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歴史散歩:護国寺ー小石川養生所跡ー白山へ


2023年3月16日(木)
錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、歴史散歩。
  • 護国寺の地は、江戸初期に開設された大恁莓園が歴史のスタート。五代将軍綱吉生母・桂昌院の意向によって護国寺が建立され御薬園は廃止された。元禄年間には、堂宇が次々と建てられ、奇跡的にも火災・戦災を免れ、現在目にすることが出来る。明治維新で、徳川の後ろ盾を失った護国寺は、政財界の有力者を檀家にしたり、皇室に墓地を分譲したり、陸軍に墓地を提供したりして生き残ってきた。太平洋戦争後も、檀家層を拡大、また、教育機関に土地を提供するなどして時代に合った経営をしているように見える。
  • 小石川養生所の地は、もともと白山神社など複数の神社が共存した静寂の地であったようだ。綱吉の元服にあわせ、館林宰相として屋鋪を構えて、ここは「白山御殿」と呼ばれるようになった。綱吉が将軍宣下を受けた後は、御薬園、養生所として使われ、明治を迎えることになる。明治になってからは、文部省所管となり、現在は、東京大学小石川植物園であるけれども、昭和の時代まで、周囲は[白山御殿町]と呼ばれた。
  • 小石川植物園を出て、御殿坂をを上り、蓮華寺坂を下ると白山通りに出る。白山通りができて江戸の道並みが崩れてしまったが、17世紀頃の社寺(厳浄院、本念寺、白山神社など)、路地は、そのまま存在する。

護国寺
護国寺略歴
西暦 和暦 出来事
1638年 寛永15年 三代将軍家光は、麻布御薬園を現在の広尾光林寺の付近に、大恁莓園を現在の音羽護国寺の位置に開設した。
1680年 延宝8年 綱吉が将軍宣下を受け五代将軍となる。
1681年 天和1年 護国寺を建立するため、大恁莓園は廃止され、大部分の薬草は、麻布御薬園に移された。
開山、亮賢僧正。
1682年 天和2年 護国寺堂宇完成。梵鐘寄進。
1687年 貞享4年 亮賢没し、賢広が二世住職。
1691年 元禄4年 経堂完成。→ 後に移築して薬師堂として使用。
1694年 元禄7年 綱吉と桂昌院が護国寺に参詣
1695年 元禄8年 快意が三世住職
1697年 元禄10年 観音堂完成。(護持院が合流してからは、本堂となる)
元禄年間 仁王門完成、唐銅蓮葉形手洗水盤一対二基寄進、惣門完成、
1701年 元禄14年 薬師堂完成、→ 1926年修理移築して大師堂として使用。
1707年 宝永4年 護持院の住職に快意
1709年 宝永6年 綱吉薨去
1716年 享保元年 吉宗、第8代将軍となる。
1717年 享保2年 神田で火災に遭った護持院が護国寺に合流する、護持院の住職は護国寺の住職を兼ねる。
1868年 明治元年 明治維新
1872年 明治5年 護国寺内に真言宗「宗学林」設置。(現在の日大豊山に繋がる。)
1873年 明治6年 護国寺の一角を皇族専用墓地とした(豊島岡墓地)。
明治年間 護国寺の南側を陸軍埋葬地とした。(結果、護国寺は大幅に縮小となる)
1903年 明治36年 護国寺「宗学林」の内、大学林は大正大学へ組み込まれ、中学林が豊山中学となる。
1945年 昭和20年 太平洋戦争終結
1954年 昭和29年 新制豊山中学・高校を護国寺から日大へ譲渡、日本大学豊山中学校・高等学校となる。
1957年 昭和32年 旧陸軍墓地を文京区へ譲渡、1960年区立青柳小学校が移転してくる。
1957年 昭和32年 音羽陸軍埋葬地英霊之塔、護国寺第51世岡本教海大僧正により建立。

【1644年(正保1年)頃の様子】
正保年中江戸絵図、国立公文書館蔵
三代将軍家光が薨去、四代将軍家綱の時代になった頃。
護国寺の場所は家光が開設した、大恁莓園があった。
(上図では「御薬種畑」と書かれている)

【1714年(正徳4年)頃の様子】
江戸図正徳四年、国会図書館蔵
1680年(延宝8年)、綱吉が五代将軍になると、生母桂昌院の意向を受け、護国寺を造営することとなったため、1681年(元和1年)大恁莓園は麻布御薬園に吸収され廃止された。1682年(元和2年)護国寺堂宇完成を始めとして、天和〜元禄年間には、諸堂・門・鐘楼など数多くのものが作られた。

【1792年(寛政4)頃の様子】
分間江戸大絵図、国会図書館蔵
1709年(宝永6年)綱吉薨去、1716年(享保1年)吉宗8代将軍となる。1717年(享保2年)綱吉により整備拡充され神田にあった護持院が焼失、吉宗は神田での再建を許さず、護国寺と合流させ、護持院の住職は護国寺の住職を兼ねることとなった。(右へ続く)

【幕末期の護国寺】
江戸繪圖[7]、国会図書館
(左より)
1717年(享保2年)〜幕末まで、護国寺は仁王門から入って真っ直ぐの観音堂を本堂とした。一方、護持院は惣門から入って真っ直ぐ、今の桂昌殿あたりを本堂にしたようだ。

【1903年(明治36年)頃の様子】
小石川區全圖1903、国際日本文化研究センター蔵
明治維新を迎え、徳川幕府という財政的基盤を失った護国寺・護持院は大きく変わることになる。護持院は消滅、北半分は皇室の墓地(豊島ヶ岡御陵)となり、南側は陸軍の墓地(音羽陸軍墓地)として譲渡。護国寺は、政財界人の菩提寺として生き残ったようだ。この頃、護国寺は「宗学林」という、現在の豊山中学・高校に繋がる、学び舎を創設している。

【2023年(令和5年)現在図】
太平洋戦争終結後、護国寺に委ねられた音羽陸軍埋葬地は整理・縮小して、空いた土地は一部は文京区へ譲渡され「青柳小学校」となり、一部は一般墓地として再利用が進んで今日を迎えている。
護国寺が創設した、「宗学林」は、一部は大正大学に組み込まれ、また一部は日本大学に譲渡されて、日本大学豊山中学校・高等学校として、現地に存在する。

【護国寺前・音羽通り】

【日大豊山中学・高校】

【雑司ヶ谷・音羽絵図(護国寺部分)】
音羽町壱丁目、二丁目・東青柳町、西青柳町などの町がある。
音羽の名称由来:大奥老女・音羽の拝領地
青柳の名称由来:大奥老女・青柳の拝領地

【護国寺惣門】
本坊に通ずる所にあり、形式は社寺系のものでなく、大名屋敷の表門の形式で、柱や冠木(かぶき)なども太く、全体にどっしりした構えである。五代将軍徳川綱吉公の祈願寺でもあり、将軍と桂昌院の御成りのための格式の高い門が造営された。
(護国寺ウエブサイトより)
護国寺が造営された後、神田で焼失した護持院が合流、合流後は護持院の表門となった経緯がある。

【豊島岡墓地】
墓地の始まりは1873年(明治6年)、明治天皇の第一皇子である稚瑞照彦尊が死産した際、明治政府が皇居に近い東京府豊島郡の護国寺所有地に目を付けて使用を始めた。以後「陵」に埋葬される天皇と皇后を除く皇族専用の墓地として整備されてきた。
墓地の広さは80472平方メートル、墓数は61基(被葬者は皇族以外の者を含む63名)。
現在用いられている「豊島岡墓地」の名称は、1927年(昭和2年)10月29日付の宮内省告示第23号で正式に命名された。
(ウイキペディア)

【護国寺仁王門】
八脚門、切妻造りで丹塗。元禄期造堂の本堂、薬師堂や大師堂などから成る、徳川将軍の祈願寺としての伽藍の中で、重要な表門である。建立は、1697年(元禄10年)造営の観音堂(本堂)よりやや時代が後と考えられ、正面(南側)の両脇に金剛力士像。(右側は阿形あ・ぎょう像・左側は吽形うん・ぎょう像)、背面(北側)の両脇には二天像(右側は増長天・左側は広目天)の仏法を守る仏像が安置されている。
1717年(享保2年)、神田から護持院が合流して以来、観音堂が本堂となり、仁王門が護国寺表門となった。

【護国寺本堂(旧観音堂)】
現在の観音堂(本堂)は、1697年(元禄10年)正月、観音堂新営の幕命があり、約半年余りの工事日数でこの大造営を完成し、同年8月落慶供養の式典が挙げられた。また元禄時代の建築工芸の粋を結集した大建造物で、その雄大さは都内随一のものと賞され、しかも震災・戦災と二度の大災害にも襲われながら姿も変えず、江戸の面影を今に伝えている。
(護国寺ウエブサイトより)

【月光殿】
大津市(近江)の三井寺の塔頭日光院の客殿を昭和3年に、現在の場所に移築。桃山時代の建造で書院様式を伝えるものとして貴重な建物である。(国指定重要文化財)
(護国寺ウエブサイトより)

【鐘楼・梵鐘】
鐘楼の中では、伝統を重んじた格式の高い袴腰付重層入母屋造りの形式で江戸時代中期の建立である。都内では同種のほとんどが失われている中で、貴重な文化財です。また梵鐘は、1682年(天和2年)に寄進されたもので銘文には五代将軍綱吉の生母桂昌院による観音堂建立の事情が述べられ、護国寺が幕府の厚い庇護を得ていたことを示す貴重な歴史資料である。
(護国寺ウエブサイトより)

【薬師堂(旧経堂)】
1691年(元禄4年)の建立。一切経堂を現在の位置に移築し、薬師堂として使用したもので、大きな特徴は、柱間に花頭窓を据えているなど、禅宗様建築の手法をとりいれていることで、小規模ながら元禄期の標準的な遺構として、価値ある建造物である。(護国寺ウエブサイトより)

【大師堂(旧薬師堂)】
1701年(元禄14年)に再営された旧薬師堂を、大正15年以降に大修理し現在の位置に移築して大師堂にしたものである。
装飾も少なく全体的に荘重、すっきりとした印象をつくっている。真言宗伽藍における大師堂の格式の高さと、中世的な伝統を重んじた貴重な建造物である。(護国寺ウエブサイトより)

【著名人の墓地配置図】

【護国寺開基、亮賢の墓】
亮賢:1611年(慶長16年)〜1687年(貞享4)
故郷・上野国の得成寺で出家し、大和国・長谷寺で密教を修学した。その後自らが出家した得成寺や高崎大聖護国寺の住職となった。卜筮(ぼくぜい)の名声が高く、後に3代将軍徳川家光の側室となるお玉の方(後の桂昌院)を占って、5代将軍・綱吉を産むことを予言したという俗説がある。1681年(天和元年)、綱吉から桂昌院の祈願寺である護国寺の開山を命じられた。(ウイキペディア)

安田善次郎:1838(天保9年)〜1921年(大正10年)
写真:近代日本人の肖像より、国会図書館蔵

日本の実業家。茶人。幼名は岩次郎。号は松翁。安田財閥の祖。富山藩下級武士(足軽)の安田善悦の子として生まれる。安田家は善悦の代に士分の株を買った半農半士であった。1858年(安政5年)、奉公人として江戸に出る。25歳で独立し、乾物と両替を商う安田商店を開業した。やがて安田銀行(後の富士銀行。現在のみずほフィナンシャルグループ)を設立し、その後には損保会社(現在の損害保険ジャパン)、生保会社(現在の明治安田生命保険)、東京建物等を次々と設立した。
(右へ続く→)
【安田家の墓】
安田家の墓域は非公開だが、塀の隙間から見ることが可能。
(→左より)
東京大学の安田講堂や、日比谷公会堂、千代田区立麹町中学校校地は善次郎の寄贈によるものであるが、「名声を得るために寄付をするのではなく、陰徳でなくてはならない」として匿名で寄付を行っていたため、生前はこれらの寄付が行われたことは世間に知られてはいなかった。東京大学の講堂は死後に善次郎を偲び、一般に安田講堂と呼ばれるようになる。
旧安田庭園は、善次郎が所有していたためその名を残している。(ウイキペディアより)

写真:近代日本人の肖像より、国会図書館蔵
大隈重信:1838年(天保9年)〜1922年(大正11年)
明治・大正期にかけて活躍した佐賀県出身の政治家・教育家。
主な業績に
  • 官僚として:鉄道敷設、富岡製糸工場建設、太陽暦導入などを主導した。
  • 政治家として:立憲改進党設立、その後、日本初の政党内閣・第一次大隈内閣をつくる。
  • 教育者として:東京専門学校(のちの早稲田大学)創設。

【大隈重信の墓】

【松平治郷、松平不昧】
写真:ウイキペディアより
松平治郷:1751(寛延4年)〜1818(文政1年)
江戸時代後期の大名。出雲松江藩10代藩主。雲州松平家7代。江戸時代の代表的茶人の一人で、号の不昧(ふまい)で知られる。その茶風は不昧流として現代まで続いている。その収集した道具の目録帳は「雲州蔵帳」とよばれる。(ウイキペディア)
※出雲松江藩江戸上屋敷は、赤坂門前、現在の衆議院議長公邸

【松平治郷、松平不昧の墓】
右側に「大圓庵前出雲國 羽林次将不昧宗納大居士」と読める。

三條實美:1837(天保8年)〜1891年(明治24年)
写真:近代日本人の肖像より、国会図書館蔵
幕末、尊皇攘夷派公卿として活躍、1863年の政変により、京を追われ、一時長州へ下る(七卿落ち)。第一次長州征伐後、太宰府に移る。

【三條實美の墓】
1867年の王政復古により京に戻る。明治政府の副総裁などの要職に就き、1871年〜1885年まで太政官に任じられた。
(東京都教育委員会案内板より抜粋)

【大倉喜八郎:1837年(天保8)〜1928年(昭和3年)】
「写真:近代日本人の肖像より、国会図書館蔵」

日本の武器商人、実業家。 明治・大正期に貿易、建設、化学、製鉄、繊維、食品などの企業を数多く興した。
(右へ続く→)

【大倉喜八郎の墓】
ここも非公開だが、入口の正面にあるので、門の隙間から撮影。左側が の墓に[大倉喜八郎」との文字がある。
(→左より)
中堅財閥である大倉財閥の設立者。渋沢栄一らと共に、鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを設立。東京経済大学の前身である大倉商業学校の創設者でもある。(ウイキペディア)

山県有朋:1838年(天保9)〜1922年(大正11)
「写真:近代日本人の肖像より、国会図書館蔵」

長州藩長州藩の足軽として生まれ、学問を修めて松下村塾に入り尊王攘夷運動に従事。高杉晋作が創設した奇兵隊で軍監となり、戊辰戦争で転戦した。明治維新後の1869年に渡欧し、各国軍制を視察した。
(右へ続く→)

【山県有朋の墓】
ここも、非公開、塀の隙間から撮影。
(→左より)
内務卿、内務大臣、内閣総理大臣、司法大臣、枢密院議長、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長を歴任した。日清戦争では第一軍司令官として出征。日露戦争では参謀総長として指揮し、その戦功で1907年に公爵。死去に際し国葬に伏された。(ウイキペディア)

【コンドル67歳】
肖像画は白瀧幾之助製作
東京大学建築学専攻所蔵

ジョサイア・コンドル(Josiah Conder)は、1852年ロンドンに生まれ、大学で建築学を学び、のち、日本政府の要請により明治10年(1877)来日した。当時、我が国は文明開化政策の中で各国より幾多の文化をとり入れたが、西洋建築に関しては手さぐりの状態であった。
(→右へ続く)

【コンドルの墓】
(→左より)
彼は、工部大学校(東京大学工学部の前身)教授として学生を指導するかたわら、鹿鳴館・ニコライ聖堂・岩崎邸・旧古河邸等多くの建築物をつくり、我が国の近代建築の基礎形成に貢献した。
また、辰野金吾、片山東熊、曽禰達蔵ら多くの俊才を育てた。一方、『日本の造園』『日本の華道』著わすなど、日本研究の分野でも活躍し、我が国の文化、芸術を海外に紹介した。日本を愛したコンドルは、日本女性クメ夫人とともにこの地に永眠している。(現地案内板より)

【若き日の益田孝】
上の写真は、「株式会社三友エージェンシーウエブサイトよりキャプチャー」、1864年(元治1年)パリにて
[益田孝の略歴]
  • 1848、相川(佐渡)にて誕生
  • 1859、父親が江戸詰となり一家で移住。自身は幕臣として外国奉行支配通弁御用出役を拝命(12歳)
  • 1861、アメリカ公使館詰となる。
  • 1863、遣欧使節団に参加する(16歳)
(右へ続く→)

【益田孝の墓】
(→左より)
  • 1868、明治維新、幕臣を辞し実業家への転身を決意(21歳)
  • 1876、旧三井物産設立
  • 1876、中外物価新報(現日本経済新聞)設立
  • 1888、三池炭鉱の入手
  • 1938、逝去
茶人としても高名で鈍翁と号し、「千利休以来の大茶人」と称された。

【下田歌子、1854年(安政1)〜1936年(昭和11年)】
写真:近代日本人の肖像より、国会図書館蔵
日本の明治から大正期にかけて活躍した教育者、歌人。女子教育の先覚者で、生涯を女子教育の振興にささげ、実践女子学園の基礎も築いた。美濃国恵那郡岩村(現在の岐阜県恵那市)出身。(ウイキペディア)

【下田歌子の墓】

【音羽陸軍埋葬地英霊之塔】
音羽陸軍埋葬地英霊之塔の由来(石碑に書かれている要旨)
「この地は、明治〜太平洋戦争までの在京部隊に在籍し、国に殉じた2400余柱の英霊を埋葬した墓地だったが、太平洋戦争後は護国寺が管理している。
本英霊之塔は昭和32年11月、護国寺第51世岡本教海大僧正の建立によるもので中央に英霊と仏像を安置した英霊之塔、その周辺に有縁墓地40を配して、現在の姿に改葬され、殉国の英霊の眠る聖地となった。
平成7年11月11日 社団法人 日本郷友連盟東京都支部」


小石川御薬園跡・養生所跡(小石川植物園)
小石川植物園略歴
西暦 和暦 出来事
1615〜1624 元和年間 2代将軍秀忠の命により、白山神社は、本郷一丁目から巣鴨原(ここ小石川植物園内)に移された。
1653年 承応2年 3代将軍徳川家光の四男・徳松が元服し、綱吉と名のる。
1655年 明暦元年 この地に綱吉の屋敷造営するため、再度、白山神社は、現在地( 文京区白山5-31-26 )に遷座する。以後、この地は、白山御殿と呼ばれる。
1661年 寛文元年 綱吉は館林25万石を与えられる。この頃から、綱吉は館林宰相と呼ばれる。
1680年 延宝8年 兄4代将軍徳川家綱の薨去により、5代将軍となり、白山御殿から離れる。
1684年 貞享元年 白山御殿跡の北の一角に、南麻布から御薬園が移転してきて、小石川御薬園と呼ばれるようになった。
1721年 享保6年 御薬園は御殿全体に拡張され、面積約4万5千坪のほぼ現在の植物園の形となった。西北側半分を芥川小野寺、東南側半分を岡田利左衛門が管理することとなった。 それぞれの屋敷には御薬種干場(乾薬場)があり、園内で生産された薬草を干して調整するために用いられていた。
1723年 享保7年 御薬園の一角に施薬院(養生所)が設けられる。小石川養生所と称した。
1735年 享保20年 青木昆陽が小石川薬園内で甘藷を試作
1868年 明治元年 明治維新により東京府管轄、大病院附属御薬園と改称
1875年 明治8年 文部省所轄教育博物館附属・小石川植物園と改称
1998年 平成10年 東京大学大学院理学系研究科附属植物園と改称
2012年 平成24年 文化財保護法の規定により名勝及び史跡に指定される。名称は小石川植物園(御薬園跡及び養生所跡)
〇上記の事情により、小石川植物園は、長い間、「白山御殿跡地」と認識されてきた。1891年(明治24年)、新たに町名を起こすにあたり、周囲を併せて、「白山御殿町」と称することとなる。昭和41年の住居表示により、白山御殿町は白山2丁目〜5丁目となり消滅。
※この表は、白山神社:文京区ウエブサイト、徳川綱吉:ウイキペディア、御薬園・植物園:東京大学小石川植物園ウエブサイトを参考に作成した。

【小石川植物園入り口】
上記の表で示したように、この地の主体は
空地→白山神社→館林宰相(綱吉)下屋敷[白山御殿]→小石川御薬園→小石川御薬園+施薬院[小石川養生所]→東京大学小石川植物園
と変化してきた。

その変化を、古地図上および現地での名残を探してみよう。

【1644年頃の様子:空地】
正保年中江戸絵図、1644年〜1645年(正保元〜2年)、国立公文書館蔵
徳松(元服して綱吉)が生まれたのが、1646年なので、白山御殿はまだ空地であるが、元和年間(1615〜1624)に白山神社が遷座してきたはずであり、また、この地には、氷川神社、女体宮があったはずなので、3つの神社が存在していたことになる。

【1671年頃の様子:館林宰相殿】
新板江戸外絵図、1671年(寛文11年)、国会図書館蔵

徳松が元服し綱吉になったのが1653年、綱吉が館林宰相になったのが1661年なので、この図(1671年)では、「館林宰相殿」の文字が見える。また、1655年に遷座した「白山神社」も現在地に書かれている。館林25万石を与えられる前から、白山神社・氷川神社が遷座させられているので、元服した綱吉は1655年頃からこの地に住み、その時、白山御殿の建造が始まったのではないか。
宗慶寺、蓮華寺、厳浄院、本土寺、浄土寺、白山神社、御殿坂〜蓮華寺坂、本念寺〜浄土寺など明確に書かれていて、当時の主要道が分かる古図である。

【1683年頃の様子】
増補江戸大絵図亥正月改御紋ゑ入、1683年、国会図書館蔵
綱吉は、1680年、兄4代将軍徳川家綱の薨去により、5代将軍となり、白山御殿から離れているはず、絵図は遅れている。

【1707年頃:御薬園のはず】
絵図では遅れて、やっと「白山御殿」の文字が出てくる。正確には、「白山御殿跡」だが、綱吉の存命中(将軍であった時代1680-1709)、は「白山御殿」という名で通ったのであろう。
1684年には、南麻布から御薬園が移転してきている。

【1714年:御薬園のはず】
江戸図正徳四年、1714年(正徳4年)、国会図書館蔵
綱吉が薨去したのは1709年、さすがにこの頃は、「白山御殿」とはいわなかったのか? 御薬園のはずだが空白になっている。

【1792年:御薬園】
分間江戸大絵図、1792年(寛政4)、国会図書館蔵
1721年には、御薬園は旧御殿全体に拡充され、幕末期まで変わることはなかった。1723年に御薬園内に設けられた「施薬院」の文字も見える。

【1721〜幕末期】
江戸繪圖 [5]・北之壱・伝通院、国会図書館蔵
[小石川薬園の管理;芥川家と岡田家]
小石川薬園の初代管理であった木下道円は幕府の寄合医師となり、管理は御役御免となった。道円の後には、麻布花畑を管理する芥川小野寺元風が着任した。
ところが、1721(享保6年)の拡大にともなって、小石川薬園は東西に道路(ナベワリサカ)を設け二分されることになった。芥川家は従来から管理していた西側と添地を加えて預けられた。そして、新規に薬園となった東側は、新たに小普請組岡田利左衛門に預けられることになった。芥川小野寺は御役屋敷を薬園の西北に賜り、代々芥川小野寺と称してここに居住した。岡田利左衛門の方は小石川御薬園奉行と称した。芥川家同様に薬園内に御役屋敷をもった。

【嘉永七年・1854年】
府内場末其他往還沿革図書、嘉永七寅年十月調、小石川・巣鴨一圓之繪圖貳拾元



【現小石川植物園内の施薬院の位置】
(左図と現代図を比較して作成:重ね合わせても比較的良好な一致であった、左側の網代坂のあたりが、多少ズレが大きいが)この図では
  • 旧養生所の井戸と施薬院の範囲が推定できる
  • ナベワリサカの位置関係
  • 精子発見のイチョウと乾燥場跡は岡田屋鋪の敷地内であるようだ。

【小石川植物園】

【太郎稲荷】
【小石川養生所の井戸跡】
小石川養生所は徳川幕府が設けた貧困者のための施療所で、町医者小川笙船の意見により、新暦1723年1月10日(旧暦享保7年12月4日)にこの場所に開設され、明治維新の時に廃止されるまで続きました。養生所は町奉行所の管轄で、40名(後に170名)の間者を収容することができました。この養生所の井戸は水質が良く、水量も豊富で、大正12(1923)年の関東大震災 の時には避難者の飲料水としておおいに役立ちました。(現地案内板より)
※小石川養生所は、赤ひげ診療譚( 養生所を舞台とした山本周五郎の連作短編小説)などでよく知られているが、この井戸跡は当時の場所を想起させる貴重なものである。

【乾燥場跡】
御薬園時代、薬園奉行の役宅には朝廷や幕府に献上する薬草を並べて乾燥させるための石畳がありました。乾燥場は約40坪(役132u)あり、その周囲は竹矢来で厳重に囲われていた。この平石(伊豆石)は岡田利左衛門の邸内にあった乾燥場の一部で、当時の位置に残されている。(現地、案内板より)

【イロハモミジ並木】

【薬園保存園】

【薬園保存園】

【甘薯試作跡】
1735年(享保20年)に、大岡忠相の進言で、本草学者の青木昆陽がサツマイモの試作をおこなった。サツマイモは熱帯起源の作物で当時はまだ関東地方での栽培は行われていなかった。サツマイモは痩せ地でも栽培でき、食糧の増産に重要な作物として注目されていた。試作畑が設けられたのは、養生所近くの岡田支配の三五〇坪。
(日本植物研究の歴史、小石川植物園300年の歩み、総合研究博物館1996より)


御殿坂〜白山

【幕末期】国会・江戸繪圖 [5]・北之壱・伝通院
  • 厳浄院
  • 逸見坂
  • 本念寺
  • 暗闇坂
  • 白山神社

【現在の白山通り周辺】
この地域の白山通りは、旧原町・旧指ヶ谷町の人口密集地を避けて作られたらしいが、江戸期の路地の痕跡を探すのも、この散歩の楽しみでもある。
旧原町名称由来:昔、このあたり一帯野原で、原とだけ称えていたが、町屋が出来て原町と呼んだ。
旧指ヶ谷町名称由来:昔、木立の茂った谷地であったが、三代将軍家光が鷹狩りに来て、「あの谷も遠からず人家が出来るであろう」と指し示したことから指ヶ谷の地名が出来たといわれる。(町名由来:文京区・旧町名保存報告書より)

【御殿坂】
2012年、小石川植物園が「御薬園跡及び養生所跡」として名勝及び史跡に指定されたのを機に、植物園の塀及び塀付近 の歩道整備が実施され通行しやすくなった。

【白山下交差点】
御殿坂、蓮華寺坂を上りきると、白山通りに出る(右は後楽園方面)。

【厳浄院、ゴンジョウイン】
白山通りを下り、二軒目のお寺が「厳浄院」
1628(寛永5年)、文京区西片1丁目に創建。
1654(承応3年)、御用地となるので傳通院領の一部をいただき、現在地に移転。約380年の歴史を経ています。
(厳浄院ウエブサイトより)

【山口素堂の墓、厳浄院内】
山口素堂[1642(寛永19)-1716(享保元)]
江戸時代の俳人、漢詩文の素養が深く中国の隠者文芸の影響を受けた蕉風俳諧の作風であると評されている。1678(延宝6年)の『江戸新道』に収録されている「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」の句で広く知られている。(ウイキペディア)

【逸見坂(へんみさか)】
白山通りを北へ、白山下交差点を越えると、江戸期の路地が現れる、逸見坂という。

【逸見坂の由来】
(府内場末其他往還沿革図書、嘉永七寅年十月調、小石川・巣鴨一圓之繪圖貳拾元)によれば、逸見坂を上りきった右側に「逸見東馬」との文字が見える(赤の丸印)。

【本念寺】
逸見坂より一本北側の坂を上ると本念寺になる。
寛永年間(1624年 - 1645年)、玄等院日量によって開山された。かつては境外にあった「矢場稲荷社」の別当寺であった。矢場稲荷社は、寛文年間(1661年〜1673年)に館林藩藩主徳川綱吉が館林の尾曳稲荷神社から分霊を勧請して創建したものという。明治初期の神仏分離の際に廃社となり、現存しない。江戸期の地図では、本念寺の斜向かいにあったようだ。

【大田南畝の墓、本念寺墓地】
大田南畝[1749(寛延2年)-1823(文政6年)]
天明期を代表する文人・狂歌師であり、御家人。
勘定所勤務として支配勘定にまで上り詰めた幕府官僚であった一方で、文筆方面でも高い名声を持った。膨大な量の随筆を残す傍ら、狂歌、洒落本、漢詩文、狂詩、などをよくした。特に狂歌で知られ、唐衣橘洲・朱楽菅江と共に狂歌三大家と言われる。南畝を中心にした狂歌師グループは、山手連(四方側)と称された。(ウイキペディアより)
本歴史散歩でも、生誕地を訪れたことがある。

【白山神社へ向かう、逸見坂を望む】
焼肉・幸楽苑の左側が、逸見坂だが、夕日が低く白山通りを照らしている。その夕日に沿って、現白山通りを横断すると、江戸時代の古道の痕跡を見ることができる。

【古道の痕跡】
白山通り建設のために、分断された古道が現れる。

【白山神社へ向かう、逸見坂の始点】
路地側から、白山通りを見たところ。夕日が当たっているところが逸見坂の始点になる。江戸期の古図を見ると、正面空間には、妙傳寺という大きな寺があったはずだが...

【白山神社裏門】
反対方向へ路地を進むと、白山神社の裏の門に出る。

【白山神社】
創開は古く、天暦年間(947〜957)に加賀一宮白山神社を現在の本郷一丁目の地に勧請したと伝えられる。後に元和年間(1615〜1624)に2代将軍秀忠の命で、巣鴨原(現在の小石川植物園内)に移ったが、その後五代将軍職につく前の館林候綱吉の屋敷の造営のため、明暦元年(1655)現在地に再度移った。この縁で綱吉と生母桂昌院の厚い帰依を受けた。
(文京区ウエブサイトより)

【孫文先生座石、白山神社境内】
(この壁面には、この石碑が建立された経緯が書いてある、以下は、抜粋要約)
『明治四十三年五月中旬の一夜、孫文先生は宮崎滔天氏と共に境内の此の石に腰掛けながら中国の将来及其の経綸について幾多の抱負を語り合わされて居た折たまたま夜空に光芒を放つ一條の流星を見られ此の時祖国の革命を心に誓われたと言ふ。また、宮崎滔天全集には、「当時、孫文先生は当神社に程近い小石川原町の滔天氏宅に寄寓されていた。」と記されている。』
宮崎滔天(とうてん)(1871-1922)
革命運動家。アジア革命の実践を目指す。1897年孫文と知り合い、以後その革命運動の重要な支援者となる。1900年の恵州蜂起失敗後、一時浪花節語りとなり孫文の革命精神を紹介。1905年孫文らと東京で中国同盟会を結成、終生中国の革命派を支援した。
孫文
孫文(1866-1924)
1911年、辛亥革命を起こして清王朝を倒し、中華民国を建国した人物。28歳で清の打倒を掲げてから58歳で亡くなるまで、生涯の大半を革命に捧げた。





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