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歴史散歩:増上寺周辺を歩く

2015年4月6日(月)
錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、東京歴史散歩。今回は、浜松町駅を出発し、旧東海道を横切り、徳川将軍家の菩提寺の一つ芝増上寺へ向かいました。増上寺塔頭は、寺域を狭めながらも、なんとか存続している寺院もありました。また、増上寺本体は、戦災に遭った事もあり、江戸期の威勢はすでになく、寂しさが感じられました。
【コースの概略】
@JR浜松町駅
A旧東海道(現、第一京浜国道)
B増上寺大門
C安養院
D旧方丈門
E経蔵
F三解脱門
G増上寺大殿
H徳川家霊廟
I北霊廟跡
 ・有章院二天門
 ・御成門
 ・現、東京プリンスホテル
J良源院跡
 ・現、港区役所
 ・浅岡飯たきの井
K源流院跡
 ・初等教育発祥の地
L方丈跡(現、都立芝公園)
 ・御成門旧地
 ・方丈門旧地
M安蓮社
N南霊廟跡
 ・台徳院宝塔旧地
 ・現、ザ・プリンスパークタワー東京
 ・台徳院惣門
Q芝東照宮
 ・安国殿


浜松町界隈

江戸切絵図 芝愛宕下絵図1850年】国立国会図書館蔵
切絵図にあるように、旧東海道に「浜松町」という町名が見られる。これは、1696年、浜松出身の権兵衛というものが、この一帯の名主を勤めたからだという。現在は、「JR浜松町駅」に名残をとどめる。

【@JR浜松町駅】
「新橋−横浜」間に鉄道が開通したのが、1872年、開業当時は「新橋(汐留)」の次は品川であった。浜松町駅が開業したのは、1909年、「烏森(新橋)−品川」間開通と同時であった。

旧芝離宮恩賜庭園
1678年、老中大久保加賀守忠朝は家綱から、この地を拝領した。
忠朝は、屋敷と庭園を造り始めた。
1686年、庭園が完成し、「楽寿園」と命名された。
その後、持ち主が転々とするが、幕末期には、庭園部分は、紀州徳川家の芝御屋敷となっている。(切絵図参照)
その後も、持ち主が代わり、現在では、「東京都立旧芝離宮庭園」となり、公開されている。 

A旧東海道、(現)第一京浜国道
JR浜松町を増上寺方面に歩くと、すぐに、第一京浜国道に出る。
ここは、旧東海道、現在では、道幅が大幅に広げられて、江戸時代の面影は感じられない、が、切絵図でいう「浜松町」そのものだ。
左図の広重の描いた「東海道 名所之内 芝増上寺 国立国会図書館蔵」は、まさにこの場所であるようだ。
大名行列の代わりに、車が走るが、増上寺大門は江戸期の位置に見える。

【瓦斯燈
明治に入ると(1874年)、この旧東海道(金杉橋−京橋)には、85基のガス灯が設置された。このガスは、今の海岸一丁目にあった瓦斯製造所(現、東京ガス本社ビル)から供給されたという。

【B増上寺大門
1598年、徳川家康より、江戸城の大手門だった高麗門を寺の表門として譲り受けた。
1923年、関東大震災で被災、両国回向院に移築されたが、1945年戦災で焼失。
1937年、コンクリート製に作り直された。
(以上、増上寺ウエブサイトより)


増上寺

【増上寺】
五千分の一東京図測量原図 1884年 参謀本部陸軍部測量局作成 芝区芝公園地近傍 (国立国会図書館蔵)
赤字・赤丸:江戸期に存在した寺院・霊廟
青字・青線:現在の建造物・名称、道路
[三縁山広度院 増上寺(浄土宗大本山)]
  • 1393年 酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人、武蔵国豊島郡(千代田区平河町付近) に増上寺を創建。
  • 1573年 室町幕府倒れる
  • 1584年 源誉存応(げんよぞんのう)上人、増上寺第十二世住職に就任
  • 1590年 徳川家康、江戸に入り、存応上人と師檀関係を結ぶ
  • 1598年 増上寺、芝の現在地に移転
  • 1603年 家康、征夷大将軍となり、幕府を開く
  • 1605年 増上寺の大造営始まる
  • 1606年 江戸城完成し、将軍職も移る
  • 1613年 この年までに、家康より宋版、元版、高麗版の大蔵経の寄進を受ける
  • 1616年 徳川家康没す(73歳)
  • 1617年 家康の霊廟「安国殿」完成
  • 1622年 三解脱門再建
  • 1657年、1668年、1762年、1806年、1850年に火災で堂宇焼く
  • 1867年 大政奉還
  • 1868年 明治維新
  • 1945年 戦災で伽藍、御霊屋のほとんどを焼く(3月10日北廟被災、5月25日南廟被災)三解脱門、経蔵、黒門は焼失を免れた
  •  1974年 大殿完成
 (増上寺ウエブサイトより)

【C安養院
1878年、最初の芝区役所跡、近代地方自治の発祥
当時の芝区は桜田・三田・白金・高輪の地域で、人口58861人
(東京都港区教育委員会案内板より)
1653年、増上寺塔頭として開創。
土佐藩士の墓があることで知られる。

【常照院
開創の年ははっきりしないが、増上寺の塔頭。中には、「白子屋お熊の墓」がある。
1727年、江戸材木商白子屋の妻・お常、娘・お熊、お熊と密通していた手代・忠七によるお熊の婿・又四郎の殺害計画が発覚し、お熊は死罪になった。江戸市中引き回しの際に、お熊は黄八丈の小袖を着ており、これが人々の話題になった。
1775年、この事件をモデルに人形浄瑠璃「恋娘昔八丈」が上演され、翌年には歌舞伎でも上演された。
(文化デジタルライブラリーウエブサイトより)

【廣度院
広度院は増上寺三解脱門前にあり、山内子院第一号である。同寺伝に、よれば、開山上人は増上寺中興普光観智国師の門下円融上人である。上人は頓蓮社教誉と号し1628年4月17日の入寂であるが、その世寿は何才であったか伝えられない。・・・・・
(芝組 浄土宗東京教区ウエブサイトより抜粋)
寺の名前が「増上寺の院号」と同じ広度院、その練塀は、往時の子院群の景観を今に伝えている。

【F三解脱門
増上寺の表門は大門、この三解脱門は中門に当たる。徳川幕府の助成により、幕府大工頭・中井正清とその配下により建立、1622年に再建された。太平洋戦争での被災を免れた(国の重要文化財)。
三解脱門とは三つの煩悩「むさぼり、いかり、おろかさ」を解脱する門のこと。二階内部(非公開)には、釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されている。

【D増上寺旧方丈門】増上寺方丈の表門、家光の寄進とされ、建立年代は1648-1652年と推定される。一間一戸の切妻造本瓦葺、高さ8mの四脚門。江戸期には、「港区立みなと図書館」北方にあったが、明治維新後、移転を繰り返し、結局、1980年に三解脱門並びの現在地に移築された。(増上寺ウエブサイトより)

【E経蔵
経蔵は1613年の創建され、数度の移築、改造を経て、1802年に大修復され現地に移された。内部中央には八角形の大輪蔵がある。家康から寄進された、宋版・元版・高麗版の三大蔵経を収蔵していた(現在は収蔵庫に移管)。(増上寺絵はがきより抜粋)
1884年の地図と比較すると、「経蔵と三解脱門」は太平洋戦争の被災を免れ江戸期の位置に存在する数少ない建造物であることがわかる。

【水盤舎
清揚院殿(家光の三男甲府宰相綱重)霊廟にあったものを移築。

【鐘楼堂
最初の鐘楼堂は1633年に建立されたが焼失、戦後の再建。大梵鐘は1673年の鋳造、江戸三大名鐘の一つ。
「今鳴るは芝か上野か浅草か」「西国の果てまで響く芝の鐘」

【G大殿
1974年浄土宗開宗八百年の記念事業として戦災に遭った本堂を再建。本堂には、ご本尊の阿弥陀如来(室町期作)、両脇壇に高祖善導大師と宗祖法然上人の御像が祀られている。
1884年の地図と比較すると、旧本堂は石段のあたりと推定できる。

【H徳川将軍家墓所、入り口
徳川将軍家霊廟は、もともと、本堂の南と北にあったが、両方とも戦災で破壊され放置されていた。1958年に霊廟敷地売却となるのだが、その際、文化財保護委員会が中心となって、墓地発掘が行われ、、土葬の遺体は、綿密な調査が行われた後、東京・桐ヶ谷にて荼毘にふされ、この墓所に改葬された。
(増上寺ウエブサイトより抜粋)

【H徳川将軍家墓所、入り口
正面の門は旧国宝で「鋳抜門」といわれ、文昭院殿霊廟の宝塔前「中門」であったものを移築した。

【H徳川将軍家墓所、内部】
左から「静寛院」宝塔、「昭徳院」宝塔、「文昭院・天英院」宝塔
・昭徳院の宝塔(石造り)と静寛院の宝塔(青銅製)は、北廟でも並んで祀られていたが、 それをそのまま、この廟でも使用している。
・文昭院の宝塔は青銅製、天英院を合葬。

【H「台徳院・崇源院」宝塔】
・台徳院の宝塔は、木造のため焼失、崇源院の石塔に合葬されている。

(右図)
・有章院、惇信院、慎徳院の宝塔はそれぞれ単独の石塔。
・月光院の宝塔は石造りだが、ここに、その他の生母・側室を合葬してある。

【I徳川将軍家霊廟(北霊廟)跡
徳川家霊廟(南北とも)は戦災にあい荒れ果てていたが、1958年敷地売却、墳墓の大改葬が行われ、現在の安国殿背後の墓地に集約された。北廟跡地は1964年の東京オリンピックにあわせて、東京プリンスホテルが建設された。この場所で、当時を思い起こさせるものは、「有章院二天門」と御成門交差点付近から移築した「御成門」だけである。東京プリンスホテルと北廟の宝塔や門の位置を重ね合わせてみると、文化財の破壊 の凄まじさにただ呆れるばかりである。戊辰戦争や太平洋戦争でもなんとか残った貴重 な遺産を跡形もなく破壊してしまった。
「五千分の一東京図測量原図 1884年 参謀本部陸軍部測量局作成 芝区芝公園地近傍 (国立国会図書館蔵)」
赤字・赤丸:江戸期に存在した寺院・霊廟
青字・青線:現在の建造物・名称、道路

【I東京プリンスホテル】
徳川将軍家霊廟(北廟)跡地に建つ東京プリンスホテル、ここには、毎日、多くの人が宿泊し、結婚式も行われているだろう。しかし、この場所が、徳川将軍家霊廟だったと認識しているのだろうか?

【I有章院二天門】
1716年、徳川吉宗建立。吉宗以降は霊廟を造営せず、奥院のみを造るという簡素な形式になったので、華麗さを誇った徳川家霊廟建築、最後の遺構といえるという。戦災でも焼け残り、東京プリンスホテルが徳川家霊廟であったことをしのばせる唯一のものになっている。それにしても、塗装は剥げ落ち、痛みも激しい。

増上寺旧方丈跡周辺

【L増上寺旧方丈跡】
「五千分の一東京図測量原図 1884年 参謀本部陸軍部測量局作成 芝区芝公園地近傍 (国立国会図書館蔵)」
赤字・赤丸:江戸期に存在した寺院・霊廟
青字・青線:現在の建造物・名称、道路
御成門旧地は、日比谷通りから少しずれ、源流院跡地が日比谷通りにかかっている。これは、日比谷通りが南方に延伸してきたが、増上寺の伽藍とあわなかったためと思われる。

【J良源院跡、「浅岡飯たきの井」】
港区役所前の案内板には、「江戸時代、ここに良源院があり、仙台藩伊達家の仕度所として藩主等の増上寺参詣の折などに使われていた。1660年の伊達騒動の際に嗣子亀千代(後の綱村)を毒殺の危険から守ろうとして、母の浅岡の局がこの井戸の水を汲んで調理したと伝えられる」とあります。
伊達騒動の主役、原田甲斐が、ここに葬られたというが、罪人のため墓はないという。本来、港区役所旧庁舎中庭にあったものを、1987年新庁舎開庁にあたりここに移設した。

【K源流院跡、「日本近代初等教育発祥の地」】
学制発布に先立ち、1870年に東京府が府内の寺院を仮校舎として、六つの小学校を設立した。その第一校は、御成門東側のこの地にあった増上寺塔頭・源流院に置かれた。大訓導(校長)村上珍休、教師、助教と生徒中の秀才が生徒を教えた。この第一校は、1871年に西久保巴町に移り、1991年鞆絵小学校として閉校している。

【L増上寺方丈跡地、芝公園】
「港区立みなと図書館」北一帯は、増上寺方丈があった。明治維新後、方丈には北海道開拓使仮学校や海軍施設が置かれ、その後、芝公園になった。その折りに、方丈門は移築され、最終的に、三解脱門並びの通用門となって現在に至る。1884年の地図には、方丈はない。

【I増上寺御成門】
増上寺裏門としてつくられたが、将軍が参詣する際に用いられたので「御成門」と呼ばれるようになった。江戸期の門の位置は、源流院のところにあったが、1892年の東京市区改正計画で、道路(現日比谷通り)新設のため、この位置に移された。
(港区教育委員会案内板より抜粋)
戦災は免れ東京プリンスホテルの片隅にヒッソリと存在する。

【M安蓮社】
増上寺方丈の墓がある

【M安蓮社、歴代方丈墓地】
安蓮社に入るとすぐ右手に、歴代方丈の墓石が並ぶ。しかし、この並びは少し不自然。この墓地の左手に一般の墓地が見えるが、その墓地を作り出す過程、或いは、道路拡張の際に改葬したものだろう。寺院の経営、厳しかった時代があった事が伺える。

【M安蓮社、観智国師墓】
(左は開山酉誉聖聰上人墓、右が観智国師墓)
観智国師は源誉存応といい、1544年武蔵国に生まれた。
1584年、増上寺住職になる
1599年、家康の斡旋により国師号を授けられる(観智国師)
1605-1612年、三解脱門、本堂、経蔵などの堂宇の造営に努め、家康から寺領千石の寄付や、大蔵経三部の寄贈を受け、増上寺を政治的にも経済的にも確固たるものにした功労者。
1620年、増上寺で死亡。
(港区教育委員会案内板より)

【M安蓮社、海陸軍士戦死之墓】
墓石には、「第二次長州征伐で戦死した幕府の陸海軍戦死者を供養するため、1867年に建てられた」とある。
書は幕府の陸軍奉行並竹中重固。背面には勝海舟の追悼文が刻まれる。
※この墓の奥に、「阿部正次の墓」がある。
阿部正次は阿倍正勝長男(母は今川氏家臣)で、三河国生まれ。徳川譜代だが、1614年大坂の陣で功績を挙げ、加増を重ね、大坂城代に任じられた。末裔に老中筆頭阿倍正弘がいる。

増上寺旧南霊廟跡周辺

【N徳川将軍家旧霊廟(南霊廟)跡】
「五千分の一東京図測量原図 1884年 参謀本部陸軍部測量局作成 芝区芝公園地近傍 (国立国会図書館蔵)」
赤字・赤丸:江戸期に存在した霊廟
青字・青線:現在の建造物・名称、道路
台徳院の宝塔があった場所には、「ザ・プリンスタワー東京」が建ってしまうと、南霊廟の痕跡を探すのが困難になってしまう。江戸期の位置を保っているのが「芝東照宮」と名前を変えた、安国殿だが、現在の社殿は1969年建立。

【N台徳院宝塔跡、(現)ザ・プリンスタワー東京】
台徳院霊廟は1632年に造営されたが、そのほとんどを1945年の空襲で焼失した。

【N台徳院霊廟五重塔跡?】
五重塔は、1652年頃、酒井雅楽頭が創建と伝える。文化年中雷火で焼失・再び酒井氏が再建。屋根 瓦葺きで最上層のみ銅葺き、丹塗りの塔という。長押の蛙股には江戸期の装飾 を象徴するような十二支の彫刻があったという。
1945年の空襲で焼失してしまって、その痕跡すらないが、1884年の地図を見ると、「ザ・プリンスタワー東京」入り口右側の斜面が跡地に当たる。(写真の左方向)

【N台徳院霊廟へ】
1884年の地図と比較すると、ここが「台徳院霊廟へ至る石段」のようだ。

【N台徳院霊廟惣門】
焼け残った惣門だが、1884年の地図と比較すると、戦後、東方向に移動されたようだ。
【O芝東照宮(旧安国殿)】
江戸期には、増上寺境内の家康公を祀る廟は、安国殿と称された。これは家康公の法名「一品大相国安国院殿徳蓮社崇誉道大居士」によるもの。
安国殿は明治初期の神仏分離のため、増上寺から分かれて東照宮を称し、御神像を本殿に安置・奉斎した。社殿は1633年の造替当時のものが維持されていたが、1945年の戦災により、御神像の寿像と天然記念物の公孫樹を除いて社殿悉く焼失した。1963年には寿像が東京都重要文化財に指定され、1969年、復興奉賛会により社殿の完成を見て今日に至っている。
(芝東照宮ウエブサイトより)
※巨木のイチョウ(都天然記念物)は、安国殿創建時に家光が植えたという。
(増上寺ウエブサイトより)



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