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歴史散歩:上野寛永寺子院群(西側)その後


2025年12月2日(火)
錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、歴史散歩。
[時鐘堂]→[大仏殿跡]→[上野精養軒]→[上野東照宮]→[寒松院跡(藤堂家墓所、閑々亭)]→[動物園開園(明治期)]→[水路とさくらぎ橋]→[東京音楽学校・旧奏楽堂]→[国際こども図書館(明王院跡)]→[旧東京図書館書籍閲覧所(東京芸大・赤レンガ2号館)]→[旧教育博物館書籍閲覧所(東京芸大・赤レンガ1号館)]→[西四軒寺通り跡と東京芸大奏楽堂]→[岡倉天心像(東京芸大内)]→[町田久成墓、津梁院墓地]→[津軽家墓所、津梁院墓地]


上野公園西側:上野東叡山寛永寺の名残を求めて

【上野公園・西半分地図(現代)】
地理院地図に、筆者が主な建物・史跡を書き入れた。

【幕末頃の上野東叡山寛永寺・西半分】
上野東叡山惣地図(東京国立博物館蔵)に、筆者が現存する主な建物・史跡を書き入れた。
  • 寛永寺は、1625年(寛永2)に、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に、慈眼大師天海大僧正によって建立された。山号は東の比叡山という意味で東叡山とされ、寺号も延暦寺同様、創建時の元号を使用することを勅許され、寛永寺と命名された(東叡山寛永寺)。
  • 1681年(延宝9)には、第四代将軍・コ川家綱の霊廟が造営され、将軍家の菩提寺も兼ねるようになった。以来、寛永寺墓地には、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定、そして、明治になってから慶喜と、合計7人の将軍が眠っている(他に、増上寺6人、日光東照宮1人、日光輪王寺1人)。
  • 1654年(承応3)、東叡山主を皇室から迎えた(守澄法親王)ことで、江戸時代には格式と規模において我が国随一の大寺院となった(以後、東叡山主となった法親王は幕末まで12人)。
  • しかし、幕末の上野戦争で敷地の大部分を失い、関東大震災や太平洋戦争でも被災して、江戸時代の栄華は失われた。かつての寛永寺子院群(西側)の名残は上野公園から上野桜木町、谷中へ広がって存在する。その名残を確認し、現在の様子を見ていくことにする。

【寛永寺 時鐘堂】
時の鐘は、はじめ江戸城内で撞かれていたが、1626年(寛永3)になって、日本橋石町に移され、江戸市民に時を告げるようになった。江戸の町の拡大に伴い、寛永寺・浅草寺をはじめ多数の鐘が撞かれるようになった。
寛永寺の鐘は1666年(貫文6)の鋳造、その後、1787年(天明7)に鋳直されたものが現存の鐘。現在も、朝夕6時と正午の三回、昔ながらの音色を響かせている。環境庁の「残したい音風景100選」に選ばれている。
「花の雲 鐘は上野か 浅草か」と芭蕉が詠んだ句はここの一代目の鐘である。

【露座の大仏(明治期)】
(台東区立図書館、デジタルアーカイブより)
・寛永寺が創建される前、大仏のある周辺は、越後村上藩主堀直寄の屋敷地であった。
・寛永寺創建に伴い、屋敷地を返上、戦国乱世戦死者慰霊のため漆喰の釈迦如来坐像を建立した(1631年)。
・その後、青銅製にしたり、仏殿(覆堂)の中に納めたりしたが、明治維新を迎えると、再び露座に戻されていた。正岡子規は「大仏を 埋めて白し 花の雲」という句を残している。

【大仏の顔(現在)】
関東大震災では、頭部が落下するなど激しく破損し、解体され、寛永寺に保管されていた。
1972年(昭和47)、寛永寺に保管されていた顔面部をレリーフとして旧跡に安置。
「これ以上落ちない合格大仏」として、広く信仰を集めている。

【明治期の上野精養軒】
(上野公園内西洋軒、東京景色写真版 1893年(明治26)国立国会図書館蔵)
・1872年(明治5)、西洋料理の草分けとして「築地精養軒」が創業、主に外国人接待用施設として使われた。
・1876年(明治9)、上野恩賜公園開園の年、上野精養軒がオープン。開園式典のレセプション会場として使われ、明治天皇、大臣、外国要人が多数参列した。
・1923年(大正12)、関東大震災により築地精養軒は焼失したため、上野精養軒が本店となった。
しかし、上野精養軒は引き続き皇室、軍人、政治家たちの利用がメインだったため、まだまだ一般の人々が足を運べる場所ではなかった。
・1945年(昭和20)、終戦後は、一時米軍相手の仕事になったが、1952年(昭和27年)にGHQが引き上げると、メニューを見直し、大衆化していった。


上野東照宮と寒松院

【1895年頃の上野東照宮】(東京都公文書館蔵)
東照宮は、徳川家康を「東照大権現」として祀っている神社。家康は1616年(元和2)に亡くなった後、神格化され、各地に「東照社」のちに「東照宮」が作られた。
築城の名手として知られる藤堂高虎は、家康の側近の中でも特に重用されていた人物で、家康を祀る神社造営のため、下屋敷を献上。
  • 1627年(寛永4)、藤堂高虎の自邸内に「東昭社」が創建された。
  • 1646年(正保3)、朝廷より正式に宮号を授けられ「東照宮」となった。

【上野東照宮唐門、1651年造営】
  • 1651年(慶安4)、徳川家光が大規模な造営替えをし、日光東照宮に準じた豪華な金色殿を建立した。これらの建造物は、戦争や地震にも崩壊を免れた貴重な江戸初期の建築として国の重要文化財に指定されいる。
  • 金色殿の拝観は有料だが、その手前の唐門は自由に拝観できる。左甚五郎作の昇り龍・降り龍の彫刻や、扉には唐草格子、扉の上には亀甲花菱、正面上部には錦鶏鳥・銀鶏鳥の透かし彫りなど非常に精巧を極めたものである。

【上野東照宮銅灯籠】
東照宮社殿唐門前と参道に50基の銅灯籠が並んでいる。灯籠は神事・法会を執行するときの浄火を目的とするもの。これら銅灯籠は、諸国の大名が東照大権現霊前に奉納したもので、竿の部分には、寄進した大名の姓名・官職名・奉納年月日などが刻字されている。写真の例では「慶安四年四月十七日 出雲侍従松平出羽守直政」
「慶安四年四月十七日」は「家光による造営替え落慶の日」、「出雲侍従松平出羽守直政」は「結城(松平)秀康の三男、徳川家康の孫」

【五重塔、上野動物園内】
寛永寺創建工事の総奉行・老中土井大炊頭利勝は、1631年(寛永8)、この地に東照社の一部として五重塔を創建寄進した。1639年(寛永16)火災により焼失したが、日光東照宮を大改修した甲良豊後守宗広等に命じて、同年再建させた。現在、上野に残る建造物としては、1631年清水堂、1639年五重塔、1651年東照宮となっており、この塔は江戸初期を代表する優れた建築として、重要文化財に指定されている。所属としては、東照宮→寛永寺→東京都と代わってきていて、中に安置されていた四仏は東京国立博物館に寄託されている。

【幕末の頃の上野東叡山、東照宮と藤堂家】
(上野東叡山惣地図 東京国立博物館蔵)
藤堂家初代藩主高虎(1556〜1630)は、戦国時代に浅井・織田・豊臣氏に仕え、のち徳川家康の信任を得て伊勢・伊賀国で32万石を領する大名となった。高虎は、東照宮や墓所を含む一帯(排水路を巡らせた場所)に屋敷を構えたが、寛永寺建立に伴い、ここに東照社とその別当寺寒松院を起立した。以後、寒松院は寛永寺の子院として東照宮の別当を務めるとともに江戸での藤堂家菩提寺となった。
※藤堂高虎の法名は寒松院殿道賢高山権大僧都

【藤堂家墓所、上野動物園内】
藤堂家の墓所は、菩提寺・寒松院の中にあった。寒松院は、戊辰戦争で彰義隊が立てこもり、焼失してしまったが、「藤堂家の墓所」は、手つかずのまま、上野動物園の中に残っている。
藤堂家墓所は、すべて宝筐印塔型の塔で、初代高虎より10代高兌までの歴代藩主墓・供養塔10基、高虎夫人をはじめとする親族墓4基が南北2列に向かい合って並んでいる。
通常は、非公開だが、このように、正面から写真を撮る幸運に恵まれることもある。

【旧寒松院・閑々亭(上野動物園内)】
徳川家光が東照社を参拝したおり、寒松院に立ち寄った。寒松院の庭園にある茶室に通されたとき、将軍家光が「武士も風流をたしなむほど世の中が閑になったので閑々亭と名付けるがよかろう」といったという、それ以来、この茶室を閑々亭と呼ぶようになった。寒松院は焼失したが、1878年、閑々亭だけが復旧されその後度々補修されて今日に至っている。


清水谷に上野動物園開園

【明治期の上野動物園】
(上野動物園案内1902年(明治35)、国会図書館蔵)

【1896年(明治29)頃の上野動物園】
(上野動物園百年史 国会図書館蔵)
【動物園開園】
  • 1882年(明治15)、上野公園に博物館(後の東京国立博物館)が開かれ、その付属施設として上野動物園が開園した。この博物館は、ウィーンの万国博覧会へ出品するために日本全国から集められた物産を、一般の人々の「開智」のために公開されたのがはじまりであったので、動物園に集められたものも日本産の動物が主体であった。さらにその所管が農商務省であったために、「勧業奨励」に力が入れられ、家畜が展示に加えられた。1886(明治19)年に宮内省所管となってからは、トラをはじめ外国産の珍しい動物が集められた。また、外国の王室からの贈物や、日清日露両戦役での戦利品などが宮内省に献上され、数多くの動物が展示されるようになった。場所としては、旧寒松院を下った、清水谷が使われた。旧寒松院の庭園入口から入り、谷底の動物を閲覧したようだ。
  • 1923年(大正12)、関東大震災では、深刻な被害は受けなかった。
  • 1924年(大正13)、上野公園、動物園が東京市へ下賜された。(恩賜上野動物園)

【動物園内の排水路の遺構】
初期の上野動物園は、排水路の左側にあった。排水路の右側は、旧寒松院の庭園であった。

【上野動物園の拡張推移】
(上野動物園百年史 国会図書館蔵)より
・1882年(明治15)・(1):開園当初は清水谷(1)のみだった。
・1885年(明治18)・(2):寒松院庭園部分(2)は通路としてだけでなく、動物も置かれたようだ。
・1912年(明治45)・(6):この時期には、動物園の入口(7)が二本杉原の方向に移動して、現在に近くなっている。[藤堂家の墓所]も完全に動物園内に含まれてしまった。
以降、上野動物園は、継ぎ接ぎのように拡張し、現在も、不忍池周辺に拡大し続けている。
【さくらぎばしの碑】
上野動物園と東京芸術大学の境界付近に残る「さくらきばしの碑」。背面には「明治九年四月三十日」の刻印がある。
江戸期の地図にも、明治期の地図にもここには排水路があったことになっているし、実際、石組みの水路跡はある(写真奥の金網)。色々な文献では、千川上水の余水を流した水路との説明がなされているが、しかし、白山当たりから千川上水をどの様にして、上野の山へ「持ち上げた」のだろうか?
上野の山の「湧き水、雨水」或いは「寛永寺の生活用水」を流した水路ではないだろうか?


西四軒寺周辺の変遷

【幕末頃の東叡山寛永寺、西四軒寺付近】
(東京国立博物館 古地図データーベース)
(1)覚成院、(2)等覚院[路地を挟んで](3)元光院、(4)明王院を西四軒寺といった。明治維新以後、この地区を中心に、多様な文化施設が花開くことになる。
この路地を、「西四軒寺通り」とも「錦小路」とも呼んでいるようである。

【1882年(明治15)頃の西四軒寺跡】
(改正増補 開明東京新図 附東京案内 台東区立図書館、デジタルアーカイブ)
  • 1877年(明治10)、西四軒寺跡に東京博物館が湯島から移転してきて、教育博物館と改称(国立科学博物館の創立)。
    1881年(明治14)には、東京教育博物館と改称。
  • 1885(明治18)年、東京教育博物館に合併する形で、湯島聖堂にあった東京図書館が移転してくる[通称、上野図書館]
  • 1889年(明治22)、東京教育博物館に同居する形で、東京美術学校が開校した。同年、東京図書館が独立し、東京教育博物館は湯島へ移転していった。

【1894年(明治27)西四軒寺周辺】
(東京下谷警察署管轄全図 台東区立図書館、デジタルアーカイブより)
  • 1890年(明治23)、錦小路をはさんで反対側・元光院跡には、東京音楽学校校舎が完成し、東四軒寺跡にあった東京音楽学校がやってきた。
  • 西四軒寺跡周辺には、錦小路をはさんで、東京音楽学校、東京美術学校、東京図書館が共存する時代があった。

【1907年(明治40年)西四軒寺町周辺】
(上野公園之図、国立国会図書館デジタルコレクション)
  • 1897年(明治30)、東京図書館を受け継いで、等覚院跡に帝国図書館設立(上地図の空白部分)。
  • 1906年(明治39)、明王院跡に帝国図書館竣工(以後、増改築を経て現在に至る)

【1956年頃の東京芸術大学】
(国際日本文化センター蔵)
この時期になると、さくらぎ橋通りから谷中へ抜ける道が出来ていて、メインストリートとなっている。
西四軒通り(錦小路)はまだあるが、その後、東京芸術大学構内に含まれて、道としては消滅。現在では、通りの入口のみ当時の面影がある。

【西四軒寺通りの痕跡】

【赤レンガ1号館(東京芸大内)】
1880年(明治13)、赤レンガ1号館は教育博物館の書籍閲覧所の書庫として建てられた。(都内に現存する最古のレンガ建築)1889年(明治22)、教育博物館移転のため、東京美術学校に移管された。(教育博物館唯一の遺構)
※東京美術学校は、1889年(明治22)、教育博物館の館内に同居する形で開校した。※

【赤レンガ2号館(東京芸大内)】
1886年(明治19)、旧東京図書館(現、国立国会図書館国際子ども図書館)書籍閲覧所の書庫として建てられた、洋小屋形式の木造屋根を持つレンガ造建築である。
1908年(明治41)に東京美術学校に移管され、今日に至るまで大学の文庫書庫、倉庫、体育の授業、そして文化財保護学研究室など様々な用途に利用されてきた。(旧東京図書館の唯一の遺構)

【国際こども図書館】
[東京図書館→国際子ども図書館への歩み]
  • 1872(明治5)年、書籍館[ショジャクカン]開館(湯島聖堂内)。旧幕府系(昌平坂学問所、蕃書調所、和学学問所)の書籍中心
  • 1874(明治7)年、書籍館は浅草へ移転(浅草文庫)
    浅草文庫の蔵書は、内閣文庫→国立公文書館と帝室博物館→東京国立博物館へ引き継がれる。
  • 1875(明治8)年、東京書籍館開館(湯島聖堂内)
    文部省由来の書籍と国内出版物を受け入れた。
  • 1880(明治13)年、東京図書館と改称
  • 1885(明治18)年、東京教育博物館と合併して上野へ移転[通称、上野図書館]
  • 1889(明治22)年、東京教育博物館から独立
  • 1897(明治30)年、東京図書館を受け継いで、帝国図書館設立(四軒寺、等覚院跡)
(右へ続く)

【国際こども図書館内部】
※近年の改装の折、廊下を付け足して、図書館外壁が近くで見られるようになった。ここは、休憩スペース、記念写真スペースとして、自由に使うことができる※


(左より)
  • 1906(明治39)年、現在地(明王院跡)に帝国図書館竣工。以後、増改築を経て現在に至る。
  • 1923(大正12)年の関東大震災、1945(昭和20年)の太平洋戦争でも大きなダメージは受けなかった。
  • 1949(昭和24)年、国立国会図書館支部上野図書館
  • 1961(昭和36)年、蔵書は永田町に新築された中央館に移された
  • 2000(平成12)年、国立国会図書館国際子ども図書館

【現在の四軒寺通り】
先に、掲載した写真のように、門があるので「東京芸術大学構内」に直接入ることは出来ないが、正門から入ってみると。

【現在の奏楽堂】

【東京音楽学校校舎、1890(明治23)】
上野公園西四軒寺跡(現在の大学奏楽堂付近)に落成。木造で正面二階中央には日本最初の音楽専門ホール「奏楽堂」を擁した。(東京音楽学校〜東京芸術大学音楽学部のあゆみより)
この建物で、学んだ代表的な音楽家は、
[滝廉太郎]
・1898年(明治31)に東京音楽学校を卒業、研究科に進む・嘱託教師
・1900年(明治33)作曲 花、荒城の月、箱根八里など

【東京音楽学校奏楽堂(上野公園移築後)】
1987年(昭和62)奏楽堂は移築復元された。1988年(昭和63)には、日本最古の洋式音楽ホールを有する建造物として、重要文化財の指定を受けた。
[三浦環]
・1904年(明治37)に東京音楽学校を卒業
・在学中の1903年(明治36)、旧東京音楽学校奏楽堂で、日本人による最初のオペラ公演「オルフェオとエウリディーチェ」に出演し、主役のエウリディーチェを演じた。
[山田耕筰]
・1908年(明治41)に東京音楽学校を卒業、研究科に進む
・1925年(大正14)作曲 からたちの花
・1927年(昭和2)作曲 このみち 赤とんぼ

【岡倉天心像】
【岡倉天心と東京美術学校】
・1884年(明治17)、文部省に「図画調査会」(岡倉天心、今泉雄作、狩野友信、狩野芳崖ら)が置かれ、国立の美術学校の設立が決定された。
・1885年(明治18)、フェノロサ・岡倉天心らを中心に、美術学校創設の準備が始まった。
・1889年(明治22)、東京美術学校は、上野公園の教育博物館(現在の国立科学博物館の前身。)の館内に同居する形で正式に開校した。校長事務取扱は文部省専門学務局長の濱尾新、岡倉天心が幹事、フェノロサが幹事取扱事務を務めた。(翌年には、岡倉天心が校長に就任。)
・1890年(明治23)、10月7日東京美術学校初代校長に岡倉天心
同校での美術教育が特に有名で、福田眉仙、横山大観、下村観山、菱田春草、西郷孤月らを育てたことで知られる。

寛永寺 養壽院と津梁院(しんりょういん)

【鍵屋のお仙】鈴木春信 東京国立博物館蔵
[鍵屋のお仙と笠森稲荷]
浮世絵師・鈴木春信は1768年(明和5)、谷中にあった笠森稲荷近くの水茶屋・鍵屋で、美しい看板娘と出会った。お仙をモデルにした錦絵は江戸っ子をとりこにし、茶屋には大勢のファンが押しかけた。江戸〜大正にかけての手鞠歌にも
「向こう横丁のお稲荷さんへ 一銭あげて ちょっとおがんで お仙の茶屋へ……」とうたわれた。
その笠森稲荷、今の天王寺の境内にあった養壽院末寺福泉院に祀られていたが、幕末の上野戦争で焼失廃寺になり、笠森稲荷は養寿院に移された。
※養壽院とは、寛永寺36坊の一つ、江戸期には、護国院(寛永寺清水門)の前にあった。※

【津軽家の墓(1)、津梁院墓地】
津梁院は、陸奥国弘前藩3代藩主・津軽信義が1636年(寛永13)に、津軽家屋敷地に子院として創建し、厳有院(徳川家綱)の別当寺を勤めていた。「津梁院」とは、2代藩主津軽信枚の法名「津梁院殿徳山寛海権大僧都」に由来する。
結局、寛永寺創建のため、堀家・藤堂家・津軽家の3大名家が持地を明け渡したことになる。現在、津軽家歴代の大名墓は津梁院から離れたところ(御隠殿坂に近い)にあるが、江戸時代は大きな子院だったと推定できる。

【津軽家の墓(2)、津梁院墓地】
津軽家の墓域には、常に鍵がかかっていて非公開である。常陸宮華子さん(津軽華子さん)がお参りすることで隠れた名所になっている。津軽家墓域には、複数の墓が存在するが、(1)の墓は整備がされているように見え、常陸宮華子さんが父の墓に参拝するとしたら(1)の墓だろう。一方、「2代藩主津軽信枚以下」の大名墓としては(2)のような気がする。未確認ですが...
(両写真共、御隠殿坂側からカメラを塀の上に高く上げて、撮影、ランダムに撮りました。)

【町田久成の墓、津梁院墓地】写真は、東京国立博物館蔵
[東京国立博物館初代館長・町田久成(1838-1897)]
・1838年(天保9)薩摩国日置郡石谷で生まれ、19歳で江戸に出て学び
・1865年(慶応1年)には、18人の留学生とともに渡英した。
ヨーロッパ滞在中に大英博物館やケンジントン博物館などを見学し、博物館事業の重要性を認識し、維新改革、廃仏毀釈の流れの中で多くの文化財や美術品が破壊、また海外に流出していくのを惜しみ、博物館建設や文化財の保護、調査・報告を進言する『大学献言』を太政官に提出し、博物館創設事業に携わるようになる。
・1872年(明治5)、蜷川式胤、内田正雄や画家高橋由一、写真家横山松三郎らとともに、正倉院をはじめとする社寺の宝物調査のため約4か月間出張した(壬申検査)。私財を投じて、古書・古美術品を買い求め、少しでも散逸を止めようとした。・・1881年(明治14)には、上野公園内旧寛永寺本坊跡地にコンドル設計の博物館新館(旧本館)が落成し、第二回内国勧業博覧会で美術館として運用が始まった。
・1882年(明治15)には博物館本館として運用が始まった。この時、町田久成は博物館(東京国立博物館)初代館長として就任した。
名称は、時代と共に、博物館→帝国博物館→東京帝室博物館→東京国立博物館と変わった。

【上野博物館遠景之図】東京国立博物館蔵
工部省営繕局築造 明治11年4竣工、明治14年1月落成
と書かれている。
コンドル設計の東京帝室博物館(初代東京国立博物館)
・1872年(明治5)3月10日湯島聖堂で文部省博物館として最初の博覧会を開催。これをもって博物館の創立・開館とする。
・1873年(明治6)ウイーン万国博覧会参加のための博覧会事務局に博物館・書籍館が合併し、内山下町(千代田区内幸町)に移転。
・1882年(明治15)上野の新館落成、博物館として運用開始。付属動物園、浅草文庫とともに一般に公開される。
初代館長:町田久成
・1889年(明治22)帝国博物館となる。総長に九鬼隆一、美術長に岡倉天心が就任。
・1900年(明治33)東京帝室博物館と改称。
・1917年(大正6)森鴎外、総長に就任。
・1923年(大正12)関東大地震で、コンドル設計の本館のほか、当時存在した2号館、3号館が大破して使用不能となった。
・1937年(昭和12)11月に竣工、1938年(昭和13)11月に開館した。
・1947年(昭和22)東京国立博物館と改称



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