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歴史散歩:四谷から新宿追分、その周辺を歩く
2016年5月9日(月) 錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、東京歴史散歩。
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四谷見附跡〜武家屋敷〜寺町へ | |
【千駄ヶ谷・鮫ヶ橋・四谷絵図 1850年】国会図書館蔵 武家屋敷と寺町 |
【@JR四ッ谷駅、麹町側から】 JR四ッ谷駅は四谷見附跡に建っている。撮影位置は四谷見附内、左に渡櫓門があり、JR四ッ谷駅右側に高麗門があった。江戸期から甲州街道はJR四ッ谷駅右側を通っていたが、大正に入ってからJR四ッ谷駅左側(直線)に付け替えられた。 |
【@四谷見附門跡と新四谷見附橋、四谷側から】 門の石垣の左部分のみ残る、高麗門は既になく(1872年撤去)、右の石垣のあった場所はJR四ッ谷駅となっている。 1913年、東京市は交通上不便なので外堀に架橋(四谷見附橋)して、甲州街道を麹町の通りへ直通させる工事を行った。 元々、この位置にあった[四谷見附門橋]は、1925年鋼製の橋に架け替えられ[新四谷見附橋]となり今日に至る。 |
【@四谷見附門写真】「旧江戸城写真帖1871年」 東京国立博物館蔵 「四谷見附は、外麹町口、四谷口門、山手御門などとも呼ばれ、江戸時代には半蔵門を起点とする甲州道中にあり、江戸城の西の玄関口として江戸城防御のための城門でした。1636年に長州萩藩主毛利秀就によって城門石垣が作られ、1639年に門が建築されました。」(千代田区説明板より) ※麹町という地名は国府路に由来するとも言われる。国府路とは武蔵国の国府(現府中市)に通じる路を意味する。このが後の甲州街道の原型である。(千代田区案内板より) |
【A四谷見附公園から迎賓館を望む】 目の前にある迎賓館の敷地は、大半が紀伊藩の江戸屋敷地であった。徳川御三家の屋敷が江戸城御曲輪(江戸城外堀の内側の総称)内から外に出たのは、1657年明暦の大火を経験した江戸幕府が防火防災を重視して江戸の大改造を行ったときである。 (公園内にある説明板より抜粋) |
【学習院初等科前交差点】 左が迎賓館、右が学習院初等科、間にある坂が鮫ヶ橋坂 鮫ヶ橋坂を下った左側が東宮御所ですから、「愛子内親王」が通った学習院初等科はすぐ側なんですね。 |
【B二葉亭四迷旧居跡】 小説家二葉亭四迷(1864〜1909)は、本名を長谷川辰之助といい、尾張藩士の子として市谷本村町の尾張徳川家上屋敷(現防衛省)に生まれた。少年期にロシア文学の影響を受け、坪内逍遙の指導で創作を始め、明治20年に言文一致体の文章による『浮雲』を発表し、近代写実小説の先駆けとなった。区指定史跡の旧居跡は、東京外語学校在学時に住んでいた父方の実家水野家の跡。 (新宿区ウエブサイト、新宿ゆかりの人物より) |
【旗本屋敷跡の路地】 「二葉亭四迷旧居跡」から「西念寺」へ向かう路地、切り絵図どおり、江戸期の路地が残っています。 |
【C旗本屋敷の路地を抜けると西念寺】 |
【C専称山西念寺】 |
【C服部半蔵と西念寺】 服部半蔵は、徳川家康の旧臣で、槍の名手として、また、伊賀者の指導者として知られている。 主君家康の長男信康が切腹のおり、半蔵は介錯を命ぜられたが、ついに果たすことができず、後に半蔵は信康の冥福を祈るため仏門に入った。1590年家康に従い江戸に入国し、麹町清水谷に庵居を設け、信康の遺髪をここに埋め、霊を弔った、1593年家康より寺院を建立するよう内命を受けたがこれを果たせず、1596年55歳で死去した。その後、同所に寺院の建立が成り、山号、寺号は法名から「専称山安養院西念寺」となった。1634年江戸城外郭拡張に伴う外濠新設のため、西念寺は現在地に移転した。 境内には、服部半蔵の墓と信康の供養塔がある。 (東京都新宿区教育委員会案内板より) ※「服部半蔵の槍」は本堂・床の間にあり、拝見するには西念寺住職の許可が必要であった。事前に日時・人数を申し出て寺の行事に障りのないことを確認しての見学となる。当日は、住職は不在であったが、奥様が対応して下さった。一同、奥様の丁寧な説明に感謝しつつ、賽銭箱に小銭を入れて退去した。※ |
【C服部半蔵の槍】 「鬼の半蔵」の異名を持つ服部半蔵(1542-1596)が徳川家康より拝領したと伝えられる槍で、半蔵が開基となったこの西念寺本堂に保存されている。槍先と柄の一部が欠けており、現状では全長258cmである。戦国時代の槍の標本として、また、同寺に伝存している点で貴重な歴史資料である。 (東京都新宿区教育委員会案内板より) |
【C服部半蔵の墓】 服部半蔵は本名を正成といい、徳川家康の三河以来の旧臣で、家康十六将の一人に数えられる武将である。「鬼の半蔵」として知られ、1572年三方ヶ原の戦い、1590年小田原攻めで功をあげ知行八千石を賜り、同年家康の江戸入府後は江戸城西門近くに居を構え、城の警備等にあたった。半蔵門の名は彼の名に由来する。半蔵は、1579年家康の長男信康が切腹する際介錯を命じられた。しかし、これを果たせず、晩年、信康の菩提をとむらうため麹町清水谷に庵を建て、西念と号し、仏門に帰依した。 (東京都新宿区教育委員会案内板より) |
【C岡崎三郎信康供養塔】 西念寺を開山した服部半蔵が、徳川家康の長男信康(岡崎三郎信康)の菩提をとむらうため、1593年に建立した五輪塔形の供養塔。信康は、1559年に生れ、幼少時は今川氏の人質として駿府で過ごした。1567年岡崎に帰り、織田信長の娘をめとり、1570年岡崎城主となったが、1579年武田勝頼と内通したとの嫌疑により家康から切腹を命じられた。服部半蔵は、この時介錯役を果たせず、後に信康の供養のため出家した。 なお、西念寺には『岡崎信康廟修補記』が残されており、1814年に補修が行われたことがわかる。 (東京都新宿区教育委員会案内板より) |
【江戸名所図会 戒行寺 潮干観音 日宗寺】 戒行寺から下りる坂は「戒行寺坂」、潮干観音と西念寺との間の下り坂を「観音坂」という、いずれも下った先は、かつて鮫河谷町と呼ばれていた場所。崖下にあたる日宗寺を水源とする流れがあった痕跡(鮫河という)で、日宗寺→鮫河→現東宮御所→溜め池→虎ノ門→浜松町→東京湾へと続く。 |
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【観音坂・西念寺坂を下る】 「観音坂」という坂名は真成院にある潮干観音に因む。江戸時代、西念寺の表門がこの坂に面していたので「西念寺坂」ともいう。 観音坂・西念寺坂を下ると、鮫河が流れていた谷道(現在では若葉通りとも)に出る。右折してしばらく進むと東福院坂に出る。 |
【東福院坂を上る】 愛染院の向かい側に東福院があった事に因む。愛染院は坂中腹のレンガ塀のところ。 |
【D愛染院、高松喜六の墓】 内藤新宿の生みの親、高松喜六はもとは喜兵衛といい、浅草の名主であった。1697年同志4人とともに幕府に内藤家下屋敷の一部(現在の新宿御苑北側)に宿場を開設する請願を提出した。翌年許可がおり、喜六は宿場開設資金5,600両を納め、問屋・本陣を経営した。1713年8月に没したが、高松家は代々内藤新宿の名主とつとめた。墓石は高さ80センチで、右側面に「内藤新宿開発人高松金八友常」と刻まれている。(新宿区ウエブサイトより) |
【D愛染院、塙保己一の墓】 塙保己一は幼い頃に肝臓を病み、7歳で失明。13歳で江戸に出て、音曲・鍼医術を修め、国学、漢学、和歌、医学など幅広く学んだ。和学講談所を設立して多くの門人を指導し、41年の歳月をかけて編纂した「群書類従」を刊行(1819年)した苦学の人。「続群書類従」の編纂なかばで没した。享年76歳。(新宿区ウエブサイトより) 幕末期に、諸外国の間で小笠原諸島の領有が問題化する中、幕府はそこが日本固有の領土であることを証明する資料を探していた。塙保己一の子息・塙次郎は保己一が設立した和学講談所に収蔵された資料を提出して、問題解決に導いた。(塙保己一資料室より) |
【愛染院を出て東福院坂を下る】 谷を隔てた向こう側の高台は須賀神社だが、そちらには行かず、谷道を右方向へ歩き、鮫河の水源とされる日宗寺へ向かう。 |
【E日宗寺】 江戸名所図会を見ると、門の左側に池があり鬼子母神を祀ってあるはずだが、そのようなものはなかった。 |
【日宗寺の裏手に向かう】 幕末の切り絵図では日宗寺門前から甲州街道へ抜ける道はない。現在では、甲州街道へ抜ける道ができていて、日宗寺の背後(崖上)に行ける。 |
【日宗寺の背後(崖上)の道に井戸が】 今でも水脈はありそうだ。 |
【E日宗寺の背後(崖上)】 崖上では工事中であったが、隙間から崖下の日宗寺を見ることができた。新しい墓地が分譲されているようだ。この位置関係なら、日宗寺境内に湧き水があっても不思議ではない。鮫河の水源の一つといっても納得がいく。実は、谷と湧き水の状況は、新宿通りを挟んで反対側の荒木町でも同じように見られる。 |
【戒行寺坂を上る】 鮫河の谷道を東福院坂、西念寺坂を左に見ながら戻り、戒行寺坂を上る。 |
【F戒行寺】 寛永の頃までは麹町一丁目の堀端にあった常唱題目修行の庵室であったが、近隣の宮重氏と庵主が力を合わせ一寺をなした。当地へは明暦の頃という(江戸名所図会より) |
【F長谷川平蔵供養碑】 池波正太郎の原作と中村吉右衛門のテレビ時代劇で広く世に知られる「鬼平犯科帳」の主人公である火付盗賊改の鬼平こと長谷川平蔵は1746年江戸赤坂築地中之町の拝領屋敷で生まれた。姓は藤原、名は宣以。西城御書院番や御徒頭を勤め、御先手弓頭から火付盗賊改を兼帯。さらに石川島人足寄場を開設した。軽犯者や無宿者を収容して手業を習得させ、工賃の一部を積みたてて、出所時の更生資金に充て、授産所として成功させた功績は大である。1795年50歳で病没、当山に葬られた。 尚、当山には、鬼平の父宣雄ら5人の火付盗賊改が葬られている。 安部式部信旨・桑嶋肥後守政恒・山岡豊前守景之・長谷川備中守宣雄・菅沼主膳正虎常 (以上、碑文より) |
←【G西應寺】[榊原鍵吉の墓] 幕末から明治にかけて活躍した剣客・榊原鍵吉は、1830年江戸の麻布広尾に生まれた。12歳の時、麻布狸穴の直心影流・男谷信友に入門し、1849年に免許を受ける。 1856年幕府講武所の剣術教授方に登用され、1862年には師範に昇進、1864年には下谷車坂の屋敷で道場を開いた。1866年には幕府遊撃隊頭取となり、上野戦争で活躍するが、1868年徳川家達に従って静岡に移住した。その後、明治政府より再三招かれるが断り、1873年撃剣会を発足させ、明治維新後に衰退した剣術の再興と普及に努めた。 1894年死去したが、亡くなるまで髷を切らず最後の剣客と称された。 (新宿区教育委員会案内板より) |
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※道を挟んだ向かいに陽運寺というお寺が同じような「於岩稲荷」という旗を掲げているが、こちらは、田宮家とは関係なさそう。ただ、双方とも、共存を図っているようだ。※ |
←【H於岩稲荷田宮神社跡】 田宮稲荷神社は、於岩稲荷と呼ばれ四谷左門町の御先手組同心田宮家の邸内にあった社です。初代田宮又左衛門の娘お岩(1636年没)が信仰し、養子伊右衛門とともに家勢を再興したことから「お岩さんの稲荷」として次第に人々の信仰を集めたようです。 鶴屋南北の戯曲「東海道四谷怪談」が1825年に初演されると更に多くの信仰を集めるようになります。戯曲は実在の人物からは200年後の作品で、お岩夫婦も怪談話とは大きく異なり円満でした。稲荷社は1879年に火事で消失し、その際初代市川左団次の勧めで中央区新川に移転しました。しかし、その後も田宮家の住居いとして管理されており、1931年に指定されました。戦後、1952年に四谷の旧地にも神社を再建し現在に至っています。 (東京都教育委員会案内板より) 整理すると
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美濃高須藩松平摂津守上屋敷跡:荒木町 | |
【I明治東京全図1876年の荒木町部分】(国立公文書館蔵) 高須藩の上屋敷地は池を囲んだ全体であるが、松平容保らが生まれた屋敷はB付近であったらしい。現在、Cに谷へ下りる急階段が、Dに小さくなった策の池(昔の滝壺と思われる)が残されている。Eには屋敷の守り稲荷である金丸稲荷が現存する。 |
高須藩は尾張徳川家の分家で、幕末にはここで生まれた兄弟が徳川有力藩主として活躍したことが知られる。
表門はA〜B付近にあり、そこに至る通りは「津の守坂通り」、裏門があった通りFは「車力門通り」と呼ばれている。 この高須藩上屋敷内大池は、谷をせき止めた構造になっている。堰き止め堤防は、左図からもA〜Bと読むことができるが、1997年の新宿区の発掘調査により、この堤防の北側から石組み暗渠が確認された。石組み暗渠の構築年代は初代藩主が上屋敷として拝領した1683年頃と推定されている。池の水は玉川上水からの給水と崖地の湧き水で、石組み暗渠を経て紅葉川へ排水されていることもわかっている。 (東京都下水道局ニュース 「歴史を訪ねて3」より) |
【I津の守坂通り】 明治東京全図に書き入れたA地点からの撮影である。ここからの急坂となっており、正面には防衛省市ヶ谷庁舎通信塔が見える。 |
【I津の守坂通りから荒木町方面】 A地点からB地点を望む、ここは谷を堰き止めた堤防にあたるが、明治期の地図を見ると、狭い路地ではなく右の「サニーパレス四谷壱番館」を含んでいたようだ。この辺に高須藩上屋敷の表門があり、屋敷はこの奥と云うことになる。 |
【I谷へ下りる階段】 A地点からB地点方向に路地を進むと、左に谷へ下りる急階段に出るC地点。この辺の地下に石組み排水路があり、現在でも下水管として機能しているようだ。 |
【I策の池】 谷底をさらに進むとD地点、策の池に出る。「明治東京全図」を見ると、ここに至る路地(C→D)が排水路であるようだ。 |
【I策の池】 この池で徳川家康が乗馬用の策を洗ったことから「策の池」と呼ばれる。池には、4m程度の滝があったとされており、崖地の湧き水も豊富であったと思われる。さらに玉川上水からの導水で池の規模は拡大したようだ。 |
【I階段を上り池の畔に向かう】 [津の守弁財天]の脇から狭い石段を登ると、荒木公園・金丸稲荷神社に至る(E地点)。 |
←【I金丸稲荷神社】E地点 1683年、美濃国高須藩主松平攝津守がこの地一帯を上屋敷として拝領したとき、藩主の守護神として金丸稲荷社を建立した。太平洋戦争後、隣接地に遷座したが、1975年現在地に再遷座した。現在は荒木公園の隅にあるが、荒木公園全体が境内地で会った可能性が高い。明治時代の地図と比較すると、荒木公園の東側(写真右手)は池の一部であり、神社は池の畔に建っていたと思われる。 ※谷底の[津の守弁財天]も荒木町町会の説明板によれば、この弁財天も池の畔に建っていたというが、その場所は不明。 |
四谷大木戸跡と旧玉川上水跡、旧玉川上水余水吐 | |
【J今は、四谷四丁目交差点から始まる甲州街道】
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【J四谷大木戸】
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【K内藤新宿分水散歩道に設けられた案内板】
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【K玉川上水・内藤新宿分水散歩道:新宿区配付資料より】 「徳川家康の江戸入り以来、江戸は多くの武士や町人たちが暮らす大都市になりました。そこで大きな問題になったのが、飲料水です。江戸はもともと海辺だった場所を埋め立てた場所が多かったため、良質の井戸水を得ることは難しい状況でした。当初は赤坂溜池の水が使われましたが、天正18年(1590)には、井の頭池を水源とする神田上水が開発されました。しかし、江戸に幕府が開かれ、江戸がさらに発展すると、新しい上水が必要となりました。そこで開発されたのが玉川上水です。」 「玉川上水は、江戸幕府の命を受けた玉川兄弟により工事が行われました。多摩川上流の羽村(現羽村市)に水を取り入れる取水堰を設け、羽村から四谷大木戸(現四谷四丁目交差点付近)までなんと43キロメートルを、たった90メートルほどの標高差を利用して水路がつくられ、当時の測量技術の高さが伺えます。承応2年(1653)4月に着工、同年11月には四谷大木戸まで、承応3年6月には江戸城虎の門まで完成しました。上水は羽村から四谷大木戸までは地上を流れ、四谷大木戸から江戸市中には、地中に埋めた石や木で作られた碑を通して水が送られました。」 |
【K四谷大木戸水番屋構之図】 新宿区の説明板には、
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【N四谷区民センター(四谷水番屋跡)から見たM新宿御苑】
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【L旧玉川上水余水吐1】 右が新宿御苑、暗渠だが、中で流れがあるかどうかは不明 |
【L旧玉川上水余水吐2】 金網を超えなくても、住宅地の中に、暗渠に下りる石段はある。路地には、人が歩いた跡もあるので、ここを訪れる歴史家も多いのだろう。 |
【L旧玉川上水余水吐2】 東京オリンピックの時に暗渠化されたという話だが、それ以来、長い眠りについている。 |
【L旧玉川上水余水吐3】 旧玉川上水余水吐が外苑西通りにぶつかるところ。 |
【L旧玉川上水余水吐4、M池尻橋跡】 外苑西通りができる前は、切り絵図にあるように新宿御苑正門(常時閉鎖)を経て千駄ヶ谷へ通じる道があった。旧道が余水吐を跨ぐこの位置に橋(池尻橋)があった。左に見える大京交番は暗渠化された余水吐上にあると思われる。 |
【L旧玉川上水余水吐5】 この施設は外苑西通りが玉川上水余水吐を跨ぐ橋と思われる。 |
【L旧玉川上水余水吐5】 外苑西通りを挟んで、反対側にも同様な施設がある。この下を玉川上水余水吐が流れ、渋谷川に流れ込んでいたのだろう。 |
【外苑西通りバス停と井戸】 日宗寺裏の崖上にあった井戸と同様、水脈は健在。 |
【N多峯内藤神社】 当社は、江戸初期に初代内藤清成氏が屋敷内の地(現在の新宿御苑)に家祖である藤原鎌足公を祀り、(内藤神社)を草創したことに始まり、また藤原氏の氏神である奈良の春日大社より、経津主神、武甕槌神、天兒屋根神、姫神の分霊を勧請合祀してあります。 1886年に新宿御苑の地より現在地へ移設、遷座され今日に至っています。当初は武州多武峯神社と称していましたが、1967年に多武峯内藤神社に改称されました。(境内掲示より) |
【N多峯内藤神社、駿馬塚】 内藤清成の駿馬の伝説にかかわる石碑である。 徳川家康は江戸入府後、家臣の内藤清成を呼び、現在の新宿御苑一帯を示し「馬でひと息に回れるだけの土地を与える」と語ったという。清成の乗った駿馬は、南は千駄ヶ谷、北は大久保、西は代々木、東は四谷を走り、疲れ果て死んでしまったので、大樫の下に埋めたと伝えられる。後に内藤家の森林の管理役となった中家休昌と木下正敷が、1816年に樫の古木の跡に塚を造り、駿馬塚の碑を建てた。碑はその後、1872年に現在地に移されたものである。 (東京都新宿区教育委員会案内板より) |
【O三菱鉛筆発祥の地】 旧玉川上水余水吐を引き込んで動力としていた。 |
内藤駿河守と内藤新宿 | |
【千駄ヶ谷・鮫が橋・四谷絵図 1850年】国会図書館蔵 |
【N内藤駿河守下屋敷跡と内藤新宿】 1590年、徳川家康が豊臣秀吉の命で関東に移封されたとき、内藤清成は鉄砲隊を率いて江戸入りの先陣を務め、国府路(甲州街道)と鎌倉街道の交差付近に陣を敷き遠見櫓を築いたという。同年9月、家康より四谷から代々木村にかけて20万余坪もの広い屋敷地を賜る。この拝領地はのちに新しい宿場(内藤新宿)開設のため相当分が返上されたが、明治維新まで内藤家の江戸藩邸として使用された(現在の新宿御苑周辺)。(wikipedia・内藤清成より) 後に、内藤氏の菩提寺となる太宗寺門前の道(太宗寺横町)は鎌倉街道中道と考えられていて、現在の新宿御苑の中を横断し、太宗寺横町を通り目白方面に抜ける道である。鎌倉街道と甲州街道の交差するところは、新宿一丁目西交差点付近であると思われる。 ※左図で「百人組 俗ニ二十五騎ト云」とあるが、内藤新宿に配置された鉄砲百人組のこと。他に、伊賀組:大久保、甲賀組:青山、根来組:市ヶ谷があった。 |
【N新宿一丁目西交差点】 このあたりに、内藤清成は陣を敷き、徳川家康を迎えたのか? |
【N内藤新宿の開設】 徳川家康は、江戸に幕府を開いた直後、五街道(東海道、中山道、奥州道中、日光道中、甲州街道)の整備を行いました。 甲州道中(甲州街道)は、1604年頃に整備が行われたもので。江戸から甲府を経て下諏訪で中山道に合流します。この街道の最初の宿場は高井戸でしたが、日本橋を出発して16.6kmもあったため人馬ともに不便でした。そこで浅草阿部川町に住む名主喜兵衛(高松喜六)は1696年同志4名とともに同地を支配する代官細井久左衛門に、ここ太宗寺の南東に宿場を開設するよう願いを出しました。喜兵衛らがなぜ宿場開設を願い出たかわかっていませんが、5人は開設にあたり運上金5600両を治めることを申し出た。 このあたりには、1596年に成覚寺・正受院が、1596年頃に太宗寺が創建され、1615年頃には四谷大木戸も開設されました。また、1625年頃からは町屋ができ、1661〜1672年頃には内藤宿と呼ばれかなりの繁盛を見せていたためと思われる。 この願いは1698年に許可となり、幕府は宿場開設の用地として内藤氏の下屋敷の一部と朝倉氏の屋敷地などを上地してこれにあてた。こうして内藤新宿は、1699年開設の運びとなり喜兵衛らも移り住み名主などをつとめた。 (太宗寺境内、新宿ミニ博物館掲示板より) |
【P太宗寺の創建と内藤家】 太宗寺は、このあたりに太宗という名の僧侶が建てた草庵「太宗庵」がその前身で、1596年頃にさかのぼると伝えられています。太宗は、次第に近在の住民の信仰をあつめ、現在の新宿御苑一帯を下屋敷として拝領していた内藤家の信望も得、1628年内藤家第5代正勝逝去の際には、葬儀一切をとりしきり、墓所もこの地に置くことになりました。これが縁で、1668年6代重頼から寺領7396坪の寄進を受け起立したのが現在の太宗寺です。 なお、寺号「太宗寺」は、創建当時の庵主太宗の名をいただき、山号「霞関山」は、当時四谷大木戸一帯が霞ヶ関と呼ばれていた事に因み、院号「本覚院」は内藤正勝の法名「本覚院」を拝しています (太宗寺境内、新宿ミニ博物館掲示板より) |
【P内藤家墓所】信州高遠藩主(譜代大名) 現在の墓所は1952年、墓地の西北部にあったものを現在地に改葬した(57基→3基)。 右側:13代頼直、中央:5代正勝、左側:内藤家累代 。 |
【Q正受院】 会津松平家の菩提寺であったが、墓は大正時代に会津に移された。 |
【Q正受院】 改葬前には、この鐘楼の後ろが、松平容保の墓所であったといわれる。会津藩士の墓もいくつか残っているという話だが不明。 |
←【R成覚寺、子供合埋碑】 江戸時代の内藤新宿にいた飯盛女(子供とよばれていた)達を弔うため、1860年旅籠屋中で造立したもので、惣墓と呼ばれた共葬墓地の一角に建てられた墓じるしである。 飯盛女の抱えは実質上の人身売買であり、抱えられるときの契約は年季奉公で年季中に死ぬと哀れにも投げ込むようにして惣墓に葬られたという。もともと墓地の最奥にあったが1956年現在地に移された。 宿場町として栄えた新宿を陰で支えた女性達の存在と内藤新宿の歴史の一面を物語る貴重な歴史資料である。 (東京都教育委員会案内板より) |
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【S新宿追分付近】 江戸時代、甲州街道は追分から左に曲がって、現在の新宿駅南口へ向かった。現在は、玉川上水の跡地がトンネルとなって、甲州街道が走る、起点はトンネル入り口の四谷四丁目交差点である。 |
【S新宿三丁目交差点:新宿追分】 甲州街道という名称は新宿御苑トンネルに移って、この通りは新宿通りとという名称。 |
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