)

【聖路加ガーデンから佃大橋、佃島を望む】

【アメリカ公使館跡】築地居留地2番、クレストンホテル前
開港によって日本に駐在した初代アメリカ公使ハリス は、1859年に現在の港区元麻布1-6の善福寺 に公使館 を開設しました。ついで1874年、築地居留地内のこの地に公館を新築し、初めて形容を整えました。 後にこれが手狭となり、1890年、赤坂の現在地(アメリカ大使館)に移転しました。
(中央区教育委員会案内板より抜粋)

【アメリカ公使館跡に残された記念碑】聖路加ガーデン
最後の移転により、この地には8個の小松石の石標が残された。石標には、白頭鷲、星条旗、星の3種類の彫刻が施されており、白頭鷲はアメリカの国鳥であり、星条旗に彫られた13の星は同国初期の13州を示す。
8個の石標のうち3個は1984年に日米友好のシンボルとして、赤坂のアメリカ大使館に寄贈され、現在同大使館の前庭に配置されている。残る5個の石標は、2個をここに、3個を旧病院前に置いてある。

【東京税関発祥之地】(水たき 治作)
江戸幕府は, 1867年に, 江戸築地鉄砲洲明石町の一帯を外国人居留地と定め, この地に税関業務等を行う 運上所を設置しました。これが, 東京税関の始まりです。(碑文より)

【明石町緑道(鉄砲洲川跡)の一角にあるモザイク「運上所」】
このほかにも、外国人居留地時代を彷彿させるモザイクがあって、明治の香りが漂う。

【聖路加国際病院トイスラー記念館】
1933年、トイスラー記念館は隅田川畔の明石町19番地に聖路加国際病院の宣教師館として建設された。設計者は米国人建築家のJ.V.W.バーガミニィで、施工は清水組(現在の清水建設株式会社)が行った。建物の躯体は、昭和初期の住宅建築には珍しい鉄筋コンクリート造一部木造の二階建てで、ヨーロッパの山荘を思わせる重厚な風格のある建物。
1989年に解体工事が行われ、1998年に現在地へと移築復元されました。復元にあたり、創建当時の施工技術や構造上の特徴を精密に記録し、再利用可能な部材をできる限り用いている。
(中央区教育委員会案内板より)

【聖路加国際病院トイスラー記念館】
右:創設者 R.B.トイスラー医師(1876-1934)の肖像
左:アメリカ公使館跡に残された小松石3個(白頭鷲、星条旗、星)がある。
【聖路加国際病院旧本館】
1900年、ルドルフ・トイスラー米国聖公会宣教医師とし来日。荒廃していた築地病院の建物を、ルドルフ・トイスラーが買い取り、聖路加病院とする。(聖路加病院創立)

病院名は、使徒パウロの協力者の一人であり、新約聖書の福音書の一つである『ルカによる福音書』の著者とされる聖人ルカの漢字表記に由来する。聖ルカは、『コロサイ人への手紙』で「親愛なる医者のルカ」(4章14節)と呼ばれていることから、キリスト教圏ではしばしば病院の名前に使われる。(ウイキペディア)


佃島−石川島

【江戸切り絵図:築地・八丁堀・日本橋南之図の佃島部分】
国会図書館蔵
徳川家康の招きによって、摂津国佃村から移り住んだ漁師達は干潟を埋め立て佃島を築き、周辺の漁業権を得た。将軍へ白魚などの魚介類を献上したが、余りを塩で煮付けして保存食とした(佃煮の始まり)。佃島は漁師町として発展し、日本橋魚河岸の基礎を築いた。

【佃島渡船場跡】佃大橋西詰
佃の渡しができたのは1645年、佃大橋が完成して佃の渡しが廃止されたのは1964年8月、東京オリンピックの直前だった。

【佃大橋西詰から見た佃島・石川島】
左から、石川島、住吉水門、住吉神社(赤い鳥居)
背後の高級マンション群は、石川島造船所跡地。
※1853年、この地に水戸藩徳川斉昭の手によって創設された石川島造船所は、現在のIHI(旧社名:石川島播磨重工業)の母体となった。※

【佃島渡船場跡】佃大橋東詰
佃島は隅田川河口にできた自然の寄洲でした。江戸時代初期、徳川家康の招きによって摂津国佃村から下ってきた漁師たちは、鉄砲洲東の干潟百間四方を埋め立てて佃島を築きました。そしてこの島と対岸の船松町との間に通された渡船が佃の渡しです。佃の渡しは、佃島住民だけでなく、住吉神社への参詣や花見見物などの人々に利用されました。(中央区教育委員会案内板より抜粋)

【住吉神社】
1646年、「住吉神社(田蓑神社)」でお祀りしている住吉三神(底筒之男命・中筒之男命・表筒之男命)と共に、息長足姫命(神功皇后)・東照御親命(徳川家康の霊)の分霊を奉遷。「住吉神社」として当社が創建された。
1694年には、講組織「佃嶋氏子中」が結成され、以後、地域の崇敬が篤かったという。(ウイキペディア)

【住吉講の立て札、佃堀】
この場所には、江戸時代後期1798年幕府より建立を許された大幟の柱・抱木が埋設されておりますので立ち入ったり掘り起こしたりしないで下さい。佃住吉講
※埋められた木材は3年に1度の例祭毎に、現在の佃1丁目の男子のみで構成される佃住吉講の人々によって、掘り起こされている。
(ウイキペディア)

【佃堀】
右前方に住吉神社。石川島(左側)と佃島(右側)を隔てている。

【石川島人足寄場跡から佃大橋を見る】
人足寄場は、江戸近郊にいた無宿人のうち捕縛されて入墨あるいは敲の刑になったものや吟味したものの無罪が確定したものを収容した施設。石川島の人足寄場は1790年に火附盗賊改方長谷川平蔵宣以が老中松平定信に建議して創設された。正式な名称は「加役人足寄場」といった。収容者は1793年には132人、1832年で132人、1842年には430人、1845年では508人であった。
この人足寄場は、一定の成功を収めた。
1870年廃止された。
(美と歴史ウエブサイトより抜粋)




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