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歴史散歩:岩本町−神田−一ツ橋−北の丸、及び、その周辺を歩く


2016年4月4日(月)
錦絵・古地図・切り絵図・史跡を基に、その現在を訪ね、「時空を超えて残るもの」を検証する、東京歴史散歩。今回は、JR秋葉原駅を出発し、岩本町・お玉が池跡(近代医学発祥の地)−神田多町(神田青果物発祥の地)−筋違い見附跡(中山道と御成道)−神田駿河台−神田錦町(高等教育発祥の地)−一ツ橋・清水門・田安門、その周辺を歩きました。


お玉が池界隈〜神田多町へ

日本橋北内神田両国町明細絵図 東京国立博物館蔵
※JR線路、靖国通り、外堀通り、昭和通りなどは、江戸期にはなかった。絵図に書き入れたピンクの線はイメージである(正確ではない)。

1)和泉橋
昭和通りを秋葉原から岩本町方面へ。神田川に架かる橋を「和泉橋」という。橋名の由来は神田川の北側(手前、左側)に藤堂和泉守の屋敷があつたためとも、和泉守高虎の創架によるとも伝えられている。たびたび火災で焼失したが、現在の橋は1916年3月12日の架設。(千代田区観光協会ウエブサイト)
お玉が池界隈

2)岩本町交差点
間もなく、岩本町の大きな交差点に出る。
現在は、昭和通り・靖国通り・水天宮通りの交差点になっているが、
切り絵図を見ると、江戸期には、交差する道が異なるようだ。

【岩本町馬の水飲み広場】
その岩本町交差点の中央に、「馬の水飲み広場」がある。
街道を往来する人馬とあるが、何の街道だろうか?切り絵図からは、マイナーな交差点と思えるのだが...

【神田松枝町、お玉が池】
この町名は、江戸城の大奥にいた「松ヶ枝」という老女中に由来するという。1705年頃の話らしい。
松枝町を中心に「お玉が池」という不忍池を上回る規模の池があったが、幕末の頃には埋め立てられていたらしい。
(岩元2松枝町会案内板より)

【お玉稲荷】
「お玉が池」は当初、「桜が池」と呼ばれていたが、池畔の茶屋の看板娘「お玉」の悲恋伝説が基になり「お玉が池」と呼ばれるようになった。
(千代田区教育委員会案内板より)


3)お玉ヶ池種痘所跡
景勝地お玉が池には、多くの文人や学者が暮らしていた。その一人である伊東玄朴らの蘭方医たちが尽力して1858年種痘館を設立する。このお玉が池種痘所が、東京大学医学部の発祥である。
(岩元2松枝町会案内板より)
この種痘所(勘定奉行川路聖謨の屋敷内)は、わずか半年後、火災で焼けるが、伊東玄朴宅→神田和泉町の医学所→東大医学部と移転した。

【伊東玄朴(1801-1871)】幕末・維新期の蘭方医。
肥前国神埼郡の農家出身、のち佐賀藩士・伊東祐章の養子となった。医学を志し、漢方・蘭方を修めた。
長崎では、オランダ語を学びシーボルトの下で蘭医学を修めた。1826年、シーボルトの江戸参府に同行。2年後、シーボルト事件に連座し、一時入獄。その後、玄朴と改名した。
1843年には佐賀藩主・鍋島直正の御側医となり、その頃流行していた痘瘡を予防するための、牛痘苗輸入を直正に進言。1849年に長崎の出島に到着した痘苗を用いて、長崎、佐賀で種痘に成功し、西日本に普及した。
1858年、徳川家定が重病のとき、西洋内科医として初めて幕府奥医師に抜擢され、同年、江戸の蘭方医50余人とともに、神田お玉が池に種痘所を設立。
(千代田区観光協会ウエブサイトより)

【一八通りT】
江戸期、お玉が池界隈には、靖国通りも昭和通りもなかった。切り絵図を見ると、「一八通り(最近の呼称)」は神田多町と岩本町を結ぶ主要道であったようだ。
「緑のコーン」のあたりが「千葉周作・玄武館跡」


【一八通りU】

【玄武館跡地→区立千桜小学校跡地→現在、ビル新築中】
4)玄武館跡
千葉周作によって開かれた、北辰一刀流の道場。玄武館の門人で幕末の有名人としては、清河八郎、山岡鉄舟、新撰組の山岡敬助、藤堂平助など。漫画主人公「赤胴鈴之助」もここを舞台としている。

1825年、神田お玉が池(現地)に道場を新築。門弟約3600余人、入門者はひきもきらなかった。指導法は具体的で、組太刀と竹刀剣術を一致させ、構などもその時々で自由な構をとらせた。周作は時代を先取りした感覚を持ち、武士に限らず、町人や商人に対しても教授した。事理一体の稽古方法を用い、組太刀と竹刀剣術を合せて稽古することにより、他の道場で10年かかる修業を5年で仕上げたのであった。
1855年、61歳で永眠

二代目を道三郎が継いだ、その門から明治の剣道界を背負って立った剣豪を多数輩出した。関東大震災に依って、あの広大な玄武館道場と共に貴重な遺品や極意書は灰燼に帰した。

太平洋戦中・戦後、道場は閉鎖、神田の土地建物は人手に渡ったが、五代目は1945年8月、現杉並区善福寺公園を野天道場として少年指導を開始した。屋根のある道場の形をとったのは1950年の秋であった。竹刀一本、彩管一本が唯一財産であった。
(北辰一刀流玄武館ウエブサイトより)

【東松下橋架道橋・山手線】
「一八通り」を神田多町方面に進むと、上を京浜東北線・山手線が走っている「東松下橋架道橋(開通は1924年)」をくぐることになります。この「東松下」という町名は、この近辺の町名(明治維新後に命名され)で、由来はお玉が池種痘所付近の「松下町一丁目代地」といいますから、江戸の名残というには少し複雑です。

【黒門町橋高架橋・中央線】
さらに進むと、上を中央線が走っている「黒門町橋高架橋(開通は1919年)」をくぐることになります。こちらの「黒門町」という町名は、切り絵図を見ると、この高架橋のすぐそばに見つけることができます。「黒門町」は上野の元黒門町に関係があるという、江戸期に上野広小路拡張で移転を余儀なくされた黒門町の人々の代替え地とのこと。両高架橋の開通は、明治維新から50年ほどの時点、江戸の記憶が強かった証拠でしょう。
神田多町界隈

5)多町大通り(内神田三丁目、多町二丁目)
神田駅を背に須田町方面を望む
(手前から内神田三丁目、多町二丁目)
【(江戸期)多町一丁目、多町二丁目→(現)多町二丁目】
1624年〜1644年以前に成立した町を江戸古町といい、神田には22の古町がありました。1606年に起立した「田町」も江戸古町のひとつであり、神田で三番目にできた町です。現在の町名表記は「多町」ですが、町ができた当時は「田町」でした。神田はもともと低湿地帯で、「田町」も田を埋め立ててできた町と考えられています。
1596年〜1615年のころ、田町一丁目(現・多町二丁目)にできた青物(野菜)市は、草創名主(江戸成立期からの名主)の河津五郎太夫が開いたとされ、それは明暦の大火(1657年)後に大きく発展し、江戸幕府御用市場となりました。市場の繁栄と町の賑わいとともに、町名も「多町」へと変わりました。相対取引で栄えた神田青物市場は、1928年に秋葉原へと移転するまで約270年間続きました。市場は、江戸・東京の食を供給しつつ、粋な気負いの「神田っ子」といわれる気質を形成する源にもなっていました。
(千代田区町名由来板より抜粋)

6)神田下水(多町大通り下):都指定史跡
多町大通りの下には、東京都指定史跡である「神田下水」が埋設されている。この神田下水は1884年に、一般市民の衛生や都市環境を改善することを目的に、近代工学に基づいて建設された我が国初の近代下水道といわれています。現代の下水道管と異なりレンガで積まれ強固に築かれており、完成後100年以上経過した今日でも、その機能を十分果たしている。江戸から明治に移り、海外との交流によりコレラがもたらされました。当時の神田地区は、人口稠密であったため特に著しい被害に見舞われました。その惨状を前に、下水道整備の必要性を痛感した明治政府は、1883年4月30日に東京府に対して上下水道の整備を促す「水道溝渠など改良ノ儀」を示達したのでした。
(東京都下水道局碑文より抜粋)

【(江戸期)堅大工町・新石町→(昭和)多町一丁目
→(現在)内神田三丁目】
江戸時代この界隈には、神田堅大工町や新石町一丁目といった町がありました。いずれも、商人や職人が集まり住んだ町で1624-1644年頃には町が成立していたことが寛永江戸図などからわかります。このうち堅大工町には幕府のご用を請け負った大工たちが多く住んでいました。講談や落語の「三方一両損」に登場する大工の吉五郎もこの町の住人でした。また、火消し組の纏を作る「纏屋治郎右衛門」の店もこの町にありました。一方、新石町一丁目は俗に「河合新石町」と呼ばれていました。1657年の新添江戸之図にはすでに「新こく丁」の表記が見られます。1966年の住居表示で多町一丁目は内神田三丁目になりました。
(千代田区町名由来板より抜粋)

7)神田青果市場発祥の地碑
このあたり一帯は江戸・明治・大正時代を通して巨大な青果市場がありました。
徳川幕府の御用市場として 駒込, 千住と並び 江戸三大市場の随一だったといわれています。水運を利用して神田川沿いの河岸や鎌倉河岸から他市場で見られない優秀な青物が荷揚げされ、約1万5千坪(約4万9500u)におよぶ広大な青物市場で商われていました。
周辺の表通りには野菜や果物を商う八百屋が軒を連ね、威勢のいい商いが行われていました。青果市場の別名である「やっちゃ場」はそんな威勢のいい競りのときのかけ声から生まれた言葉だといわれています。
1928年には秋葉原西北に、1990年には大田区へと移転しました。
(千代田区観光協会ウエブサイトより抜粋)

【松本家住宅:国登録有形文化財】
1931年に建築された、神田多町問屋街に残る震災復興町家で、神田に残る元青果物問屋の店舗兼住宅。多町大通りに面した角地に東面して建っています。木造3階建、切妻造、平入で、正面は出桁造の構えをとり、北妻面は窓の少ない防火に配慮した造りとなっています。東京の下町における震災復興期の和風町家として貴重なものです。(千代田区観光協会ウエブサイトより)

8)御青物役所、一八稲荷・新銀稲荷
一八通りを進み、多町大通りを横断すると、一八稲荷があった。
江戸初期からこの場所にあり、家光の眼病治癒祈願のため、春日局が湧き水を汲みに来たという。この辺に、切り絵図にある「御青物役所」があるはずであるが、見当たらなかった。しかし、この地が幕府ゆかりの地なのだろうと勝手に納得。

9)斉藤月岑(1804-1878)居宅跡:神田司町
斎藤家は代々、神田の雉子町・三河町三丁目・同裏町・三河町四丁目・同裏町・四軒町の六ヶ町を支配する名主。15歳で家督を継ぎ、九代目・市左衛門と称し、実名を幸成といった。祖父幸雄・父幸孝が手がけた大書「江戸名所図会」を完成させたほか、「東都歳事記」・「武江年表」など、今日、江戸の町人文化を研究する上で欠くことのできない多くの著作を残している。(碑文より)


筋違見附と御成道

筋違見附と(10)旧中山道
多町大通りを終わり、須田町交差点へ向かう。中央通りは須田町交差点で、二方向に分かれる、万世橋方面(中央通り、国道17号)と旧万世橋駅方面(旧中山道、筋違見附)である。上の写真は、筋違見附付近から日本橋方面を見ている。日本橋ビル群が正面に見える。

筋違見附と(10)旧中山道、(11)御成道
この案内板は、2014年に補修されたとある。以前このウエブサイトで紹介したのは2013年、比較すると、「八つ小路」の範囲が狭められた。今の神田郵便局の敷地ということになる(そんなもんですか?)。

11)御成道と神田駿河台
絵図、黒の線が御成道、両側には、「阿部伊勢守、松平左衛門尉、青山下野守、土井能登守、稲葉長門守などの譜代大名、旗本屋敷」が配置されている。
【飯田町・駿河台・小川町絵図】東京国立博物館蔵

【万世橋と神田祭案内板より1885年ごろの地図】
まだ、中山道は江戸期と同様、真っ直ぐ神田川まで伸びている。
御成道もその周辺の路地も変化はないが、大名屋敷は、新町名に編入されている。
1912年に甲武鉄道万世橋駅が筋違見附跡東側にできてからは、御成道周辺の大名屋敷跡は交通の要衝として大いに栄えた。
現在では、さらに、幹線道路(靖国通り、外堀通り)、鉄道(中央線・総武線・山手線・京浜東北線)ができているが、江戸時代の区画は、意外にもよく保存されている。しかし、大名屋敷の痕跡を探すのは難しくなっている。

【青山下野守上屋敷跡】
「神田やぶそば」は1880年創業の老舗というが、江戸期では[青山下野守上屋敷跡]、明治になって[連雀町]である。

12)延寿稲荷
「土井能登守上屋敷跡」は、明治になって[連雀町、佐柄木町]になったが、屋敷内にあった「延寿稲荷」は残された。

【阿部伊勢守上屋敷あるいは酒井若狭守上屋敷跡】
御成道の一部は現在「外堀通り」と呼ばれ、阿部伊勢守上屋敷跡(傾斜地)は開成学園や淡路小学校として使われたが、現在は、淡路公園と地域コミュニティー施設(WASERAS)となった。

13)開成学園発祥の地(淡路公園内)
1871年 佐野鼎共立学校を創立
1878年 高橋是清初代校長に就任
1895年 東京府開成尋常中学校
1901年 私立東京開成中学校
1923年 関東大震災により 淡路町校舎焼失
1924年 日暮里校舎を造営移転
(開成学園ウエブサイト)
神田駿河台

【千代田線新御茶ノ水駅付近】
  • 江戸期には、[幽霊坂]と[紅梅坂]は直接繋がっていたが、1924年区画整理で本郷通りができたため二つに分かれた。(紅梅坂案内板より)
  • ニコライ堂と坂を挟んで向かい合わせの[井上眼科病院]は、東京大学眼科学教室の創設者井上達也が1881年創設した。1891年頃には、夏目漱石が美しい女性を目当てに通ったとされる(夏目漱石から正岡子規宛ての手紙より)。

【幽霊坂と本郷通り】
右が幽霊坂、左が本郷通り、残された高台は、現在、ニコライ堂はじめ周囲のビュースポットとなっている。
[幽霊坂]の由来は、坂の両側は大木が繁って、人通りも少なく、淋しい道であったとのこと(千代田区観光協会)。
[紅梅坂]の由来は、ここが東紅梅町という町名だったからと説明されている。しかし、東紅梅町という町名ができたのは明治維新以後であり、紅梅坂という地名は江戸期の切り絵図には出てこない。
14)ニコライ堂:定火消し役宅跡
  • 1872年、ロシアから日本に渡り正教伝道を行った亜使徒聖ニコライは、神田駿河台にあった定火消の役宅跡地を購入し、正教伝道の新たな拠点とした。
  • 1891年、竣工、同年3月8日に主イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)の復活を記憶する復活大聖堂として成聖された。
  • 1923年、関東大震災が起こる。大聖堂(ニコライ堂)の上部ドームは崩落し、全体が火災に見舞われて、土台と煉瓦壁のみが残された。
  • 1929年、大聖堂の復興工事終了。
  • 1962年3月には大聖堂は国の重要文化財に指定される。
  • 1974年には大聖堂教会を使用していた五つの教会が合併し、「中央教会」として発足した。この中央教会が1983年に「東京復活大聖堂教会」と名を変え、現在に至っている。
(ニコライ堂ウエブサイトより抜粋)

15)太田姫神社元宮(江戸期は一口稲荷)
あるとき、太田資長朝臣(後の道灌)の最愛の姫君が重い疱瘡に罹ってしまった、山城国の[一口(いもあらい)稲荷]に平癒を祈願したところ姫は全快した。
  • 1457年、太田道灌は江戸城を築くとき、その鬼門に太田家の姫を救った[一口稲荷]を建立した。
  • 1590年、徳川家康は、[一口稲荷]を現在の神田錦町一丁目に遷した
  • 1603年、江戸城増築に伴い、「一口稲荷」を現在の駿河台の一角、聖橋の袂に遷した。
  • 1872年、太田姫神社と改名
  • 1931年、総武線開通工事の為に、現在の駿河台一丁目二番地にそのままの形で遷した。
(「大好き神田」ウエブサイトより抜粋)

【一口坂・一口橋】
[一口稲荷]がこの位置に遷った頃は、下流の昌平橋は[一口(いもあらい)橋]、一口稲荷の参道は[一口(いもあらい)坂]と呼んでいたが、後に、鈴木淡路守屋敷にちなんで[淡路坂]と呼ばれるようになった。


※一口稲荷(京都)※
昔、京都の東南、山城国の一口(いもあらい)の里に「宇迦之御魂神」を祭神とした一口稲荷神社がありました。
このお稲荷様は本来、五穀の神(日々の糧となる五つの穀物の恵みを与えてくれる神)でありましたが、その上、穢(けがれや災い)も洗い清めてくれるということからも「えもあらい稲荷」と呼ばれ、近郷近在の人々の信仰を集めておりました。

(「大好き神田」ウエブサイトより抜粋)

15)太田姫神社、現在地
2016年、社殿修復及び社務所新築工事完了。

16)幸徳稲荷神社(江戸期は鍛冶屋稲荷)
(山城淀藩稲葉上屋敷跡)

現存のお社は徳川家斉の時代のものと推測される貴重な建造物です。このお社には、江戸時代から屋根を掛けられ、雨風を防いでいた模様で、大正時代の絵はがきや関東 大震災後の写真には、お社を覆う社殿が写っています。
(幸徳稲荷神社ウエブサイトより抜粋)

自治会棟の入り口に祀られたのは、2009年頃と思われます。こんな形での存続が増えてくると思われます。

17)小栗上野介生誕(1827-1868)の地
このあたりは、江戸期には、旗本屋敷が軒を並べていたものと思われます。YMCA→さくら薬局→「小栗上野介ここに生まれる」碑

1859年目付となり翌、1860年年日米修好通商条約批准書交換のため新見正興、村垣範正に従って渡米しています。
帰国後、外国奉行など要職につき、また幕府の財政たて直しや薩長打倒を策し戊辰戦争徹底抗戦を唱え、のち新政府に捕らえられ生涯をとじました。(千代田区観光協会ウエブサイトより抜粋)
18)小川町由来
江戸時代、小川町(おがわまち)は神田の西半分を占める広大な地域をさす俗称でした。古くは、鷹狩に使う鷹の飼育を行う鷹匠が住んでいたことから、元鷹匠町と呼ばれていましたが、1693年に小川町と改称されました。五代将軍綱吉(つなよし)が「生類憐(しょうるいあわれ)みの令」を施行、鷹狩を禁止したため改称されたという話も伝わっています。
小川町の名前の由来は、このあたりに清らかな小川が流れていたからとも、「小川の清水」と呼ばれる池があったからともいわれています。江戸城を築いた室町時代の武将太田道灌はその風景を「むさし野の小川の清水たえずして岸の根芹をあらひこそすれ」と詠んでいます。小川町の由来ともなった「小川の清水」は、内藤家の屋敷内にあったといわれています。(町名由来版より抜粋)

左図は小川広場:江戸期には、常陸土浦藩土屋家上屋敷があった。


靖国通りを横断して神田錦町、北の丸公園へ

19)五十稲荷:戸田家の鎮守
1700年頃、既に当地にあったが、1750年頃、栃木県足利の戸田長門守が当地を拝領した時、戸田家の鎮守となった。足利市雪輪町旧御陣屋大門に奉斎されていた稲荷大神(現雪輪町稲荷神社)を合祀し、栄寿稲荷大明神として祀られた。
戸田領足利で織物の市が五と十のつく日に開かれるのが慣わしであり、江戸の戸田邸でもその繁栄を祈願する為に、毎月の祭事を五と十のつく日に執り行い、月々の祭日と二月の初午祭には門戸を開放し、諸人の参詣を許した。
明治になり、廃藩置県制度により大名屋敷が町屋となり当社の御祭日祀も崇敬者等により受け継がれ、一年を通し毎月五と十のつく日には多くの参詣があり、後には縁日が立ち「五十様の縁日」と呼ばれ、東京市内でも有名になり、俗称として「五十稲荷」と呼ばれるようになった。(境内案内板より抜粋)

20)錦小路:神田錦町の由来
江戸時代、この界隈は武家地で、「錦小路」と呼ばれていた。由来については諸説あるが、明治になって、神田錦町の町名が生まれることになった。(以下、町名由来版より抜粋)
  • 一色という名の旗本の家が二軒あったことから「二色小路」、そしていつのころからか「錦」の字に置きかわり「錦小路」となった
  • 京都にある錦小路にあやかった
  • この地にあった護持院に、錦のように美しい虫を祀った弁財天堂があったため

21)学習院(華族学校)開校の地
1847年京都御所の日御門前に公家の学習所として設立された「学習院」は, 1877年華族学校「学習院」としてこの地に創立された。
1877年10月17日に明治天皇, 皇后両陛下をお迎えして開業式がおこなわれた。(以上、碑文より)


22)護持院が原跡
護持院は、もともと真言宗筑波山中禅寺知足院の別院として、紺屋町にあった寺でした。当時、住職をつとめていた隆光は、五代将軍徳川綱吉の絶大な信任をうけ、1684年〜1688年に、現在の神田錦町から一ツ橋にかけての広大な地を与えられ、さらに1696年には、護持院という称号が贈られています。
ところが1717年、大火によって護持院は跡形もなく焼けてしまいます。護持院はここに再建することを許されず、大塚の護国寺へと移されます。護持院と周辺の武家屋敷の跡地は火除地とされ、「護持院原」と呼ばれるようになりました。当初、将軍の鷹狩(たかがり)などがおこなわれていましたが、その後、散策路として町人たちにも開放されました。(町名由来版より抜粋)

23)新島襄生誕の地
同志社大学の創立者として知られる新島襄先生は、安中藩三万石、板倉伊予守の家臣の子として藩上屋敷(現在の神田錦町、学士会館付近)で生まれました。長じて藩士となり蘭学を修めましたが、1864年脱藩し密航し米国に渡りました。米国で洗礼を受け、アーモスト大学を卒業しました。
明治維新の後、岩倉具視遣外使節に随行し、各国の教育制度を調査しました。帰国後、京都を拠点に伝道活動に励み、1875年同志社英学校、1877年同志社女学校を創立しました。引き続き大学設立を目指し尽力中に1890年にその生涯を閉じました。
例年2月12日の生誕日には、生誕地近郊の学士会館で生誕祭りが行われています。
(千代田区観光協会ウエブサイトより)

2015年、この近くに「錦三・七五三太公園」ができた。新島襄の幼名「新島七五三太」に因むという。新島襄の誕生日は旧暦1月14日でしめ飾りを外す日なので「七五三太」と名付けられたとも、新島家に4人の女児が続いたあとの男児だったため、祖父が「しめた」と喜んだともいわれている。(公園碑文より)

24)東京大学、東京外国語大学、一橋大学発祥の地
明治になって、「護持院が原」と「板倉伊予守上屋敷跡地」に、蕃書調所が移転してきて、東京大学などへと発展していった。
(板倉伊予守上屋敷跡地には現在、学士会館が建つ)
  • 東京大学
    1857年 蕃書調所創設(九段下)
    1862年 蕃書調所が洋学調所と改称して当地に移る
    1863年 開成所
    1869年 大学南校
    1873年 開成学校
    1874年 東京開成学校
    1877年 東京医学校を合併し東京大学創設
  • 東京外語大学
    東京大学と大学南校まで同じ
    1873年 東京外国語学校開設
    一時、東京商業学校と合併したが
    1899年 東京外国語学校として、分離独立
    1940年 西ヶ原に移転
    1949年 東京外国語大学
    2000年 府中移転
  • 一橋大学
    1885年 東京外国語学校を吸収する形で東京商業学校成立
    1927年 国立、府中へ移転
    1949年 一橋大学

【一ツ橋】
この橋を一ツ橋といい、内濠川に架かる見附橋です。徳川家康が江戸城に入ったころは、大きな丸木が一本架けられていて、その名で呼ばれていたといいます。寛永図(1624-1643)には、一ツ橋とかかれています。
橋の近くに、松平伊豆守の屋敷があったので、伊豆橋ともいわれたことがあります。その屋敷あとに、八代将軍吉宗の第四子徳川宗尹が、御三卿の一人として居をかまえていました。そこで橋の名をとって一ツ橋家と称したといわれています。
橋の北側、如水会館の一帯は商科大学(現一橋大学)のあった所です。
(千代田区教育委員会案内板より)

25)一橋徳川家上屋敷跡(現丸紅本社ビル)
一橋徳川家は、1741年徳川8代将軍吉宗の第4子宗尹(むねただ)が江戸城一橋門内に屋敷を与えられたことがはじまりである。一橋家・田安家・清水家は御三卿(ごさんきょう)と呼ばれ、御三卿は将軍家に世継ぎがなく、御三家(尾張・紀伊・水戸)にも将軍となりうる該当者がいない場合に将軍を送り込める家柄で、十万石の格式をもち、直属の家臣団を持たず、将軍家の身内として待遇された。
当家は、2世治済(はるさだ)の長男家斉(いえなり)が11代将軍となり、水戸家より入った一橋9世が徳川最後の15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)であり、御三卿の中でも幕政に深く関わった。
敷地は広大で、この一角のほか気象庁・大手町合同庁舎付近まで及んだ。

【平川門】
一橋徳川家屋敷地のすぐ前には、江戸城平川門がある。御三卿(一橋、田安、清水)の登城口であったようだ。

26)千代田区役所と大隈重信雉子橋邸跡碑
清水濠に沿って内堀通りを進むと、左に清水門、右に千代田区役所という場所に出る。千代田区役所の前庭には大隈重信邸跡の碑がある。
早稲田大学創立者大隈重信(1838〜1922)は、明治新政府に出任し、大蔵卿等を歴任し、日本国の「円」の創設に尽力した。また内閣総理大臣を二度にわたり務め、近代国家の基礎作りに貢献した。大隈重信は、1876年10月から1884年3月まで、この雉子橋邸宅に住み、1882年10月創立の早稲田大学の前身、東京専門学校の開校事務もこの邸宅で行った。(早稲田大学・千代田稲門会碑文抜粋)

27)清水門:重要文化財
清水門は、中世にこの地にあった清水寺にその名を由来するといわれ、江戸時代には江戸城の一角に取り込まれ北の丸への出入り口として利用された。
千代田区役所を背に、内堀通りを横断して、清水門へ向かう。正面は[高麗門]、高麗門をくぐると右手に[櫓門]、その先に北の丸へ登る石段(雁木坂)がある。両側の堀も、清水門もほぼ江戸期の姿を見せてくれる静かな貴重な空間である。

27)清水門・高麗門:重要文化財
清水門の創建年代は不明ですが、伊達家の『御当家紀年録』から1620年にはすでに存在していたことは明らかです。その後、1624年に安芸広島藩主浅野長晟によって再建されましたが、1657年の大火(振袖火事)では類焼したものと考えられます。現存する清水門は、高麗門の扉の肘壷金具の刻銘によると1658年に再建されたものです。
(東京都文化財情報データベースより)

27)清水門・櫓門:重要文化財
御三卿の清水家は、9代将軍家重の次男重好が1758年に清水門内に屋敷を与えられて一家を興し、家名はこの門に由来して名付けられたものです。

27)清水門・雁木坂
清水門の一角を占める「雁木坂」と呼ばれるこの急な石段は、万が一、この門から敵に攻め入られても容易に駆け上がれないよう、わざわざ一段ずつの段差が非常に高く、不揃いに作られおり、敷き詰められた砕石も歩きにくさを増しています。北の丸公園が開園して以来、公園の出入り口としてもご利用いただいていますが、健脚の方でも歩きにくいようにつくられた歴史ある石段(文化財)ですので、雁木坂をお通りになる際は、一段一段気をつけてお通り下さい。
(環境省・皇居外苑ニュースより)

28)田安門・櫓門:重要文化財
大田道灌時代、江戸城の合戦場はこのあたりであったといわれおり、古くは「田安口」または「飯田口」ともいい、上州方面への道が通じていたと考えられている。田安門は、1636年に建てられたと考えられている。門内には田安台といって、はじめ百姓地で田安大明神があったので門名に称としたといわれている。
江戸城造営後は北の丸と称し,代官屋敷や大奥に仕えた女性の隠遁所となった。千姫や春日局、家康の側室で水戸頼房の准母英勝院の屋敷などもこの内にあった。
1730年、将軍吉宗の第二子宗武は,ここに一家を創立して田安家を興した。宗武の子松平定信(白河楽翁)はここで生まれた。
現在、北の丸公園と呼ばれる地域一帯、西側を田安家,東側を清水家が所有していた。(千代田区観光協会ウエブサイトより抜粋)


29)蕃書調所旧地
1856年、江戸幕府は竹本図書頭拝領屋敷上地である当地に、蕃書調所を設けました。蕃書調所は、最初「蕃書和解御用」として西洋の書籍を解読して海外事情を調査するために設置されました。その後、幕臣・諸藩の家臣らに対して西洋の文物を教育する機能も加わります。また、画学局も置かれ、明治期に活躍した西洋画家たちも多数学んでいます。のち神田一ツ橋通りに移転して、洋書調所、さらに開成所と改称しています。1869年に、大学南校となり、開成学校と改称しました。現在の東京大学法学部・文学部・理学部の前身です。(千代田区教育委員会案内板より)




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