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歴史散歩:牛込地区(飯田橋−神楽坂−榎町−早稲田−高田馬場)を歩く


2017年5月8日(月)
錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、歴史散歩。
  • 早稲田通りが貫く牛込門跡から出発、先ず驚くことが、早稲田通り(神楽坂)の狭さ、その為、神楽坂が午前と午後で一方通行になっていること、江戸の香りがします。
  • 石畳の路地に老舗の料亭。新宿区まちなみ景観賞も受賞している情緒あふれる兵庫横丁、急坂を上ると、江戸期には日比谷まで見通せたと思われる崖上・牛込城址(現・光照寺)に出ます。光照寺には、出羽国松山藩主酒井家墓地が放置されていました。
  • 光照寺から西に向かうと、そこは、幕府旗本・御家人の住まいがあったところ、江戸期の町並みが続き、御徒町、納戸町、払方町、細工町、箪笥町などの町名が未だに使われています。その一角に、文人・大田南畝(父親が御徒)の生誕の地がありました。
  • 大久保通りを横断して台地の上へ向かいます、旗本・御家人が去った後に、尾崎紅葉や浅田宗伯が住みました。その北側に広大な矢来町が広がります、小浜藩酒井家の屋敷地跡です。維新後、酒井家屋敷地を貫くように牛込中央通りができ、旺文社、新潮社などが並んでいます。
  • 再び、早稲田通りに出て西へ向かい、榎町の済松寺(春日局の補佐役・祖心尼が開基)を見学、規模の大きさと、ありのままの自然に驚かされました。江戸期には、外苑東通りに沿って、済松寺を貫く小川があったようです、すこし上流には、弁天社・宗参寺があります。宗参寺は牛込氏の菩提寺、いまでも累代の墓域がありました。
  • 外苑東通りを早稲田方面へ向かうと、元赤城神社・「神崎の牛牧」碑があります。こここそが[早稲田][牛込]名称の発祥の地、注目度が低いのが残念です。
  • そのまま、早稲田大学へ向かいます。江戸期には、早稲田大学の東側は一面の田圃、その田圃に神田川に流れ込む小川が流れていたようです。その小川が大隈庭園の池を形成していた時期もあったようです。
  • 早稲田大学を横断して早稲田通りに出ると、坂上に高田馬場、JR高田馬場駅とは約1km離れています。早稲田通りをすこし戻ると、穴八幡、ピカピカの社殿と流鏑馬像が目につきました。

国土地理院地図(新版-淡色)[ブラウザ:カシミール]に、主な地名・旧跡を書き加えた。

牛込門〜神楽坂周辺

【神楽坂周辺、市ヶ谷牛込絵図 国会図書館蔵】

【牛込見附跡、交番前より撮影】
「この牛込見附は、外堀が完成した1636年に阿波徳島藩主蜂須賀忠英(松平阿波守)によって石垣が建設された。 これを示すように石垣の一部に「松平阿波守」と刻まれた石が発見され、向い側の石垣の脇に保存されていまる。江戸時代の牛込見附は、田安門を起点とする「上州道」の出口といった交通の拠点であり、また周辺には楓が植えられ、秋の紅葉時にはとても見事であったといわれている。その後、1902年に石垣の大部分が撤去されたが、現在でも道路を挟んだ両側の石垣や橋台の石垣が残されている。(千代田区)」  

【牛込神楽坂、江戸名所図会、国会図書館蔵】
この坂で『神楽』が聞こえたから『神楽坂』という名前になったといわれているが、肝心の神社については、「坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所」「筑土明神」「若宮八幡」「赤城明神の神楽堂」など諸説あるよう。

【神楽坂、早稲田通り】
「早稲田〜高田馬場間」の早稲田通りしか知らないものにとっては、早稲田通りってこんなに狭かったかと面食らいますね。さらに、標識をよく見ると、
(平日)0-12:下りの一方通行、12-24:上りの一方通行、さらに12-13:歩行者天国と読めます。
【善國寺、毘沙門天】
「1595年、徳川家康が開基となり、『鎮護山・善國寺』として日本橋馬喰町馬場北に誕生した。
1670年、水戸光圀は焼失した善国寺を麹町に再建した。
1792年、焼失により神楽坂に移転。

毘沙門天様への信仰は時代とともに盛んになり、将軍家、旗本、大名へと広がり、江戸末期には庶民の尊崇の的ともなり、江戸の三毘沙門の随一として、《神楽坂毘沙門天》の威光は倍増していった。明治初期に花街も形成され、華やかな街になっていった。明治・大正初期には、泉鏡花、尾崎紅葉、北原白秋など多くの文人・墨客達がこの辺りを闊歩し、大いに賑わった。特に縁日の賑わいは相当なもので、人出のために車馬の往来が困難をきたし、山の手銀座と呼ばれるほど有名を馳せ、その混雑ぶりはまさに東京の縁日の発祥の地にふさわしいものであった。(善國寺ウエブサイトより)」

【兵庫横丁の入り口】
もちろん、もう少し広い入り口もあるのだが、一人がやっと通れる石畳を歩いて兵庫横町へ(ここも兵庫横町の一部かもしれない)。

【兵庫横丁】
「石畳の路地に老舗の料亭。新宿区まちなみ景観賞も受賞している情緒あふれる兵庫横丁。戦国時代に牛込城の武器庫(兵庫)があったことが名称の由来という。
横丁内のレトロな雰囲気の旅館では、野坂昭如氏や山田洋次氏などが滞在し、数々の名作を誕生させた。
(一般社団法人新宿観光振興協会ウエブサイトより)」

【藁店・地蔵坂、光照寺へ】
この坂の上に光照寺があり、そこに近江国(滋賀県)三井寺より移されたと伝えられる子安地蔵があった。それにちなんで地蔵坂と呼ばれた。また、藁を売る店があったため、別名「藁坂」とも呼ばれた。
(解説柱より)

【光照寺、牛込城址】
光照寺は1603年、浄土宗増上寺の末寺として神田元誓願寺寺町に起立、1645年ここ牛込城跡に移転してきました。徳川家康の叔父松平治良右衛門の開基になり、光照寺の名称は、開山の僧心蓮社清誉上人昌故光照の名から由来するものです。(以上、光照寺)

【光照寺本堂、牛込城址】
光照寺一帯は、戦国時代にこの地域の領主であった牛込氏の居城があったところである。堀や城門、城館など城内の構造については記録がなく、詳細は不明であるが、住居を主体とした館であったと推定される。
牛込氏は、赤城山の麓ふもと上野国(群馬県)勢多郡大胡の領主大胡氏を祖とする。天文年間(1532-55)に当主大胡重行が南関東に移り、北条氏の家臣となった。1555年重行の子の勝行は、姓を牛込氏と改め、赤坂・桜田・日比谷付近も含め領有したが、1590年北条氏滅亡後は徳川家康に従い、牛込城は取壊された。
(以上、東京都新宿区教育委員会案内板より)

【光照寺南側、牛込城址】
神楽坂を上り、地蔵坂を登り切った光照寺は、かなりの高台にあります。牛込城があった頃は、日比谷の入り江が見えたものと思われます。

【出羽国松山藩主酒井家墓地】
松山藩は徳川の譜代大名であり、庄内藩初代藩主酒井忠勝の三男忠恒が分家として1647年2万石で創設された。明治の廃藩置県までに8代をかぞえる。このうち三代藩主忠休は1749年より26年間幕府の若年寄の要職を勤めた功により1779年上野国に5000石が加増され築城も許された。忠恒以下代々の藩主及び妻子の墓があるが一族の内江戸で死去したものは光照寺に、国元で死去したものは酒田市松山心光寺に葬られた。
8代以降数代はカトリックに改宗したため墓所は谷中にある。
(新宿区教育委員会)

【放置された墓石群】
結局、松山藩主酒井家墓地には43基の墓石がある。時折、新宿区歴史博物館の職員が調査しているだけで、お参りも、管理もされていないということであった。この辺の事情については、ずいぶん古いブログではあるが「神楽坂をめぐる まち・ひと・出来事」に詳しい。寛永寺や増上寺では、将軍家の墓地の改葬がかなりすすんでいる。改葬の仕方に疑問はあるのだが、私が資金を出す訳でもないので、ただ眺めているだけではある。200年も経過すれば、墓地といえども、史蹟となる、新宿区の力で現状保存できたらと思う。新しい墓地に変身だけは避けたいと思う。

【大田南畝(蜀山人)生誕の地】
ここ、新宿区中町は天明期の文人・大田南畝の生誕地として知られているが、新宿区の案内板は設置されていない。だが、生誕地とみられる周辺の肉まん屋さんの塀に「大田南畝の解説」張ってある。

【大田南畝解説の一部】
近づいてみると、大田南畝の住居の変遷や牛込御徒町の解説であった。

【大田南畝(蜀山人)像、鳥文斎栄之筆 1814年】
(東京国立博物館蔵)
大田南畝は、1749年江戸牛込中御徒町に生まれた。
勘定所勤務として支配勘定にまで上り詰めた幕府官僚であった一方で、文筆方面でも高い名声を持った。膨大な量の随筆を残す傍ら、狂歌、洒落本、漢詩文、狂詩、などをよくした。特に狂歌で知られ、唐衣橘洲・朱楽菅江と共に狂歌三大家と言われる。南畝を中心にした狂歌師グループは、山手連(四方側)と称された。
1823年死去。
大田南畝の代表的狂歌
  • 一めんの花は基盤の上野山 黒門前にかかるしら雲
    (上野の黒門跡に、蜀山人自筆と言われる石碑あり)
  • 恐れ入谷の鬼子母神、どうで有馬の水天宮、志やれの内のお祖師様(未確認)
  • 月をめづる夜のつもりてや茶屋のかかも ついに高田のばばとなるらん(未確認)
【江戸期からの町名が残る地域】
大田南畝が生まれここは、江戸期は牛込仲御徒町といった。父親が御徒(歩兵)として幕府に勤務していたからである。明治になって、中町になった。この周辺は、幕府の役人が居住していたところであり、区画・道路・町名も江戸期のものがそのまま残っているケースがある。
  • 細工町
    御細工方同心の組屋敷があったことで起きた俗称による。細工方は馬具・武具・諸道具などの細かい細工をする木工・金工・革細工などの幕府の職人。
  • 納戸町
    納戸役同心の組屋敷があったことによる。御納戸役とは将軍の金銀・衣服・調度の出納、大名・旗本からの献上品、諸役人への下賜の金品の管理を司る役職。
  • 払方町
    御納戸役払方同心の組屋敷があったことによる。払方とは将軍の金品の出納管理を司る御納戸役の内、下賜金・下賜品を扱う役職。
  • 箪笥町
    当時武器を「箪笥」と総称した。「箪」は丸い箱(円筒)、「笥」は四角い箱。現代でいうタンスは「衣装箪笥」の略。御箪笥方は、武器の製造・整備・保管・修理が職務。牛込御箪笥町の場合、具足と弓矢鑓を担当する同心町で、具足は甲冑の製造、弓矢鑓は弓と矢と槍の製造が職務
※江戸期には牛込細工町のように頭に「牛込」があった。
※矢来町は、明治になって起立した。
[矢来は竹矢来のことで竹棒を斜めに交差させて作る柵である。1628年酒井忠勝が下屋敷を頂戴したとき敷地の周囲に土手を築き表門から東に83m、西に500mをとりあえず竹矢来とした。1639年の火災のとき将軍家光が避難し、そのとき竹矢来周りを終夜御家人が厳重警戒した。爾来酒井家では、このことを永久に記念して築地塀に改めなかったので、屋敷前(早稲田通り)の一帯を俗称矢来下といった。]
(以上、町名由来はすむいえ情報館ウエブサイトより)


矢来町

【江戸切絵図、矢来町周辺】
[江戸切絵図 市ヶ谷牛込絵図 国会図書館蔵]
光照寺を後にして、坂道を下り、大久保通りに出る(大江戸線牛込神楽坂駅)。

【台地に上る坂袖摺坂】
大久保通りから正面の台地に上るには、急階段の袖摺坂を上るか、穏やかな五味坂を上る。台地を上り、大信寺を左折すると、横寺町・矢来町に出られる。
【南蔵院】
南蔵院は、牛込城主の牛込勝重が正胤法印(寛永7年1630年寂)に請い、吉祥山福正院と称して、早稲田に創建、弁財天二体を上宮・下宮として祀っていたといいます。御用地となったため、延宝9年(1681)上宮と共に当地へ移転、天谷山竜福寺南蔵院と改号しました。もう一体の下宮は弁天町の宗参寺に祀られ、弁天町の起源となったといいます。(猫のあしあと・御府内寺社備考より)
【南蔵院と弁天坂】
弁天坂名は,坂下の南蔵院境内に弁天堂があったことに由来する。明治後期の「新撰東京名所図会」には,南蔵院門前に あまざけやおでんを売る屋台が立ち,人通りも多い様子が描かれている。 (東京都)


【尾崎紅葉旧居跡】
尾崎紅葉(1867〜1903)が1891年から1903年に死去するまでの12年間居住し、代表作の「金色夜叉」など多くの作品を執筆した所である。紅葉は鳥居家の母屋を借り、「十千万堂」と称した。2階の8畳と6畳を書斎と応接間にし、1階には泉鏡花などが起居したこともあり、近代作家が育った重要な場所である。
当時の家は戦災で焼失してしまったが、鳥居家には今も紅葉が襖の下張りにした俳句の遺筆が2枚保存されている。
(東京都新宿区教育委員会)

【浅田宗伯旧居跡、あさひ児童遊園】
浅田宗伯(1815〜1894)は信濃筑摩郡出身。中村仲・中西深斎に医を、猪飼敬所・頼山陽に文を学んだ。江戸で名医・名儒と交わり、臨床医として名声を博した。1855年幕府のお目見得医師となり、1858年家茂に謁して徴士となり、1866年天璋院はじめ大奥の医師となり、法眼に叙せられた。医師としての宗伯は、フランス公使レオン・ロッシュや嘉仁親王(大正天皇)の難病を治し救ったことで知られている。
浅田飴より販売されている「浅田飴」のルーツとなる処方を考案した人物である。
(ツムラ、および、浅田飴ウエブサイトより)


【牛込中央通り】
尾崎紅葉旧居→浅田宗伯旧居と進むと、牛込中央通りに出る。この通りは小浜藩酒井家下屋敷跡を横断するように、維新後に作られた。小浜藩酒井家下屋敷跡は広大で、そのほぼ全てが矢来町となっている。

【明治初期の酒井邸と酒井家累代墓】
[五千分の一東京図測量原図 1883 配信:農研機構]
幕末、小浜藩酒井家の上屋敷は神田昌平橋のところにあり、牛込には下屋敷があった。明治初期の地図を見ると、酒井氏は下屋敷地跡に居住したと思われる。酒井家累代墓は1924年に小浜市空印寺に移されて、跡地は小学校になり、また、酒井邸跡地は矢来町ハイツになった。

【酒井邸跡、矢来町ハイツ】
矢来町ハイツは、立ち入リ禁止なので、酒井家下屋敷跡、その後の酒井邸跡痕跡は調べようもない。

【酒井邸跡、矢来町ハイツ、造庭記念碑】
しかし、入り口左の照明ポールの脇に何やら記念碑らしき物があります。ウエブで調べると、この石碑は、酒井邸の造庭記念碑だという。書かれている内容は、全部漢字で判読不能。

【矢来公園】
ここには、[小浜藩邸跡、杉田玄白生誕地]と書かれた石柱がある。
小浜藩主の酒井忠勝が、1628年徳川家光からこの地を拝領して下屋敷としたもので、屋敷の周囲に竹矢来をめぐらせたことから、矢来町の名が付けられました。
屋敷内には、小堀遠州作になる庭園があり、蘭学者として著名な杉田玄白先生もこの屋敷内で生まれました。
(碑文より)

【矢来下】
切り絵図では、早稲田通りのこの辺を「矢来下」と書いてある。


天神町〜榎町〜弁天町へ

【江戸切絵図、天神町−榎町−弁天町】
[江戸切絵図 市ヶ谷牛込絵図 国会図書館蔵]
早稲田通りを西方向へ歩くと、天神町−榎町−弁天町となる。
【天神町、榎町、弁天町、町名由来】
  • 天神町
    大友義延は敷地内に大宰府天満宮を勧請し、信仰を偽って神を擬し隠れキリシタンの巣窟のようになっていた。義延は1612年に死去し、その子義親も1619年に死亡したので大友家は断絶した。その後大橋隆慶の屋敷となったが隆慶もまたキリシタンではなかったかと疑われている。キリスト教のゼウスは天の神で天神に通じるところから天神信仰に隠れたキリシタンは多い。その天神社は高田穴八幡下に移り、真定院に移り、現在は甘泉園の水稲荷神社に合祀されている。現在ある北野神社は後の勧請で町名とは関係がない。
  • 榎町
    十抱えもある榎の老樹があったことによる。
  • 弁天町
    町名は牛込勝行が父大胡重行のために建立した宗参寺の近くの、勝行の子勝重が建てた南蔵院の弁天堂にちなむ俗称。1681年南蔵院は箪笥町に移りお堂だけが路傍に立っている。
(以上、町名由来はすむいえ情報館ウエブサイトより)

【済松寺、臨済宗妙心寺派 表門】
徳川家光が、祖心尼のために建てた臨済宗の禅院。開基は祖心尼、開山は京都妙心寺塔頭の雑華院水南和尚。家光は臨済から「済」を徳川の松下から「松」をとり「済松寺」と命名した。
済松寺は、境内地を一般公開していない。境内地を見学・お参りするには事前に電話予約が必要である。当散歩会も、電話予約して見学・お参りさせていただいたが、受付で人数分の立派なパンフレットを配布していただいた。感謝!!

【1828年頃の済松寺の境内】
[済松寺のパンフレットより転載、済松寺所蔵の『寺社書上』を元に作図 とある]
現状と比較すると、西側では墓所と普光園・金明池が外苑東通り開通で少し削られたが、金明池の半分くらいは、駐車場として残った。東側の塔頭・芳心院は大日本印刷榎町工場になっていた。
南北も少しずつ切られコンパクトにはなっているが、それにしても、広大な境内地は残ったという感じ。

【済松寺、鳳凰池】
緑がいっぱいのお庭です、池の水は循環式のようです。きれいに管理された都心の公園とは違った、安心できる静けさがあります。

【済松寺、裏門】
外苑東通りに面したところにある。
[徳川家光公創建 臨済宗済松禅寺]との石柱がある。

【開山・開基の墓、済松寺】
[左]開山・水南和尚の墓、[右]開基・祖心尼の墓

※江戸時代、大奥の老女は老中並みの権威と権力があったらしい。麟祥院の春日局、済松寺の祖心尼ばかりではない、所領の名称が町名として残っている例もいくつかある。※
文京区音羽町→音羽、渋谷区初台町→初台
千代田区神田松枝町(旧町名)→松ヶ枝、
文京区青柳町(旧町名)→青柳、文京区桜木町(旧町名)→桜木
[祖心尼、おあな 略歴(済松寺ウエブサイトより抜粋)]
1588年、伊勢国・岩手城主 牧村利貞の娘として生まれる、俗名「おなあ」。
1593年、秀吉による朝鮮出兵に出陣したおなあの父戦死。
1604〜08年、おなあ結婚、三人の男児の母となるが離縁、京都・妙心寺・雑華院へ身を寄せる、会津藩・蒲生家の重臣・町野幸和と再婚
1627年、会津藩主・蒲生忠郷、死去:蒲生家断絶、夫・町野幸和、浪人となる
1628年、おなあ一家、江戸へ移住
1637年、家光に初めての子千代姫誕生(母親のフリは、おなあの孫)
1642年、おなあ、大奥に入り春日局(おなあの叔母)の補佐役に就任
1643年、おなあ剃髪「祖心尼」となる/春日局(65歳)死去
1646年、家光より済松寺建立のために土地を贈られる
1647年、夫・町野幸和(74歳)死去
1648年、済松寺の絵図面完成
1651年、家光死去(48歳) 祖心尼、大奥を辞す
1652年、済松寺で家光の一周忌法要
1657年、明暦の大火
1663年、済松寺開山
1675年3月、祖心尼死去(88歳)


※祖心尼さん、知性や徳性に優れていたばかりではなく、毛並みも良かった。春日局の姪であり、孫が家光の側室であり、その子が家綱・綱吉の異母姉とは...

【徳川家光側室墓、済松寺】

【和泉岸和田藩藩主墓、済松寺】
[奥]第6代藩主、岡部長住(1740-1809)の墓
[手前]第8代藩主、岡部長備(1763-1803)の墓
いずれも西向き

【和泉岸和田藩藩主墓、済松寺】
第9代藩主、岡部長慎(1787-1859)の墓
こちらは、通路を隔てて、反対側に東向き

【1883年頃の弁天町周辺】
[五千分の一東京図測量原図 1883 配信:農研機構]
[1828年頃の済松寺の境内]と比較すると、青丸で示したスペースが金明池と見られる。

【弁財天社、(現)宗参寺】
箪笥町の弁天坂でご紹介したように、この辺に創建された南蔵院(この地では福正院)には、二体の弁財天があったという。一体はお寺とともに箪笥町に移転したが、もう一体はこの地に残され、宗参寺管理となったようだ。この地の周辺を弁天町というのは、この弁財天に由来している。弁財天が二体ということで印象が深かったためと思われる。

【弁財天社、(現)宗参寺】

【弁天町を貫く水路跡】
この水路、[江戸切絵図 小日向絵図]を見ると、済松寺外壁に沿って流れる[加ニ川]であることが推定できる。[五千分の一東京図測量原図 1883]を見ると、牛込柳町から外苑東通りに沿って北上する水路があり、これが[加ニ川]と思われる。

【弁天町を貫く水路跡】
[加ニ川]は牛込柳町付近を水源とする小川であり、この弁財天を回るように北上し、神田川に流れ込んでいたのだろう。現状を見ると、[加ニ川]は台地と台地の間の谷間を流れたことになっているが、かつては水量も多く、台地を削り谷を形成した物と思われる。
現在は、弁財天を半周するように水路跡があるのだが、弁財天が島であった可能性も考えられる(何の証拠もないが...)。

【漱石公園、現在工事中】
[加ニ川]に沿って、北上し宗参寺に向かうのだが、その途中、左に曲がると「漱石公園」がある。
夏目漱石が1907年から、死去する1916年までを過ごし、その家は「漱石山房」と呼ばれ多くの弟子達が集まっていた。「三四郎」「それから」「門」等の代表作を生み出した記念すべき住居跡。

【弁天町を貫く水路跡】
[加ニ川]はさらに北へ流れ、宗参寺参道、現早稲田通りを横切って、外苑東通りへ向かう。そこからは、[五千分の一東京図測量原図 1883 に水色で強調したように]旧済松寺庭園の中を流れ、都立山吹高校を横断して、神田川へ向かう。
【宗参寺の開基牛込氏】
牛込氏は室町時代中期以来江戸牛込の地に居住した豪族で、宗参寺の開基である。出自については「牛込氏系図」に藤原秀郷の後裔で上州大胡の住人であったとしているが定かではない。しかし「江戸氏牛込氏文書」(東京都指定有形文化財)によると1526年にはすでに牛込に定住していたことが確認されている。小田原北条氏に属し、はじめ大胡とも牛込とも名乗っていたが1555年には北条氏から宮内少輔の官位を与えられるとともに、本名を牛込とすることを認められた。領地として牛込郷・比々谷郷などを有していたが、1590年の北条氏滅亡後は徳川家に仕えた。
(東京都教育委員会案内板より)


【牛込氏の墓域、宗参寺】
左から、牛込氏累代の墓、大胡家の墓、牛込氏の墓と並ぶ。
比較的広い墓域に、戦国時代から牛込氏累代の墓が荒れることもなく存在しているのも驚きなら、出身母体である大胡家の真新しい墓石の存在も珍しい。大胡氏−牛込氏、現在でも、相当親密な親戚つきあいがあるのだろうか?

【牛込氏の墓、宗参寺】
参秀院殿前牛込太守従五位下外心清雲庵主1587年没:牛込勝行
雲居院殿前大胡太守實翁宗参大庵主1543年没:大胡重行
とある。雲居山宗参寺は牛込勝行が父大胡重行の菩提を弔うため創建、寺号は戒名からとられたとわかる。
また、この墓は、牛込勝行と大胡重行を供養するために、牛込勝正が1664年に建てた供養塔であることもわかっている。
(年号は西暦に変換済み)
[台座碑:墓碑復元記より
この墓は、1664年に再建されたが、戦災(1945年)で倒壊、都の補助金を得て復元再建した(1978年)。

【山鹿素行の墓、宗参寺】
月海院殿瑚光浄珊居士墓と刻まれている。
【山鹿素行の墓、宗参寺】
1622年陸奥国会津に生まれる。江戸に出て林羅山に朱子学を学び、和歌や歌学、神道なども広く修める。また小幡景憲から甲州流兵学を学び、のち山鹿流軍学を創始。1652年に赤穂藩の招きを受けて軍学を教授し、1660年赤穂藩を致仕して、江戸に出て教育と学問に専念した。やがて朱子学が観念論的過ぎると批判し、古代聖賢の道に帰れと主張。そのため幕府の忌避にふれ、1666年かつての任地赤穂に流された。1675年ゆるされて江戸に戻り、私塾積徳堂を開き兵学や儒学を教授した。著書に「聖教要録」「中朝事実」「武教要録」「山鹿語類」「山鹿素行集」など。1685年64歳にて没。
[山鹿素行と祖心尼]
山家素行の父・貞以は、祖心尼(おなあ)の夫で会津藩蒲生家の重臣・町野幸和に仕えていました。しかし、世継ぎのないまま当主が死去した蒲生家は、お家取り潰しとなってしまいます。それにより、浪人となった夫とともに祖心尼(おなあ)は江戸へ移住しました。その際、当時6歳であった山鹿素行とその一家も食客として祖心尼とともに暮らしました。やがて、山鹿素行は林羅山のもとで学び始めますが、それは江戸城へ仕える祖心尼(おなあ)の手引きであったといわれています。
(以上、済松寺ウエブサイトより)


戸塚町〜西早稲田

【江戸切絵図、馬場下町周辺】
[江戸切絵図 大久保絵図 国会図書館蔵]
  • 宗参寺を後にして、外苑東通りを北上、早大通りを横断してから二つ目の路地を左に曲がると「元赤城神社」「神崎の牛牧」。
  • 早稲田鶴巻町−戸塚町と向かい、早稲田大学大隈庭園に入る。
  • 早稲田大学構内を横断し、第3西門・富塚跡へ向かう
  • 第3西門を出て、高田馬場−穴八幡へ向かう
  • その後、夏目坂・夏目漱石生誕の地を見て終了
【元赤城神社】
大胡氏が赤城山麓から牛込地区に移住し、故郷の赤城明神を祀ったという。
【神崎の牛牧】
文武天皇(701〜704)の時代、現在の東京都心には国営の牧場が何か所もありました。
大宝元年(701)、大宝律令で全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧)が39ヶ所と、皇室の牛馬を潤沢にするため天皇の意思により32ヶ所の牧場(勅旨牧)が設置されましたが、ここ元赤城神社一帯にも官牧の牛牧が設けられました。このような事から、早稲田から戸山にかけた一帯は、牛の放牧場でしたので、「牛が多く集まる」と言う意味の牛込と呼ばれるようになりました。
(JA東京グループ 農業協同組合法施行50周年記念事業案内板より)

【1883年頃の早稲田大学周辺】
[五千分の一東京図測量原図 1883 配信:農研機構]
※東京図測量原図にある蟹川の流れを、水色でトレース。赤線は現在(2017年)の街区。※
☆蟹川の流れと早稲田田圃☆
  • 戸山が原(尾張徳川家下屋敷)を通過してくる「蟹川」の流れが、穴八幡の下(現早稲田大学文学部)を通って、大隈庭園に当たり、東へ向きを変え、神田川へと向かう。
  • もちろん、この頃は、早大通りもなく、田圃の中を小川が流れていたというイメージ。
  • 早稲田大学の前身、東京専門学校(1882年創設)も猫の額ほどの規模から出発したことがよくわかります。
  • 蟹川の痕跡を、今求めるとすれば、左図[水色の丸の部分]と思われます。東京専門学校へ向かう[田圃の中の一本道]と[蟹川]が交差するあたり、現在の街区の不自然さが説明できます。
  • やがて早稲田大学の拡張が始まり、水神社と高田富士は移転を余儀なくされます。

【東京専門学校当時の早稲田大学】
[1890年頃の東京専門学校全景と早稲田田圃
早稲田 1909刊 国会図書館蔵]
撮影場所が不明だが、蟹川の流れが写っていないのが不思議、

【早稲田鶴巻町西交差点】
正面は早稲田大学、早稲田田圃の痕跡も見られない。
【大隈庭園】
大隈庭園は、井伊掃部頭、松平讃岐守の下屋敷にあった和様四条家風の名園を早稲田大学の創設者大隈重信が文人風に改造したもので、没後、邸宅とともに大学に寄付された。(大学案内板より)

この庭園は、江戸時代から存在したようだ。
済松寺の金明池が[加ニ川]から取水したように、この庭園も[蟹川]から取水したのだろう。[加ニ川]も[蟹川]も結局は、神田川に流れ込んでいたというのが自然だろう。しかしながら、[加ニ川]も[蟹川]も庭園までの水路は、古地図から明瞭だが、庭園から先は幾通りかの可能性が考えられる。


【富塚跡:[戸塚]地名由来、早稲田大学構内】
このあたりは、1966年に甘泉園内に移転するまで水稲荷神社の敷地であった。神社の境内には、富塚という古墳(円墳?)があった。戸塚の地名の起源は、この付近に塚(古墳)が多く「十塚」・「百八塚」などと呼ばれたからとか、其のうちの一つである富塚に因んだ、とかいわれている。
水稲荷神社移転時に崩され、整地されたが、地名の由来を物語る史跡として貴重である。(東京都新宿区教育委員会)

【高田富士山、跡地は早稲田大学9号館】
絵本江戸土産 歌川広重画 国会図書館蔵
右側にあるのが「高田富士山」、左側が「水稲荷神社」、両方とも富塚(前方後円墳?)の上に築かれていたが甘泉園の地に移され、跡地には早稲田大学9号館がある。

※江戸で最初に作られたといわれている高田富士:高田藤四郎という庭師が、富士山頂付近の土や岩を運び、10年ほどかけて築いた(1790年)。高田藤四郎は、富士講を世に広めた三重県一志郡出身の食行身禄(伊藤伊兵衛)の弟子で、熱烈な富士講信者であった。※

【現在の水稲荷神社、甘泉園隣】
旧称「冨塚稲荷」と命名されたが、1702年に霊水が湧き出し、現社名の「水稲荷神社」と改名された。眼病のほか水商売および消防の神様として有名である。(ウイキペディア)

【現在の富塚古墳、甘泉園隣】
古墳を移転したら古墳でなくなる。高田富士山もこの境内にあり。

【1883年頃の高田馬場と穴八幡宮周辺】
[五千分の一東京図測量原図 1883 配信:農研機構]

【高田馬場:八幡寿司】
西早稲田3丁目1・2・12・14番を含む長方形の土地が、江戸時代の高田馬場跡である。
(東京都新宿区教育委員会)

【八幡寿司のショーケースにある高田馬場の解説図】
赤丸が八幡寿司の位置。馬場の形が早稲田通りに沿ってよく残っている。このように、旧跡・高田馬場はJR高田馬場駅から約1kmの距離にある、しかし、ここの町名は「西早稲田」。ここの町名も高田馬場に直せないものか!!手っ取り早くは、JR高田馬場駅を別の名前に変えること、そうすれば、この辺りを「高田馬場」に直しやすくなると思うのですが...「馬場下町」という町名が穴八幡の下にあるのに...

【高田馬場:茶屋町通り】
享保年間(1716〜1753)には馬場の北側に松並木がつくられ、8軒の茶屋があったとされている。土地の農民が人出の多いところを見て、茶屋を開いたものと思われる。
また、馬場の一角、茶屋町通りに面したところは堀部安兵衛が叔父の菅野六郎左衛門の決闘の助太刀をしたとされるところ。
(東京都新宿区教育委員会)


【高田馬場、江戸名所図会 国会図書館蔵】
[高田馬場由来]
・江戸名所図会には、「慶長年間、越後少将忠輝卿の御母堂「高田の君(阿茶の局)」の別荘地であったところ(忠輝は1616年に失脚し、阿茶の局も1621年に病没している)、1636年に整備され弓馬調練の場所になった、ここを高田馬場と称した」との記述がある。
・「新編武蔵風土記稿」には、高田郷戸塚村との記述がある。
越後の「高田」由来か、昔からの「高田」由来か確定されていない。

【穴八幡、流鏑馬像】
1728年、徳川吉宗は世嗣の疱瘡平癒祈願のため流鏑馬を奉納した。流鏑馬はその後も世嗣誕生の際や厄除け祈願として奉納され、穴八幡宮に伝わる「流鏑馬絵巻」には1738年(元文3年)に奉納された竹千代(後の10代将軍徳川家治)誕生祝の流鏑馬が描かれている。(穴八幡案内板より抜粋)
江戸期の流鏑馬は、高田馬場で行われたが、明治維新以降は、たびたび中断した。現在では、都立戸山公園内に会場を移し、高田馬場流鏑馬保存会により公開されている。(東京都新宿区教育委員会抜粋)

【穴八幡、本殿】
江戸以前から、この社は「高田八幡」と呼ばれていた。
「1641年、宮守の庵を造るため、社僧良晶が南側の山裾を切り開いていると横穴が見つかり、中から金銅の御神像が現れた。掘った人は「芽出度い」と大喜びし、以来、「穴八幡宮」と称するようになった。3代将軍徳川家光は、この話を聞いて穴八幡宮を幕府の祈願所・城北の総鎮護とした。(以上、ウイキペディアより)」

【穴八幡、江戸名所図会 国会図書館蔵】
[穴八幡由来]
別当寺(法生寺)を造るため、山裾を切り開いたら横穴が見つかり(出現地)、中から「御神像」が現れたので『穴八幡宮』と称するようになったという。穴八幡境内地は、前方後円墳といわれており、その周囲には、関連墳墓が多くあったようだ。見つかった横穴はこれらの墳墓の一つ(前方後円墳を含む)を掘り当てた物と思われる。

【諏訪通りからの穴八幡】
左側が法生寺・出現堂、中央の鳥居は穴八幡西参道。

【夏目漱石生誕の地】
東京メトロ早稲田駅から夏目坂を上るとすぐ、「やよい軒」の入り口に記念碑がある。
漱石は1867年1月5日(新暦の2月9日)、この地に生まれました。現在の喜久井町1番地です。誕生の地から若松町の方へと上る坂を「夏目坂」と命名したのは、漱石の父・直克です。このことは、漱石自身が随筆「硝子戸の中」に書いています。江戸幕府が開かれる前から牛込の郷土として土着していた夏目氏は、元禄期以降、馬場下の名主を世襲していたため、町名を当家にゆかりのあるものとしました。(新宿観光協会ウエブサイト)



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