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歴史散歩:東上野(浅草通り)〜元浅草〜蔵前(江戸通り)〜鳥越〜神田和泉町

2014年5月26日(月)
錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、東京歴史散歩。今回は、上野駅を出発し、浅草通り、元浅草、三筋2丁目交差点を経て蔵前へ、浅草御蔵跡から旧鳥越川沿いに蓬莱園跡を訪ね、神田和泉町から秋葉原駅まで歩きます。(全行程約6.7km)
※今回は、上野に縁のある4人の協力を得て、5人で歩きました。ご協力に感謝します。なお、以下に書かれた見解、感想はInternet Walkの管理者個人のものです。
【コースの概略】
[新寺町]
@広徳寺跡(現台東区役所)
A永昌寺(講道館発祥の地)
B源空寺(伊能忠敬墓、高橋至時墓)
C聖徳寺(玉川兄弟墓)
D妙音寺(蓮池)
E誓教寺(葛飾北斎墓)
F孫三稲荷(阿部川町)
G龍宝寺(柄井川柳墓)
[蔵前]
H松平西福寺(勝川春章墓、彰義隊慰霊碑、育英小学校発祥の地)
I頒歴所御用屋敷跡
J浅草御蔵跡(蔵前橋、首尾の松)
K浅草御蔵跡(浅草文庫跡)
[旧鳥越川]
L鳥越橋(須賀橋)
M加賀美久米森稲荷神社
N甚内橋、甚内神社
O鳥越神社
[旧大名屋敷]
P平戸藩松浦家上屋敷跡(蓬莱園跡、現都立忍岡高校)
Q医学館跡(旧躋寿館跡)
R鶴岡藩酒井家中屋敷跡(国立衛生試験所発祥の地)
S津藩藤堂家上屋敷跡(現神田和泉町、旧医学所跡)
上図の数字(赤)は、国土地理院の[電子国土Web]から読み取った標高を表している。「鳥越神社周辺」と「江戸通り」は標高4-5m、図の中央部は標高2m前後であることがわかる。台東区の中央部は江戸時代の初期、埋め立てられて嵩上げされていることを考慮すると、江戸通りとの標高の差は、もっと大きかった事が推定できる。江戸通りは、隅田川(旧入間川)の自然堤防であり、台東区中央部は後背湿地という位置付けである。自然堤防の微高地上には、江戸以前からも主要街道(奥州、常磐)が通っていた。

新寺町(浅草通り)から蔵前へ

(下谷坂本千住大橋浅草 1794年 国立国会図書館蔵)

【@広徳寺跡】現台東区役所(庁舎東口に記念碑がある)
1570-1592年、小田原に建立
1591年、家康が神田昌平橋に再建
1635年、下谷に移転
1923年、関東大震災で焼失、区画整理などもあり、練馬区桜台6-20-19に移転した。

数々の著名人が眠る名刹が、なぜ練馬に移転してしまったのだろうか?周辺に残った中小寺院の現状を見ると疑問は深まる。

【江戸名所図絵・広徳寺】国立国会図書館蔵
太田蜀山人の「恐れ入谷の鬼子母神、びっくり下谷の広徳寺」といわれるほど、寺域は広かった。
加賀前田家・会津松平家など18家の大名家菩提寺となり、墓域に各大名家の多宝塔や宝篋印塔が林立する様は、まことに壮観であったという。
移転前に眠っていた主な著名人は秋月種弘、織田信雄、小堀遠州、立花宗茂、前田利昌、柳生宗矩などである。

【浅草通り、稲荷町交差点】
浅草通りを浅草方面に少し歩くと、通りの南側に下谷神社がある。この神社、古くは、下谷稲荷明神社と呼ばれ、周辺は、下谷稲荷町呼ばれたが、町名変更で「東上野」になった。地下鉄駅名と交差点名に「稲荷町」という名が残っている。
浅草通りの両側にあるのは、寺ばかりではない、仏具屋さんが軒を連ねている。

【A永昌寺】講道館柔道発祥の地
1558年(徳川家康入府前)、下谷長者町に創建,
1637年(江戸時代初期)、現在地に移転した。
1923年の大震災により 当時の建物は焼失している。
1882年、嘉納治五郎が、永昌寺の書院で稽古を始めたのが講道館柔道の始まり。当時、書院の広さは12畳、門弟は9人であったという。(以上、台東区教育委員会案内板より)

【B源空寺】史跡墓地
1604年、湯島に創建
1657年、現地に移転(1636年、家光が寄進した銅鐘がある)
史跡墓地は源空寺本堂・鐘楼地区から通りを挟んで、南側にある。区画整理で分断された。

【源空寺・史跡墓地内部】
鉄門を入ると、墓地内は整然と整備されている。通路左側に、高橋至時、伊能忠敬、幡随院長兵衛、谷文晁の墓が並ぶ。後世に、史跡墓地として並び替え整備された事が伺える配置である。

【源空寺、伊能忠敬墓】
1745年、上総国に生まれる。のち、下総国佐原の酒造家・名主の伊能家を継ぐ。50歳の時、家督を譲り、江戸へ出て、高橋至時の門に入り、西洋暦法・測量法を学ぶ。
1800年、幕府に願い出て、蝦夷地東南海岸の測量に着手。以来、18年間全国各地を測量したが、地図未完のまま、74歳で死去。
1821年、未完の地図は、幕府天文方によって完成。わが国、最初の実測精密地図となった(大日本沿海輿地全図)。
(以上、台東区教育委員会案内板より抜粋)

【源空寺、高橋至時墓】
1764年大坂御蔵番同心の子として生まれる。15歳で父の職を継いだが、そのかたわら数学・暦学の研究に励む。
1795年幕府天文方に入り、1797年「寛政歴」をつくる。
伊能忠敬が実測地図をつくる時には、測量を指導した。
1804年41歳で死去。
(以上、台東区教育委員会案内板より抜粋)

【寺町の路地から見たスカイツリー】

【C聖徳寺】玉川兄弟墓所
玉川庄右衛門・清右衛門の兄弟は、玉川上水開削工事の請負者で、江戸の町人といわれているがその出身地は明らかではない。
玉川上水の開削工事は、1653年2月11日着工、羽村から四谷大木戸に至る43kmの導水部は、1654年6月20日に完成した。その後、給水地域は順次拡大され、江戸城内をはじめ芝・京橋方面に及んでいた。(以上、東京都教育委員会案内板より抜粋)

【D妙音寺】
江戸時代の古地図や明治初期の地図を見ると、この寺の北隣に大きな池があった事がわかる。江戸時代は、池の妙音寺として知られていた。

【妙音寺、弁天池】
しかし、古地図で見られた大きな池はなく、墓地や建物になっていた。代わりに、境内には、弁天堂と小さな池が造られていた。現在でも、標高は2m程度であり、江戸時代初期は湿地帯であったので、その名残でもあるかと期待したが、残念な結果であった。

【E誓教寺・葛飾北斎墓】
1760年、本所割下水に生まれ、19歳の時、勝川春章の弟子になり、役者絵・相撲絵を描く。
勝川春章没後は、諸派を学び、独自に葛飾流を打ち立て祖となる。
「富嶽三十六景」は海外でも評価が高く、フランス印象派に影響を与える。(以上、東京都教育委員会案内板より抜粋)

【孫三通り】
誓教寺から南東の方向に歩くと、「孫三通り」に出る。近くに、「孫三稲荷」があるので、この名があるが、神社の由来を調べるうちに、次々と江戸の歴史が見えてくるから不思議だ。
【F孫三(まごぞう)稲荷神社と阿部川町】
[孫三稲荷]1648〜1652年頃、川村某が駿河国阿倍川の鎮守「孫三稲荷」をこの地に移したという説。
また、「孫三稲荷」と徳川家康との縁も深く、1573-1592年に「孫三」という者に導かれて阿倍川を渡ったという伝承もあり、1590年、徳川家康入府の際、徳川家康の命により、江戸にもたらされ、その後、この地に移されたという説もある。
[阿部川町]この周辺は、それまで幕府下級官吏の大縄拝領地であったが、1696年代官細井九左衛門の支配地となり、翌1697年阿部川町として誕生した町といわれる。町名はこの地の地主が皆、静岡の安倍川から移ってきた者であった事に由来する。
(以上、台東区教育委員会案内板より抜粋)

[孫三稲荷]と[阿部川町]、どちらが先か、よくわからないが、いずれにせよ、徳川家康−孫三稲荷−阿部川町のつながりは、確かなようである。
また、[静岡−安倍川−徳川家康]と連想すると、[安倍川餅]に触れないわけにはいかない。

ウィキペディア(フリー百科事典)によると
「阿部川岸で、徳川家康が茶店に立ち寄った所、そこの店主が黄な粉を安倍川上流で取れる砂金に見立て、つき立ての餅にまぶし、「安倍川の金な粉餅」と称して献上した。家康はこれを大層喜び、安倍川にちなんで安倍川餅と名付けたという伝承がある。」
【G天台宗龍宝寺・柄井川柳墓】
「孫三稲荷」のすぐ東側に、区立菊屋橋公園があり、「川柳ゆかりの地」という案内板がある。
「柄井川柳は1718年生まれ、通称を八右衛門、名を正道という。1755年から龍宝寺門前の名主となり、1757年からは前句付けの点者として活躍した。前句付けは出題された前句(主に七七の短句)に付句(五七五の長句)をつけるもので、川柳が点者を務める万句合わせは広く人気を集めた。1765年、川柳の選句集「誹風柳多留」初編の刊行を一つの契機として、付け句が独立した文芸になっていった。この文芸を「川柳」と呼ぶようになったのは明治になってからである。」(以上、台東区教育委員会案内板より抜粋)

龍宝寺は新堀通の東に位置し、江戸時代の古図を見ると大きな寺域を持っていることがわかるが、現在では、およそ二十分の一になってしまったという。三筋二丁目交差点から一つ目の路地を入ると、そこは、「川柳横丁」、背の高い柳が目立つ龍宝寺がすぐ見つかる。
門を入ると、背の高い柳の下に、初代柄井川柳の辞世の句といわれる石碑があった。「木枯や跡で芽を吹け川柳」とある。



蔵前から旧鳥越川流域へ

東都浅草絵図 1853年 国立国会図書館蔵

江戸名所図絵 西福寺 国立国会図書館蔵

【H松平西福寺】
1574年、徳川家康が静岡に西福寺を創建
1608年、徳川秀忠が江戸駿河台に松平西福寺を創建
1638年、現在地に移転
明治維新、関東大震災、大東亜戦争を経て、寺域を縮小
1992年、新本堂建立
西福寺は、この本堂の他に南隣に他の寺院との共同墓地があるだけ。江戸時代の古図・絵図と比較すると、寺域は大幅に縮小された。

【勝川春章の墓(松平西福寺内)】
勝川春章(1726-1792)は江戸時代中期の浮世絵師で勝川派の始祖。写実的な役者絵を得意とした。門下に春英、春好、後に、葛飾北斎となる春朗など俊英を輩出し、当時の役者絵を独占した。
(以上、東京都教育委員会案内板より抜粋)

【育英小学校発祥の地(松平西福寺境内)】
明治新政府は幕府・藩による政治体制に変わる新しい日本の構築にあたって、国民全体の教育の推進をはかるため、1870年3月、東京に六つの小学校を設立した。その一つが本寺境内に設立された「仮小学 第四校」で、現在の育英小学校の前身である。旧大名・旗本及びその家臣の子弟が入学した。1872年8月の学制発布に先立つ、東京で最も早い公立小学校発祥の地である。
(以上、台東区教育委員会案内板より抜粋)

【彰義隊(132名)の墓(松平西福寺墓地)】
遺骨があるかどうかは不明だが、彰義隊の供養塔であることは、かなり、確かなようだ。

【I頒歴所御用屋敷跡】
現在の蔵前一丁目交差点付近に、幕府天文方の施設があった。正確な暦を作るために、天体観測を行っていた。その規模は、「司天台の記」という史料によると、周囲約93.6m、高さ約9.3mの築山の上に、約5.5m四方の天文台が築かれ、43段の石段があった。
1795年、50歳の伊能忠敬は江戸深川黒江町に住み、当時の天文学の第一人者高橋至時の弟子となり、この天文台で学んだ。
(以上、台東区教育委員会案内板より抜粋)
葛飾北斎の版画「富嶽百景 三編 鳥越の不二」
国立国会図書館蔵


中央の球は渾天儀という天体運行の観測器械。

【J浅草御蔵跡】
浅草御蔵は、江戸幕府が全国に散在する天領からの年貢米や買い上米を収納保管した倉庫。大阪、京都二条の御蔵とあわせ、三御蔵と呼ばれた。1620年鳥越神社の丘を切り崩して隅田川西岸を埋め立てて造営。それ以前の北の丸、代官町、矢の蔵などの米倉は1716-1736に吸収された。絵図によると、船着き場に八本の堀が造られているのが見られる。ここの米は、主として、旗本、御家人の給米にされ勘定奉行の支配下に置かれた。
浅草御蔵には、最大時には67棟の米倉が林立し、38500トンの米を収納でき、米問屋・札差しなどの大店が軒を連ねていた。しかし、その痕跡はどこにもない、蔵前という町名が残るが、これは1934年に生まれた名前である。
(以上、台東区教育委員会案内板より抜粋)

【J浅草御蔵跡、蔵前橋】
浅草御蔵の堀は埋め立てられ、公園、学校、警察署、郵便局、税務署、変電所、ポンプ場等として利用されている。1954-1984年には、蔵前国技館(現在は、東京都下水道局蔵前ポンプ場)で大相撲が行われていた。
蔵前橋通りと蔵前橋は、1927年関東大震災復興事業として整備された。橋の黄色は、稲穂の黄色を現している。

つまり、浅草御蔵の痕跡は、「蔵前」という地名、蔵前橋の「黄色」に残されているといえますね。

【J浅草御蔵跡、首尾の松】
蔵前橋西詰め、蔵前橋通りの北側には「浅草御蔵跡」の石碑が、通りを挟んで南側には「首尾の松」がある。幕末の切り絵図では、四番堀と五番堀の間に見え、歌川広重も描いている。由来については、諸説あるようですが、初代「首尾の松」は1772-1780年に風災で倒れ、以来、幾代か植え替え、現在の松は、7代目であるという。
(以上、台東区教育委員会案内板より抜粋)

広重、浅草川、首尾の松 国立国会図書館蔵

【K浅草御蔵跡、浅草文庫跡(榊神社内)】
旧幕府から接収した書籍類は、当初、湯島聖堂に置かれたが、1874年、その蔵書を浅草御蔵の米倉に移した。1875年には閲覧所を新設し、浅草文庫と称した。1881年、上野公園に新築された博物館構内の「書籍借覧場」に移転し、蔵前の閲覧所は閉鎖された。蔵書は、公文書館・国会図書館・国立博物館に分かれて所蔵されていて、三条実美の書といわれる「浅草文庫」の朱印が押されている。

浅草文庫の跡地は、1882年開校した東京職工学校(後に、東京高等工業、現東京工大)の一部となったが、1924年東京高等工業(現東京工大)が大岡山に移転した後、1928年榊神社が移転してきた。

1920年の東京高等工業(現東京工大)の敷地のレイアウト、この頃には、掘り割りが一部残り、鳥越川の川筋がハッキリと読み取れる。
浅草文庫跡(榊神社内)は1の正門付近と思われる。
【L鳥越川川筋、鳥越橋(須賀橋)、稲荷橋、甚内橋】
浅草文庫跡前の道は、不忍池から三味線堀を通って隅田川に注ぐ川筋であった。特に、三味線堀から隅田川までを鳥越川と呼んだようだ。江戸通りに架かっていた橋を鳥越橋(須賀橋)、順に、稲荷橋、甚内橋と遡ることが出来る(切り絵図参照)。

右図は須賀橋交番前交差点、江戸通り(左右)を横切り、正面の路地が鳥越川川筋(暗渠か埋め立てられたかは不明)。

【M加賀美久米森稲荷神社】
稲荷橋のそばに、加賀美久米森稲荷神社がある。その昔、加賀美太夫、条太夫という越後国猿屋村の猿曳が諸国漂泊の末、江戸にやってきた。やがて本業の芸と加持祈祷の評判が高まった。そのころ、徳川将軍が不治の病にかかり、すぐれた祈祷師を天下に求めた。さっそく、彼らは城中に招かれ病気平癒の祈?をした。すると、将軍の病はみるみる快癒にむかったので褒賞として、現在、神社のある土地に猿屋町の名を賜わって、永住することを許された。この両太夫の邸内に、それぞれ祀られたのが当稲荷社である。
(東京都神社名鑑より)

「猿曳」の本来の職掌は、牛馬舎とくに厩の祈祷にあった。猿は馬や牛の病気を祓い、健康を守る力をもつとする信仰・思想があり、そのために猿まわしは猿を連れあるき、牛馬舎の前で舞わせたのである。「猿曳」も、また、賤民身分であり、弾左右衛門の支配下にあった。刑場が鳥越から小塚原に移転する前には、猿曳も、猿も、弾左右衛門・穢多・非人たちと、ここ鳥越に住んでいた。猿屋町、元鳥越町などといった町名は、その時の名残である。


【N甚内橋跡】(上の写真)
東へ流れる鳥越川の架橋だった。名称は橋畔に向坂(幸坂)甚内を祭る神社があったのにちなむ。
【N甚内神社】(右の写真)
甚内神社は「甚内霊神」の名で、江戸時代初期に創建された。
伝承によれば、甚内は武田家の家臣高坂弾正の子で、主家滅亡後、祖父に伴われ諸国を行脚するうち宮本武蔵に見出されて剣を学び奥義を極めた。武田家再興をはかり、開府早々の江戸市中の治安を乱したため、瘧(マラリア)に苦しんでいたところを幕府に捕えられた。

鳥越の刑場で処刑されるとき「我瘧病にあらずば何を召し捕れん。我ながく魂魄を留、瘧に悩む人もし我を念ぜば平癒なさしめん」といったことから、病の治癒を祈る人々の信仰を集めたという。八月十二日の命日は、今も多くの人で賑わっている。
(以上、台東区教育委員会案内板より抜粋)

※鳥越刑場の位置はよくわからないが、稲荷橋から甚内橋の中間と考えられている。
【O鳥越神社】(右の写真)
651年創建
浅草台地の南端には、鳥越神社・熱田神社・第六天神と3つの神社があったが、江戸時代に入り、城下町建設のため、移転や土地の没収の憂き目にあった。熱田神社が今戸に、第六天神が蔵前に移動させられ、鳥越神社は移動はさせられなかったものの、ほとんどの土地を取り上げられた。
江戸以前、鳥越神社の敷地は約2万坪といわれるが、その敷地の土砂は、鳥越の南にあった「姫ヶ池」を埋め立てたり、隅田川を埋め立て御用地を造成するために使われた。旗本や大名の為に、大量の屋敷地が必要であったし、天領からの年貢米を陸揚げし保存する倉庫や港が必要であったからである。

鳥越神社の裏路地の交差点に立ってみると、「おかず横丁」、「三筋町」の方面が一段低いことがわかる、わずかに鳥越の丘の名残を感じることが出来る(現在の標高差は、約2m)。


【壽松院】
鳥越神社裏路地を蔵前の方へ少し戻ると、不老山壽松院というお寺に出る。切り絵図を見ても、当時から大きな寺域を持っていたことがわかる。しかし、現在もなお、写真のようにドッシリと存在し続けている理由はわからない、不思議なお寺である。

境内に入って、もう一つ不思議なものを見た。境内の隅にヒッソリと立っている石灯籠の銘には「東叡山 有徳院殿 尊前 寛延四年 肥前平戸城主 松浦....」とあった。これは、八代将軍徳川吉宗の勅額門(上野寛永寺)の門前に供えられた石灯籠であるようだ。現在、上野には吉宗に供えられた石灯籠は見られないので、整備の際、譲り受けたものらしい。これで、寺巡りをするときの楽しみが一つ増えたことになる。



大名屋敷の今

【大名屋敷の今】
・松浦壱岐守上屋敷→蓬莱園跡→現在、都立忍岡高校
・酒井左衞門尉中屋敷→東京衛生試験所→現在、?
・藤堂和泉守上屋敷→東京医学所→東京帝大第2病院→三井慈善病院→現在、三井記念病院
・宗対馬守上屋敷・藤堂佐渡守上屋敷→二長町(市村座跡)→現在、凸版印刷本社

(上の図は、「東都浅草絵図1853年 国立国会図書館蔵」、「東都下谷絵図1851年 国立国会図書館蔵」を合成したものである)

【P蓬莱園跡】現都立忍岡高校
蓬莱園は、肥前国平戸藩松浦家上屋敷内にあった名園で、小堀遠州が、1632年に造園した。小堀遠州作とされるとされる庭園としては、「浅草伝法院」「池上本門寺松涛園」「江戸城二の丸庭園」「東京国立博物館庭園」などがある。

【蓬莱園跡、大イチョウ】
大池を中心に丘を築き樹木を植え、13基の燈籠を配しその面積は2600坪に及び、池水は鳥越川から取り入れた。この名園も関東大震災の為に荒廃し、消滅した。
このイチョウは当初からあったもので、高さ約21.3m、幹囲約4.8mある。
(台東区教育委員会案内板より抜粋)

【蓬莱園跡、池の一部】
池の大部分は、都立忍岡高校の校庭として埋め立てられ、わずかに東北の隅に、その面影を残す。
(台東区教育委員会案内板より抜粋)

上の写真は、都立忍岡高校の許可を得て、校内に立ち入り撮影したものです。現状は、名園の名残というより、池の一部をやっと残したというもの、これからの整備を期待します。

【Q医学館跡(躋寿館)】
1765年、幕府奥医師多紀元孝が医師(漢方医)の教育のため、神田佐久間町に建てた私塾躋寿館から出発、
1791年に、幕府が医師養成の重要性を認めて官立とし、医学館と改称、規模を拡大した。1806年3月、大火に遭い焼失、1806年4月に、前方の旧向柳原1丁目に移転、再建された。
江戸時代後期から明治維新に至る日本の医学振興に貢献した。
(台東区教育委員会案内板より抜粋)

【神田和泉町交差点】
酒井左衞門尉中屋敷、藤堂和泉守上屋敷のあった一角は、現在、千代田区神田和泉町としてその名を残している。上の写真は、神田和泉町側から撮影している、対して、青信号左方向は、台東区台東一丁目、正面は台東区浅草橋五丁目と味気のない名称になってしまった。

【R国立衛生試験所発祥の地】
1874年、明治新政府は酒井左衞門尉中屋敷跡地に文部省医務局薬場(→東京衛生試験所→国立衛生試験所)を設置した。

【S幕府医学所→東京医学校、三井記念病院】
1868年、明治新政府は藤堂和泉守上屋敷跡地に、横浜軍事病院と幕府医学所を含めて大病院(のち東京医学所)を設置した。
1876年、東京医学所は本郷に移転して、現在の東京大学医学部へつながった。
1878-1901年、この地は、東京帝国大学第二医院として利用。
1909年、三井慈善病院(三井記念病院の前身)開設
(東京大学医学部、三井記念病院ウエブサイトより)


現浅草通りの両側にあるお寺は、おしなべて、江戸時代から大幅に寺域縮小され、経営的に大変な時代を経てきた感じがします。その中にあって、「孫三稲荷」という何の変哲もなさそうな稲荷が、「阿部川町」という町名や「安倍川餅」と深い関係があるという(私には)新発見もありました。米倉の跡地が警察・郵便局・学校・変電所など公共施設として利用されていました。大名屋敷の庭園は「蓬莱園跡」に垣間見ることが出来ますが、保存状態がイマイチの気がします。また、藤堂和泉守上屋敷の痕跡が「神田和泉町交差点や和泉橋」に、酒井左衞門尉下屋敷の痕跡が「左衞門橋通りや左衞門橋」に見ることが出来ますが、これだけでは寂しい気がしますね。





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