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歴史散歩:葛飾、古隅田川と柴又帝釈天
| 2025年11月11日(火) 錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、歴史散歩 午前の部(古隅田川):[小菅駅]→[古隅田川緑道]→[小菅御殿跡]→[江戸町会所の籾蔵跡]→[小菅県庁舎跡]→[洋式煉瓦製造所跡]→[小菅監獄跡]→[東京拘置所]→[小菅銭座跡]→[水戸橋跡]→[水戸佐倉道]→[古隅田川緑道]→[綾瀬駅] 午後の部(柴又帝釈天):[綾瀬駅]→(千代田線)→[金町駅]→[京成金町駅]→(京成線)→[柴又駅]→[帝釈天]→[山本亭]→[寅さん記念館]→[江戸川堤防]→[矢切の渡し]→[柴又バス停]→(京成バス)→[金町駅] |
| 古隅田川と東京拘置所 | |
![]() 【江戸時代以前、利根川は江戸湾に注いでいた】 江戸期以前、北方から江戸湾に流れ込む主要河川は、
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【江戸期の流路変更】 江戸時代初期(1600年代)、治水対策、水運改良の目的で、数多くの河川流路変更がなされた。最も大きな変更は、利根川の江戸湾から銚子への流路変更であった。
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| [武蔵国と下総国] 中世以前の利根川下流(現在の古利根川)は東京湾へ注いでおり、概ね、東側が下総国、西側が武蔵国であった。 [下総国葛飾郡] 同時期に、渡良瀬川の下流(太日川ふといがわ)の流域両岸の地域が葛飾郡と定められた。ほぼ現在の江戸川の流域に当たる。東の境界は中世以前の常陸川、西の境界は中世以前の利根川の下流、北限は現在の茨城県古河市、南限は東京湾であり、南北に細長かった。 |
[今に残る『葛飾』] 下総国葛飾郡は現在の行政区分でいえば、『茨城県西部、埼玉県東部、千葉県西部、東京都南部』にまたがる」。 今現在、或いは、近年まで、この地域では『葛飾』という名称が残る。 例えば、埼玉県北葛飾郡杉戸町、埼玉県北葛飾郡松伏町、千葉県東葛飾郡関宿町(合併前)、千葉県船橋市立葛飾小学校、東京都葛飾区、葛西駅(葛飾の西半分の意味) |
![]() 【現代の隅田川、荒川、中川と古隅田川跡】 江戸時代初期の、利根川流路変更によって、旧利根川の下流部分(古隅田川)は、すでに、水量を落としていたが、明治期以後の河川整備(荒川放水路の完成・1930年、中川の灌漑事業など)によって、古隅田川はさらに水量を減らした。その痕跡は、古隅田川緑道として親しまれている。 |
![]() 【古隅田川・小菅地区拡大図】 古隅田川は、江戸期以前は、武蔵国と下総国の境界であったが、現在でも、足立区と葛飾区の境界として明瞭に残っている。 |
![]() 【A1→A0:古隅田川緑道】 |
![]() 【A0:古隅田川緑道】 |
![]() 【B0:古隅田川緑道・小菅万葉公園】 |
![]() 【B0:小菅御殿と鷹狩り】 現在の東京拘置所のあるこの場所には、江戸時代初期、関東郡代伊奈忠治の10万8千余坪にのぼる広大な下屋敷があり、ヨシやアシが茂り、古隅田川の畔には、鶴や鴨が戯れていた。 1736年、八代将軍徳川吉宗は、ここに、小菅御殿(千住御殿)を新設し、「鷹狩り」のときの休憩所とした。吉宗と息子家重は、鷹狩りのためたびたび訪れたという。 |
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【幕府鶴御成之図 1889年 香蝶楼国貞】 葛飾区郷土と天文の博物館所蔵 明治になってから描かれた、鷹狩りの様子。捕獲した鶴2羽が運ばれていく様子が描かれている。 水辺が多く水鳥が集まる亀有・青戸・白鳥・四つ木では、飛んで来た鶴にえさをあげて鷹狩りの日まで飼っていた。鷹狩りでとる動物のうち、鶴が一番喜ばれた。 |
![]() 【B1:小菅御殿(千住御殿)遺物、旧小菅御殿石燈籠】 |
![]() 【B2:江戸町会所の籾蔵】 小菅御殿は、1794年に廃止され、あと地には災害に備えて米を籾のまま貯える籾蔵が建てられた。 深川新大橋東詰に5棟、神田向柳に12棟、ここ小菅村に62棟、江戸筋違橋に4棟の倉庫を建て、毎年七分積金と幕府の補助金とで買い入れた籾が貯蔵されていた。小菅に建てられた理由は、江戸市街から離れ火災の心配がない事、綾瀬川の水運がある事が適地とされた。(現地案内板より) |
![]() 【B2:東京拘置所と煉瓦工場】 明治維新後に籾倉施設が利用され「小菅県庁舎・小菅仮牢」に転用され、廃県後は払い下げられ、民営によるわが国初の洋式煉瓦製造所が設立された。 1872年(明治5)2月26日和田倉門内の元会津藩邸から出火した火災により、銀座、築地は焼け野原と化した。政府の対応は速く、30日には再建される家屋のすべてが煉瓦造りとされることが決定された。 |
1872年(明治5)12月、東京府は川崎八右衛門にその製造をまかせることを決定、川崎はウオートルスに協力を依頼し小菅に新式のホフマン窯を設置した。ホフマン窯は、窯を環状に配置し、連続してレンガを焼成できる西洋式の窯で、一度火をつけたら消すことなく、効率的にレンガを大量生産することが可能になった。 明治11年内務省が敷地ごと煉瓦製造所を買い上げ、同地に獄舎を建て「小菅監獄」と命名(明治12年4月東京集治監)、西南戦争で敗れた賊徒多数が収容され煉瓦製造に従事し、図らずも文明開化を担っていった。東京集治監で養成された優秀な煉瓦技能囚が全国各地に移送され、各地の集治監で製造されることになる囚人レンガの最初でもあった。小菅で製造された煉瓦は、銀座や丸の内、霞ヶ関の旧法務省本館、旧岩崎邸、東京湾の入口に明治時代に建造された海上要塞の第二海堡等に使われ、近代日本の首都東京や文明開化の象徴である煉瓦建物造りに貢献しきた。 (平成23年度東京都地域の底力再生事業対象事業 管理者: 小菅西自治会広報部) |
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【B2:小菅監獄から東京拘置所へ】
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![]() 【B3:銭座橋親柱】 |
![]() 【B3:小菅銭座跡】 小菅御殿跡の南側(現在の西小菅小学校)には小菅銭座が置かれた。開国の影響による銅の流出、それによって引き起こされた銅相場の高騰、少額貨幣の不足のため寛永通宝の鉄一文銭を鋳造する場所として1859年〜1867年まで鋳銭が行われた。昔あった堀割は埋められてしまい姿を留めていないが、今でも「ぜんざ(銭座)橋」と刻んだ石柱が残っている。銭を鋳造する鉄材はこの橋付近で荷揚げされ、裏門から銭座へ運び込まれた。 |
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【B4:小菅八幡神社】 由緒は不明だが、「水戸佐倉道分間延絵図」に記載されている古い社で、棟札により元禄13年(1700)柳沢吉保によって、小菅御囲内の鎮守として再興された。1740年頃の小菅御殿古図には「八マン」と記載されている。大切に守られてきたこの社は、水戸橋の架け替えに伴い、旧社殿は取り壊され新しい石造りの社として再建された。(現地掲示板より) |
![]() 【水戸橋跡地】 |
【C0:水戸橋・橋台の石組・綾瀬川】 ここに積まれた石組は、江戸・明治時代から桁橋の水戸橋を支えてきた橋台を受け継いだもの。この構造は、皇居(旧江戸城)内濠に架かる木造橋である平川橋に名残を見ることができる。 【水戸佐倉道】 前方に延びる水戸佐倉道は、日本橋を出発点とする日光街道の千住宿(足立区千住) から分かれ、常陸国水戸徳川家の城下をつなぐ道。途中、新宿(葛飾区新宿)では、下総国佐倉へ向かう佐倉街道に分かれた。これらの街道は、土浦藩や佐倉藩等が参勤交代に使う重要な道だった。 |
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【再び古隅田川を歩く】 綾瀬川(本来は古隅田川)を水戸橋で渡り、再び、古隅田川を辿ることに。 |
| 再び古隅田川緑道 | |
![]() 【A3:古隅田川緑道】 |
![]() 【古隅田川緑道】 |
![]() 【古隅田川緑道案内図】 |
![]() 【古隅田川緑道が綾瀬川通りを横切る】 手前から、[陸前橋][旧水戸街道][小菅交番] |
![]() 【古隅田川緑道】 綾瀬川通りに架かる陸前橋を渡ると、古隅田川緑道はゆるやかに北に向かう。正面に「レンゴー」が見える。 |
![]() 【A4:古隅田川緑道、白鷺公園】 綾瀬川通りに併走する古隅田川緑道は、白鷺公園地点で東に向かう。 古隅田川緑道・小菅地区拡大図で見ると、本来、綾瀬川通りが古隅田川であるのだが、綾瀬駅周辺は暗渠化しているらしい。白鷺公園部分はバイパスをかねて古隅田川緑道としているようだ。 |
![]() 【綾瀬駅前にあった案内板】 A7→A6:白鷺公園から綾瀬駅へ向かう旧河道は暗渠 A5→A4:綾瀬駅から白鷺公園へ向かう旧河道も暗渠 になり、A4→A7へとバイパス化されている。 暗渠化された旧河道の左右の住居表示を見てみると、左から、[足立区][葛飾区][足立区]と区境が読み取れる。 |
![]() 【A7:古隅田川緑道、元隅田橋】 ここから、本来の河道に戻り、亀有の中川の合流地点に向かう。 |
![]() 【A7:暗渠となった古隅田川】 古隅田川緑道、元隅田橋付近から、綾瀬駅へ向かうこの道こそが、古隅田川河道。 |
![]() 【A6:暗渠となった古隅田川】 綾瀬駅直前で、右に曲がる。ここでは、古隅田川河道は区営自転車置き場になっている。 |
| 葛飾柴又、帝釈天 | |
![]() 【柴又、帝釈天】 京成金町駅から柴又駅へ移動。 |
![]() 【柴又駅前、寅次郎とさくらの像】 いきなり、「フーテンの寅」と妹「さくら」の像が出迎える。 |
![]() 【絵本江戸土産・帝釈天、広重】国立公文書館蔵 「帝釈天は柴又村にあり、庚申の日は都鄙の貴賎群参す。利根川を見越して鴻の臺の眺望最よし」と書かれている。 ・江戸末期、広重の見た柴又は、江戸川沿いの水郷地帯、水田の中の道、帝釈天へ向かう人々が描かれている。国府台の眺望が最高だった。 ・明治になってからも、この田園風景は暫く続いたらしい。 俳人・水原秋桜子も、若き日の葛飾の情景を「葛飾や桃の籬も水田べり」と詠んでいる。 (但し、この句の葛飾は、柴又とは限らない) |
※水原秋桜子(1892-1981):高浜虚子から指導を受け、昭和初期の「ホトトギス」を彩る四Sの一人として活躍。従来の俳句に短歌的表現を取り入れるなど、新鮮な句作を行った。しかし、虚子流の客観写生とは合わず、俳句誌「馬酔木」を主宰、叙情の回復を図った。(ウイキペディア) 柴又帝釈天:江戸時代初期の寛永6年(1629年)に、禅那院日忠および題経院日栄という2名の僧によって開創された日蓮宗寺院である。18世紀末、9世住職の日敬(にっきょう)の頃から当寺の帝釈天が信仰を集めるようになり、「柴又帝釈天」として知られるようになった。帝釈天の縁日は庚申の日とされ、庚申信仰とも関連して多くの参詣人を集めるようになった。正式には経栄山題経寺と号する。(ウイキペディア) 文人に愛された柴又帝釈天:田んぼの中ではあったが、この風光明媚さは様々な文学作品の舞台となった。 ・夏目漱石『彼岸過迄』 ・尾崎士郎『人生劇場』 ・谷崎 潤一郎『羹』 ・20世紀後半以降は、人気映画シリーズ『男はつらいよ』の渥美清演じる主人公・車寅次郎(寅さん)ゆかりの寺として知られるようになる。(ウイキペディア) |
![]() 【柴又帝釈天、二天門】 明治29年(1896年)の建立。入母屋造瓦葺の楼門(2階建て門)で、屋根には唐破風と千鳥破風を付す。柱上の貫などには浮き彫りの装飾彫刻を施す。初層左右には四天王のうちの増長天および広目天の二天を安置し、門の名はこれに由来する。二天像は平安時代の作とされ、門の建立時に同じ日蓮宗の妙国寺(大阪府堺市)から寄贈されたものである。(ウイキペディア) |
![]() 【柴又帝釈天、帝釈堂】 二天門を入った境内正面に位置する。手前の拝殿と奥の内殿から成り、ともに入母屋造瓦葺で、拝殿屋根には唐破風と大ぶりの千鳥破風を付す。内殿は大正4年(1915年)、拝殿は昭和4年(1929年)の完成。内殿には帝釈天の板本尊を安置し、左右に四天王のうちの持国天と多聞天(毘沙門天)を安置する(四天王の残り2体は二天門に安置)。内殿外側には全面に浮き彫りの装飾彫刻が施されている。(ウイキペディア) |
![]() 【山本亭】 この場所には、江戸時代後半から瓦製造を行っていた鈴木家の屋敷と瓦工場があった。1923年の関東大震災によって、被災した。 |
![]() 【山本亭】 その跡地に台東区でカメラ部品を製造していた山本栄之助氏がここに居を移し、整備したもの。和洋折衷の建物と純和風の庭園とが調和したもので、大正末期から昭和初期の建築として歴史的価値が高い。1988年に葛飾区が取得して整備し公開している。 |
![]() 【寅さん記念館】 昭和30年代の帝釈天参道のまち並みを、精巧に再現。 「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です。 帝釈天で産湯をつかい、姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します」 |
![]() 【寅さん記念館】 『男はつらいよ』は、渥美清主演、山田洋次原作・監督(一部作品除く)のテレビドラマおよび映画シリーズである。主人公の愛称から「寅さん」シリーズとも称される。 映画「男はつらいよ」全48作のワンシーンがパネルで見られる。 |
![]() 【矢切の渡し】 小説「野菊の墓」や、歌謡曲「矢切の渡し」で有名な唯一現存する江戸川の農民渡船で、矢切と葛飾区柴又を結んでいる。徳川幕府は江戸防衛のため川に橋を架けなかった。街道に続く渡し舟は厳しく管理されていたが、一方で対岸に農地を持つ農民のための渡船は許されていた。旅人の中には事情により街道の経由がはばかられ、農民に扮装して川を渡る者もあった。 |
【小説『野菊の墓』、歌謡曲「矢切の渡し」】 ・小説『野菊の墓』は、伊藤左千夫が、1906年1月、雑誌「ホトトギス」に発表。 15歳の少年・斎藤政夫と2歳年上の従姉・戸村民子との淡い恋を描く。夏目漱石が絶賛。左千夫の最初の小説となった。 矢切の渡しは、政夫と民子の最後の別れの場となった所だが、対岸の千葉県松戸市側が舞台。 ・歌謡曲「矢切の渡し」は、石本美由起作詞、船村徹作曲による演歌、多くの歌手によって歌われたが、中でも、細川たかしのシングル(2008年リリース)が最高のセールスとなった。 「つれて逃げてよ...」「ついてお出でよ...」 夕ぐれの雨が降る 矢切の渡し 親のこころに そむいてまでも 恋に生きたい 二人です (柴又で恋に落ちた二人が、親に反対されて、矢切の渡しから見知らぬ土地へ駆け落ちをするという恋の歌。) |
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