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歴史散歩:丸の内−和田倉門−八重洲−日本橋−人形町−蛎殻町を歩く
2018年10月30日(火) 錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、歴史散歩。
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国土地理院地図(新版-淡色)[ブラウザ:カシミール]に、主な地名・旧跡を書き加えた。 |
東京駅から和田倉門、八重洲へ | |
【江戸末期と現代の重ねあわせ図】 千代田区観光協会案内板に行程を書き入れた。 [デ・リーフデ号]→[八代州河岸]→[和田倉門]→[伝奏居屋敷跡]→[評定所跡]→[道三橋跡] |
【東京駅丸の内南口】 丸の内は大名屋敷の跡地に建設された。東京駅丸の内南口は三河西尾藩上屋敷の跡地である。本日は、ここを起点として、まず、デ・リーフデ号彫刻(丸ビル)へ向かう。 |
【東京中央郵便局、ゆうちょ銀行本店】 ここも、同じく三河西尾藩上屋敷の跡地である。 |
【デ・リーフデ号彫刻、丸ビル自転車置き場】 |
【デ・リーフデ号彫刻】 『本彫刻は昭和55年4月22日、オランダ王国ファン・アフト首相来日の際、同首相よりオランダ王国政府に代わり、日本国政府に対し寄贈されたものである。 本彫刻のモデルとなった蘭船デ・リーフデ号は、1600年4月19日豊後臼杵湾北岸佐志生(現在の大分県臼杵市)に漂着したが、同船の乗組員であったオランダ人ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステインは、時の将軍徳川家康に顧問として仕え、わが国ではその名も八重洲として知られ将軍よりこの地域に住居を与えられていた。』 (台座銘板より) この事件をきっかけとして、オランダは江戸期を通して西洋への唯一の窓口となった。 |
【リーフデ号航跡】 リーフデ号を含む5隻のオランダ船は、1598年6月、東洋を目指しロッテルダムを出港した。船団は南アメリカ南端を回って太平洋に入るコースをとったが、嵐やスペイン・ポルトガルの襲撃にあい、東洋にたどり着いたのはリーフデ号のみであった。 「ヤン・ヨーステン」に与えられた江戸の居住地は、和田倉門近くの内堀に臨んでいたので、この地域は、彼の名をとって「八代州河岸」とよばれた。「ヤン・ヨーステン」の存在は、かなり印象的だったのだろう、明治維新を迎えても、この地域に「八重洲町」が起立する(1872年)。しかし、1929年には、八重洲町は消滅し、丸の内になる。 |
→ 【馬場先濠と八重洲河岸】 現在では、中央区に八重洲町があり、中央区側の説明でも、「ヤン・ヨーステン」に因む名前だという。 八重洲町から丸の内に改名するときに、内堀に面した地域だけでも「八重洲町」を残しておけば、現在のような「恥ずかしい事態」は避けられた筈なのにと思う。 |
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【日比谷の入り江と一ノ倉】 慶長江戸図 東京都立図書館蔵 江戸初期、日比谷の入り江の埋め立てが進む中、入り江の最奥部に米倉が造られ、一ノ倉といった。日比谷の入り江は1603年までに埋め立てられているので、この図は1602年以前と考えられる。 |
【和田倉】 慶長年間江戸図考、国会図書館蔵 こちらの図では、[一ノ倉]から[和田倉]へ名称が変わった。和田は海の古語、和田倉とは海のそばの蔵という意味。江戸湊からの荷を道三堀の辰ノ口で荷揚げして和田倉で集積保管していた。 慶長年間は19年あるが、この間に、江戸幕府の体制は急速に整えられた事を示している。 |
【和田倉橋】 和田倉門・和田倉橋は1620年、伊達政宗によって建造され、1628年加藤忠広によって改築された。現在の橋は、木製風のコンクリート橋。 |
【和田倉門石垣】 高麗門は半蔵門へ移築され、渡櫓門は石垣のみが残る。 |
【和田倉跡、会津藩上屋敷跡、和田倉噴水公園】 和田倉遺跡の発掘調査により、自然堆積層上部が水面下となることを確認し、遺跡一帯が日比谷の入り江の一画であることが判明したという(江戸城跡和田倉遺跡・千代田区教育委員会発行より)。 江戸初期には和田倉(米蔵)が置かれたが、都市の拡大と共に浅草蔵前に移転していった。その後、幕末まで、会津藩上屋敷となった。 |
【和田倉濠から道三濠へ】 図は江戸切り絵図・内桜田之図 国会図書館蔵 江戸初期から江戸城への物資の輸送路として用いられてきた道三濠は1909年埋め立てられてしまった。しばらく、その痕跡を辿る。 |
【和田倉濠】 和田倉濠から日比谷通りを挟んで反対側には外濠に通じる道三濠があった。 【辰ノ口跡、道三濠跡、評定所跡、伝奏屋敷跡】→ 内濠の余水を道三濠に落としていたが、その落し口を竜ノ口と呼んだことから、その辺りを辰ノ口と称した。辰ノ口跡は現在再開発中。 正面に見える二つのビルは、辰ノ口・道三濠の南東側にあった伝奏屋敷・評定所の跡にあたる。 |
【辰ノ口跡、道三濠跡、評定所跡、伝奏屋敷跡】
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【道三橋跡】 ここに道三堀という堀があり、そこに架かっていた橋を道三橋といった。南東の端には幕府典薬寮の医官今大路玄朔延寿院道三法眼の屋敷があった。 西側には細川越中守の屋敷があり、越中守の幼名を彦次郎と称したので、越中守橋とか彦次郎橋とも呼ばれていたようです。 この堀橋には道三の外、本道、外科、針の医師も住んでいたといい、この道三が或日将軍の御召しに遅れ、御咎めがあった時、堀を廻ったので遅れた旨答えたところ、それならば橋を架けよということになって架けられたという話が伝えられています。 江戸初期の頃は堀に沿って材木屋等の町屋が多くできましたが、その後武家地となった。 |
呉服橋跡−北町奉行所跡−外堀跡−中橋跡 | |
【呉服橋跡、永代通り】 以前、ここには外堀があり、江戸城の外郭門の一つ呉服橋門、そして、門に付属する橋である呉服橋があった。呉服橋と呼ぶのは呉服町へ出る門に架かるためで、また寛永頃に後藤橋と呼んだのは門外に呉服師の後藤家の屋敷があったため。 (千代田区教育委員会) |
【北町奉行所跡、東京駅日本橋口】 江戸の町奉行は、江戸市中の行政・司法・警察など、幅広い分野を担当していた。南北2 か所に設置され、それぞれ何度か移転している。北町奉行所は1806年から幕末まで、呉服橋御門内にあり、東京駅日本橋口周辺に当たる |
【北町奉行所跡、東京駅日本橋口】 |
【江戸城外堀の石垣実物】 |
【八重洲地下街にあるヤン・ヨーステン記念像】 |
【ヤン・ヨーステン記念像】 |
【八重洲通り、八重洲中央口前交差点】 江戸初期には、紅葉川(東西方向)と外濠(南北方向)が交差する場所で、橋はなかった。明治になって、八重洲町に通じる橋という意味でこの場所に「八重洲橋」が造られた。その後、八重洲橋はつけられたり、撤去されたりしたが、「八重洲」という名称は一人歩きし始めた。その結果、この周辺には、「東京駅八重洲口」、「中央区八重洲町」、挙げ句の果ては「ヤン・ヨーステン記念像」まで、作られ、存在感を示している。 |
【日本橋3丁目交差点にあるヤンヨーステン記念像】 八重洲河岸とは遠く離れたところに置かれる「ヤンヨーステン記念像」。中央上の小さなマークに注目、[VOC]と書かれている。 ウイキペディアによれば、Vereenigde Oostindische Compagnieの略称で「連合東インド会社」の意味とのこと。 ※この記念像のある周辺は、江戸期には「中橋広小路」と呼ばれた。江戸前島の中心付近にあたる。 |
【寛永の頃の江戸前島】 武州豊嶋郡江戸庄図 1616年〜1632年頃の様子 国会図書館蔵 楓川と外堀に挟まれた地域は、神田山から伸び、海に突き出た江戸前島である。尾根には東海道・中山道が走り、江戸前島を横断するように9本の舟入堀が掘られた。そのほとんどが、外濠まで達し、江戸城建設のための巨石を伊豆から運搬する為であったという。江戸城完成に伴い役目を終えた舟入堀は埋め立てられ、町屋になっていった。 |
【幕末頃の江戸前島】 呉服橋御門外ヨリ鍛冶橋御門外日本橋京橋川筋限八丁堀箱崎霊岸島辺一円絵図1838年 国会図書館蔵 寛永の頃までには「通り町筋〜外濠」間の舟入堀は、埋め立てられ 元禄の頃までには「外濠〜楓川」間の舟入堀もほとんど埋め立てられた。紅葉川の半分だけは幕末まで残っていた。 ※紅葉川:江戸城西ノ丸の紅葉山方向に位置することから名付けられた。 ※中橋:日本橋と京橋の間にあるので「中橋」とよばれる |
←【中橋南地 江戸歌舞伎発祥の地】 中央区における演劇の歴史をたどると、江戸で最初の歌舞伎芝居興行地となった中橋の南地(現在の京橋一丁目1番・10番辺り)における1624年の猿若座(後に「中村座」と改称)興行が知られています。江戸歌舞伎の発祥とされるこの興行が端緒となり、後に見物客でにぎわう堺町・葺屋町(現在の人形町三丁目)や木挽町五丁目(現在の銀座六丁目)などの芝居町が江戸城下に形成されました。日本橋一丁目・日本橋二丁目・京橋二丁目の遺跡からは、江戸三座の木製入場券が出土している。 江戸三座(正徳4年〈1714〉の絵島生島事件で山村座が廃絶するまでは四座)とは、幕府から官許の大芝居(町奉行支配下にある常設の芝居小屋)として興行権を与えられた中村座(中橋南地、禰宜町、上堺町、下堺町〈後の堺町〉と移転)・市村座(上堺町〈後の葺屋町〉の村山座から改称)・森田座(木挽町五丁目)を指します。(中央区の文化財より) |
通り町筋を日本橋まで | |
【通り町筋を日本橋方向】 |
【於満稲荷神社】 於満とは、徳川家康の側室で養珠院(於万の方1580〜1653)のこと。徳川御三家紀州家の開祖となった徳川頼宣と、水戸家の開祖徳川頼房の生母。言い伝えでは、此の地に幕府のご休憩所があり、養珠院一行が日本橋界隈に物資調達に立寄り、商業に多大な貢献をした養珠院ゆかりの地として、商人達によって神社が建てられたとされている。 (於満稲荷神社縁起より) |
【江戸秤座跡】→ 秤座は、はかりの基準の統一のため、江戸幕府が設けた秤の製造、頒布、検定を行う事業所です。江戸と京都の二座があり、江戸は守随家が東国三十三ヵ国を受けもっていました。1653年より1875年、明治政府の「度量衡取締条例」が発せられるまで続きました。 江戸秤座の位置は、主に現在の中央区内で移転を繰り返していますが、1842年以降、この場所である箔屋町にありました。 |
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【名水白木屋の井戸】 江戸時代のはじめ、下町一帯の井戸は塩分を含み飲料に適する良水が得られず付近の住民は苦しんでいました。1711年、白木屋2代目当主の大村彦太郎安全は私財を投じて井戸掘りに着手しました。翌1712年、たまたま井戸の中から1体の観音像が出たのを機に、こんこんと清水がわ湧き出したと伝えられています。以来、付近の住民ならず諸大名の用水ともなって広く「白木名水」とうたわれてきました。本来は日本橋1丁目交差点角にありましたが、2004年ここに移設再現した。 |
【日本橋】 日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた1603年と伝えられている。幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていました。橋詰めには高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。現在の橋の中央にある日本国道路原標は、1972年に埋め込まれた物。(中央区教育委員会) |
【広重 日本橋 朝の景 国会図書館蔵】 日本橋と高札、大名行列が描かれている。また、魚やの姿から魚河岸が近いことをうかがわせる。(国会図書館蔵) |
【日本国道路原標】 |
【日本橋魚河岸跡】 日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする「魚河岸」がありました。ここで開かれた魚市は、江戸時代初期に佃島の漁師たちが将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売り出したことに始まります。この魚市は、日本橋川沿いの魚河岸を中心として、本船町・小田原町・安針町(現在の室町一丁目・本町一丁目一帯)の広い範囲で開かれ、大変なにぎわいをみせていました。 なかでも、日本橋川沿いの魚河岸は、近海諸地方から鮮魚を満載した船が数多く集まり、江戸っ子たちの威勢の良い取引が飛び交う魚市が立ち並んだ中心的な場所で、一日千両の取引があるともいわれ、江戸で最も活気のある場所でした。この魚河岸は、1923年の関東大震災後に現在の築地に移り、東京都中央卸売市場へと発展した。(中央区教育委員会) |
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【三浦按針屋敷跡】 「ウイリアム・アダムスは1564年イギリスのケント州に生まれ、1600年渡来、徳川家康に迎えられて江戸に入り、この地に屋敷を給せられた。造船・砲術・地理・数学等に業績をあげ、ついで家康・秀忠の外交特に通商の顧問となり、日英貿易等に貢献し、1620年4月24日平戸に没した。 日本名三浦按針は相模国三浦逸見に領地を有し、また、もと航海長であったことに由来し、この地も1926年まで按針町と呼ばれた。」 (以上、碑文のまま) ※ヤン・ヨーステンと共にオランダ船リーフデ号で漂着し、共に、徳川幕府の顧問として活躍した。 |
日本橋から人形町へ | |
右側の車道は[人形町通り]、赤い矢印の所に[堺町・葺屋町の芝居小屋跡]の案内板がある。画面左側一帯に、芝居小屋・茶屋などが密集していて、芝居小屋では、歌舞伎、人形浄瑠璃などが演じられていた。この周辺には人形を制作するする人、修理する人、操る人が住んでいたことから「人形町」と呼ばれるようになった。 |
【葺屋町芝居町跡(日本橋人形町3-2-7)】 江戸の芝居小屋は、1624年に山城国の狂言師で京で猿若舞を創始した猿若勘三郎が、中橋南地に櫓をあげたのにはじまる。これが猿若座である。ところがこの地が御城に近く、櫓で打つ人寄せ太鼓が旗本の登城を知らせる太鼓と紛らわしいということで、1632年には北東に八町ほど離れた禰宜町(ねぎまち、現在の日本橋堀留町2丁目)へ移転、さらに1651年にはそこからほど近い堺町(さかいちょう、現在の日本橋人形町3丁目)へ移転した。その際、座の名称を座元の本姓である中村に合せて中村座と改称している。一方、1634年には泉州堺の人で、京で座元をしていた村山又兵衛という者の弟・村山又三郎が江戸に出て、葺屋町(ふきやちょう、現在の日本橋人形町3丁目)に櫓をあげてこれを村山座といった。しかし村山座の経営ははかばかしくなく、1652年には上州の人・市村宇左衛門がその興行権を買い取って、これを市村座とした。 堺町の中村座と葺屋町の市村座は同じ通りに面した目と鼻の先に建っていた。また界隈にはこのほかにも小芝居の玉川座、古浄瑠璃の薩摩座、人形劇の結城座などが軒を連ねていたので、この一帯には芝居茶屋をはじめ、役者や芝居関係者の住居などがひしめき、一大芝居町を形成した。 (wikipedia・江戸三座より)] |
【玄冶店跡】 徳川家の御典医であった岡本玄冶(1587〜1645年)の拝領屋敷跡一帯を指した。玄冶は3代将軍家光が痘瘡を病んだ際に全快させて名を高め、幕府から拝領した土地に借家を建てて庶民に貸したことから一帯が「玄冶店」と呼ばれた。(ウイキ)】 |
【橘稲荷神社】 橘稲荷神社の創建年代は不詳ですが、当初御殿山にあったものが江戸城内へ移り、さらに将軍家御典医岡本玄冶に下賜されて、岡本玄冶の邸があった当地へ移されたといい、岡本玄冶の元姓が橘に因んで、橘稲荷と称されていたといいます。 |
国立劇場歌舞伎情報サイトより (左から)与三郎 蝙蝠安 お富 [「玄冶店」と「歌舞伎」与話情浮名横節(お富と与三郎)] 源氏店(玄冶店)妾宅の場の与三郎の「しがねえ恋が情けの仇」から始まるせりふは、名ぜりふとして有名です。 |
人形町から蛎殻町、中洲へ | |
【蛎殻銀座跡】 銀座とは江戸時代の銀貨の製造工場である銀座会所と、通用銀貨の検査や銀地金の購入などを扱う銀座役所を総称した組織。そしてその経営は幕府の直営ではなく、御用達町人に委託された。 江戸の銀座は1612年に今の銀座2丁目の場所に置かれ、その188年後の1800年6月に、寛政改革(1787〜1793)の一つである銀座制度の大改正のため一旦廃止された。その年の11月、改めてこの人形町の場所に幕府直営の度合いを強めた銀座が再発足した。当時この付近の地名が蛎殻町だったため、この銀座は人々から『蛎殻銀座』と呼ばれ、1869年に新政府の造幣局が設置されるまでの69年間存続した。(中央区教育委員会案内板より) |
【水天宮通り】 |
[水天宮の由来] 安徳天皇の母である高倉平中宮に使えていた女官、按察使局(あぜちのつぼね)伊勢は寿永4年(1185)、3月24日壇ノ浦の戦いの後、千歳川(現筑後川)の辺り鷺野ヶ原(さぎのがはら)に遁れて来て、建久初年(1190)初めて水天宮を祀った。 ・天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ) ・安徳天皇 ・高倉平中宮 ・二位の尼 伊勢は後に剃髪して名を千代と改める、当初、水天宮は尼御前神社と呼ばれていた。千代女の子孫は、現在に至るまで代々宮司職をつとめている。 →→右へ |
→→左より 1650年、久留米藩2代藩主有馬忠頼公より社地、社殿の寄進をうけ、この地(福岡県久留米市瀬下町265-1)に遷し奉られる。(水天宮本宮ウエブサイトより) [有馬家が江戸に水天宮を分霊] 敬神の念は代々の当主に受け継がれ、参勤交代の折に江戸で水天宮を親しくお参りできるように第9代藩主有馬頼徳公は、1818年、芝赤羽根橋の上屋敷内へ国元久留米より御分霊を勧請致しました。 久留米藩有馬家上屋敷内に祀られていた水天宮は、人々の信仰が篤く、塀越しにお賽銭を投げる人が後を絶たちませんでした。時の藩主は毎月5日に限り、お屋敷の門を開き、人々のお参りを許しました。そのことから有馬家と「情け深い」ことを掛けて、「なさけありまの水天宮」という洒落が江戸っ子たちの流行語となりました。 (水天宮 日本橋ウエブサイトより) [江戸から東京へ、水天宮も芝から日本橋へ] 明治4年(1871年)、有馬家屋敷が移転することになり、それとともに赤坂に遷座したが、翌明治5年(1872年)、有馬家中屋敷(近隣の有馬小学校に名前と痕跡が残る)のあった現在の日本橋蛎殻町二丁目に移転した。 ※有馬家の会計記録には「水天宮金」という賽銭や奉納物、お札などの販売物の売上項目があり、その金額は安政年間の記録で年間2000両に上り、財政難であえぐ久留米藩にとって貴重な副収入だった。 ※有馬家との縁は続いており、2016年現在の宮司有馬頼央は、有馬家の当主である。 (ウイキペディアより) |
【箱崎シティエアターミナル】 箱崎川は埋め立てられ高速道路スペースとなり、箱崎シティエアターミナルが出来た。 |
【有馬小学校と蛎殻町公園】 箱崎シティエアターミナルの北側に松平三河守(津山藩主)の下屋敷があった。現在は、蛎殻町公園と有馬小学校がある。 1989年中央区は、江戸情緒のある築地塀と門構えを造って、歴史的環境を整備した。 |
【中央区立有馬小学校】 有馬小学校は1873年に旧久留米藩主の有馬頼咸(よりしげ)の寄付を元に開設され、翌年に公立有馬小学校として開校している。 ※大名家の名前をつけた二つの公立小学校 1.有馬小学校:旧久留米藩主有馬頼咸の寄付 2.黒田小学校:旧福岡藩主黒田長知の寄付(永井荷風、水谷八重子、黒澤明など) ※有馬頼咸の孫に有馬頼寧(よりやす)という人がいる。 競馬の有馬記念(1957年〜改称)は中央競馬会理事長だった彼の功績を称えての名称だ。 |
【蛎殻町一丁目遺跡から出土した大名庭園の景石、蛎殻町公園】
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【日本橋北内神田両国浜町明細絵図 東京国立博物館蔵】 絵図赤丸は[ミツマタ][中洲]と書かれている。 [中洲]は文字通り中洲、[ミツマタ]は川の流れが3つに分かれている意。 [中洲]は1771年〜1775年にかけて埋め立てられ、歓楽街になったが、1789年寛政の改革で取り壊され湿地帯に戻った。 1886年再び埋め立てられて、真砂座ができ、繁栄を取り戻すかに見えたが間もなく廃れた。 |
【大橋 中洲之図 江戸勝景 広重 国会図書館蔵】 幕末、中洲は葦の繁る瀬であった、左側の大名屋敷は堀田備中守の上屋敷である。 |
【真砂座跡】 1906年に30日間、真砂座にて夏目漱石の吾輩ハ猫デアルが上演されたことを記念して、2003年に早稲田大学総長(奥島孝康)が碑文を書いた。 |
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