江戸→東京、歴史散歩(古地図を片手に、江戸の痕跡を求めて...)

[江戸→東京、歴史散歩]サイトへようこそ!
管理運営をしている桑島敏寿です。古地図を片手に、東京都心部を散策し、都心部に息づく江戸を発見しては、小さな興奮と微妙な納得を覚えています。[江戸→東京、歴史散歩]のページは、当初、プロバイダーのホームページ[Internet Walk]の片隅にありましたが、10回を終えたところで、割り当てられた容量が満杯になって、この[江戸→東京、歴史散歩]部分を別サーバーに独立させることにしました(2016年春)。国公立の図書館には、種々の古地図・絵図・錦絵がデジタル化され公開されているばかりでなく、インターネット上には数多くの先人たちのウエブサイトがあり、いずれも丹念に読ませていただいていますが、実際に、現地を散策するとより理解が深まり、認識が改まります。これから歴史散歩を計画される方にとって、一つの足がかりとなれば幸いです。ご意見はメールフォームから承っております。

メールフォーム 親サイト Internet Walk  2017.11.29更新


2017年11月27日(月)…高田馬場−面影橋−雑司ヶ谷−目白台−関口…
高田馬場跡(高田馬場駅の名称由来)西端を横切るように古鎌倉街道が雑司ヶ谷に向かって伸びている。街道を、面影橋→山吹の里碑→南蔵院→金乗院と進む。金乗院近辺は宿坂の関といわれる街道の要所だが、近年では、関口駒井町からやってきた「目白不動(目白駅の名称由来)」を合併していることで知られる。宿坂を上ると、鬼子母神の参道入り口となる。鬼子母神大門、ケヤキ通には、江戸期時代、高級料理屋が並んでいたが、今は静かな通りである。鬼子母神堂は法明寺の一堂として、江戸期のままのたたずまい、その境内では樹齢600年ともいわれる大イチョウが一段と存在感を増していた。弦巻通りを挟んで、810年創建の古寺・法明寺がある。境内にある「蕣(あさがお)塚」は、江戸時代、有数の文化人の集まりをうかがい知ることができる。今は暗渠となっている弦巻川河道跡を進むと、鬼子母神像出現の地(清土鬼子母神)に至る。日本女子大裏側から目白通りに出ると、田中邸が目の前に現れる。目白通り南斜面には大名屋敷跡が並ぶが、その中でも、細川家下屋敷跡・抱屋敷跡は、和敬塾・永青文庫・肥後細川庭園として利用されている。細川庭園を出ると、そこは、神田川沿いの旧関口村、関口芭蕉庵・神田上水取水口大洗堰跡等がある。大洗堰跡あたりから遊歩道を上って崖上に出ると、蓮華寺跡・目白不動跡が並ぶ旧目白通り(目白坂)に出る。この道は、清瀬市清戸へ通じる清戸道、江戸期には神社仏閣で賑わったようだが、現在は、目白通りの脇道に格下げられ歴史から消えつつあるようだ。(図は雑司ヶ谷法明寺境内の蕣(あさがお)塚)
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2017年10月30日(月)…六本木−飯倉−旧麻布市兵衛町−旧赤坂氷川町−旧赤坂一ツ木町…
六本木交差点を出発して深廣寺へ、深廣寺には「江の灰塚」と佐藤一斎の墓があるというが非公開だ。次に、大名や高級旗本の屋敷が建ち並んだという鳥居坂通りへ向かう。現在は、フィリピン大使館、東洋英和女学院、香淳皇后生誕地・国際文化会館などが立ち並ぶ落ち着いた高台だ。外苑東通りに戻り、外務省飯倉公館、ロシア大使館、アフガニスタン大使館と辿ると、日本経緯度原点・国立天文台発祥の地に至る。この地から、北方へ真っ直ぐ古道を歩くと、我善坊谷に下ることになる。大名屋敷が建ち並ぶ南北高台に比較して、下級武士が住んだというこの我善坊谷は、やはり、昭和の面影が残る。旧麻布市兵衛町の高台に上る。かつての大名屋敷地には再開発ビルが建ち並ぶ。明治維新後、静寛院宮・和宮が住んだところでもある。旧麻布市兵衛町から御組坂を下って旧麻布谷町へ至るのだが、今は、泉ガーデンタワーが谷をふさいでいる。反対側の台地に上る坂が南部坂、坂上は忠臣蔵ゆかりの地である。元禄以後は、氷川神社が移転してきた。この旧赤坂氷川町一帯は幕末から明治にかけて勝海舟が住んだところでもある。旧赤坂氷川町(台地)を下り、向かいの旧赤坂一ツ木町(台地)を上る。この台地は、江戸になってからは浅野本家の中屋敷地として知られ、明治になってからは、近衛歩兵第三連隊の本拠地であった、現在はTBS・赤坂サカスがある。陸軍の名残は、記念碑と区画に残された境界石に見ることができる。
(写真は、日本経緯度原点 港区麻布台)
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2017年5月8日(月)…牛込地区(飯田橋−神楽坂−榎町−早稲田−高田馬場)…
牛込門跡から出発、先ず驚くことが、早稲田通り(神楽坂)の狭さ、その為、神楽坂が午前と午後で一方通行になっていること、江戸の香りがします。石畳の路地に老舗の料亭。新宿区まちなみ景観賞も受賞している情緒あふれる兵庫横丁、さらに、急坂を上ると、牛込城址(現・光照寺)に出ます。光照寺から西に向かうと、そこは、幕府旗本・御家人の住まいがあったところ、江戸期の町並みが続き、御徒町、納戸町、払方町、細工町、箪笥町などの町名が未だに使われています。その一角に、文人・大田南畝(父親が御徒)の生誕の地がありました。大久保通りを横断して台地の上へ出ると広大な矢来町が広がります、小浜藩酒井家の屋敷地跡です。再び、早稲田通りに出て西へ向かい、榎町の済松寺(春日局の補佐役・祖心尼が開基)にお参り、規模の大きさと、ありのままの自然に驚かされました。弁天町には、弁天社・宗参寺があります。宗参寺は牛込氏の菩提寺、いまでも累代の墓域がありました。外苑東通りを北方面へ向かうと、元赤城神社・「神崎の牛牧」碑があります。こここそが[早稲田][牛込]名称の発祥の地、注目度が低いのが残念です。早稲田大学を横断して早稲田通りに出ると、坂上に高田馬場、JR高田馬場駅とは約1km離れています。早稲田通りをすこし戻ると、穴八幡、ピカピカの社殿と流鏑馬像が目につきました。
(写真は、穴八幡西参道、左に法生寺・出現堂が見える)
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2017年4月3日(月)…新川−永代橋−門前仲町−冬木町−仙台堀川−清澄白河…
江戸初期、隅田川河口の砂州を造成して霊厳寺ができたが、明暦の大火で焼失、深川へ移転。霊厳寺が去った後、河村瑞賢がさらに造成を重ね、新川を掘削して、下り酒問屋街が形成された。亀島川下流河岸は「将監河岸」といわれ、「幕府の御船手組屋敷」があり、江戸湊発祥に繋がった。明治維新以後も、霊岩島水位観測所が置かれ、標高の原点となる「東京湾平均海面、T.P.0m」が計算された。江戸期の永代橋西詰を横目に、現永代橋を渡り門前仲町へ、富岡八幡宮門前は辰巳芸者で賑わったところ、現在でも、飲食店は多い。廃寺になった永代寺に代わり、深川不動堂が立派な堂宇を構える。冬木町から仙台堀川へ向かう、明治初期の地図を見ると、至る所に堀割があり、材木の集積地であった事が見て取れる、が、現在は、埋め立てられて面影はない。ただ、材木商冬木家の邸内池に祀られた弁天堂だけが当時の面影を偲ぶ。仙台堀川のほとりに、芭蕉がおくの細道に出発したという「採荼庵」があった。江東区白河町とは松平定信(霊厳寺に埋葬)に因んだ町名、昭和になってからの命名という。清澄には芭蕉と仏頂禅師が親交を深めたという臨川寺がある。
(写真は、永代通りのガードレール、旧永代橋と辰巳芸者のパネルがある)
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2016年11月28日(月)…新橋−汐留−築地−聖路加−佃島−石川島…
新橋駅を出発、ここでのポイントは日本鉄道発祥の地・旧新橋停車場。日本初の鉄道は、伊達家・脇坂家といった大名屋敷跡から始まった。都心に突然大きな空き地ができる、それが新しい時代の追い風となった。築地地区に入ると、ここも大名屋敷の跡地、日本海軍発祥の地になった。水路部が測量を担当し、それが結局は東京天文台に繋がる。当時の海軍は、今では想像のつかない超エリート集団であったようだ。明暦の大火で移転してきた西本願寺は相変わらず築地の中心にあるが、本坊と子院群の間には晴海通りが通り、子院の数も激減、場外市場に溶け込んでしまった。聖路加地区は、たびたび住人が変化している。浅野家−奥平家などの大名屋敷、その後、外国人居留区となり宣教師によるミッションスクールが多数生まれた。ミッションスクールが都心に移動した後は、聖路加の施設が中心である。解体新書の翻訳地(奥平家屋敷地)が聖路加国際病院となっているのは何かの因縁か?東京オリンピックの時に佃大橋ができたという佃・石川島地区、石川島地区の高級マンション群は印象的だ。昔からの佃煮屋さんも3軒営業していた。
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2016年10月31日(月)…有楽町−山下門跡−心字池−霞ヶ関坂−桜田門−憲政記念館−平河天満宮−麹町…
JR有楽町駅を出発し、まず南町奉行所跡−数寄屋橋門跡−山下門跡へと向かいました。外堀には高速道路が山下門跡上にはJR山手線が走っていました。山下門内側の大名屋敷は、帝国ホテルや鹿鳴館跡になっていました。日比谷公園は大名屋敷跡ですが、堀の一部は公園内に心字池として残されました。心字池の石垣上からは日比谷入り江を想像できる景色が望めました。意外にも霞ヶ関の中央部は江戸期の町割り・坂がそのまま残されていました。井伊家屋敷跡はほとんどが憲政記念館になっていますが、ここから眺める桜田門は幕末の事件を連想させます。三宅家屋敷跡は三宅坂という名前に名残を残しています。平河天満宮では江戸城内の梅林坂を思い出させ感激します。地下鉄有楽町線麹町駅コンコースには「麹町は江戸切絵図発祥の地」という広告があり、本日の散歩の疲れを癒やすことができました。
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2016年5月9日(月)…四谷見附−四谷寺町−荒木町−四谷大木戸跡−玉川上水跡−内藤新宿跡−新宿追分…
JR四ッ谷駅を出発し、切り絵図通りの旧旗本屋敷路地を抜けると四谷寺町です。西念寺→愛染院→鮫河の谷道→日宗寺→戒行寺→西應寺→於岩稲荷と辿りました。新宿通に出て、反対側の谷へ向かいます、江戸期には松平摂津守上屋敷があった荒木町地区。維新後、花街だった名残があちこちに、小さな飲食店がひしめき合っています。再び新宿通に出て、四谷大木戸跡(四谷四丁目交差点)に向かいました。交差点に立つと、新宿御苑トンネル・四谷区民センターが目立ちます。新宿御苑トンネルが旧玉川上水跡ですから、四谷区民センターが水番屋跡になります。旧玉川上水余水吐跡が暗渠になって残っているので見るために、外苑西通りを南下。途中に多峯内藤神社がありました。四谷区民センターから、新宿御苑方面を見ると、順に「内藤駿河守下屋敷跡、玉川上水散歩道、旧玉川上水跡、内藤新宿跡」を一覧することができます。内藤家菩提寺・太宗寺、正受院、成覚寺を経て新宿追分(江戸期には甲州街道、青梅街道の分岐点)で終了となりました。
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2016年4月4日(月)…神田お玉が池−神田多町−筋違見附周辺−神田駿河台−神田錦町−北の丸…
JR秋葉原駅を出発し、岩本町・お玉が池跡(近代医学発祥の地)−神田多町(神田青果物発祥の地)−筋違見附跡(中山道と御成道)−神田駿河台(武家屋敷跡)−神田錦町(高等教育発祥の地)−一ツ橋・清水門・田安門、九段下終点でした。神田地区には、昭和通り・靖国通り・外堀通りなど江戸期にはなかった大通りが走っていますが、細かい路地は江戸期のまま残っていて、町名に江戸の名残を見いだすことができます。また、清水門・田安門がそのまま残存している北の丸は手つかずの江戸があります、史跡保存も「移転保存」ではなく、ビルの谷間になっても「現地保存」してほしいですね。※写真は清水門・高麗門内側より千代田区役所方面を望む:江戸期の建物と近代建築の対照的な美しさ(?)があります。千代田区役所には「大隈重信雉子橋邸跡」の碑がありました。その碑文の中に「この屋敷で東京専門学校(早稲田大学)設立の構想を練った」とありました。
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2015年11月16日(月)…小石川−傳通院、及び、その周辺…
茗荷谷駅を出発し、水戸徳川家関連の大名屋敷跡、江戸時代以前からある古刹、「陽だまりの樹(手塚治虫作)」の舞台になった手塚良仙宅跡、神田上水跡、徳川家康の生母の菩提寺傳通院、その周辺を歩きました。この地域は、大名屋敷・社寺の間に武家屋敷が密集していた地域、現在でも、江戸時代の区画がよく残っていますが、多くは、住宅地になっています。江戸の名残を楽しむには、都合のよい地域といえますが、路地に住む人にとっては苦労が多いのではという気がします。(写真は伝通院)
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2015年10月25日(日)寛永寺徳川将軍家霊廟、及び、その周辺…
東叡山寛永寺谷中霊園の変遷、徳川将軍家霊廟(5代将軍綱吉・常憲院霊廟)の現状を見て、東叡山寛永寺の盛衰を検証することにします。※寛永寺特別参拝(常憲院霊廟のみ)に参加しました※(写真は、左側に「常憲院霊廟」、右側に「東京国立博物館」、中央に「東京スカイツリー」、正面の建物は、「台東区立忍岡中学校」、撮影位置は「母校・台東区立上野中学校角」)
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2015年5月11日(月)…品川−高輪−(古奥州街道)−三田…
JR品川駅を出発し、旧東海道沿いに東禅寺、泉岳寺、高輪大木戸跡を辿りました。その後、元和キリスト教遺跡から崖を上り、更級日記縁の地、伊皿子貝塚遺跡を訪ねたあと、三田・綱坂へ。有馬屋敷跡から桜田通りを南下、JR田町駅へ向かった。(写真は、綱坂:坂左側に「日向佐土原藩邸跡・現三井倶楽部」坂右側に「伊予松山藩邸跡・現イタリア大使館」、坂下は慶応大学)
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2015年4月6日(月)…増上寺伽藍、徳川将軍家霊廟の変遷…
JR浜松町駅を出発し、旧東海道を横切り、徳川将軍家の菩提寺の一つ芝増上寺へ向かいました。増上寺塔頭は、寺域を狭めながらも、なんとか存続している寺院もありました。また、増上寺本体は、戦災に遭った事もあり、江戸期の威勢はすでになく、寂しさが感じられました。(写真は「経蔵」、太平洋戦争の被災を免れ江戸期の位置に存在する数少ない建造物
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2014年12月1日(月)旧藍染川(谷中、根津)−不忍池−旧忍川(上野、台東)…
千代田線・千駄木駅を出発し、旧藍染川沿いに不忍池へ、江戸期の不忍池を推定した後、三橋跡へ、旧忍川沿いにJR線路を越えて台東区中央へ進み、三味線堀跡に。谷中では古寺・大名屋敷跡を訪ね、台東でも大名屋敷の痕跡を探します。さらに、下谷御成街道付近の「下谷長者町」「松坂屋」まで歩き、JR御徒町駅終点でした。(写真は春日通り、元浅草一丁目交差点付近。通り左側は「柳川藩立花屋敷跡」、通り右側は「久保田藩佐竹屋敷跡」、共に、忍川の水路の囲まれていた)
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2014年11月10日(月)…浅草橋−東日本橋−旧日光街道−室町−常盤橋…
浅草橋駅を出発し、神田川、隅田川沿いに薬研堀跡へ、御幸通りを通って横山町へ、ここから大伝馬本町通り(旧日光街道)をまっすぐ西へ、日本銀行を迂回して常盤橋門まで歩きました。およそ300年ぶりに旧地近くに戻ってきた「初音森神社」、七味唐辛子発祥の地「薬研堀」、明暦の大火で移転した「西本願寺」その跡地、横山町問屋街、旧日光街道沿いに栄えた地本問屋「蔦屋耕書堂跡」・呉服店「下むら大丸呉服店跡」・紙木綿問屋「小津」等々、江戸の香りがあちこちに顔を出していました。常盤橋見附跡では、木造の橋はすでになく、震災で亀裂の入った石橋と、橋を覆うように高速度道路が目障りでした。(写真は中央通り室町三丁目南交差点、左右は中山道、交差する形で旧日光街道、直進すると常盤橋に通じていました。正面に見える建物は日銀。)
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2014年5月26日(月)…東上野−元浅草−蔵前−鳥越-神田和泉町−秋葉原駅…
JR上野駅を出発し、東上野、元浅草、蔵前、鳥越、神田和泉町を経て秋葉原駅へ。上野駅前→広徳寺跡→永昌寺→源空寺→聖徳寺→妙音寺→聖教寺→天台宗龍宝寺→松平西福寺→幕府天文台跡→浅草御蔵跡→首尾の松→浅草文庫跡→須賀橋→鳥越川川筋→鳥越神社→蓬莱園跡→医学館跡→国立衛試発祥の地→医学所跡→JR秋葉原駅。(写真は蓬莱園跡、平戸藩松浦家屋敷跡、現在は、都立忍岡高校の敷地内にある。このイチョウは蓬莱園創建(1632年)当時からあるというが...)
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2014年4月21日(月)…三ノ輪−千束−吉原−山谷堀-今戸−旧猿若町−浅草寺…
日比谷線三ノ輪駅を出発し、千束、吉原、山谷堀、今戸、旧猿若町を経て浅草寺へ、浅草六区を終点として歩きました。三ノ輪歩道橋→音無川沿いに→大関横丁→三ノ輪橋跡→浄閑寺→千束稲荷神社→鷲神社→吉原遊郭跡→春慶院→土手通りを経て→山谷堀公園→新町役場跡(現都立浅草高校)→今戸神社→隅田公園→待乳山聖天→浅草追分→旧猿若町→姥ヶ池跡→二天門→浅草寺→浅草神社(三社さま)→浅草六区。(写真は浅草寺五重塔跡、1648年徳川家光によって再建された旧国宝の五重塔跡、1945年太平洋戦争で焼失、現五重塔は1973年反対側に建造された)
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2013年11月12日(火)…千駄木−根津−弥生−湯島-神田…
千代田線千駄木駅を出発、神田明神まで本郷台地の崖線を歩き、旧中山道・筋違見附を終点としました。千駄木−観潮楼跡−太田摂津守屋敷跡−根津神社−弥生遺跡候補地−弥生二丁目遺跡−向ヶ岡弥生町由来碑−境稲荷−無縁坂−麟祥院−湯島天神−妻恋神社−神田明神−神田旅籠町−昌平橋−筋違見附跡。(写真は筋違い見附跡、旧万世橋駅舎、現在は神田川に架かる橋もなく、江戸期の交通の要衝の面影はありません)
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2013年6月25日(火)・・・日暮里−谷中−根岸・・・
日暮里−谷中-根岸を散策してきました。西日暮里−地蔵坂−諏方神社−富士見坂−花見寺−七面坂−延命院−天王寺−芋坂−善性寺・羽二重団子−御隠殿跡−音無川−御行の松−西蔵院−根岸小学校−入谷鬼子母神。(写真は台東区立根岸小学校、校舎に「御行の松」のレリーフがある)
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※タイトルに使用した「東都浅草絵図」は国立国会図書館蔵

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