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歴史散歩:高田馬場−面影橋−雑司ヶ谷−目白台−関口を歩く


2017年11月27日(月)
錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、歴史散歩。
  • JR高田馬場駅を出発、高田馬場跡西端に向かう。高田馬場跡西端を横切るように古鎌倉道が雑司ヶ谷に向かって伸びている。古鎌倉道を神田川に下る途中に、「高田七面堂」がほぼ江戸時代末期のまま残されている。面影橋跡→山吹の里碑→南蔵院→金乗院と古鎌倉道を進む。金乗院近辺は宿坂の関といわれる古鎌倉道の要所だが、近年では、関口駒井町からやってきた「目白不動(目白駅の名称由来)」を合併していることで知られる。
  • 宿坂を上ると目白通りに至り、鬼子母神の参道入り口となる。都電線路を越えると鬼子母神大門、ケヤキ通りとなる、江戸期には、この通りに高級料理屋が並んでいたが、今は静かなケヤキ通りである。鬼子母神堂は法明寺の一堂として、江戸期のままのたたずまい、その境内では樹齢600年ともいわれる大イチョウが一段と存在感を増していた。弦巻通りを挟んで、810年創建の古寺・法明寺がある。境内にある「蕣(あさがお)塚」は句:富久、朝顔絵:酒井抱一、彫刻:窪世祥との銘により、雑司ヶ谷鬼子母神周辺には、江戸時代、有数の文化人の集まりをうかがい知ることができる。
  • 今は暗渠となっている弦巻川旧河道を下る。旧河道は、大鳥神社参道→弦巻通り商店街にほぼ一致する、旧河道の使われ方は都内他の河道跡と同じだ。途中、清立院下の木村橋記念塔に旧河道の名残を見ることができる。さらに進むと、鬼子母神像出現の地(清土鬼子母神)に至るが、その手前にも、湧水とみられる井戸があった。
  • 日本女子大裏側から目白通りに出ると、田中邸が目の前に現れる。目白通り南斜面には大名屋敷跡が並ぶが、その中でも、細川家下屋敷跡・抱屋敷跡は、和敬塾・永青文庫・肥後細川庭園として利用されている。
  • 細川庭園を出ると、そこは、神田川沿いの旧関口村、関口芭蕉庵・神田上水取水口大洗堰跡等がある。大洗堰跡あたりから遊歩道を上って崖上に出ると、蓮華寺跡・目白不動跡が並ぶ旧目白通り(目白坂)に出る。この道は、清瀬市清戸へ通じる清戸道、江戸期には神社仏閣で賑わったようだが、現在は、目色通りの脇道に格下げられ歴史から消えつつあるようだ。

国土地理院地図(新版-淡色)[ブラウザ:カシミール]に、主な地名・旧跡を書き加えた。


高田馬場跡から雑司ヶ谷へ(古鎌倉街道)

【牛込染井雑司ヶ谷高田[5]1794 国会図書館蔵】
国会図書館には「牛込染井雑司ヶ谷高田」絵図は、同じ絵図が6種類ある。その中には、「金乗院」が「冷乗院」と、「面影橋」が「姿見橋」と表記されているものが存在し、また、弦巻川が描かれているものいないものが存在した。6種類全てを総合して、絵図の状態の良いもの、弦巻川が描かれているもの、創られた年代(模写かもしれないが)がはっきりしている[5]を使用させていただいた。しかし、ここには「冷乗院」「姿見橋」となっているが、管理人の方で「金乗院」「面影橋」と名を入れておいた。

[高田馬場西端(2017.10.18撮影)
JR高田馬場駅から、早稲田通りを東へ、馬場口交差点を過ぎると、「茶屋町通り」という案内標識がある。ここが高田馬場跡の西端で、高田馬場駅から約800mの地点である。

[古鎌倉街道(2017.10.18撮影)
高田馬場西端を貫くように、古鎌倉街道が雑司ヶ谷方面に伸びる、左側は「亮朝院」。

[高田七面堂、江戸名所図会、国会図書館蔵]
日蓮宗・日暉上人は、身延山の奥の院にあたる七面山で荒行を修めた後、現在の戸山付近に七面尊像をまつり、1655年には将軍家の祈祷所とした。1671年、境内が尾張家の下屋敷となったため現在地に堂塔を移し、江戸時代後期には「江戸名所図会」に描かれているような大規模な寺となった。
(一般社団法人新宿観光振興協会ウエブサイトより)

[亮朝院七面堂(2017.10.18撮影)
七面堂自体は1834年建設であるが、七面堂の本尊「七面明神半跏像、木造、寄せ木作り、像高38cm」は、1647年久遠寺から移されたと伝わる。
金剛力士像は石像であり、1705年奉納されている。
(新宿区教育委員会案内板より)

※堂宇自体は1800年代建設だが、収蔵されている仏像・古文書は開創以来伝わるものが多い(災害に遭わなかった為)。

[山吹の里 姿見橋、絵本江戸土産、広重、国会図書館蔵]
牛込染井雑司ヶ谷高田[5]1794のところでも書いたように、鎌倉街道が神田川を渡る橋は、古地図によって[姿見橋]とも[面影橋]とも書かれている。少し北上した南蔵院辺りにあった小川に架かる橋を[姿見橋]、神田川に架かる橋を[面影橋]であるという説もあります。となると、上図では川も橋も大きそうに見え、面影橋のように見えますが。

[面影橋(2017.10.18撮影)
橋名の由来には諸説あり、高名な歌人である在原業平 が鏡のような水面に水を映したためという説、鷹狩の鷹をこのあたりで見つけた将軍家光が名付けたという説、近くにいた和田靱負(ゆきえ)の娘であった於戸姫(おとひめ)が、数々の起こった悲劇を嘆き、水面に身を投げた時にうたった和歌から名付けられたという説などが知られています。なお、姿見の橋は面影橋(俤橋)の北側にあるもので、別の橋だという説もあります。(新宿区案内板より)
[山吹之里碑(2012.10.13撮影)
新宿区山吹町から面影橋の一帯は通称「山吹の里」といわれている。これは、太田道灌が鷹狩りに出かけて雨に遭い、農家の若い娘に蓑を借りようとしたとき、山吹を一枝差し出されたという故事に由来している。後日、「七重八重 花は咲けども 山吹の みの(蓑)ひとつだに 無きぞ悲しき」の古歌に掛けたものだと教えられた道灌が、無学を恥じ、それ以来、和歌の勉強に励んだという伝承で、『和漢三才図会 1712年』などの文献から18世紀前半には成立していたものと思われる。「山吹の里」の場所については、諸説あるのだが、この周辺は、鎌倉街道の伝承が集中しており中世の交通の要衝であったことは注目される。
(豊島区教育委員会案内板より抜粋)

この石碑は、神田川改修の前には、面影橋のたもとにあったという。よく見ると、1686年に建立された供養塔に、明治維新後(大正期という説もある)「山吹の里」と書いたものらしい。この碑は、オリジン電気の門前にあったが、2017年現在、オリジン電気は移転し、建物は壊され敷地は整地され、再開発の途中である。再開発終了時点で、この碑が何処に移されるのか、見守っていきたい。

[南蔵院、氷川社、江戸名所図会 国会図書館蔵]
南蔵院、氷川社の位置関係、道路の曲がりは江戸期と変わらず。
江戸名所図会には小川の流れが確認できる。
明治の落語家、三遊亭圓朝の名作『怪談乳房榎』の舞台となった寺。境内には上野の戦争で敗走した彰義隊9名を弔った首塚や、太田道灌ゆかりの地に関連した「山吹の里弁財天」と刻まれた供養塔などがある。
[彰義隊士慰霊碑、南蔵院(2017.11.27撮影)
南蔵院境内地に入って、中央部に彰義隊士慰霊碑らしきものがあった。新しい塔婆が何本かあるので、供養の人が絶えないのだろう。

[目白台地に上る古道−宿坂、カシミール3D 国土地理院を使用]
中世の頃「宿坂の関」と呼ばれるところが,このあたりにあった。この坂の名が、宿坂道と残っているのは、おそらくそれにちなむものと思われる。「宿坂の関」は鎌倉街道の道筋にあったものといわれ、したがって、ここ宿坂はその街道上の地名と考えられる。
今から300年ほど前,このあたりには樹木が生い茂り、昼なお暗く、くらやみの坂道として 狐狸の類がとびはねて、通行人を化かしたなどという話も いまに伝わっている。(豊島区教育委員会抜粋)

[金乗院と宿坂、江戸名所図会、国会図書館蔵]
金乗院は真言宗豊山派の寺院で、1573-92年の創建と考えらる。当所は蓮花山金乗院と称し、中野宝仙寺の末寺であったが、のちに神霊山金乗院慈眼寺と改め、護国寺の末寺となった。江戸時代には近辺の此花咲耶姫社などの別当だったが、1945年の戦災で本堂等の建物や、水戸光圀の手になるという此花咲耶姫の額などの宝物は焼失した。現在の本堂は1971年に再建され、2003年に全面改修された。(豊島区教育委員会)

[宿坂と金乗院(2017.7.27撮影)
昔ながらの長い坂道は雑司ヶ谷へ続いている。
坂の左には、目白不動金乗院との立て札がある。

[目白不動・長谷寺と金乗院 表門(2017.7.27撮影)
この寺は元々、金乗院。戦後、目白不動を有する新長谷寺を合併したので、新長谷寺のものが数多くあるのは不思議ではないが、その他にも、どこから持ってきたかわからない石仏が収容されている。どこから来たか調べてみるのも楽しみの一つ。
[目白不動 長谷寺(2017.7.27撮影)
(東豊山浄滝院新長谷寺)は、1618年大和長谷寺代世小池坊秀算が中興し、関口駒井町(文京区)にあったが、1945年の戦災により焼失したため、金乗院に合併し、本尊の目白不動明王像を移した。
(豊島区教育委員会掲示より抜粋)


※[目白駅]の名称はこの目白不動に由来する。
[目白駅]は関口駒井町に目白不動があった1885年に誕生。次いで、[目白]、[目白台]と誕生し、こちらは、[目白駅]に因むと思われるので、[目白]という地名が目白不動と関係なく一人歩きしていることになる。

[鐔塚1800年 金乗院境内(2017.7.27撮影)
これは珍しいものだが、右の写真と比較すると、目白不動と共に金乗院に移されたものであることがわかる。

[関口駒井町にあった頃の(焼失以前の)目白不動]
文京区史 国会図書館より
[目白不動、金乗院境内(2017.7.27撮影)
目白不動明王は、江戸守護の江戸五色不動(青・黄・赤・白・黒)の随一として名高く、目白の号は寛永年間(1624-44)に三代将軍徳川家光の命によるといわれている。
(豊島区教育委員会掲示より抜粋)


※目白:文京区教育委員会案内板にも、三代将軍徳川家光命名説が書かれているがウイキペディアによると、そのような文献はないとのこと。特に、目黄、目青については明治になってから付け加えられ、全体として、江戸五色不動になったとのこと。
また、ウイキペディアによると、「1808年の『柳樽四十六篇』では、五色には 二色足らぬ 不動の目 という川柳が残されている。」ことから、江戸時代には目黒・目白・目赤の三不動の存在は確認されるとのこと。

[倶梨伽羅不動庚申1666年(2017.7.27撮影)
剣に竜が巻き付いています。この解釈について調べてみたのですが納得できる説明には出会いませんでした。倶利伽羅竜は不動明王の化身であり、倶利伽羅剣は不動明王が煩悩を断つ剣、なぜ竜が剣を飲み込んでいるかは不明。

[宿坂(2017.7.27撮影)


雑司ヶ谷鬼子母神と法明寺

[鬼子母神表参道入り口(2017.7.27撮影)
宿坂を登り切ったところに目白通りがあり、鬼子母神表参道入り口が見える。

[都電荒川線 鬼子母神前駅(2017.7.27撮影)

[雑司が谷鬼子母神大門(2017.7.27撮影)
鬼子母神像は1561年清土の地から掘り出され、法明寺「東陽坊」(東陽坊は大行院と改名、後に法明寺に合併)に納め安置した。鬼子母神像の信仰はますます盛んとなり、1578年『稲荷の森』と呼ばれていた当地に、村の人々が堂宇を建て今日に至っている。
現在のお堂は、1664年徳川4代将軍家綱の代に加賀藩主前田利常公の息女で、安芸藩主浅野家に嫁した自昌院殿英心日妙大姉の寄進により建立され、その後現在の規模に拡張された。(雑司が谷鬼子母神ウエブサイト)

※本殿1664年、拝殿1700年とも建築年代が明らかであり、文化的価値が高い※

【雑司ヶ谷鬼子母神堂、江戸名所図会、国会図書館蔵】
雑司ヶ谷鬼子母神堂は弦巻川を挟んだ法明寺の飛び地境内にあった。この位置関係は今も変わらない。
なお、鬼子母神像が出現した清土鬼子母神も法明寺の境内地である。

[鬼子母神大門ケヤキ並木(2017.7.27撮影)
鬼子母神堂は、江戸時代から子授け、安産の御利益があるとされ、多くの参詣者を集めてきました。江戸後期には、将軍の御成もあったほど大いに繁盛した。参道には名物の大きなケヤキ並木とたくさんの茶店、料亭などが並び、参詣土産には、現在も造られている「すすきみみずく」などが売られていた。

[鬼子母神境内並木、東京風景1911年 国会図書館蔵]
かつては大径のケヤキが多く、荘厳な風景をかもし出していたが、現在は徐々に若いケヤキに植え替えられ、巨木は4本のみ。毎年10月に行われるお会式(おえしき)には万灯行列が周辺を練り歩き、往時のにぎわいを伝えている。

[江戸高名会亭尽 雑司ケ谷之図 料亭茗荷屋]
広重画帖より 国会図書館蔵

雑司が谷鬼子母神は宝殿が建立された江戸初期から多くの参詣人を集めた。門前には茶屋や料亭が建ち並び繁昌した。信心といっても物見遊山を兼ねた参詣が多かった。それが一層門前の料亭などを栄えさせることになった。(豊島区ウエブサイトより)
豊島区が行った、参道脇の発掘調査では多量の食器、食物残滓が出土した。その中には、真鯛・ハタ・ホウボウ・アワビ・サザエなどの高級食材があった。

[大イチョウ(2017.4.25撮影)
樹高30m、幹周8mの雄株で、都内のイチョウでは、善福寺のイチョウに次ぐ巨樹であり、樹勢は盛んである。1394-1428年に僧日宥が植えたと伝えられている。古来『子授け銀杏』と言われ、戸張苗堅の『櫨楓』によると、婦人がこのイチョウを抱く光景が見られ、注連縄を張るようになったのは、1818〜1829年の頃という。
(東京都教育委員会)

[鬼子母神とザクロとはつきもの(2017.4.25撮影)
子供を守り、子孫繁栄の神として知られる「鬼子母神」は、右手に[吉祥果]持ち、左手に[子供]を抱いている。
本来、[吉祥果]とは、悪魔を祓う縁起の良い果物という意味だという。仏典がインドから中国へ伝わったときに、吉祥果としてザクロが当てられたという。一つのザクロの実の中に多数の種子があるので子孫繁栄という説明は「あとずけ」可能性がありますね。

[ザクロ、雑司ヶ谷鬼子母神境内(2013.10.12撮影)
【法明寺】
日蓮宗、威光山。創建810年、もとは真言宗のお寺であったが、1312年、日蓮聖人の弟子日源上人により改宗、現在の寺号に改められた。 江戸時代から桜の名所として知られ、『歩蔵国雑司谷八境』のひとつに「威光山( 法明寺) 花」と記されています。参道から山門に続く風情ある桜並木は、今も訪れる人の目を楽しませてくれる。 境内には、曲尺、算盤、天秤など度量衡の珍しい図案が彫られた梵鐘や酒井抱一筆の朝顔が描かれた蕣(あさがお)塚があり、また墓地には楠公息女の墓(姫塚)や豊島氏累代の墓がある。
(雑司ヶ谷 案内処ウエブサイト)





←【雑司ヶ谷鬼子母神法明寺、絵本江戸土産10編 一竜斎広重】
鬼子母神から法明寺への一本道(松並木?)が描かれている。
現在も、この位置関係は変わらない。

[蕣塚(2017.4.25撮影)
句碑には、酒井抱一の朝顔の絵に添えて「蕣(あさがお)や くりから龍の やさすがた 富久」と彫られている。
「朝顔のツルの巻く様子は倶利伽羅竜ににて優美だ」とうたっている。
富久は戸張喜惣次(1825年逝去)の俳号、彫金の名人後藤祐乗に師事して刀剣の鍔(つば)や飾り物の細工で名工と讃えられた。おそらく、刀剣類に「倶利伽羅竜」を彫ったことがあるのだろう。酒井抱一の描いた朝顔に倶利伽羅竜を連想するところは、できすぎの感がある。しかも、この絵と碑文を石に彫ったのは江戸後期の名工・字彫りの石匠、窪世祥(くぼせしょう)であった。

酒井抱一、戸張喜惣次、窪世祥と、江戸後期の文化人が一堂に会して活動していたとは雑司ヶ谷ってすごいところですね。

[酒井抱一 あさがおの絵の拡大(2017.4.25撮影)
酒井抱一:神田小川町の姫路藩別邸で、酒井雅楽頭家、姫路藩世嗣酒井忠仰の次男として生まれる(1761−1829)。1790年に兄が亡くなり、1797年、37歳で西本願寺の法主文如に随って出家し、法名「等覚院文詮暉真」の名と、大名の子息としての格式に応じ権大僧都の僧位を賜る。尾形光琳に私淑し琳派の雅な画風を、俳味を取り入れた詩情ある洒脱な画風に翻案し江戸琳派の祖となった。僧であり俳人であり絵師でもあった、美人画もあるが、植物の絵で円熟の境地に達したようだ。(一部、ウイキペディアより引用)


[法明寺梵鐘(2017.4.25撮影)
1645年、鋳造、その後破損
1732年、再鋳造
下縁に、曲尺、枡、天秤、算盤などが図案化されていたおかげで、1944年重要美術品に指定され、戦時供出を免れた。
※鐘楼堂は戦災で焼け、1968年この地に移転再建という
[法明寺梵鐘下縁(2017.4.25撮影)
曲尺、枡、天秤、算盤などが図案化されている。


弦巻川河道跡を歩く

【牛込染井雑司ヶ谷高田[5]1794 国会図書館蔵】
元池袋史跡公園付近には多くの池があった。そのうちの一つ「丸池」には清らかな水が湧き、あふれて川となった、この流れが弦巻川と呼ばれ、雑司ヶ谷村を潤した(豊島区教育委員会抜粋)。1956年頃の地図を見ても源泉といわれる丸池の地点は雑司ヶ谷七丁目と表示されている。従って、西池袋はもともと、雑司ヶ谷村であった事に留意すべき。

[弦巻川下水道と河道跡]カシミール3D 国土地理院を使用
現在ではその流路跡の大部分が下水道雑司ヶ谷幹線に転用されている。2008年8月5日 - 豊島区雑司が谷弦巻通りにて、弦巻川を転用した下水道の工事作業中に豪雨が起きたため、増水により作業員5人が流され死亡した。(朝日新聞ウエブサイトより)
水色の線は地点地点での横断面で最も標高の低いところをプロットしたもので,近年整備された下水道に一致する。標高は明治通り側で26.7m、護国寺側で16.0m、標高差は約10.7m。明治通りから都電荒川線までが「大鳥神社参道」、都電から護国寺までが「弦巻通り商店街」にほぼ一致する。
※左右の地図を比較すると、弦巻川は清立院のところで山側に、文京区との区境で南側に蛇行していたが、下水道整備の時に直線に作り直されたものと思われる。
青の点は、改修前の弦巻川河道を推定したもの。「東京市及接続郡部地籍地図」等を参考に、筆者が書き加えた。

[大鳥神社参道入り口(明治通り)(2017.4.25撮影)
大鳥神社は、1712年鬼子母神堂境内に鷲大明神として創祀されたが、1868年神仏分離令で境内から分離され、移転を繰り返し、1940年現在地に落ち着いた。今では、弦巻川旧河道(暗渠)が参道になっている。

[法名寺前の弦巻川河道跡(暗渠)(2017.4.25撮影)
昔:弦巻川、今:道路と言う関係に注意して進みたい。

[蛇行する弦巻川河道跡(暗渠)(2017.4.25撮影)

[蛇行する弦巻川河道跡(暗渠)と本納寺(2017.7.27撮影)
弦巻川河道跡(暗渠)を進むと、右側の路地の奥に本納寺が見えた。

[月花碑、本納寺(2017.7.27撮影)

[弦巻川河道跡(暗渠)と都電の交差(2017.4.25撮影)

[江戸名所図会で見られる 弦巻川と清立院の関係]
清立院、寶城寺に向かう道が弦巻川を渡るところに橋がある。
これが通称・木村橋という石橋と思われる。次に、記念塔らしきものが見えるが、これが石橋記念塔かもしれない。

[木村橋の推定位置(2017.4.25撮影)
弦巻通り商店街(撮影位置)から清立院を見ているが、木村橋はこの道の奥にあったと思われる。下水道工事の時に、旧河道は放棄され、撮影位置に下水管を敷設したものと思われる。

[石橋記念塔と清立院(2017.4.25撮影)
正面には、享保18年1733年の文字が見える。

[石橋記念塔の下部(2017.7.27撮影)
植栽を分けて見ると、當所石橋施主木村氏と読める。

[石橋記念塔から石橋跡を望む(2017.4.25撮影)
現在の標高からは少し不自然に見えるが、写真正面辺りに木村橋があったのだろう。

[清立院(2017.4.25撮影)
1428年頃に真言宗寺院として創建され、後に法華宗(日蓮宗)に改宗したといわれる。雨乞いと皮膚病の祈願寺として崇拝されていた。※清立院内の御嶽権現は鬼子母神が鎮守となる前、雑司ヶ谷の鎮守だったといわれています。

[弦巻通り(2017.4.25撮影)

[菊池寛旧邸跡(2017.4.25撮影)
さらに弦巻通りを進むと、右側のとあるマンションに[菊池寛旧邸跡]というプレート。豊島区教育委員会が作った案内板だ。ここは、旧河道が右側に蛇行している部分だ。

[清土鬼子母神入り口(2017.4.25撮影)
弦巻通りに「吉祥天」の案内が。なぜか、清土鬼子母神に「吉祥天」が祀られている。

[清土鬼子母神入り口(2017.4.25撮影)
ここを、右折すると、路地奥に「清土鬼子母神」がある。
この路地は、右側が豊島区、左側が文京区であり、弦巻川旧河道である。

[湧水発見(2017.7.27撮影)
文京区側にさらに左折する路地があり、掘り抜き井戸と思われる湧水(赤い矢印)があった。弦巻川旧河道沿いは地下水位が今でも高いと思われる。

[清土 星の清水、江戸名所図会、国会図書館蔵]

[鬼子母神像出現地、清土鬼子母神]
雑司ヶ谷鬼子母神堂におまつりする鬼子母神のご尊像は、1561年(室町時代)1月16日、雑司の役にあった柳下若挟守の家臣、山村丹右衛門が清土の地の辺りより掘りだし、星の井(清土鬼子母神〈別称、お穴鬼子母神〉境内にある三角井戸)あたりでお像を清め、東陽坊(後、大行院と改称、その後法明寺に合併)という寺に納めたものです。(雑司が谷鬼子母神堂ウエブサイト)

[清土鬼子母神(2017.4.25撮影)
右側に「鬼子母尊神出現所」の石柱がある。

[星の井(2017.4.25撮影)
掘り出された「鬼子母神像」はこの井戸で清められた。


目白台から関口へ(武家屋敷と大名屋敷)

[目白台田中邸と目白台運動公園(2017.7.27撮影)
不忍通りを少し西へ歩き、日本女子大角で左折、日本女子大東側の路地に沿って歩くと目白通りに出る。目の前が「田中角栄邸」。
田中角栄氏遺族の相続税は約65億円、35億円を現金で支払った後、5000平方メートルの「目白御殿」のうち3200平方メートルを物納した。物納された土地は東側に隣接する国家公務員共済組合連合会の運動場跡地と共に、目白台運動公園に整備された。
(エクラ通信より)

※田中邸は稲垣家下屋敷跡の一部と見られる。
※田中邸の東側の目白台運動公園は小笠原家下屋敷跡と考えられる。

【高田老松町付近 雑司ヶ谷音羽絵図 国会図書館蔵】
現在、目白台と呼ばれる地域は、大名屋敷・武家屋敷が建ち並ぶ高台であった。
細川家下屋敷の門前には、鶴と亀という二本の松があった。明治になってから、この辺りを「高田老松町」と称したのはこの松に由来するという。

[急坂の多い地域]カシミール3D 国土地理院を使用

[和敬塾正門付近(2017.7.27撮影)
信号機あたりに二本の松があったと思われるが痕跡すらない。

[和敬塾学生寮と幽霊坂(2017.7.27撮影)
和敬塾本館脇の幽霊坂を下って肥後細川庭園へ向かう。
和敬塾本館(旧細川侯爵邸)は、細川家第16代細川護立侯により1936年に建てられた、昭和初期の代表的華族邸宅。
1955年、公益財団法人和敬塾は、旧細川侯爵邸の敷地約7000坪および邸宅を同家より購入し、敷地内に学生寮を建設した。
和敬塾では、本館を塾生(寮生)の教養講座の活動の場として活用する一方、外部の有識者を招いてのシンポジウム・講演会を開催し、塾生の知育、徳育の場として積極的に活用をすすめながら、文化財として保存してまいります。(和敬塾ウエブサイトより)

[細川家下屋敷跡(2017.7.27撮影)
幕末、ここは肥後熊本藩細川家の下屋敷、抱屋敷であり、1882年からは細川家の本邸となった。その後、都立庭園として開園し1975年文京区に移管され、2017年に文京区立肥後細川庭園と名称を改めた。(案内板より)

(園内案内板より(2017.7.27撮影)

[胸突坂と関口芭蕉庵(2017.7.27撮影)
細川家下屋敷跡は斜面地にある、屋敷跡の西側には「幽霊坂」、東側には「胸突坂」と神田川に下る急坂である。
細川家下屋敷跡→胸突坂→関口芭蕉庵
江戸時代を代表する俳人松尾芭蕉(1644〜1694)が、2度目の江戸入りの後、1677年から3年間この地に住んだ。当時、旧主筋の藤堂家が神田上水の改修工事を行っていて、芭蕉はこれにたずさわり、工事現場か水番屋に住んだといわれる。後に芭蕉を慕う人々により「龍隠庵」という家を建てたが、これが現在の芭蕉庵につながる。
その後焼失し、現在のものは第2次大戦後の建築である。
(文京区ウエブサイト)

[神田川(2017.7.27撮影)

[せき口上水端はせを庵椿やま、名所江戸百景 広重]
神田上水が整備された後、この辺は景勝地となって人を集めることになる。向こう岸には早稲田、右岸崖地斜面にはさくら・椿が咲きほこっていた。その斜面地に「関口芭蕉庵」がある。

[神田上水取水口大洗堰跡(2017.7.27撮影)
徳川家康の江戸入り(1590年)の直後、井の頭池から発する流れに、善福寺池、妙正寺池の流れを落合であわせ、関口で取水して水路を定めたのが神田上水である。
大洗堰で水は二分されて分水は江戸川に落とし、他は上水として水戸殿に給水し、神田橋門外付近で二筋に分かれた。一つは内堀内の大名屋敷に給水し、他の一つは本町方面、日本橋で北の町屋に給水した。
大正末年には水質、水量とも悪くなり、昭和8年に取水口はふさがれた。(文京区教育委員会案内板より抜粋)

【江戸川公園遊歩道(2017.7.27撮影)
崖上に向かう

歴史から消えつつある旧跡(関口駒井町)

[江戸川公園遊歩道頂上部(2017.7.27撮影)
崖上は、旧目白通りに出る。
崖上崖下を含めて、旧関口村。関口の名称は、むかしこの辺りに奥州街道の関所があったからといわれているが詳細は不詳である。
[関口駒井町]古くは、関口村の畑池であった。1704年、町家を設け、1737年ころ町奉行支配となった。町名の由来は「関口芭蕉庵の前、神田川に架かる橋が駒塚橋」があり、この周辺が馬の生産地であり、それに因むという説もある。[関口台町]古くは、関口村の畑地であった。1682年、町屋を開き、1720年から町奉行支配となった。町名は関口村の高台にあったので、関口台町と称えたといわれる。

【関口駒井町付近 雑司ヶ谷音羽絵図 国会図書館蔵】
[清戸道と目白坂]
西方清戸(清瀬市内)から練馬経由で江戸川橋北詰にぬける道筋を「清戸道」といった。主として農作物を運ぶ清戸道は目白台地の背を通り、このあたりから音羽谷の低地へ急傾斜で下るようになる。
この坂の南面に、1618年大和長谷寺の能化秀算僧正再興による新長谷寺があり本尊を目白不動尊と称した。だから、この坂を目白坂と称した。

[蓮華寺跡、関口台小学校(2017.7.27撮影)
徳川四代将軍家綱出産の際、法華本門寺(富士宮市)貫首日優上人は江戸城にて17日間に及ぶ安産祈祷を行った。家綱は無事誕生し、生母「お楽の方」は大変感謝し、後に、妹「蓮華院」と実母「泉光院」の菩提寺として、日優上人を開山に迎えて「泉光山蓮華寺」を建立した(1658年)。(東京名所図会より)
1911年、関口台町より中野区へ移転。
1925年、関口台小学校となる

[幸神(こうじん)社(2017.7.27撮影)
幸神社が面する道路は、かつて「清土道」とよばれ、江戸・東京から練馬などの西北近郊の村々とを結ぶ主要道の一つであった。道の神である猿田彦命を祀った当社は、清土道における江戸・東京の出入り口に位置し、道行く人びとの安全を祈った祠であった。
(文京区教育委員会)

[目白不動堂跡地と目白坂(2017.7.27撮影)
坂の左側が目白不動堂跡地である。この事実を案内する掲示は、目白坂下の[目白坂]プレートのみである。

[目白不動堂、江戸名所図会、国会図書館蔵]
目白の地名由来として重要であるが、戦災で金乗院と合併してしまった。

[正八幡神社(2017.7.27撮影)
創建年代は不詳。関口台の鎮守として祀られていた。椿山八幡宮を下の宮と呼び、当社を上の宮と称していたという。
(江戸名所図会より)

※下の宮は関口芭蕉庵向かいの水神社のところにあったというが、今は失われている。

[目白坂(2017.7.27撮影)
西方清戸(清瀬市内)から 練馬区経由で江戸川橋北詰にぬける道筋を「清戸道(きよとみち)」といった。主として農作物を運ぶ清戸道は目白台地の背を通り,このあたりから音羽谷の底地へ急傾斜で下るようになる。
この坂の南面に,1618年大和長谷寺の能化秀算僧正再興による新長谷寺があり本尊を目白不動尊と称した。坂名はこれによって名付けられた。『御府内備考』には「目白不動の脇なれば名とす」とある。
(東京都文京区教育委員会案内板抜粋)




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